サティヤ サイババの御言葉

日付:1963年2月6日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ウパナヤナ連続講話?より

人生を甘く軽やかなものにしなさい

おそらく、このラーマの御名のご馳走〔ラーマーヤナに関する連日の講演会〕には少々飽きてきたことでしょう。しかし、ラーマの御名は常に何かしら新鮮であり、神への愛に満ちたハートに消えることのない甘さを与えるものです。一つの御名が舌の上で転がるたびに、清々しい甘さ、新鮮な喜びをもたらします。私はこれまで何度も話してきたことを皆さんに伝えなければなりません。というのは、消化がきちんと行われるようになるまでは、薬を服用しなければならないからです。顔は毎日洗わなければなりません。一回の食事で話は終わりではありません。あなたは、また何度も食べなければいけません。

怒ることは、ただ一瞬を消耗すればできることですが、平安を得ること、人生の浮き沈みに影響されないようになることは、長年にわたってヴェーダーンタ〔ウパニシャッドの教え〕を身につけた結果としてもたらされるものです。これは、五感で味わう体験の範囲内にある物質的なものはすべて根本的に存在していないという確信が土台にあってこそ、しっかりと定まることができます。五感で味わうものは、マーヤーすなわち幻影の産物であり、唯一なるものが存在するところに多を見るという傾向の産物です。あなたは、死体が順々に墓地へと向かっていくのを見ていながら、のんきに動き回っています。自分はいつまでも死なないと思っているのです。

実際、あなたは死にません。つまり、それが真のあなたなのです。あなたが飲んだ水が汗となって排泄されるのと同じように、あなたが積み上げているカルマ〔行為とその報い〕は、喜んで担うカルマによってのみ取り除かれます。ですから、浮き浮きするような喜びと、うめきたくなるような悲しみの両方を、等しい平静さで受け取りなさい。壷の中に入っていた空気が、静かに、完全に、わずかな分離や相違もなく壷の外の空気に溶け込むように、普遍なる実在に溶け込みなさい。それが真の全託(シャラナーガティ)です。

今日という日は一番の忠実な友、今日にしがみつきなさい

ラーマは、自分の幸せは脇に置において父親の願いに従って行動した、理想の息子として賛美されています。しかし、この点については、ビーシュマのほうがより良い実例です。ビーシュマは、父親の気まぐれに従い、それに則して行動することで、ラーマ以上に大きな犠牲を払いました。ダシャラタ王〔ラーマの父〕は真実を果たす〔約束を守る〕ことを要求されて14年間ラーマを森に追放しましたが、シャーンタヌ王〔ビーシュマの父〕は自らの老いた肉体の感覚的欲望を満たすために、息子に王位のみならず、結婚生活さえも放棄させました。実際のところ、重要なのは、父親の気まぐれに服従したということではなく、サティヤ〔真理/真実〕とダルマを遵守したということです。サティヤとダルマの遵守はラーマの強みです。

ディークシット〔講演者の一人〕は、

「王たちは、通常どこかで正義と真理に妥協しなくてはならないために、冥界に行く」 と述べました。王国というものは、実に、王の体です。王は、自分の足の爪や頭皮を手入れするのと同じくらい、自分の王国の最も遠い地域をきちんと維持することにも関心を示さなくてはなりません。どこかに痛みが生じたら、それを感じなくてはならず、体の痛みはできるかぎり早く治療しなければなりません。そのような王は、決して冥界には行きません。しかも、そのような王は三倍祝福されます。たとえば、ジャーナカ王は、「一切は自分のものではなく、神のものだ」と感じていました。ジャーナカ王には肉体もあり、王政のあらゆる責務があったにもかかわらず、まるで自分が肉体を持たない者(ア シャリーリ)であり、家族を持たない者(ア サムサーリ)であるかのように感じていました。

重い積荷を丘の上まで運ぶには、出せるだけの力を使うことが要されます。ギアとアクセルは、荷車を急勾配の坂へ引き上げるために共に働かなくてはなりません。あなたを教えるグル〔導師〕がその荷車を引き上げることはできません。グルはただ導くだけです。五感を制すること、生活様式を変えること、思考パターンを変えることは、あなたが自分でしなければならないことです。五感は、

