サティヤ サイババの御言葉

日付:1962年3月4日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話(1)より

あなたに内在しているもの

皆さんは先ほど、月刊誌「サナータナ サーラティ」と、そこから読者が引き出した価値について、四名の者が話をするのを聞きました。皆さんは一時間ほどずっと座ったままで、さらにこの後、一晩中続く今日の長い集会(マハーシヴァラートリのバジャン)にも参加することを私は知っています。私は皆さんの忍耐強さを称えます。これは決して同情から言っているのではありません。というのは、このような難儀は人生を価値あるものにするからです。しかし、これを難儀と呼ぶことは、価値に関する迷いと無知の印です。

今、この国全体がアシュタ グラハクータの影におびえています。つまり、短期間八つ(アシュタ)の惑星が直列することによる悪影響への恐怖です。(同年2月2日から5日に起こった惑星直列に関する占星術師たちの弁に大勢の人々がパニックを起こしていた) これまで一パイサすら慈善に使ったことのない者たちが、悪い影響から逃れようと、惑星の影響力を鎮めるために気前よくヤグニャ(供犠)やプージャー(供養)に金銭を費やしています。これまでのところは順調です。一つの懐から、さらに貧窮している者の懐へと、お金が出て行くようにしなさい。お金を循環させなさい。たとえそれが恐怖心によるものであれ、慈善の精神が育つようにしなさい。

しかし、災難や危険や死は、いつの時代も避けることはできないものです。これらは人生における避けられない要因です。皆さんは勇敢にこれらを受け入れることを学ばなければなりません。それは不意に芽生えた恐怖心に動かされて礼拝に大奮闘することによってではなく、絶え間ない祈りによってのみ、達成することができます。あなたのハート、思考、感情、情動、言葉を純粋にして、崇高な欲求を強めなさい。そうすれば、恐怖心があなたの勇気をくじくことはできなくなります。何もあなたの不動心、あなたのプラシャーンティ(内なる至高の平安)を揺るがすことはできません。

バクティの本質を明らかにする神の遊戯(リーラー)

あなたの祈りは聞かれ、応えられます。神は、大小、高低の区別を設けません。

ベンガル(インド北東部地方)に、マーダヴァダーサという信者がいました。マーダヴァダーサは妻を亡くし、その時、家(グリハ)を失くしたことを実感しました。というのは、家庭の女神(グリハラクシュミー)が逝ってしまったからです。そのため、全財産を貧しい人々に分け与え、黄色のローブを身にまとって、巡礼者として独りジャガンナータ寺院(聖地プリーにある有名な寺院。『子どものためのバルヴィカス物語集2』第十二章第五話を参照のこと)に向かいました。

マーダヴァダーサはジャガンナータ寺院で激しい苦行を行いました。その結果、ほどなくして、物理的な神の像は抽象的な実在となり、抽象的な実在は絶えず目に見えるものとなりました。マーダヴァダーサは時間と空間の感覚と、意識(チット)と無意識(アチット)の感覚の一切を失いました。

すると、ジャガンナータ神が自らのシャクティ(女性原理)の相であるスバドラー女神を伴ってマーダヴァダーサに近づいて、目の前に金の皿を置きました。それは、僧侶たちが至聖所でジャガンナータ神に供物のお供えをするのに使っていた皿でした。肉体感覚を取り戻したとき、マーダヴァダーサはおいしそうな食べ物が山盛りになった金の皿が目の前にあるのに気づきました。マーダヴァダーサは満腹になるまでそれを食べ、それから、少しの間離れていた内なる至福へと戻っていきました。

そのころ、てっきり金の皿は盗まれたものと思われて、盗難届けが出されていました。それから、マーダヴァダーサがいた付近の海岸で皿が発見されたため、マーダヴァダーサは即逮捕されて、腕利きの警官らによって留置場へ連行されました。マーダヴァダーサは情け容赦なく打たれましたが、それについては少しも気に留めていない様子でした。

その夜、僧侶長が夢を見ました。その夢にジャガンナータ神が現れて、もう二度と寺に食べ物を持ってこないようにと言いました。「おまえたちは、私に食べ物を持って来ておきながら、私がそれを食べると私を叩く!」というのです。そのとき僧侶長は、ことのすべては、マーダヴァダーサの信愛を実証し、他の人々にバクティ(信愛)の本質を教えようとした神の遊戯(リーラー)であったことに気がつきました。

