サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年2月19日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリ連続講話(中)より

人を喜ばせ、神を喜ばせなさい

空に急上昇していく飛行機が見えます。飛行機はパイロットが操縦して空を飛んでいるのだと誰かが言っても、自分がいるところからはパイロットが見えないので、あなたはそれを信じません。これは正しいことですか? パイロットを見るには、飛行機に乗らなければなければなりません。地面に立っていてパイロットの存在を否定することはできません。あなたは飛行機にパイロットが乗っているのを想像しなければなりません。

世界を見るときも、これと同じことが言えます。神を見ることができないからといって神を否定するのではなく、神の存在を想像しなければなりません。人々は、神の存在は信じないのに、自分が見ていないことや見ることができないことを報道する新聞やニュースは信じます。自分の目に見えるものや心(マインド)で経験したことよりも、耳で聞くことを信じているのです。盲人は暗闇の中にいるのですから、盲人が光の存在を否定したとしても、そのことに価値を置く必要はありません。

たとえ人が神を求めようとしなくても、少なくとも、シャーンティ、サントーシャ、スカム、スワタントラ、すなわち、平安、喜び、幸福、独立を求めることはできます。今、人はこれらのものさえ求めていません。どうしたらそれらを手に入れることができるかを学ぼうともしません。独楽(こま)は休む間もなく回り続けます。人間もずっと骨を折って働き続け、その繰り返しから解放されることもありません。今手にしている平安と喜びは、束の間のものであり、今ここにあったと思っても次の瞬間には消え去ってしまいます。苦しみは喜びを消し止めてしまいます。喜びとは、苦しみのないことに他なりません。地上で重荷を背負い、何年も何年も大量の米と小麦を消費して、自分にも他人にも喜びと平安という見返りがないままに、なぜ人は何年も生きなければならないのか?

ペトロマックス〔圧力式ランタン〕の明かりは、ポンプでせっせと空気を入れて初めて明るく光ります。あなたの光は弱く、ほとんど消えているに等しいのですから、それと同じようにせっせと空気を入れなさい。つまり、霊性修行に精を出し、あなたの心をもっと輝かせて、あなたの近くにやって来たすべての人にその光を広げなさい。

神を中傷してはいけない

あなた方は、シヴァラートリに要されるほんの少しのサーダナ〔霊性修行〕さえも投げ出してしまっています。昔の人は、この日には水一滴さえ口にしませんでした。今はそのような厳格さはなくなってしまいました。昔の人は、夜を徹して一晩中休むことなく「オーム ナマ シヴァーヤ」〔オーム、シヴァ神に帰依いたします〕と唱えて過ごしたものでした。今は誰もシヴァの御名を口にしません。討論をしたり論を交わすことはあっても、ほんのわずかでも神のことに触れることはありません。自分たちはそうするまでもなく優秀だと考えているのです。神は、そのしるし、特徴、特別な卓越性について、経典を学んで知った人だけに知られ得るものです。このことに関連する特別な科学があります。ただ単にあなたに口が付いていて、陰口をたたくことができるからといって、神の道を中傷したり、神を中傷したりしてはいけません。もちろん、神を否定することによって、人が悲しみと苦しみから逃れ、喜びと平安を確かなものとすることができるというのなら、中傷という試みも可能でしょう。しかし、神を信じない人にも、無神論者にも、苦悩や悲しみ、苦しみはあります。無神論は有神論よりも有利であるということはありません。無神論者は、頭に載せていた重荷を肩に移して、自分に頭がないことを認めません。その重荷は堪え忍ばなければならないものであり、それにはもっと大きな辛苦を伴うしかありません。

王と大臣と召し使いが、嵐の中、小舟で湖を渡る話があります。周りの水を見て、召し使いがパニックに陥り、危うく小舟をひっくり返してしまいそうになりました。そこで大臣は、召し使いを捕まえて頭を湖の中に押し入れ、悲鳴を上げるのもかまわずに何度も水に浸けました。そして召し使いが「船に、船に」と叫んだときに、やっと小船に引き上げました。ひとたび小船に戻った召し使いは、舟の上では水を恐れる必要はなく安全だということがわかりました。これと同じように、人々は、神の中にいながら、サムサーラ(浮世の生活)という水を恐れています。浮世の生活の厳しい試練に苦しんでいるときにこそ、神を信じることの安心と安全を実感することができます。

自分自身を見るにはグルが必要

目は三センチほどの大きさでありながら、何百万キロも離れている星を見ることができます。しかし、見ているのは目ですか? 目は目自身を見ることができますか? できません。あなた方は他人を知る方法を身につけなければなりませんが、それ以上に自分自身を知る方法を身につけなければなりません。あなた方の好奇心は、他人についてが一番強く、列車の客室で知り合った人にさえ、家族のことや財産や家系について尋ねます。ところがあなた方は、自分の家系のことも、財産のことも、相続のことも、身分のことも知りません。あなた方は、マヌジャ、すなわちマヌから生まれた者です。マヌはあなた方の財産である道徳律を定めた人物です。あなた方のハートには主なる神が祀られています。ですから、あなた方は本質的に神聖です。その富の一切を拒んで、あなた方は貧しく脆弱な生活を送っています。自分の目を見るには鏡が必要です。生来の威厳をまとった自分を見るには、グル(導師)が必要です。

