サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年11月23日
バガヴァン ババの41歳御降誕祭の御講話より

プラナヴァは命

内紛と憎悪が世界中に広まっているという現在の状況において、プラシャーンティ、すなわち、乱されることのない内なる平安は、きわめて望まれるものです。人が病気に苦しんでいる時は、それが頭痛であれ胃痛であれ、医者はその原因を調べます。そうして初めて、医者は適切な治療薬を処方することができます。医者は患者に塩や軟膏を持たせて帰すわけにはいきません。もしそんなことをしたら、人々の信用を裏切ることになってしまうでしょう。

このサムサーラ、すなわち、時と場所と共に変化して移りゆく世俗の生活のプロセスに巻き込まれていること――それこそが現在の苦楽の真の原因です。それはサムサーラに伴う浮き沈みであり、それが苦楽を引き起こすのです。悲しみが減ることは喜びとして歓迎され、喜びが減ることは苦悶として嘆き悲しまれます。けれども、それらはサムサーラという同じ一枚の硬貨の表と裏にすぎません。

サムサーラには、いくらかのサーラ〔価値〕があるのみです。つまり、ほんのわずかな事実、顕微鏡でしか見えないくらいわずかな真実です。バガヴァッド ギーターの中にアスワッタという名前の木が出てきます。その名前の意味は、「次の日には存在しなくなるもの」というものです。この名称は、永続し、実際にあるものと勘違いされている幻の実体を明らかにしています。しかし、その木は巨木であるため、英知(グニャーナ)という斧、あるいは、ギーターが述べているように、英知の火(グニャーナ アグニ)でしか破壊することができません。

幻を破壊するのに不可欠な霊性の修練

意識の中に英知の火を生じさせるには霊性の修練が不可欠であり、それが唯一の方法です。そのステップは非常に難しいものです。というのも、そのステップはどれも、あなたが自分の意識の中に根付いているエゴという障害を克服すること、を要求するからです。そのステップとは、

(1) 一つひとつの行いを主なる神へ捧げること。それはつまり、行為の一つひとつが、真実で、正しく、徳高く、愛に満ちていなければならない、そして、真実と正義と徳と愛の源であり人の内なる動機である主への礼拝として行われなければならない、ということです。

(2) 霊性の修養が内輪の争いによって損われないようにすること。源、すなわち主なる神は、どんな名前でも付けられ、どんな姿でも描かれることができます。今、ヴィシュヌ派とシヴァ派は互いに相手の水と火を拒否しています。彼らは自分の宗派以外の宗派からそれらを借りようとはしないのです。二派は互いに剣を交え、真実という宝石を失ってしまいます。二派の支持者たちが王の謁見の間で殴りあいを始めた時、王はその一人ひとりに、自分が信仰している御姿をとった主なる神を見たことがあるかどうか尋ねました。誰一人として見たことはありませんでした。彼らは議論を説く本を読んだだけでした。信仰心は、卓越した錬金術によって鉛を金に変えます。サックバーイー〔常にヴィッタラ神のナーマスマラナをしていた信仰篤い女性〕は、自らの忠誠心によって石を神聖な実体へと変えました。偶像を理想の姿をとった神として顕現させたのです。あなたの信仰心を養いなさい。他人の信仰心を妨げてはいけません。いかなる御姿、いかなる御名をもって主なる神を礼拝しても、サイを礼拝することに変わりはないというのに、なぜサイが最高だと言って他人と論争するのですか?

(3) 霊性の修養の過程において、利口ぶるのと、学識を鼻にかけるのを避けること。言葉を巧みに操っても、それは無益な時間の浪費です。コウノトリは博学を鼻にかけ、自分は月よりも優れていると、得意になって論じました。「月が白いのは一つのパクシャの時だけだが、自分は両方のパクシャが白い(“パクシャ”には“二週間”と“翼”という二つの意味がある)。月は特定の時間だけニーラジャの敵となるが、私はどんな時でもニーラジャの敵だ(“ニーラジャ”には“蓮”という意味と“魚”という二つの意味があり、“蓮”が花びらを閉じるのは月が出てからだけだが、“魚”はいつでもコウノトリに捕まえられて呑み込まれてしまう)。」と。けれども、これらは単に言葉の語呂合わせにおいてはそうだというだけで、本質的な優越を保証するものではありません。

