サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年7月3日
場所:プラシャーンティ・ニラヤム
グル・プールニマー祭の御講話より

底なしの穴

人間は、目に見えるものへの過度の執着、すなわちラーガによって、目に見えないものの領域とは無縁になってしまいました。しかし、目に見えないものは目に見えるものの基盤であり、目に見えるものに安定性と価値を与えるものであり、真実で確かなものです。数世紀にわたって数え切れないほどの聖者や師によって警告されてきたにもかかわらず、今、ここバーラタの地の人々は、目に見えるもののために目に見えないものを捨て去っています。目に見えないものだけが、幸運にも不運にも向き合うための満足感と勇気を与えてくれるのです。それを無視したことが、今どのハートにも家庭にも蔓延している不満と苦悩を引き起こしたのです。

バクティ(信愛、帰依心)を培いなさい。そうすれば自由になれます。なぜなら、あなたが背負っている重荷を主が引き受けてくれるからです。ラーマーヤナは、神に全託して神を勝ち取りたいと願うすべての人にとって、素晴らしい聖典です。最初から最後まで、ラーマーヤナには、それに至るさまざまな歩みと、それを達成したときに得られる祝福が描かれています。

ラクシュマナは素晴らしい手本です。ラクシュマナは、主と共にいて主に仕えるために、どの愛情の対象をも手放しました。かつて、森にいたときに、ラーマはラクシュマナに、パルナクティー〔葉葺小屋〕に適した場所を探して建てるようにと指示しました。その言葉を聞いたラクシュマナは涙を流しました。というのも、ラクシュマナは、それは自分には自分で考えて行動する自由があるという意味だと解釈したからです。ラクシュマナは自分の意志を兄であるラーマに全託していたので、命令に従うことしかできませんでした。彼は独自に判断をする意識をすべて失っていたのです。

苦しんでいる人々を救うとき、神は幸せである

完全な全託のもう一つの手本はヴィビーシャナです。ラーヴァナには、自分の気まぐれに迎合し、虚栄心を満足させてくれる廷臣や大臣の一団がいました。それぞれがラーヴァナに、公然と戦いを挑んでシーターを自分のものにするよう勧めましたが、実の弟であるヴィビーシャナは、ラーヴァナの強情さと情欲を厳しく非難して、シーターを無傷で夫の元のもとに戻すことによって、ラーヴァナ自身を、そして、彼の王国と親族を救うよう促しました。ヴィビーシャナがひるがえってラーマのもとへ行ったとき、ラーマは、ヴィビーシャナにはランカーの毒気の中では生きていくことができないほど清らかなハートがあるということが分かりました。そこでラーマはヴィビーシャナを受け入れて、ヴィビーシャナを救いました。

主は、他のどの御名よりも、アールタトラーナパラーヤナ(苦しむ者や抑圧される者を守護して愛情を捧げる者)と呼ばれることを好みます。なぜなら、主は苦しんでいる者を救うときに最も幸せだからです。ラーマに託す前、ラーマの力量を見せてほしいというスグリーヴァの嘆願に、ラーマがいかに屈したかを見てごらんなさい! ラーマは王国と王妃を失ったスグリーヴァを救いたかったので、かの不安な嘆願者に試されることをいとわなかったのです! バラタは、自分の母親も、王位も、すべての富と権力も手放しました。バラタは苦労と清貧に身を投じ、森の中でひたすらラーマを思いながら暮らし、兄ラーマの手には入らないであろうものはすべて拒みました。ラーマを絶えず思い続けることで、バラタの肌の色さえもラーマと同じ色へと変わりました。

神の手の中の道具でありなさい。神が望むどんな目的のためにも神があなたを使うことができるようにしなさい。どうして誰かが神の意志に異議を唱えることなどできるでしょうか? ある商人が船乗りに、おまえの祖父と父親はどうしているかと尋ねました。どうやら二人とも海で亡くなったようでした。そのため商人は船乗りに、航海するのは怖くないかと尋ねました。すると船乗りは商人に、先祖はどこで亡くなったのかと尋ねました。皆、寝床で亡くなったと言うので、船乗りは商人に、寝床に入るのが怖くないのかと尋ねました! 死はどこかで、とにもかくにも、すべての人にやって来ます。しかし、賢者は最後を迎える前に先を見越します。あなたの中に冷涼な信愛の泉を持ちなさい。そうすれば、不安の炎があなたを傷つけることはできません。そのとき、災難の来訪はどれも新しい意味を帯び、神の目的のためにあなたを強く、タフに、そして、よく乾燥した材木にするための恵みのしるしとなるでしょう。

感覚の昇華は不可欠である

あるとき、交通量の多い大通りの真ん中で気持ちよさそうに横たわっている犬が、なぜそのような場所を選んだのかと尋ねられました。皆さんは、危険に満ちた場所で昼寝を楽しんでいる犬たちが、交通の流れの真ん中に自分だけの島を作っているのを見たことがあるでしょう。犬は、歩行者の中で誰が善人で誰が悪人かを知りたかったのだと答えました。犬は、両側には十分な道幅があるのに、何人かの人は、ただ面白がって、あるいは、いたずら心で、犬を追い払おうと突いてくるのだと説明しました。そのような人は生まれながらの悪人だと犬は断言しました。人の事には口出しせず、自分の道を行き、道の途中で出会った物事に注意が向いて旅を遅らせたりしない人は善人だと犬は言いました。この犬の言ったことは真実でした。なぜなら、余計なことをせずに、そのままでよしとすることができない人は、実は自分の進歩を妨げているからです。

