サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年5月23日
場所:マドラス(チェンナイ)
マドラスでの御講話より

三種の道

人間として生まれるのは非常に幸運なことです。なぜなら、人間だけが、自分という存在の実体を認識することによって、神の地位に到達することができるからです。動物も鳥もそのような高い悟りに到ることはできません。ところが、そのチャンスの価値を尊び、それを活用する代わりに、人間は地上での年月を無駄に過ごして、光を見ることなく死んでいきます。人間は人間の名誉を汚し、人間の運命を否定しているのです。一瞬の内省は、人間が神我顕現という貴いゴールからいかに遠く離れているかを明らかにするでしょう。人間は絵でも彫刻でもありません。絵も彫刻も生命は持っておらず、自らの大望も持っていません。人間は、拡大や不滅を目指すための、行為と達成と渇望を持つことができます。

しかし、人間が人生を神に捧げることなく、安楽や快適な暮らしを無駄に追い求めることに囚われているのは、何と哀れなことでしょう。そして、自分をバーラタ マータ(母なるインド)の息子と呼んでいるにもかかわらず、そのような愚かな振る舞いをするのは、さらに大きな恥です。人間は、素晴らしい月夜を漆黒の闇夜に変えようとしているのです。

この状態の責任は、主に「信者」と「正統派」の人々にあります。彼らは、自分たちの信仰を無視し、西洋文化を真似しています。西洋人は自分たちの文化を否定していますか? いいえ、していません。西洋人は他の文化について学びますが、依然として自分たちの文化に熱心に従っています。一方、あなた方は、どっちつかずで、それらの中間に落ちてしまっています。

誰も神を完全には理解できない

日曜日ごとに教会へ行く人々の長い列を目にするたびに、私は嬉しく思います。一方、私は、あなた方が寺院や聖者を訪れたことを言いわけしながら話しているのを見るのは好きではありません。なぜ、寺院や聖者を訪れたことを、顔を上げて正々堂々と言えないのでしょうか? なぜあなた方は、最も取るに足らない人たちさえも恐れるのですか? なぜあなた方は、自分は神の信者だといつも主張しているくせに、不安に思ったり惨めになったりするのですか?

あなた方は、数々の過去生での行為の結果として生まれてきました。バスがスピードを上げて走っている時には、車の後ろに土煙が上がります。バスが停車すると、土煙がバスの中に入ってきて、乗客はほこりだらけになります。ですが、あなた方は、バスを停車させずにどこまでも旅することなどできますか? 一つほっとできることは、あなた方はいつも土煙の上がる道を走る必要はないということです。先にはもっと良い道があります。土煙の上がる道、天気のいい日にしか通れない土の道はサミティ ロード〔プッタパルティ村にある道〕です。その先の砂利道はスィッラ パリシャト ロードで、最終的に、あなた方はアスファルトの幹線道路に乗り入れます。そこではバスの後ろに土煙は上がりません。土の道はカルマ マールガ(行為の道)であり、砂利道はウパーサナ マールガ(礼拝の道)であり、アスファルトの道はグニャーナ マールガ(英知の道)です。すぐにグニャーナの道に入りなさい。そうすれば、土煙はなくなります。

この国の人々は、霊的なものへの崇敬を失ってしまいました。インドには多くの聖人賢者がいるというのに、人々は彼らを冷笑的に無視することによって、インドはバスマ アスラ(灰の阿修羅/バスマースラ/手で触れたものが何でも灰になるという力を授かった阿修羅)のように、文化的分野において自らを消滅させようとしています。バスマ アスラは、自分の頭の上に手を置いて、灰と化してしまいました。サーダナ(霊性修行)によって神へと向かう一歩を踏み出すことさえしていない人たちが、自分の判断を声に出しはじめています。

誰も神を完全には理解できません。あなた方がある行為を奇跡として退けるとき、単にそれは自分たちの理解を超えているということを自ら認めているのです。あなた方が奇跡という言葉を使うのは、神の振る舞いや動きや行いを表現する他の方法がないからです。

霊的な事柄において、信心は進歩のための基本的な必需品です。信心を注意深く守らねばなりません。神にすべてを委ねなさい。神は、あなたにとって、実の親より近しいのです。神以外の者に委ねてはなりません。風が吹くたびに信心が揺らぐようであってはなりません。三界が真理を王座から追いやることはできません。14のローカ〔十四界〕が虚偽を王座に就けることはできません。あなたの義務は、誰が何を言おうとも、乱されることなく、あなた自身の経験の確かさにしっかりとしがみついてサーダナ〔霊性修行〕を実行することです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C16