サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年9月26日
シュリ サティヤ サイ病院創立記念日(9周年)の御講話より

ウェル(健康)かイル(病気)か

今日、私たちが創立記念日を祝っているアーローギャ ニラヤム(病人の住居/病院)は、アーナンダ ニラヤム(至福の住居/心)が効果的に利用されている場合は不要です。なぜなら、心が至福に浸っている時には体が病気に苦しむことはないからです。体はあなたが至福の状態に達するために用いなければならない乗り物です。ですから、その高次の目的のために、体は安全かつ丈夫に保つ必要があります。体は霊的な努力をするための道具であり、前世の功徳によって得られたものです。一瞬毎に、体は崩壊へと向かっています。ですから、無駄な追求をして時間を無駄にすべきではなりません。体を人生で最も大切なものであるというレベルに持ち上げるよりも、体は劣った低級なものとして考えるほうが良いのです。体は傷であり、包帯(衣服)で覆い、薬(食べ物)を施し、洗う(飲み物を飲む)必要のあるものと見なさなければなりません。この方法によってのみ、あなたは体への過度の執着を取り除くことができます。

自分は体であるという思い込みを捨てた時、初めて人に奉仕しようという本当の衝動と意欲が生まれます。激しい胃の痛みに苦しむ時、目から涙が流れます。なぜでしょう? なぜなら、目や胃といったさまざまな臓器はどれも、同じ体の一部だからです。それと同じで、誰かが苦しんでいたら、あなたは涙を流し、あなたはその人の痛みを和らげたいと思うはずです。これは、あなたが自分とその人は同一の神の体の手足であるということを知っている場合に起こることです。違いという概念(ブヘーダ バーヴァ)は、真理を知らないために生じるものです。人は怒りにかられると歯ぎしりをしますが、舌は噛まないように気をつけます。というのも、舌は自分のものだからです。もしうっかりして舌を噛んでしまっても、人は歯を折って口からたたき出すようなことはしません。なぜなら、歯は自分のものだからです。それと同じように、病人、貧しい人、苦しんでいる人、教養のない人、邪悪な人も皆、同一の体の手足であり、私たちもその体の一部なのです。同じ電流がすべてのものを動かしているのです。このことを認識し、その一なるものに融合することが、こうして人間の体を持って生きることの目的です。

信愛の証し

これを成就するためには、ヴィシャヤ ヴァーサナ(五感の求めるものへの執着)の種を慎重に取り除く必要があります。大地は不毛で死んでいるように見えるかもしれません。しかし、ひとたび雨が降ると、大地は緑のじゅうたんへと変わり、湿った土に触れた種は芽を出します。それと同じように、ひとたび誘惑に触れると、人のヴィシャヤ ヴァーサナ(五感の求めるものへの執着)は発芽して、霊的修練の成長を防げるのです。

主を、万人の内に宿る者、すべての物事の責任者(主は劇の監督であるため)であると見ることは、信愛の証しです。昔、自分の家で1週間のパーラーヤナ(バガヴァッドギーターを解説しながら読み上げること等)を催した信者がいました。誰もがその信者の注目すべき奉仕に感謝して、その信者の信愛を称賛しました。その2日目に、その信者の家の牛が死にました。その信者は自分が新たな催しを始めた報いで牛が死んだのだと思い、講義をするのをやめました。さて、牛の死と信者の信愛との間にはどのような関係がありえるでしょう? 信者は、信愛を用いて、世俗の欲、つまり牛や富を失いたくないという望みから自分を解放しなければなりません。それは、神の意志に全託するということであり、自分が授かった能力を使って最大限の努力をしたにもかかわらず起こったことは、何であれ受け入れるということです。