神の4つの性質を理解しなさい

(4) 至高の存在を認識するにはプレーマ〔神聖な愛〕があれば充分です。プレーマとは、憎悪がないこと、嫌いなものがないこと、偏見がないことです。さらに、プレーマには、共感や情というポジティブな徳という意味合いもあり、そのため、他人が悲しんでいる時にはあなたも悲しくなり、他人が幸せな時にはあなたも大喜びするのです。神は4つの性質があり、あなたがそれらを育んだとき、初めてあなたは神を理解することができます。その4つの性質とは、神聖な愛(プレーマ)、美(サウンダルヤ)、甘さ(マードゥルヤ)、光輝(ショーバ)です。神聖な愛(プレーマ)を深めることで、他の3つの性質は充分あなたに加えられます。あなたがすべての創造物の中に存在する神への愛で満たされている時、その状態は「美」です。あなたが普遍的な愛の海に浸っている時、あなたは「甘さ」の絶頂に到ります。あなたの心が自我を失って普遍的な心に融合する時、そこには言語に絶する素晴らしさ〔光輝〕があるでしょう。

この修養を修めるにはあまりにも軟弱すぎる人や、意志の弱い人は、仮病を使って怠けて、あらゆる類の苦しい言い訳をします。ある農夫が獰猛な犬を飼っていました。その犬が、歯を剥き出しにして訪問客に飛びかかってきて、その男は噛み付かれそうになりました。その男はすんでのところで地面にトゲの付いた木の枝の棒が落ちているのを見つけ、それで犬の頭を打ちました。犬は苦痛にうめきながら後ずさりしました。家の主人がそれを聞きつけて、訪問客が犬の頭に傷を負わせたといってカンカンになって怒りました。主人は客を王宮の法廷に引っ張って行きました。

「農夫であるその主人によれば、その犬は無害なペットだということだが、その犬をなぜ打ったのか?」と王は訪問客に尋ねました。訪問客は、「犬が自分に飛びかかってきて歯を剥き出しにしたのです」と言いました。農夫は、「それは訪問客がトゲの付いた木の枝を使ったことを正当化するものではない。トゲの付いていない枝を使うこともできたはずだ」と言いました。訪問客は、「命が危ないという切羽詰った状況で身を守ろうとした時、どれを手に取ったらいいだろうかと選別する余裕などない」と述べました。逆に、客はこう言い返しました。「犬はしっぽで私を脅かすこともできたはずです。しかし、歯で私に噛み付こうとしたとき、私はその歯と同じくらい鋭利な物で立ち向かうほかありません」

王はその点を評価して、訪問客は無罪放免となりました。農夫はその犬が自分のペットだったことから、あらゆる策を講じて反論し、訪問客はそれに対して反論しなければなりませんでした。物事を公正に取り扱っていたら、いざこざも避けることができたでしょう。

オームは不変で永遠なる神の象徴

霊性の分野では、何をするにも、向上を目的としてその行為を行う意義を熟知した上で、霊性修行としてその行為をすべきです。多くの人たちは、オーム、すなわちプラナヴァ〔原初の音〕が、A、U、Mという3つの音が一緒になったものであることを知りません。「GOD」と書く時、あなたはそれを「ジーオーディー」とは発音せず、「ゴッド」と発音します。それと同じように、「AUM」は「オーム」と発音します。オームは、最終的にMの音が徐々に小さくなって静寂へと帰結します。それは、感じること、経験することのできる静寂です。プラナヴァは、子どもがアルファベットを教わる時に、最初の音として教わるものでした。私たちは、文字をアクシャラ、すなわち、変わらないもの、と呼んでいます。オームは、変わることなく、永遠で、普遍なる、至高の神の象徴です。だからこそ、インドで子どもたちに最初に教える文字はオームだったのです。今、オームはABCに取って代わられてしまいました。

オームは、大空の星の動きの音です。オームは、創造せんとする意志の夜明けがニラーカーラ(属性のないもの)をかき混ぜて行為へと導いた音です。事実、かすかに均衡が妨げられるたびに、わずかではあれ、音が生じます。まばたきをして目のまぶたが重なる時、かすかですが、音がします。誰の耳にも聞こえないような、ごくわずかな、かすかな音があるのです。ですから、元素が生じ、創造が始まった時、オームという音が生じたということも理解できるでしょう。その音は、原初の音、原始の音です。あなたが二元の世界で二元性を克服しようとしている時、ソーハム ジャパ〔私は神であるという意味の「ソーハム」という文言を繰り返し唱えること〕をすることによって、あなたは「神」は「あなた自身」であることを認識します。すると、「私」という意識と「神」という意識は消え去り、あなたはオームだけを繰り返すようになります。つまりそれは、ソーハム〔私は神である〕からソー(神/サハ)とアハム(私)を引くということです。

啓示と導きを求めて神に祈りなさい

それこそが、あなた方が必要とし、要求し、切望する経験です。けれども、あなた方の行いと振る舞い、日課と道は、あなた方が誠実ではないことを示しています。あなた方は、自分はバンガロールへ行くと言って、反対方向のグンタカル行きの列車に乗っています。その列車が正しい列車かどうか、はっきりと確かめてから列車に乗りなさい。自分は道を知っていると言う食わせ者や変わり者、詐欺師がいるかもしれません。しかし、最高の道は、内なる神に啓示と導きを求めて祈ることです。そうすれば、間違いなく導きを得られるでしょう。

