サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年
学生に向けた御講話より

学生たちへ

近代文明と呼ばれるものは、快適さと健康と個人的な幸福をもう少し与えてくれるかもしれませんが、真の精神力と平安はそこにはありません。この2つを与えることができるのは、美徳と真理だけです。

なぜ身体は良い状態に保たれるべきなのか?

なぜ人間は食事を与えられ、服を着せられ、心地よく住居に住まわせられるべきなのか?

なぜ人間は立派に生きるべきなのか? 厳密に言えば、そもそも生きるべきなのか?

幸福は、厳密には誰が得ているのか? 幸福を得ているのは感官か、それとも心か、それとも知性か、それとも意識なのか?

幸福を求めている「私」とは誰なのか? その者は幸せか、幸せではないのか?

これらの問いの答えを考えてごらんなさい。その「私」とは誰であるかを知ってから、外の世界は何であるかを知ろうとしなければなりません。あなたは旗がはためいているのを見ています。さて、旗をはためかせているものは何なのでしょうか? 布でしょうか、ロープでしょうか、それとも風でしょうか? あなたは、旗がはためく原因となっているものは目には見えない風だということを知っています。それと同じように、周りの自然を観察するとき、あなたも原因ではなく結果を見ています。あなたが見ているのは家であり、土の中の礎石ではありません。木の葉や花や果実といった上の方の栄光は見えますが、木を支えて養っている根っこは目には見えません。だからといって、根っこはないと言うことはできません。それと同じく、見えるもの、聞こえるもの、嗅げるもの、味わえるもの、触れるもの――この一切の原因となっているものは、神です。人間が人間として生まれるのは、この真理を悟り、すべての生き物と物事の中に神の存在を感じるためなのです。

サナータナ ダルマのメッセージ

もしも教育を受けた者が実在を知らない、それを知る手段さえも知らないというのであれば、その教育は不完全であり、効果がないとさえ言えます。実在を知る唯一の手段は、妄想や人を惑わす偏見を知性から取り除いて浄化することです。知性を浄化するには、美徳を実践し、それと共に、敬意と謙虚さ、そして、無執着を身につける必要があります。敬意は、両親と年長者と先生方への敬意を持つことから始めなければなりません。その人たちを尊敬し、自分たちよりも豊富な経験と深い愛の前に、謙虚になりなさい。

何がダルマかを知り、厳格にダルマに従いなさい。それがサナータナ ダルマ〔古来永遠の法〕のメッセージであり、それは母なるインド(バーラタ マータ)のネックレスの貴重な宝石です。今、あなた方はその宝石を捨て、その代わりにプラスチックのティンセル〔ぴかぴか光る安っぽい人工の飾り〕を着けて自慢しています!

何年か前まで、小学校の教科書には、「ジャヤ ラーム ジャヤ ラーム ジャイ ジャイ ラーム」〔ラーマ神万歳、ラーマ神に栄光あれ〕、「シュッダ ブランマー パラートパラ ラーム」〔穢れなきブラフマン、至高なるラーマ〕といった文言が書かれていて、子供たちに、神の御名と、すべての創造物の基盤であるブラフマンの栄光を伝えていました。ところが、今では、子供たちは「ディンドンと鐘が鳴る、子猫が井戸の中にいる」とか、「メーメー黒い羊さん、ウール(羊毛)はあるかい?」〔いずれもマザーグースの歌〕などと歌うように教えられ、子供たちを羊や子猫のレベルにおとしめています。人間の尊厳が、ティンセルの類の教育によって破壊されています。

生命の木は、根っこが貪欲や妬みや憎しみに食い尽くされれば、枯れてしまいます。教育は、愛すること、協力すること、真理のための勇気を持つこと、人の助けになること、同情心を持つこと、感謝することを、子供たちにしつけなければなりません。このしつけは、教師と親と年長者の行動によって補足されねばなりません。子供たちに一つのことを教えても、それとは正反対のことをして見せていたら、何の役にも立ちません。

バラタ〔ラーマの弟〕がラーマを捜し出し、泣きながら父王の死を告げた時、ラーマはバラタに、「バラタよ! おまえはダルマが説いている規律に従っていない。だから、今、おまえは泣いているのだよ」と言いました。ダルマはあなたを勇敢で取り乱さない人にしてくれるのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 Ch26