あるとき、シヴァ神の姿をとった神を崇めていた信者と、ヴィシュヌ神の姿をとった神を崇めていた信者が会って会話を交わしました。ヴィシュヌ神の信者は、ヴィシュヌ神を崇めていた者たちが、原因がわからないまま不可解な形で、財産、お金、牛、土地、家を失ったと嘆きました。その一方で、シヴァ神の信者の富は増え、牛は繁殖し、土地は急速に発展した、とヴィシュ神の信者は言いました。シヴァ神の信者は、シヴァ神は自分の信者にヴィシュヌ神と同じ恵みを与えてくれない、と嘆きました! なぜなら、自分の財産を失った人は、親族のごたごたから解放され、邪魔されることもなく助けを求めて神へと急ぐことができ、背負わなければならない重荷はなくなるからです。

形だけの日課をなくすために霊的努力を減らしてはならない

人が死んだ時、死んだ人が貧乏だったら、自分はその人の親族だと主張する人は誰もいません。一方、財産を残して死んだなら、大勢の人がその人の葬儀をする特権を求めて遺体の上で争います。恩寵を与える者はその恩寵の使い道と利点を知っています。あなたがそれを判断すべきではありません。なぜなら、あなたの判断は短期的な見方に基づいているからです。神は、過去、現在、未来を知っています。

霊性修行は、責任感を持って、誠実に行わなければなりません。霊性修行を中身のない形だけの日課におとしめてはなりません。昔、海外で何年か勉強して戻ってきたブラフミン〔バラモン〕がいました。彼の父親は息子に、西洋に発つ前と同じように毎日朝夕、聖なるガーヤトリーマントラを108回繰り返すようにと強く言いました。しかし、今やその霊的努力は息子にとって中身のない儀式になっていました。息子の技能は向上しましたが、目はかすんでしまいました。そのため、息子はただ老いた父親を満足させるためだけに、ガーヤトリーマントラを1回唱え、その後、「以下同文、以下同文、以下同文」と107回言いました! ずるをして自分を救うことはできません。霊的努力はハードなプロセスです。

悟りへと導いたジャナカ王の夢

真実というものは、ジャナカ王に起こったように啓示のひらめきの中で把握されます。ある夜のことです。ジャナカ王は謁見の間で廷臣たちと女性音楽師たちの一団に囲まれていました。音楽師たちは甘美な歌曲を歌い、王はその音楽にうっとりとして、王座に着いたまま眠りに落ちてしまいました。王を起こすほど無謀な者は誰もいませんでした。廷臣と音楽師たちは皆、自分たちの話し声や動作で王を起こさないよう、そっと静かに奥の部屋へ立ち去りました。後には王妃と一人の従者だけが残りました。真夜中ごろ、王は哀れな叫び声を上げ、王妃が走り寄ってくる物音で目を覚ましました。「あれは真実なのか?」と、王は王妃に尋ねました。王妃にはその質問の答えがわかりませんでした。というのは、何が「あれ」で何が「これ」か、知るよしもなかったからです。王は誰にも同じことを尋ねました。実際、王はそのことしか話しませんでした。王はずっとその問いを口にしていたのです。ジャナカ王は気が狂ってしまったというニュースが広まり、国中が悲嘆に暮れました。それを耳にした聖者が宮殿にやって来て、王に謁見しました。王座で眠っていた時の夢の中で王が何を見たのか、なぜ叫んだのかを教えてくれるなら、質問に答えましょうと聖者は言いました。

ジャナカ王の夢はこうでした。自分の敵対する王たちが結託してジャナカ王の領土に攻め入り、都を占領してしまったため、ジャナカ王は身を守るために森の中へ逃げ込みました。敵から逃れながら、王は何日も飲まず食わずでした。疲労困憊して動くことさえできなくなりました。空腹がジャナカ王を苦しめました。ある部族の村のはずれまで来たとき、ジャナカ王は一人の男が食事をした後の皿を洗っているのを見かけました。ジャナカ王は男にほんの少しでも食べ物をくれないかと懇願しました。男はジャナカ王に少量の食べ物を手渡しました。ところが、運の悪いことにその瞬間烏が飛んできて、食べ物をさらっていきました! ジャナカ王が苦悶の叫び声を上げたのはそのせいだったのです。

だから、ジャナカ王は、「あれは真実か? それともこれが真実か?」と尋ねたのでした。王にとって、あの空腹は王座と同じくらいリアルでした。今、王国を統治していることは、夢の中で王国を失ったのと同じくらいリアルです。聖者は言いました。

