サティヤ サイババの御言葉

日付:1963年10月24日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話?より

ギーターという天秤

ここ数日の間ずっと、多くの学僧と学者たちが、あなた方に「バガヴァッドギーター」を様々に解説しています。もし私に尋ねるならば、ギーターは天秤のようなものであり、はかりであり、その針等々であると、私は言うでしょう。左のはかりは2章7節であり、「カールパンニャ ドーシャ」〔弱点〕を語っています。支点は「アナンヤーシ チンタヤントー マーム」〔他の一切を排除してひたすら私を瞑想せよ〕という言葉で始まる9章22節です。右のはかりは18章にある詩節〔66節〕であり、「サルヴァ ダルマーン パリッティヤジヤ」〔一切のダルマの放棄〕を語っています。支点の詩節がいかに支点として相応しいものであるかを見てごらんなさい。それは、一意専心、すなわち、きちんと調整された天秤の針のように定まっていることについて語っています! 実際、ギーターは二つのはかりと一つの支点から始まります。それは正義(ダルマ)と不正義(アダルマ)という二つの軍隊と、その真ん中にいるクリシュナという導師(グル)です! 私たちは、世俗的なもの(ローウキカ)と世俗的でないもの(アローウキカ)という二つのはかりを持っており、それらは注意と敬意をやかましく要求します。霊的知識(グニャーナ)だけがアルジュナの無知(アグニャーナ)を取り除くことができるのであり、それは主なる神の意志(サンカルパ)です。

霊的知識(グニャーナ)は実践に移されなければなりません。そうでないなら、それは無益です。昔、森中の鹿が集まって大きな会議を開き、猟犬に追われたときの自分たちの臆病さについて論じました。鹿たちはこう主張しました。

「なぜ、速い足と鋭い角を持っている私たちに、犬ごときを恐れる必要があるのか?」

最終的に、今後、鹿は一匹たりとも猟犬を前にして逃げるべきではないという案が出され、可決されました。ところが、まだその歓声がやまないうちに猟犬の遠吠えが聞こえるや、鹿たちは一匹残らずその場からいなくなってしまいました。どの鹿も一目散に逃げ出したのです! 決議を実行に移すことはできなかったというわけです!

行為は自分の本性として行うべし

さて、ここにいる学僧たちは、人々に聖典の内容を教える術、説明する術に長けています。欠けていることは、学僧たちの言うことに耳を傾けて、霊性を向上させるための助言に従う術を、人々に教育することです。身に付けなければならないことは、カルマ〔行為、因果応報〕に巻き込まれることなく行為に従事する術です。行為はしなければなりません。それは、行為は人の本性の一部だからであり、外側から強いられるからではありません。

太陽(スールヤ)は生来の働き者(サハジャ カルマチャーリ)です。太陽は雲を作るために水蒸気を引き寄せ、その水は雨となって再び降り注がれます。誰も太陽にそうするようにと教えたわけではありません。生来の行為(サハジャ カルマ)をするとき、行為は重荷にはなりません。逆に、それとは反対の、道に外れたことをするときに、あなたはみじめさを感じるのです。

警官の生活は生来のもの(サハジャ)ではありません。ですから警官は、家に帰って制服を脱いで普段着に着替えると、幸せを感じるのです。赤ん坊が泣き声を上げると皆が揺りかごへと急ぐのは、赤ん坊の生来の行為(サハジャ カルマ)は微笑むことであり、いつも幸せでいることだからです。それと同じように、利益を上げるためになされた行為は、結果の数々を積み上げ、それが人間を縛ることになるのです。それは雪だるま式に大きくなっていきます。しかし、何の果報も考えずになされた行為は、ひたすら減少させるのみであり、あなたをあらゆる応報から自由にさせてくれるのです。

人は行為を行うことから逃れられない

ダルマにかなった行為(ダルマ カルマ)はなされなければなりません。それから逃げ出すことはできません。森へ逃げることは解決にはなりません。なぜなら、それはただ状況に新しい展開を与えるだけだからです。あなたの体は森の中にいるかもしれませんが、あなたの心(マインド)は商店街をうろつくことでしょう!

あるとき、一人の霊性の求道者がヨーガ行者からマントラの手ほどきを受けました。求道者は何の邪魔もされずにそのマントラを瞑想したいと思いました。求道者は自分の家にも邪魔がいっぱいだということがわかり、森へ逃げていきました。求道者は森で勝手のよい木を見つけました。その木の下でなら瞑想できそうでした。ほどなくして、その木を止まり木にしている鳥たちが騒々しく鳴き始め、さらには、求道者の頭の上に糞を落としました。求道者はたいそう腹を立てました。

「私には神と心をかよわせることのできる場所がない」

と求道者は嘆きました。

「家では子供たち、森では鳥やコウモリ! こうなったら自害して、もっと吉祥な状況のもとに生まれて、霊性修行をやり直そう」

そう決めると、求道者は燃やすための薪を集めて火葬の準備を整え、積んだ薪に火をつけ、そこに登ろうとしました。すると、老人が声を掛けてきて、事は中断されました。老人は言いました。

「よろしい、決めたことはおやりなさい。しかし、今はここからわしのあばら家の方に向かって風が吹いているので、どうか風向きが変わるまで待ってはくださらんか。というのも、人間の肉が焼ける臭いはどうにもいただけない。あるいは、もし急いでいるというのなら、ああ哀れな者よ、別の場所に移動して、我らに迷惑をかけずにいてほしい」

