サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年6月20日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリ連続講話(上)より

テストされたときには喜びなさい

バーラタ〔インドの正式名称〕とは、「バ」(バガヴァンすなわち神)への「ラティ」(執心)を持つ土地と言う意味です。それゆえ、ここで生まれた人々にとっては、毎日が神聖であり、すべての川が神聖であり、すべての山が神聖です。ガンジス川は源流から河口までの一切が神聖ですが、聖なる行事や、聖人、聖賢、あるいは聖なる寺院にまつわる特別な尊敬をもって扱われているスポットがあります。リシュケーシュ、ヴァーラーナスィー、プラヤーグ、ハリドワールなどです。それと同じように、一年のうちにも、より神聖な日として扱われている日がいくつかあります。そういった日には、信者たちは神に近づくために特別なプージャー(礼拝の儀式)やジャパ(神の御名やマントラを信心を持って繰り返し唱えること)や瞑想による、特別な行をします。シヴァラートリはそのような日の一つです。さらに、ここに集まっている皆さんにとって、今日は一生の宝として記憶に留めておく日です。巡礼仲間や同類の求道者たちと会するのは、めったにない幸運の一つです。

あなた方は誰もが一つの寺院であり、自分が気づいていようがいまいが、その中心には主なる神が祀られています。主なる神は、「プルシャ スークタム」〔プルシャ讃歌〕の中で、千の頭を有する者と述べられています。これは、神にはきっかり千の頭があって、それ以上でもそれ以下でもない、などということを意味しているのではありません。これは、「私の前にある千の頭には一つの心臓があるのみであり、それがすべての頭に生命とエネルギーを与えている、そして、その心臓こそは主なる神である」という意味です。隣人たちから孤立している人は誰もいません。すべての人は、無数の肉体の中を流れている一つの生き血によって繋がっています。これはサナーサナ ダルマ(永遠の宗教)の特別な教えであり、世界が必要としているものです。しかし、この一つの貴重なメッセージを、バーラタの子どもたちは不幸にも忘れてしまっているのです。

体は大きな目的のために与えられている

主なる神が人間に体を授けたのですから、手足の一本一本、五感の一つ一つには、敬意をもって配慮する価値があります。そのすべてが神の栄光のために使われなければなりません。神の素晴らしい物語を聞くチャンスを得たとき、耳は歓喜しなければなりません。神を賛美することができるとき、舌は歓喜しなければなりません。さもなければ、人間の舌は、ジメジメした湿地の土手に坐って一日中ゲロゲロと鳴いているカエルの舌のように、無駄なものになってしまいます。

自分は神も人間も恐くはないとドゥルヨーダナが言ったとき、それは可哀想にとクリシュナは言いました。パシュ(家畜)は恐れ、ムルガ(獣)は怖がらせます。人間はそのどちらでもありません。人間は、おびえるべきでも、おびえさせるべきでもありません。人間は、臆病であってもいけないし、弱い者いじめをするようでもいけません。臆病であれば動物であり、弱い者いじめをするならダーナーヴァ、すなわち鬼です。

あなた方は、自分に授けられた体をより気高い目的のために使いたいという、駆り立てられるよう気持ちから、ここプラシャーンティ ニラヤムにいるのです。あなた方同士の親密な関係、そして、あなた方全員と私との親密な関係は、時を越えたもの、永遠のものです。それはこの世的な関係に基づいたものではなく、ハートの切望に基づいたものです。それは、プラシャーンティニラヤ サムバンダム、すなわち、至高の平安の館の絆です。

人間の体は大きな目的のために与えられています。それは内なる神を悟ることです。もし、よく走る完全装備の車を持っているとしたら、あなたはその車をガレージにしまったままにおくでしょうか? 車は本来、出かけるためにあります。車に乗って、出発しなさい。それでこそ、車を所有している価値があるのです。これは体に関しても同じです。ゴールを目指して前進しなさい。ゴールに到達するため、進んでいくために、体、五感、理智、心(マインド)という道具の使い方を習得しなさい。