「あれは真実ではなく、これも真実ではありません。あれはスワプナ(夢を見ている状態)であり、これはジャーグラト(起きている状態)です。どちらもミッティヤー〔真実と虚偽の入り混じったもの〕であり、虚偽ではありません。なぜなら、どちらも完全な事実ではなく、相対的な事実だからです。どちらも一時の事実が含まれています。それは、その後の調査と体験によって否定される事実です。しかし、あなたは夢を見て、目覚め、叫び、尋ねました。つまり、あなたはどちらの場面にも存在していました。それゆえ、あなただけが真実なのです。“自分”は、三つの状態すべてにおいて、すなわち、起きている時も、夢を見ている時も、熟睡している時も、存在しています。その“自分”こそが唯一の真実です。その“自分”がこの宇宙の森羅万象として現れているのです」

実在を明らかにするサーダナ

サティヤ〔真理/真実〕の中にはミッティヤー〔真実と虚偽の入り混じったもの〕はありません。しかし、ミッティヤー ジャガト〔真実と虚偽の入り混じった世界〕では、あなたはサティヤ〔真理/真実〕を探してサティヤを体験しなければなりません。あなたが自分の心からあらゆる移り気と変調を取り除くなら、あなたはそれをすることができます。あなたの心を、現在の複雑な混乱から、空のようなものへと変えなさい。何百万という鳥が飛び、何千という飛行機が横切って移動しても、空には何の痕跡も残りません。何の影響も受けず、何にも左右されず、何からも離れていなさい。それは、実在を明らかにしてくれる霊的規律であり、体の安らぎと心の安らぎの両方を確実にします。

先ほど読み上げられた報告を聞いた時、私は喜べませんでした。昨年の外来患者数は2万2千人だったけれども、今年は2万3千人に増えたと述べられていました。病気は、食べ物や生活環境によって引き起こされるのではなく、心の弱さや心の持ち方、偏見や好き嫌いによって引き起こされます。欲望、失望、絶望――これらも病気の原因となります。多くの病気には、神を思うことで心を満たすことが治療薬です。残りの病気には、食事療法、睡眠、気晴らし、運動が効果的な治療法です。シャーストラ(経典)はこれらの養生法を説いています。正しい心の持ち方とその教えは現代において非常に貴重です。

どの方向からのインスピレーションも歓迎しなさい

体には体にふさわしい注意を払い、それ以上の注意を払ってはなりません。人々の中には、体に対する嫌悪感を募らせるべきだと助言する人もいますが、それは有益ではありません。体は、道具として、ボートとして、筏(いかだ)として使いなさい。嫌悪感を抱くことは、その対象が何であれ、創造物に対する望ましい態度ではありません。すべては神の手による仕事であり、神の栄光、神の荘厳さの例示です。たとえば、烏を考えてみなさい。あなたは烏の鳴き声が好きではないでしょうが、烏の「カーヴ、カーヴ!」〔カー、カー〕という鳴き声は何を意味しているのでしょう? テルグ語の「カーヴ」には、「救う/守る」という意味があります。それはあなたに神に祈ることを思い出させます。その鳴き声そのものが、いつもずっと〔救ってください/守ってください、と〕祈っているのです。烏の鳴き声はなんとすばらしい教訓を教えているのでしょう!

ラーマーヤナの物語の中に、シーターをからかった烏がラーマの怒りを招き〔烏に姿を変えたジャヤンタがシーターの足の裏を突いて傷を負わせた〕、ラーマの矢を逃れようと恐れおののきながら四方を飛びまわり、最終的に完全に降伏して(カーヴ、カーヴと鳴いて)ラーマとシーターの前にひれ伏し、そうすることで助かったという話があるのを知っていますね。この話は、烏はラーマの怒りによって目を痛めた〔片目の視力を失った〕けれども、それに余りある慈悲をかけられたということを物語っています。ラーマとシーターは二人でその烏をなでて祝福し、その厚かましさを許しました。同じように、「アムバー、アムバー!」〔モー モー〕と鳴く牛も、母〔アムバー〕を、ジャガンマータを、つまり宇宙の母であり自分の母でもある者を呼び求めているのです。自分を向上させるために、どんな方向からのインスピレーションも歓迎しなさい。

