サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年9月7日
場所:プラシャーンティニラヤム
クリシュナジャンマアシュタミー祭の御講話より

神のことを、神に、神によって

今日は、視力を奪った迷妄におびき寄せられてはまってしまったぬかるみから人間を救うために、ニラーカーラ(形なきもの)がまとったナラーカーラ(人間の姿)〔神の化身〕を崇めるために捧げられます。ヤマ(死の神)はサムヤマ〔感官の制御〕よって追い返すことができます。つまり、死は、感官のコントロールと、感官を刺激する欲望をコントロールすることによって克服できるのです。人間がこの事実を忘れ、感官の奴隷として生きはじめた時、限りなき慈悲により、神が人間の間にやって来て、神へと到る天の道に沿って人々を導きます。

人間は、立派な能力が備わった動物という、人間があるべき姿には進化していません。進化しなければ、食べて、どんちゃん騒ぎをして、眠ればいいからです。人間は、輪廻の中で解脱を得るために、そして、アートマの力でアートマを高めるため(ウッダレート アートマーナートマーナム)に、意味のないものから意味のあるものを取り戻さなければなりません。どれほどの土地、どれほどの家があれば、人間の貪欲を満足させることができるのでしょうか? いつか、遅かれ早かれ、貯め込んだ物をあきらめて、逝かなければなりません。

ある男が、南に100エーカー(0.4平方キロ)の土地を持っていました。しかし、男は、少なくともあと1000エーカー(4平方キロ)は欲しくて、うずうずしていました。そこで男は、まだ開拓されていない、開拓可能な広大な土地を手に入れることのできる地域を求めて、四方八方へ出かけていきました。ついに男はヒマラヤの王国へとやって来ました。ヒマラヤの王は、男が欲しくてたまらない土地を喜んで差し出そうと言いました。そして、1つだけ制限を設けました。それは範囲でした。王は、その男に、日の出と共に出発し、止まることなく歩き続け、日が沈む前に出発地点に戻ってこなければならないと言いました。出発してから戻って来るまでにその男が歩いて足跡を残した分の土地が、その男のものになるというのです。それは、王からの寛大な申し出でした。その貪欲な男は、朝日が射すのを今か今かと待ちました。それから、たいそう広い円を想定し、その外周を歩きはじめました。というよりは、実際は夕方まで走っていました。出発地点の近くまでやってきた時、男はあまりにも疲労困憊していたために、出発地点まであと3メートルもないという所で倒れて死んでしまいました! 心臓が止まってしまったのです。日か沈む前にできるだけ多くの土地を自分のものにしようとして、気違いじみた行路をとり、無理をしすぎたのです。

心の平安だけが健康を生み出せる

多くの人たちは、何年もかけて蓄えに蓄え、その積み上げたものの大きさに得意になる前に死に連れ去られてしまいます。お金で薬は買えますが、健康を保証することができるのは心の平安と足るを知ることによってのみです。医療の専門家を雇うことはできますが、その雇用契約によって命を保証することはできません。

神はサードゥを養うために化身すると言われています。サードゥというのは、ヒマラヤに隠れ住んでいる行者を意味するのではありません。サードゥとは、あなた方一人ひとりの内なる実体である有徳の人を意味します。外見というものは、あなたが本当は真我であると思わせないために着けている仮面にすぎません。誰もがサードゥです。なぜなら、人間は、プレーマ スワルーパ〔愛の化身〕、シャーンティ スワルーパ(平安の化身)、アムルタ スワルーパ(不滅性の化身/アムリタの化身)だからです。しかし、エゴという外側の皮が厚くなって定着してしまうのを許すことによって、真の本性は曇ってしまいます。サット サンガ〔善人との交わり〕という行いによって、そして、自制と自己改善に体系的に注意を払うことによって、人間は、自分は体である、その欲求や渇望である、という迷妄を克服することができます。

牛にもっと牛乳を出させようとして、発酵させた雑穀粥を牛に与えると、その牛の牛乳は嫌な臭いがするようになります。世俗的なつまらないことに夢中になっていると、その人の行動や性格は不快なものになります。不死の子である人間が、絶望と苦悩にもがき苦しみながら転落していくのを見るのは、実に悲しいことです。もし誰もが、「私にはどんな資格があるのか? 私の〔本来の〕地位は何か?」ということを調べれば、自分が転落していることがすぐにわかります。どんなにお腹を空かせていても、虎がポップコーンやピーナッツを食べるでしょうか? あなたの血統〔人間は神の出であるということ〕があなたに与えている資格である目的地を目指しなさい。鸚鵡は、綿花の実をつついてマンゴーの甘さを味わうことができますか? あなたの努力をその目的地の崇高さに合ったものにしなさい。どんな障害があろうとも、どんなに旅が長かろうとも、決して努力を怠けてはなりません。

今日できることを先延ばしにしてはならない

目的地は、あなたが目的地に近づく速度よりも速く、あなたに近づくでしょう。あなたが救われたいと熱望しているのと同じように、神はあなたを救いたがっているのです。もがきながら道を進んでいるすべての人にとって、神はプレーマ〔愛〕であり、カルナ(慈悲)です。