「なぜ苦労などするのだね? できる間に、食べて、飲んで、楽しめばいい」

と言うでしょう。しかし、グルは、

「死は前触れもなくやってくる。死に呼ばれる前に、今、死への恐れを克服しておきなさい」

と言います。「今」は真の友です。「昨日」はあなたを裏切って過ぎ去りました。「明日」は疑わしい訪問者です。「今日」こそが一番の忠実な友です。「今日」にしがみつきなさい。

嵐の真只中でも平穏でありなさい

あるとき、長兄のダルマラージャが托鉢行者に供儀(ヤグニャ)の支援を約束し、その行者に翌日訪ねて来るようにと言いました。すると、その時、ビーマは、すべての太鼓を打ち鳴らし、すべての旗を掲揚するよう命じました。「私の兄が明日まで生きているのは確実だ! 少なくとも、兄がそう信じていることは、そのとおりに起こるだろう」というのがその理由でした。

死は、茂みに潜む虎のようにあなたの足跡をつけ回します。ですから、さらなる時間を無駄にすることなく、怠惰と怒りを捨て去るための努力をしなさい。嵐の真只中でも平穏でありなさい。平穏な仲間と交わりなさい。万人への愛で満たされた神聖な思考という赤々と燃える煙を、あなたの周りに立ち上らせなさい。なぜ商店で手に入るお香で香りを振り撒こうとするのですか? グニャーナ(至高の実在の経験的知識)〔英知〕の炎は、多くの生まれ変わりと多くの体験を引き継いで持ち続けてしまった衝動を、燃え殻にまで減らすことができます。貴重な金属は、溶鉱炉〔厳しい試練〕の熱で焼かれて不純物を除かれ、精練されるのです。

主は行為のすべてにおいて甘い

霊的努力(サーダナ)には、食事と睡眠と行の実践における規則正しさと節度が必要です。断食は知性を鈍らせ、識別力を弱らせます。体と心と魂の三つすべてに等しく気を配らなければいけません。あなたという存在は普遍的実在そのものであり、永遠の実在そのものであるという、途方もなく大きな変容をもたらす不二一元(アドワイタ)の思想を頭の中に受け入れることは、あなたが「鉄の筋肉」と「鋼の神経」を持っていないかぎり不可能です。それより劣る力では、服従や従属的な役割という点からしか考えることができません。真理を真理と見て、非真理を非真理として見るためには、ものを見る目の明瞭さと、ものを見る勇気の二つが必要とされます。

ママカーラ(「私のもの」という感情)、および、6つの悪い傾向である、カーマ(情欲)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(愛執)、マダ(高慢)、マーッツァルヤ(嫉妬)という、7つの壁に囲まれた要塞には、真ん中に庭と湖があり、そこではハムサ(神鳥)が戯れています。それはあなたの真我の心象です。それを自覚しなさい。そうすれば救われます。あなたは世界の主(ローケーシャ)の面前に行くために、この世界(ローカ)に入ってきたのです。ですから、道端の宿屋を目的地であると誤解して、そこでぐずぐずしていてはなりません。主も道に迷った者たちの到着を切望しているのです。神は自分の子牛たちが来るのを待っている母牛のようなものです。

あるとき、クリシュナが絶体絶命のピンチに立たされたことがありました。その日はルクミニー妃〔クリシュナの第一夫人〕の誕生日であり、同じくクリシュナの妻であるサティヤバーマー妃との結婚記念日でもありました! どちらの妃もクリシュナがやって来るのを自分の館で待っていました。しかし、クリシュナは、まずルクミニーのところへ行って祝宴を楽しんでから、サティヤバーマーの館に行きました。それはサティヤバーマーに大きな屈辱を与えました。サティヤバーマーは慰めようもないほど憤慨した雰囲気でした。サティヤバーマーが怒ってクリシュナに何も出さなかったので、クリシュナは自分で庭のジャンブの果実をもぎって食べました。それを食べている間、クリシュナはサティヤバーマーが手入れした庭と、そこで育てられた果実はどれも非常に美味しいということを、たいそう褒めました。こうして、サティヤバーマーは心の傷を忘れる気にさせられたのです。主は、行為、動き、言葉、しぐさの一つひとつ、すべてにおいて甘さに満ちています。神は甘さそのものです。