プリーの学者や学僧(パンディト)たちの中には、ベンガル地方から来た見知らぬ男の名声が急に高まったことを快く思わない者たちもいました。そこで学者たちは、マーダヴァダーサを呼び出して智慧の勝負を迫りました。マーダヴァダーサはそういった類いの学僧ではありませんでした。マーダヴァダーサは、誰かを叩くための棒としてではなく、自分が歩くのを支えるための杖として、行動の手引き書として、シャーストラ(経典や法典)を学んだだけでした。それゆえ、マーダヴァダーサは、勝負が始まる前に自分の敗北を認め、その趣旨の声明文に署名しました。学僧の長はこの上なく喜びました。というのは、マーダヴァダーサは実に驚くほど学識者としての評判を得ていたからです。

神は信者が傷を負わされるのを許さない

その学僧は、勝利の印を手にカーシー(聖地ヴァーラーナスィー)へと急ぎました。そして、集まっていた学者たちの前でその声明文を振って見せ、マーダヴァダーサにも勝る己に敬意を払うよう皆に要求しました。

しかし、神は自分の信者が侮辱されるのを許しません。声明文が開かれ、読み上げられると、何とそこには、勝負に勝ったのはマーダヴァダーサの方であり、自らの負けを認めて署名したのはその学僧であると書いてあったのです。皆がびっくり仰天しました!

神は、バクタ(神を信愛する者)が侮辱され、傷を負わされるとき、黙ってはいないのです。しかし、その保証はバクタへのものであるということを忘れてはなりません。では、いったい誰がバクタであり、どうすればバクタという地位の特権を主張できるのでしょうか?

揺るぎない信仰を持たない限り、あなたはバクタの名には値しません。それほどの信仰が深く根づいていれば、成功は紛れもなくあなたのものです。

しかし、皆さんがその名に値しないからといって、私が怒るとか、皆さんに嫌気がさすなどと考えてはなりません。今宵のリンゴードバヴァ(ババがシヴァ神の卵型のリンガムを体内から出現させること)は私の義務であり、私の責務であり、より正確に言えば、私の本性です。そして、その本性は、この聖日に自らを顕現しなければならないのです。

この会の冒頭で、私はカストゥーリとティルマラーチャールにショールを与えて祝福しました。二人は私の人生をそれぞれ英語とテルグ語で執筆したからです。その本は『サッティヤム・シヴァム・スンダラム』(真・善・美)と呼ばれています。(この本は前年のババの36歳の御降誕祭に発行された) なぜ私が自分の人生に関する本の出版を好ましく思うのか、不思議に思った人もいるかもしれません。そうです、私はあらゆる種類の著作物が好きなのです。であれば、私がこの本を嫌うはずがあるでしょうか? 私は信者たちの祈りに応え、本を書くことを許しました。

ラーマーヤティ イティ ラーマ
喜ばせる者はラーマなり

バクタの喜びは神を満足させます。神の喜びはバクタの報酬です。

真理は万人の基盤となる事実

『サッティヤム・シヴァム・スンダラム』という題名は意味深長です。これは私のことを皆さん方一人ひとりに内在するものとして語っている、ということを覚えておきなさい。

サッティヤム(真理)は、万人の根本的な本性です。あなたが「嘘つき」と呼ばれるのを嫌うのはそのためです。真のあなたは純粋無垢であり、それゆえ、偽りの汚名を受け入れないでしょう。

真のあなたはシヴァム(善)、すなわち、喜び、幸福、吉兆であり、シャヴァム(死体)ではありません。真のあなたは、美しいもの(シュバム)であり、永遠なるもの(ニッティヤム)であり、至福なるもの(アーナンダム)です。そうであれば、どうして他の呼び方をされて我慢などできますか? 真のあなたは美(スンダラム)であるがゆえに、あなたは醜悪と呼ばれることを嫌うのです。

アートマ(真のあなた、真我)は、肉体という、自らが好まないものの中に陥って、身動きが取れなくなっています。あなたがアートマを肉体と同一視し、肉体という乗り物の弱点と欠陥をアートマのものと見なすとき、アートマは不名誉のあまり意気消沈します。

サナータナ サーラティ誌は、私の意志(サンカルパ)、私の意志の力(ウトサーハ)、私の至福(アーナンダ)の結果です。ひとたび私が決意したなら、何者もその行く手を遮ることはできません。至高我の原理(パラマートマ タットワ)が、至高の力(マハー シャクティ)と至高の姿(マハー スワルーパ)ではなく、迷妄の力(マーヤー シャクティ)と迷妄の姿(マーヤー スワルーパ)を伴って人間の姿をとって現れるとき、それを理解するのは困難です。あなたが確信のない揺れ動く気持ちでいるなら、なおさらです。ひとたび、あなたが目的と手順を理解すれば、あらゆる疑いは消え去ることでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.2 C30