求道者は、自分には死ぬ自由さえないのだと思い、家に戻って勇敢に立ち向かおうと決めました。行為(カルマ)は現象界においてやり通さねばならないものであり、憤慨して振り落とそうとしても無駄であるということを求道者は理解したのです。人は、世の中の混乱と労苦(アシャーンティ)から素早く調和と平安をつかみ取らなければなりません。

世にありながら、世のものとならずにいる

ヴィシュヌ神は「蛇の上に横たわる者」(ブジャガ シャヤナム)と描写される一方で、「平安の御姿」(シャーンターカーラム)とも描写されています! 毒(ヴィシャ)を持つ蛇(ブジャガ)は世俗的な欲望(ヴィシャヤ)の象徴であり、あなたがそれに覆われてしまう代わりに、その上に横たわって休むなら、平安を得ることができます。あなたの小船を水の上に浮かべなさい。しかし、小船の中に水が入るのを許してはなりません。世にありながら、世のものとならずにいなさい。それが成功する人生の秘訣です。

欲望は最終的に滅亡へとつながります。欲望は、欲望をかなえることでは破壊できません。欲望は一度満足するごとに大きくなって、餌食であるあなた自身を貪り食う怪物となります。ですから、欲を減らすよう努めなさい。欲を減らし続けていきなさい。

あるとき、一人の巡礼者が、偶然に願望成就の木(カルパタル)の下に腰を下ろしました! その巡礼者は喉が渇ききっていて、こう独り言を言いました。

「ああ、誰か冷たい水を一杯くれたらどんなにいいだろう!」

すると、突然、目の前に冷たい水の入ったコップが現れました。巡礼者は驚きながらもそれを飲み干しました。次に、今度はおいしい食事を望むと、すぐにそれも手に入りました。そのことは、小さな家を望むこと、寝台を望むことへと続き、次に女房を望むと、驚いたことに、女房さえも一瞬にして現われたのでした。哀れな巡礼者は女房を幽霊と間違えて、

「あっ、人喰い女だ!」

と悲鳴を上げました。すると女房は人喰い女へと変わり、巡礼者は恐怖に慄いて叫びました。

「ああ、食べられる!」

すると、すぐさま人喰い女はそのとおりにしたのでした!

欲望が連なった鎖は、息の根を止めるまで人を締め付けます。あれが欲しい、これが欲しいと思う癖を抑えて、くつわを掛けなさい。主なる神にこう言いなさい。

「あなたがいれば十分です。他には何も望みません」

なぜ金でできた宝飾品が欲しいと思うのですか? 金そのものを欲しがりなさい。ギーターは無条件の全託(シャラナーガティ)の教訓を説いています。それは、自分の望みどおりになることを望むのではなく、神の意志が優先されることを望むことです。これが、クリシュナが、

「サルヴァーラムバ パリッティヤーギー」
(自分本位の行動の一切を放棄する者)

〔バガヴァッドギーター12章16節より〕

と言った意味です。

全託は解脱へと到る正門

死は今生と来生の通過点にすぎません。ギーターにあるように、死は古い服から新しい服に着替えることです。けれども、皮肉屋はこの喩えを笑い、ならば新生児や子ども、若者や中年が死ぬのはどういうことかと尋ねます。こうした者たちの体は、どれほど拡大解釈しても古いもの(ジールナ)に分類することはできません! 彼らの服は、古くはなかったかもしれませんが、とても古い布で作ってあったために、新しい服が作られてもすぐに捨てられなければならなかったのです。また、前生を信じることを拒む、ひねくれた人たちもいます。何があったか覚えていないからというのがその理由です! 彼らは、5年前、あるいは、10年前のマーガ月の新月から十日目(シュッダ ダシャミー)に何があったか覚えていません。にもかかわらず、自分がその日に生きていたことを確信しています! その日に起こったことを忘れたということは、その日に生きていなかったということではありません。それは単に、その日に特別な注意を払わなかったというだけのことであり、その日を記憶に留めておくための目的(ラクシャム)や特別な理由がなかっただけのことです。

無条件の全託(シャラナーガティ)は、解脱(ムクティ)という大きな家に入るための正門です。その家は四階建てで、瞑想、行為、信愛、英知(ディヤーナ、カルマ、バクティ、グニャーナ)という階があります。どの階もすぐ下の階に支えられています。ですから、下の三つの階を上がらずに最上階にたどり着くことはできません。人々がヨーガの優劣を比べて言い争っているのを聞いたり、霊性の分野での肩書きをあれこれ自称するのを聞いたりしたときには、このことを思い出しなさい。

人間の生は神々の生に優る

ギーターは、家庭生活や社会生活の問題には言及していません。ギーターは、霊性の求道者に、人に生来内在している神性との完全な交わりをもたらす道を教えています。ブルス・アッパンナ・シャーストリが、人としての生は動物としての生に優るだけでなく神々としての生にさえ優ると激賞した理由は、物質世界での体験から抜け出すために奮闘し、自分の起源、意味深さ、目的地に関する問いの答えを出すことができるのは人間だけだからです。ラーマチャンドラ・シャーストリは、その答えが心の中に映し出されることができるよう、障害物に捕らえられている心(マインド)に障害物を乗り越えさせる方策を示しました。それから、今日講演をした三人目の学僧、マッドゥラパッリ・サティヤナーラーヤナ・シャーストリは、世界は自らの土台として平安と至福と英知という真の実在を持っているということを、シャーストラの引用から明らかにしました。必要なのは、光を隠している影を取り払うことであり、視界の真理を覆っている幕を取り除くことです。プラシャーンティ・ヴィッドワン・マハーサバー〔ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会〕は、まさにこの目的のために、私によって意図されたのです。


*連続講話?「プルシャとプルショーッタマ」はサイラムニュース146号に掲載されています。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C31