あなたが真実と考えているこの人生は夢である

ラーマの例をあげましょう。バイラーギ シャーストリ〔講演者の学者〕は、ラーマの御足が石ころや茨の多い森林地帯を歩くさまを詠った詩を朗唱しました。しかし、カイケーイー妃はラーマを森へ追放すべきだと要求したとき、そのようなことは思ってもいませんでした。カイケーイーは、自分の息子〔バラタ〕が庵でラーマとシーターとラクシュマナに会った時、ラーマに王座に戻って欲しいと嘆願するのを見て初めて後悔し、自分のしたことに慄然としました。ラーマには自分の足が茨や石ころを踏んでいるという感覚がありませんでした。というのも、聖者たちに信仰を吹き込んで聖者たちの恐れを摘み取るために、ラーマ自身がその森を創造したからです。

実際、バクタ〔神を愛する者〕の道の障害物を追い払うことよりも重要な役割が、ラーマの御足にあるでしょうか? 自分の肩の荷の重みを知っているのは、その荷を背負っている者だけです。あなたの中にある最も小さな苦しみは、私の中にも同じ苦しみを引き起こします。ここに、セーラム〔タミール ナードゥ州にある都市〕から来た高齢の女性がいます。もう一週間になります。彼女の息子は25歳になりますが、精神に障害があり、自分の必要を満たすことができません。彼女は、私がどれほど心を動かされたかをわかっていません。私は彼女に尋ねました。

「あの子は朝のコーヒーを飲みましたか?」

それから、こうも言いました。

「あの子に食べ物を持って行って食べさせてやりなさい。あの子はお腹が空いています」

彼女の気づかいは、私の気づかいの64分の1しかありません! 皆さんは、私が前のほうに座っている人たちだけに注意を払っていると考えていますが、誰がどこにいようとも、私はすべての人を見て、すべての人と共にいます。そのことがわかるようになるのは祝福されている者だけで、それ以外の人々にはわかりません。

燃料がなければ火は生じません。サーダナ(霊的努力)をしなければサンカルパ〔神意〕は生じません。油を注いで芯に火をつけなさい。あなたは、あの世へ巡礼に行く途上にあります。ですから、この世に長く住むことはできません。いつかそのうち、遅かれ早かれ、この人生か次の人生で、あなたは自分が真実だと理解していることが夢にすぎないことを悟らなければなりません。あなたは荷物をまとめて前進しなければなりません。これ〔この世〕は非実在(アサット)です。実在(サット)に向かいなさい。これは暗闇(タマス)です。これは死の国です。神の光(ジョーティ)に向かって進みなさい。不死が支配する王国を目指して進みなさい。

救われたいという願望を芽吹かせよ

枯れているように見える木でも、花を咲かせ、実をつけます。落胆してはなりません。今もなお、悔い改めという樹液が流れているならば、私はその木を芽吹かせましょう。ただ一歩、私に近づきなさい。そうすれば、私は百歩あなたに近づきましょう。ただ一粒、涙を流しなさい。そうすれば、私はあなたの目から百粒の涙をぬぐい去りましょう。私はこうして祝福するのみです。あなたの至福(アーナンダ)が大きく育ちますように、と。

夜、寒くなってくると、あなたはショールをぴったりと体に巻き付けませんか? それと同じように、悲しみが襲ったら、神の御名という暖をあなたの心に巻き付けなさい。何億人というインド人の中から、あなた方だけが幸運によって今日の接触を手に入れたのです。少なくとも、あなたの中に、救われたいという願望を芽吹かせなさい。もしあなたが切望し、努力するならば、その願望が育って実をつけることを私は知っています。恩寵という甘露を注ぐには、器が清められている必要があります。器を清めて、甘露を要求しなさい。「チャンスが手の届くところにあったのに、自分はそれを逃してしまった」と、あとで嘆くことのないようにしなさい。あなた方には、一瞬にして私を知ることはできないでしょうし、数日かけても無理でしょう。それは、賢者によって、識別力(ヴィヴェーカ)、無執着(ヴァイラーギャ)、明晰さ(ヴィチャクシャナ)を通じて、順を追って悟られなければならないものなのです。

あなた方は4時間ずっと座りっぱなしなので、身をくねらせている人、背中に痛みを感じている人もいるでしょう。しかし、それは痛みではありません。今の気持ちを、生涯を通して感じていられるよう祈りなさい。なぜなら、あなた方は人生を甘く軽やかにする教えを受け取ったのですから。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C5