あはたが「自分は体だ」という感じ方を強めていくと、体はあなたに、もっとたくさん食べ物をくれ、もっと色々な食べ物をくれ、もっと外見に注意を払ってくれ、もっと体を快適にしてくれ、と要求してきます。今、摂取されている食べ物の大部分は余分なものです。人はもっと少ない食ベ物で健康に生きていくことができます。今、味覚の要求を満たすことや、社会にひけらかすために費やされている多大な努力と出費をやめることができれば、あなたの健康も増してくるでしょう。「ミタ ティンディ、アティ ハーイ」――「ほどほどの食事は、すばらしい健康をもたらす」といわれています。美食家たちは自分の鈍性(タモーグナ)をさらけ出しているにすぎません。生きるために食べなさい。自分は食べるために生きているなどと思ってはなりません。

病気を避ける方法

病気を避けるもう一つの方法は、心の心配を減らすことです。今、私は人々が自分の心配を増やして、自分が理解していない物事や、自分には直したり修正したりできない物事について心配しているのを目にしています。ラジオ、新聞、その他の情報伝達手段が、あまりにも多くの恐れと不満を引き起こしているために、心配と不安が高まって人の心が弱くなっています。親が子供の前で自分の不安を話し、そのために子供たちも心配しはじめます。

先日、私のもとに6歳の少年が泣きながらやって来ました。父親が借金をし、借金取りに追われていたのです。おそらく父親は少年の前で、「かわいそうに! 私はどうやっておまえを養い、服を着せ、学費を払い、本を買ったらいいんだ? 私は借金で首が回らなくなっている」と嘆いたに違いありません。少年は、僕は教室でもお父さんとお父さんの借金のことを心配していました、と言いました。こうした一切を子供の耳に入れるのはいけません。さもないと、子供の幼い心が恐れと不安に害されてしまいます。子供の健康にも影響が及びます。

恐れは病気の最大の原因です。微熱がある時、あなたはこれは深刻な熱が出る始まりしれないと想像しはじめます。あなたは、自分が知っている誰かも、最初微熱があって、後でそれが深刻になり、合併症を引き起こしたじゃないか、と心の中で考えて、その結果、あなたは前よりも病気になりやすくなってしまうのです。反対に、発熱が妨げられた例、発熱を克服した例を考えなさい。回復させて救ってくれる主の恩寵を考えなさい。

神の恩寵に頼ると決めなさい。そうすれば、その瞬間から、あなたは病気から解放されます。あなたが薬に対して持っている信用を神への信用へと変えなさい。医学ではなく、マーダヴァ〔神〕に信頼を置きなさい。私は、錠剤や強壮剤に頼っている人の数に驚いています。祈り、サーダナ〔霊性修行〕、ジャパ〔神の御名やマントラを繰り返し唱えること〕、ディヤーナ〔瞑想/坐禅〕に頼りなさい。これらはあなたが必要とするビタミンです。これらはあなたを回復させます。ラーマの御名ほど効く錠剤はありません。私はあなた方にヴィブーティ(神聖灰)をあげましょう。それはあなた方を癒すでしょう。今、あなた方は二心を抱いています。自分の靴を脱いでお寺の外に置いておかなければならなかった男のように。男は両手を合わせてお堂の前に立ち、ぼそぼそと祈りの文言を唱えていましたが、男の心は外に置いてこなければならなかった靴は無事かどうかという心配でいっぱいでした。病院は、薬や医者を信頼している人のためのものです。しかし、神の恩寵がなかったら、薬と医者に何ができるでしょう?

平安と幸福へと至るサーダナの道、至福の道を受け入れることで、すべての人が健康になり、病気ではなくなって、病院が要らなくなる日が、必ずや、やって来るでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C38