私たちの国の現在の悲劇

ある日、神々の教師ブルハスパティが、輪廻生死の苦から解放される方法はないのかと息子に尋ねられました。あるにはあるが、それは自分で手に入れて実践して勝ち取るしかないと、父ブルハスパティは答えました。

多くの人は、信念に欠けた薄弱な状態で始めます。自分は成功するだろうか、成功できるのだろうか、と。自分はどれくらい長くこの苦行をしなければならないのだろうか、と。しかし、もしサティヤ〔真理、真実〕とダルマとプレーマ〔神聖な愛〕を実践するならば、それら自体が、解脱を生み出すシャーンティ(平安)を得るのに必要な強さを与えてくれるでしょう。

それから息子は、自分は何をしなければならないのかを尋ねました。この世のものへの一切の執着を完全に手放すこと(サルヴァサンガ パリッティヤーガ)によってのみ、解脱は授けられるのだと、ブルハスパティは話しました。

自分は人生において高尚なものを得ようとしている息子を持って幸せだと、ブルハスパティは思いました。ブルハスパティは、息子をカード遊びに誘ってつまらないゲームで貴重な時間を無駄にしている現代の父親とは、まるで違っていました。今の父親たちが息子から同じ質問をされたら、息子は正気を失ってしまった、ありとあらゆる手に負えない恐怖心の餌食になってしまうだろうと結論づけ、何か特効薬はないかと思案しはじめるでしょう。これはこの国の悲劇です。

ブルハスパティの息子は、家庭から遠く離れたところで8年間苦行を積み、飢えと渇きを克服して戻ってきました。ブルハスパティは息子をテストしました。テストは歓迎されなければなりません。なぜなら、自信はテストによってのみ与えられるからです。壁に釘を打つ込むとき、まず少しだけ釘を打ってぐらつきを見て、釘がしっかり打ち込まれているかどうかを確かめます。どこであっても、テストは欠かせないものです。霊性の分野という、成功がうわべだけで永続しないことがよくあるところでは、なおさらです。

息子は、自分がまだ心の平安、すなわち、揺らぐことのない不屈の精神を得ていないことを認めました。ブルハスパティは、サルヴァ サンガ パリッティヤーガ(この世のものへの一切の執着を完全に手放すこと)を手に入れるべし、と言いました。

息子は再び森に入って、日陰も日向も、暑さ寒さも意に介せず、丸一年を過ごしました。息子が戻っても、ブルハスパティはまだ喜べませんでした。というのは、息子は根本的な執着、すなわち、エゴ〔自我、アハンカーラ〕への執着を捨てていなかったからです。息子はまだ、「私」と「私のもの」という網にとらわれていたのです。ひとたびエゴが鎮圧されると、その瞬間に二つのことが起こります。悲しみからの解放、歓喜の獲得です。

この大いなる境地に到達するためには、一歩また一歩と歩いてゆかねばなりません。礼拝の儀式、神聖な御名の唱名、瞑想、誓願の遵守といった善い行いは、その一歩一歩です。より高い識別力を求める祈り、より多く人に奉仕をする機会を求める祈りといった善い考えも、それを助けてくれます。ゆっくりと、着実に心を浄化し、理智を磨き、五感を清めて、恩寵を獲得しなさい。

あなた方は、プレーマ〔神聖な愛〕に促されて、ここにやって来ました。プレーマを育み、プレーマを持って行動しなさい。ここにいる高齢者や病人を特別な思いやりを持って扱い、日陰にいる機会、講堂に入る機会を与えなさい。あなた方の中で若い人や元気な人は、その人たちに場所を空けてあげなさい。あなた方のために定められている規律上のルールを守り、午前11時からのアビシェーカム(水を注ぐ儀式)の際のダルシャンと、夜のリンゴードバヴァ〔リンガムの現出〕の恩恵を受け取りなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C3