神を否定する人は、自分自身と自分の栄光を否定しているのです。すべての人はハートに愛を持っています。それは子どもに対するものであったり、貧しい人々、仕事、あるいは目的に対するものなど、さまざまな形態をしています。そうした愛は神であり、その人の中にある神々しい存在の火花です。すべての人はアーナンダ(歓喜)を持っています。それがどれほど小さく、一時的なものであったとしても、それは神の火花であり、神々しいものです。すべての人は平安と無執着と思いやりを持っています。それらはすべて、その人の心の鏡に映った神の反映です。それらはすべて、心の美点であり、功徳の利益(りやく)を正しく評価することによって現れたものです。もしそれが、テーナーリー・ラーマクリシュナ〔ヴィジャヤナガラ帝国の宮廷詩人〕の話に出てくる泥棒の場合のように、無力さによって現れたものだとしたら、それはよくありません。その泥棒は、恐れに動かされて、大いなるシャーンティ(平安)とサハナ(忍耐力)を示したのでした。

固い信仰心をもって自制を実践せよ

テーナーリー・ラーマクリシュナは、夜中に忍び込んできた泥棒が井戸の近くにある蛇瓜(ヘビウリ)の茂に隠れているのに気がついて、妻を呼びました。そして、井戸の水を汲むのにロープと桶(おけ)を持ってくるようにと言いました。妻は水を汲んで桶を手渡しました。それを見た泥棒は、二人はすぐに家の中に入るだろうと思って、闇の中にうずくまっていました。泥棒は、後で家に忍び込み、まんまと盗みを働こうともくろんでいました。

そのとき、ラーマクリシュナは、喉に何かを詰まらせたふりをしました。それから口に水を入れて大きな音を立ててうがいをし、ちょうど泥棒がうずくまっている蛇瓜の茂みの下にそれを吐き出しました! それはちょうど泥棒の顔にかかりました。それはまさにラーマクリシュナの意図したことでした。可哀想に、泥棒は逃げ出すことも、抵抗することもできないまま、じっとしていました。動くのが恐かったのです。泥棒はあっぱれな忍耐力を示しました。しかし、これを功徳と呼べますか? あなた方はこの泥棒を評価しますか? 泥棒は恐れに動議づけられたのであって、信仰心に動かされたのではありませんでした。そんなシャーンティ〔平安〕やサハナ〔忍耐力〕は、まったく用をなしません。固い信仰心をもって自制を実践しなさい。そうすれば、それは強さの源泉となります。

あなた方は、「バガヴァッドギーター」が治せる病気、すなわちモーハ(迷妄)という病気に苦しんでいます。この病気はあなたの価値観を覆い、視力を曇らせ、ものの見方を曲げさせます。しかし、薬に効き目を持たせるには、アルジュナが感じたヴィシャーダ(憂鬱)、アルジュナに受け入れる余地のあったプラパッティ(帰依全託)、アルジュナが身につけたヴァイラーギャ(無執着)、アルジュナがはっきりと示したエーカーグラタ(集中力)を持たなければなりません。アルジュナは、同族の者たちと師と年長者たちを殺した後、王位には就かずに物乞いをして生きるつもりでいました。それほどの熱烈な切望を持ちなさい。そうすれば、「バガヴァッドギーター」は、モーハを滅ぼして、あなたを解放することができるでしょう。

他人の欠点を探してはいけない

自分が霊的にどのような発達段階にあるのか、それは学校のどのクラスに当てはまるのかを、独力で見出しなさい。そして、そのクラスから、その上のクラスへ進むことを決意しなさい。ベストを尽くして努力しなさい。そうすれば、神の恩寵を勝ち得るでしょう。投げ出したり、絶望したりしてはいけません。一度に一歩で十分です。ただし、それはゴールへと向かう一歩であって、ゴールから遠ざかる一歩であってはなりません。富に対する慢心、学識に対する慢心、地位に対する慢心に注意しなさい。それらはあなたをエゴイズム〔自我意識、アハンカーラ〕へと引きずっていきます。他人の欠点を探さずに、自分の欠点を探しなさい。他人の成功を見たら喜びなさい。あなたの喜びを他人と分かち合いなさい。

あなたがどれだけ学歴のはしごを高く登ったとしても、ハートの中にあるインド文化の根を枯らしてはいけません。

サナータナ ダルマ〔古よりの永遠の法〕に精通した偉大なパンディト〔学僧〕がいました。彼はサナータナ ダルマの実践を大変重視していました。そのパンディトは、高い教育を受けさせるために息子を海外に遣ることにしました。パンディトは息子をクラデーヴァタ(その家で代々崇めている神)であるカーリーマータ〔カーリー母神〕の寺院に連れていきました。そして、息子が蒸気船に乗り込むとき、目に感謝の涙を浮かべて、息子の頭にカーリーマータの神聖なプラサードを振りかけました。