神は帰依者に願望を与える者(バクタ アビースタ プラダ)と呼ばれています。あなた方は、私が指で自分の髪をくるくると巻き上げては髪を引っ張って顔にかかるようにしていることを、私が自分で笑っていると言いますが、その理由を教えましょう。それは〔どこかのバクタが〕輪廻の海を渡ったことに対する私の至福のサインであり、私のハートを捕らえたバクタの成功に対する至福のサインなのです。

昔、ある皇帝が、宮殿を訪れた賢者たちに、「人間の中で最も優れているのは誰か?」、「時間の中で最も神聖な時はいつか?」、「どんな行為が最も有益か?」と尋ねました。皇帝はいつまでたっても満足のいく答えを得られませんでした。そのうち、王国は侵略され、皇帝は敵の兵力の前に敗北し、密林に逃げ込むしかなくなりました。皇帝は密林で未開の部族に捕らえられ、部族の崇める女神への生贄にされることになりました。その絶体絶命の窮地に、ある行者が皇帝を見つけて助け出し、静かな庵へと連れていきました。皇帝はそこで行者と弟子たちから愛情深く世話をされ、健康と幸せを取り戻しました。その時、皇帝は問いの答えを見つけました。「人間の中で最も優れているのは慈悲のある人間である」、「最も神聖な時間は、今、まさにこの瞬間である」、「最高の行為は痛みや悲しみを和らげることである」と。あなた方は今度の木曜日からナーマスマラナ(神の御名の憶念)始めることに決めました。まるで、死は今度の木曜日まであなたのところにやって来ることはない、と書面で保証されたかのように。今日、今この瞬間にできることを先延ばしにしてはいけません。

神は間に合うように取り成して帰依者を救う

今、ナーマスマラナ〔神の御名の憶念/唱名〕に言及したので、もう一つのお話をしましょう。グルから神の御名を繰り返し唱えるよう訓戒されていた商人がいました。商人は、自分には座って神の御名を繰り返す時間はない、自分は店の仕事に時間とエネルギーをすべて取られていると、言い訳しました。商人は毎朝、用を足すのに、村から少し離れた場所へ行かなくてはなりませんでした。それには毎回30分ほどかかっていました。そこでグルは、その時間を毎日のスマラナ〔憶念〕に使うようにと言いました。

偉大なラーマバクタ(ラーマ神の帰依者)であるハヌマーンが空を飛んで渡っていた時、その商人が排便をしながら「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と繰り返す声が聞こえてきました。ハヌマーンは男の無礼に激怒しました。不浄の時に御名を唱えることで御名の神聖さを冒涜していると思ったからです。そこで、ハヌマーンは商人の頬に強烈な一撃を食らわせ、それからアヨーディヤーに向かう旅を続行しました。神の御前に到着し、輝きに満ちたラーマの顔を見た時、ハヌマーンはラーマの頬が赤く腫れ上がって手の跡が付いていることに気がつきました。ハヌマーンはショックを受けました。その悲しみは深すぎて言葉にならないほどでした。ラーマはハヌマーンに言いました。

「ハヌマーン! この一撃を食らわせた者の名を私に聞いてはいけない。私は常に、私のバクタ(帰依者)の災難の瞬間を予知し、間に合うようにバクタを救いに仲介に入るのだ。おまえがここに来る途中、村の外れに座って私の名前を繰り返し唱えていたあの気の毒な商人は、怒りに満ちたおまえの拳の猛撃に抵抗できただろうか? 男はその場で倒れてしまったに違いない。それゆえ、私はその一撃を遮って、自分の頬で拳を受けたのだよ、私の愛しいハヌマーン」

帰依者の守護(バクタ ラクシャナ)は、主の主要な仕事の一つです。

ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム
〔この世とあの世の幸福(安寧と安全)の面倒を見よう〕

〔ギーター9章22節の一部〕

というのは、は口先だけの保証ではありません。それは主の誓いであり、主はサティヤ スワルーパ、まさに真実の体現なのです。

ゴーピーの至上の愛を思いなさい

今日は、クリシュナのムラリー(横笛)と、それが人間、動物、鳥、植物、さらには、丘や川、岩や砂丘を脈打たせたメロディーを瞑想しなければならない日です。このジャンマ アシュタミー(新月から8日目の生誕の日)に現れたナラーカーラ(人間の姿をとった神)〔クリシュナ〕は、永遠に清らかで、渇きを癒し、罪を洗い落とすことのできるガンジス河の水、すなわち、ギーターガンゴーダカムという神聖な万能薬を授けました。

ゴーピー〔牧女〕たちの至上のプレーマ(愛)を思いなさい。大きなものも小さなものも、エゴとエゴに満ちた執着も、すべてを至高のプルシャ、すなわちプルショーッタマの、至高の実在の、御足に委ねなさい。ゴーピーたちは、祈りの言葉以外、何も語りませんでした。ゴーピーたちは、神に向かって進む以外、一歩も動きませんでした。ゴーピーたちは、クリシュナだけを見、クリシュナのことだけを聞き、誰がそばにいようとも、クリシュナのことだけを、クリシュナだけに話しました。クリシュナは、ゴーピーたちのハートを満たしました。クリシュナは、ゴーピーたちを、これまで世界が目にした中で最もエゴのない帰依者の一団へと変えました。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 Ch22