サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年3月27日
場所:アーンドラ プラデーシュ州ヴィシャーカパトナム県イェーラマンチッリ市
イェーラマンチッリ市での御講話より

心の湖

イェーラマンチッリの人々は、私が彼らの村に行って地元の人たちにダルシャンを与えてほしいと、三年間、私を説得し続けました。そして、ついに、彼らの願いは叶いました。見たところ、五万人ほどの人がここに集まっています。皆さんに喜びを授けるという機会が今日やって来たのは、何事にも、ふさわしい時と原因があるからです。

パンディト(学僧)が、「マタム」(宗教)について、そして、いかにして人が、自分の宗教を一つのものから別のものへと、どちらの宗教の信条も知らぬまま、あるいは、自分がすでに知っている宗教の信条に従おうと試みることもないまま、コロコロと変えるようになってしまったか、について話しました。「マタム」には、「見解」、「結論」、「視点」という意味があります。スートラ〔経典〕の文献に関する論争をする人たちは、よく、「これは私の宗教です」(イティ メー マタム)と言います。そのように、知性が成長したり衰えたりといった変化をすると、「マタム」も同じように変化をこうむります。これはもっぱら自然なことです。一つの宗教の信徒でさえ、全員が同じ信仰心を授かっているわけではありません。なぜなら、知性と知性の水準は各人各様だからです。ですから、理性に従うことは役に立ちません。非常に多くの場合、理性は偏見や偏愛の指示に従います。人は、あらゆる狭い考え方とエゴを超越したリシ(聖仙)の指示に従わなければいけません。そうしたリシたちは、「これはヴェーダが命じていることである」(イティ ヴェーダーヌシャーサナム)と言います。リシたちはそれを自分の発見だと主張することさえしません。恩寵(チットシャクティ)は、人間の進歩のために基本的な真理の数々をリシたちに啓示しました。

人が、自分のわずかな知性を、永遠なる知性に対抗して投げつけるとき、ヴェーダを恩寵により啓示した神自らが、何度も何度も降臨しなければなりません。人のわずかな知性は、感覚器官の奴隷であり、人を道に迷わせ、感覚の喜びの「狐火」に魅了されます。それとは反対に、ヴェーダは人を永遠で減少することのない喜びのほうに手招きします。ところが、人はそれに注意を払いません。人は、暗闇の中をさまよい、自分が内なる魂の世界で失くしてしまったものを、外の世界で捜しています!

ヴェーダが与える霊的な食べ物

諸聖典は、霊的発達の様々な段階を記しており、各段階の戒律の厳しさは求道者が到達したレベルによって変わります。子供は、何ヶ月かは母乳を与えられ、次に牛乳を与えられ、その後、歯が生えてきたら、パンや、パリパリと噛むことのできる小さなものが与えられます。それと同じように、人は、ヴェーダから各人の消化力の発達具合に適した霊的食べ物を与えられます。初期の段階では一元という英知(グニャーナ)を把握することはできません(多様性と間違えるため)。そのため、初期の段階では、バクティ〔信愛〕、言い換えるなら、ウパーサナ〔礼拝〕が勧められます。バクティは自然と生じます。なぜなら、バクティは愛の拡大以外の何ものでもなく、人に本来備わっているものだからです。バクティを根付かせるには、善い行い、善い仲間、善いことを聴くこと、善い振る舞いをすることが欠かせません。

ラクシュマナ〔ラーマ神の弟〕の自制と謙虚さをごらんなさい。ラーマがラクシュマナの目の前に装飾品の数々(シーターがラーヴァナにさらわれている最中に空から落とした物)を置き、それはシーターの持ち物かと尋ねた時、ラクシュマナにわかったのは義理の姉であるシーターの足の指輪だけでした! 自分は毎日、一日の最初の義務として義理の姉の足元にひれ伏して挨拶をした時に姉を見ていたと、ラクシュマナは言いました。しかし、ラクシュマナは、足の指輪以外の宝飾品についてはシーターのものだとは言えませんでした。というのも、ラクシュマナは一度も顔を上げてシーターを見たことがなかったからです。今、いったい何人の弟が、自分はそれと同じくらい義理の姉に深い敬意を払っていると言うことができるでしょう? 今の若者たちは、無礼に振る舞い、若い女性を不純な目で見つめ、道端で女性を追いかけて、女性のために自分の人生をみじめなものにしています。

あるいは、ダルマラージャを見てごらんなさい。ダルマラージャは、死んだ四人の中から一人を蘇らせてやろうとヤクシャ〔薬叉〕に言われた時、ビーマ、アルジュナ、そして、継母の息子であるナクラとサハデーヴァのうち、ビーマやアルジュナの命ではなく(!)、継母の息子の命を選びました。そして、ダルマラージャのその寛大さが、四人全員の命を蘇らせたのでした! 今、そのような選択を迫られたとき、ダルマラージャと同じ選択ができる人がいるでしょうか?