重要なのは、感官の制御と昇華です。味、匂い、姿形、メロディー、柔らかさといった外界に感官を向かわせて好き勝手にさせるのは、底なしの穴に落ちるようなものです。それは、黄金の箱に宝を入れて、黄金の鍵をかけるようなものです。泥棒がより高価な戦利品を手に入れるだけです。

ギーターは、ヨーガとしてバクティとグニャーナとカルマについて語りましたが、ヨーガとは、パタンジャリが意図した「チッタ ヴリッティ ニローダハ」、つまり心の動揺を静めることを意味します。ヴィシュヌは、この落ち着きの最高の模範です。なぜなら、ヴィシュヌは、千の頭巾をつけた蛇の上に横たわっていながら、「シャーンターカーラム ブジャンガ シャヤナム」、つまり、絵に描いたような平安な落ち着きそのもののだからです。蛇は、毒牙を持つ外界の象徴です。この世にいながら、この世のものではなく、この世に縛られない——これが秘訣です。マーリーチャは、ラーマの手によって死ぬという機会を得たとき、その神の御姿の魅力に目を定め、生きたいという衝動さえも手放しました。マーリーチャには、ラーマが「ヴィグラバヴァーン ダルマハ」、つまり、認識できる姿形をとったダルマである、ということが分かっていました。そのためマーリーチャは、ラーマの矢によって殺されるという機会を与えてくれたラーヴァナに感謝しました。

不屈の精神は最も重要なサーダナ

五感や激しい感情や情動を征服するのは困難で時間のかかるプロセスであり、体系的な努力によってのみ成功を収めます。怒りを例に挙げましょう。あるとき、巨漢のレスラーが、自分の強靭な体力と、多くのライバルに勝ったことを得意になって通りを闊歩(かっぽ)していました。そのレスラーが通り過ぎると、彼の体格と容姿を見た中年女性がクスクスと笑いました。レスラーは怒って歯ぎしりし、その女性に飛びかかりました。女性は叫びました。「女の笑いを冷静に受け止められないなんて、あんたはいったいどんな類いの強い男なの?」。レスラーは恥ずかしさで頭(こうべ)を垂れなければなりませんでした。サハナ(忍耐)は最高のサーダナであり、不屈の精神は最も重要なサーダナです。これはシャーストラの最大の教訓です。

五感が人を奉仕から引き離したり、激しい感情が顔を出して奉仕を促す愛を曇らせたりするとき、どうやって他の人たちに、すなわち、万人に宿る主に、奉仕することができるでしょうか? ローケーシャ(世界の主)は、ローカ(世界)に至福を広めることに従事しています。人は自分の周囲に至福を広めることに従事すべきです。それが、主の務めに協力し、主の務めを共にする方法です。

悪行の一つひとつが、その人の没落を早めていきます。ラーヴァナはシーターを連れ去りましたが、ラーヴァナがその邪悪な行為をした時に、なぜ神の怒りの炎がラーヴァナを灰にしなかったのか、なぜ貞女の怒りがラーヴァナを焼き尽くさなかったのかと、多くの人が不思議に思っています。それは、ラーヴァナが成し遂げたあらゆるタパス(苦行)の結果と、神々から勝ち得た恩恵が、長い間、鎧(よろい)として立ちふさがっていたからです。ラーヴァナは、自分の愚かさと邪悪さによる自分の運命を迎えなければなりませんでした。主は照覧者にすぎません。主は、「私のもの」や「あなたのもの」といった感情から生じる執着から生じる、あらゆる憎しみと怒りを超えています。

ダルマのないカルマは破滅につながる

ランカーのラークシャサ〔羅刹〕たちは、ヤーガ(供儀)やヤグニャ(供物を捧げる供儀)の熱心な信奉者でした。ランカー島のどの家の上にも、礼拝の儀式のために灯された聖なる火から立ち上った聖なる煙が、天蓋のようにかかっていました。それは祝福を求めるカルマ(行為)の道でしたが、その道にはダルマはなく、それが彼らを破滅へと導きました。あるとき、ボージャ王が宮廷でカルマとダルマの相対的な重要性について議論をし、カルマとダルマとブラフマー(至高の存在)は、霊的進歩の3つの段階であり、適切な発達の段階において、それらはすべて同等に重要である、ということが理解されました。

かつて、詩人たちは、賛助を求めるのに、よく「デーヒ」〔体に宿っている者〕という言葉を用いていました。カーリダーサはこのことを次のように説明しました。詩人たちはあなたに求めているのではない。詩人たちはあなたを「デーヒ」、つまり「肉体のある者」、「体という器具の中に入った者」、すなわち「アートマ」であるとして呼びかけているのだ、と。あなたは本来、体の中に住んでいる者であり、あなたが自分と同一視している体ではないということを、詩人たちは思い出させてくれるのだ、と。あるとき、ある詩人がボージャ王に援助を求めてきました。王が寄付金を差し出すと、詩人はそれを受け取ることを拒んで言いました。「他人の労働で得たものを充てるのではなく、あなたが額に汗して稼いだお金を私にくださらなければいけません」。皇帝はその反論を評価して、明日来るようにとその詩人に言いました。

翌朝、指示どおりに詩人が現れると、ボージャ王は、鍛冶屋で赤く焼けた鉄をハンマーで叩いて稼いだ銅貨16枚を、詩人に渡しました。それを受け取るために詩人が手を伸ばし、硬貨が手渡されました。ところが、驚いたことに、それは銅貨ではなく金貨でした。王が苦労して働いたことで、それは純金になっていたのです。人は正当に稼いだものだけを与えなければなりません。そのとき、デーヒ(体に宿る者)は、デーハ(肉体)の意識を持つことなく、与えてくれるのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 Ch18