そのパンディトは、しばしば息子宛に、異国の地にいても礼拝の儀式を続けなければならないということを説いた手紙を書いていました。そして、息子は朝夕の沐浴と詠唱をやめないだろうという自信をもっていました。

数年後、息子は異国風の洋服を着て、飛行機で帰ってきました。しかし、信心深い父は、息子の深い信仰心は変わっておらず、息子は未だ変わらず生粋のインド人であると信じていました。父はまっさきにに息子をカーリーマータの寺院に連れていきました。というのも、息子が無事に健康で帰って来れたのは、女神の祝福のおかげであると感じていたからです。父は、ストートラ〔讃歌〕を唱え、息子にも祈るようにと言いました。すると驚いたことに、息子は女神にこう挨拶したのです。

「ハロー、ミセス シヴァ! ハウ ドゥー ユー ドゥー?」
 (こんにちは、シヴァ夫人!お元気ですか?)

それを聞いて、父はショックを受けました。息子がサナーサナ ダルマの道を遵守するのをやめてしまったことがわかり、老いた父の心はつぶれんばかりでした。

真実から離れた結果

サナーサナ ダルマの主要な原則は、サティヤ(真理、真実)、ダルマ、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)です。

パーンダヴァ兄弟の長兄ダルマラージャは、誠実にサティヤを遵守する人物でした。ところが、クルクシェートラの戦いのときに、たわいのない嘘を言うよう説得されました。それは100パーセント正直だとは言えないが、許される範囲の誤魔化しであると、ダルマラージャは考えました。敵軍の大将である弓の名手ドローナを殺すためには、何とか策を講じて弓を置かせなければなりませんでした。そこで、パーンダヴァ軍は計略を練り、戦闘用の象にドローナの息子と同じアシュワッターマという名前つけて、その象を殺したのでした。それから、そのことをすぐにドローナの耳に入れるべく、パーンダヴァ軍に、

「アシュワッターマが殺された、象の」

と歓声を上げるよう命じました。これはまったくの事実です。しかし、兵士たちが語尾を発するときには、いつも太鼓を打ちならし、ラッパを吹き、トランペットを鳴り響かせたので、ドローナには最初の「アシュワッターマンが殺された」だけしか聞こえませんでした。当然ドローナは、それを息子が敵の手で殺されたという意味に受け取りました。ドローナはがっくりと肩を落とし、その手はいつものように俊敏に弓と矢を操ることができなくなりました。その瞬間、ドローナは襲撃され、殺られてしまいました。

ダルマラージャは、自分が仕向けたこの一つの罪、一生のうちでたった一度の罪により、何分かを地獄で過ごさなければならなかったと叙事詩に記述されています。これが、たとえ一寸でもサティヤから離れるとどうなるかということです。

命は苦痛を和らげるのに使うのが最善

その結果を聞きなさい。死後、その少しの滞在のために、別の世界からの使者がダルマラージャを地獄に連れていく間、地獄の住人たちの吸っていた空気が、不意にさわやかなよい香りになり、これまで望みもしなかった不思議な安らぎと喜び、ワクワクするような、そしてウキウキするような気持ちを感じました。それは、その恐怖と拷問の世界に神聖な魂が近づいてきたことによるものでした。不幸な罪人たちは、ダルマラージャを見て気持ちを落ち着かせよう、楽になろうとして、まわりに集まってきました。

(自らの刑期がすぐに終わって)ダルマラージャが天国の方に向き直ると、もっと長くいてほしいと地獄の全住民が叫び声を上げました。灼熱と苦痛に戻るのが嫌だったのです。その哀れな嘆きを聞くと、ダルマラージャは、自分の天国行きをもたらした功徳のすべてを地獄の住民たちに引き渡すと宣言しました。ダルマラージャは彼らと共に留まることをいとわなかったのです! しかし、その偉大な放棄の行為は、苦しむ者たちのためになったばかりのみならず、ダルマラージャに天国での暮らしの延長と、天国の中でもさらに栄誉ある場所をもたらすこととなりました。命というものは、苦痛を和らげ、悩みを軽くし、平安と喜びを促すことに使うのが最善です。

人間への奉仕は、あなた方が神への奉仕と呼んでいることよりも価値があります。神はあなた方の奉仕を必要としません。人を喜ばせなさい。それは神を喜ばせます。「プルシャ スークタム」〔プルシャ讃歌〕は、神には千の頭と千の目と千の足があると詠っています。つまり、すべての人、頭と手と目を持っているものは、すべて神であるということです。皆、ばらばらではないのです。神には千の心臓があるとは言っていないことに注目しなさい。心臓は一つだけです。同じ一つの血液がすべての手と頭をめぐっているのです。すべての人は手足です。手足の世話をするとき、あなたは人の世話をしているのです。人に奉仕するとき、あなたは神に奉仕しているのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C4