ヴェーダの教えの真髄

今では血を分けた兄弟姉妹の間にも愛がないのですから、腹違いの兄弟であれば何をか言わんやではありませんか? かつては、先例のような高い道徳水準が個人の進歩と社会の団結を確かなものにしていました。今では、そのどちらも見当たりません。体、舌、耳、目は、すべて人に誤用されています。恐怖を与えるのは野獣だけ、怯えるのは家畜だけです。人間はそのどちらでもないのですから、そのどちらも行ってはなりません。実のところ、人間は恐怖を受け入れられません。人間は愛の化身です。人間は不滅なる者の子供です。人間は神の神殿です。これはヴェーダの教えの真髄であり、ウパニシャッドに述べられていることです。

愛は、まず、家庭を喜ばせなければなりません。今、家庭の年長者と若者の間に愛がありません。子供は両親を敬っていません。このような道徳の衰退は、間違いなく一体性と力の土台を壊します。道徳の衰えは軍隊の衰えよりも始末に負えません。それは軍隊の衰えによるものよりも大きな惨事へとつながります。もしあなたが、絶えず「私のもの、私のもの」という思いを繰り返していたら、どうやって他の人々のために役立つことができるでしょう?

犠牲は人生の「塩」〔風味を付けるもの〕です。平安と喜びの秘訣は、ヤーガ(供犠、供養)とティヤーガ(犠牲、放棄)です。「ゴー」は、感官(感覚器官、インドリヤ)を意味します。だから「ゴーパーラ」という御名には、「感官を制御する者」という意味があるのです。では、なぜ感官を制御すべきなのでしょう? それは、そうすれば感官が犠牲(ティヤーガ)の道に立ちはだかることがなくなるからです。感官はどれも自己中心的であり、利己的です。感官を、「内に向く」よう、普遍なるアートマ(真我)に向かうよう、教育しなければいけません。それは、ゴーパーラに頼ることによって、神に感官を委ねることによって、達せられます。すべての人が、「善い行い」(サットカルマ)によって、広がる愛の王国に入って行かなければなりません。そして、人は、犠牲、献身、一なる大君主への全託を、愛から学びます。これは、至高神の至高たることへの信仰、至高神以外はすべて至高神の影であり、至高神こそが唯一の実在であることへの信仰へと、人を向かわせます。

私はハートの浄化だけを求める

ある事がこの地方で起こったので、私はもう一つ皆さんに言わなければなりません。自分の信徒からお金を集める目的で、色々な場所を歩き回っているスワミやグルが大勢います。これは忌まわしい行為です。特に、サンニャースィン(出家行者)がそれをやっているなら、なおさらです。

それと同様に、様々な目的や物のためにお金を集める魂胆で、多くの人が私の名前を使いはじめました。もしそのような人たちがあなたのところに来たら、「あなたは悪いことをしている」という訓戒と共に、追い返しなさい。私が求めているのは、バクティ、信仰心、サーダナ、つまり、ハートの浄化だけです。お金を求めるのは物乞いだけです。はかないもの、色あせるもの、派手で安っぽいもの、卑しいものとは、私は決してかかわりません。

それから、私が誰かのところに「降りて来て」、その人を通して話をしている、と言っている人たちがいます! 彼らは、私の代弁者を装って、あたかも私が彼らを「公認」したかのように、あるいは、あたかも私自身が彼らを通して話しているかのように、人々に私の助言や私の提案を伝えています。これから言うことをよく聞きなさい。私は決して誰かを通して話をすることはありません。私は決して誰かに乗り移ったり、表現の媒体として誰かを使うことはありません。私は直接行きます。私はじかに行きます。私は私のまま行きます。平安と喜びを授けるために。

私は、萎れてしまう花、腐ってしまう果物、国境を越えたら価値がなくなってしまうコインは、受け取りません。あなたの内なる意識にある、心の湖(マーナサ サローヴァラ)、きれいに澄み切ったその湖の水に咲く、蓮の花を私によこしなさい。神聖さと地道な修行という果物を私によこしなさい。私は、年長者に会いに行くときには果物か花を持って行くようにとあなた方に課すような、世間の慣例の一切を超越しています。私の世界は魂の世界です。そこでは価値が異なります。もしあなたが、神への愛と罪への恐れを持って幸せでいるなら、それは私にとって、十分な「奉仕」、十分なカインカールヤム〔サンスクリット語で奉仕の意〕です。それは私をとても喜ばせます。

最近、東ゴーダーヴァリー県とその近辺で、私に「乗り移られている」と言っている人たちが何人も出てきました。彼らにはブローカーや仲介人がいます。そのような人たちを見かけたら、そこがどこであれ、退去を命じなさい。彼らの戦術に負けて、主なる神の帰依者であるという、あなた自身の品位を落としてはなりません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C18