何年も森で苦行を重ねる行者の目の前に神が現れる時、神はまるでその行者が何を目的に苦行をしてきたのかを知らないかのように、「何が欲しいか言いなさい」と問う、という話をあなた方も読んだことがあるでしょう。特に、神がその苦行を評価していて、その報いを与えるためにやって来た時には、なおさらです。それでもなお、神は理由を尋ねるのです。なぜなら、舌は心の代弁者であり、行者の意識は自分の一番の願いに集中していたとしても、まさに最後の瞬間に、心に潜んでいた何か別のものを欲しいと言うかもしれないからです。

ドゥルヴァは、神を自分の目の前に連れて来ようと、森に苦行に入りました。そうすることで、自分と自分の母親に、王妃と王妃の息子と同等の地位を授けてもらおうとしたのです。しかし、ドゥルヴァは、それは全能の神に願うにはあまりにも価値のない願いだということに気づき、生死から解放されること、そして、永遠に主なる神と共にあることを求めました。他の人々は判断を誤り、非常に重要な瞬間に、自分が一番望んでいたことからかけ離れたことを求めるという危険を冒しました。

無駄口や取りとめのないおしゃべりを避けるため、ヴァーク、すなわち声を、厳格に訓練しなければなりません。舌を常に監督し続けなさい。話したくなったこと全部を口に出すのはいけません。そのような気持ちは最小限に抑えなさい。沈黙がバッテリーを充電し、あなたはもっと長い時間、瞑想をすることができるようになるでしょう。プレーマ(神聖な愛)で満たされていなさい。そうすれば、あなたの言葉はプレーマを広めていくでしょう。苦しんでいる人たちにとって、それらはよい香りのする軟膏のように、甘くなめらかなものとなるでしょう。

オームはすべての世界のすべての音の根源

プレーマ(神聖な愛)を育む最も効果的な方法は、ナーマスマラナ(神の御姿を憶念しつつ御名を繰り返し唱えること)の実践です。あるいは、さらによいのは、あなたの時間をオームの復誦(プラナヴァ ウパーサナ)で満たすことです。オームは創造の始まりです。オームは源であり、維持するものであり、力です。オームは、すべての存在のプラーナ(命)です。ハーモニウム〔インドの鍵盤楽器〕のリードを通して押し出される空気が、七つの音(サプタ スワラ)、すなわちサ・リ・ガ・マ・パ・ダ・ニ(七音音階)を生じさせるのと同じように、オームひとつが、すべての世界のすべての音の根源なのです。その重要性を知り、オームの復誦を実践しなさい。

最期の一息をプラナヴァ(オーム)で満たして死んでいく者は必ずや解脱を得ると、主なる神はバガヴァッドギーターの中で断言しています。もちろん、ただ思い出すだけでは役に立ちません。一つの願望から別の願望へと心が動き回るなら、オームの音も助けにはならないでしょう。また、迫り来るこの世との別れを嘆き、来世を恐れてぶるぶると震えていたら、オームの音がどうやって助けとなれましょう? 旅立ちの瞬間に心の前にオームが立ちはだかるには、生涯を通じてオームの栄光を感知する必要があります。

女性もオームの復誦を実践できる

女性がプラナヴァ(オーム)を復誦する権利を否定する人たちがいます。これは全くの偏見です。そんなことはシャーストラに定められていません。ジャナカ王の宮廷で、偉大な学者であり論争者であるとして、女性がブラフマヴィッディヤーの教えを受ける権利を与えられた時(聖賢ヤーグニャヴァルキャが妻のマイトレーイーに教えた)、ガールギー〔優れた哲人であった女性〕は、女性からプラナヴァをから遠ざけることなど誰にもできないことを立証しました。プラナヴァはブラフマンです。

オーム イティ エーカアークシャラム ブラフマー
〔オーミッティエーカークシャラム ブランマー〕
一語のオームはブラフマンなり

シャーストラは、プラナヴァ(オーム)に象徴される一なるブラフマンは創造世界の多様性の中に元来備わっているものである、ということを知り、かつ、それを経験した人たちによって編まれたものです。彼らは、カーストや性別といったあらゆる分け隔てから脱し、男性、女性、動くものも動かないもの、一切の創造物の進歩と解脱を求めています。それほどの聖者たちが、どうしてこの偉大なグニャーナ〔英知〕とヨーガ〔神との合一の道〕の道具を用いることから女性を除外することなどできるしょう?

クリシュナも、「死の瞬間にプラナヴァ(オーム)を復誦する男性は誰であれ」等々とは言いません。クリシュナが用いる言葉は、「性別を問わず誰でも」というものです。クリシュナは、「権限を与えられているものは誰でも」であるとか、「値するものは誰でも」とは言いません。主なる神の明確な意図は、男性も女性も同じようにオームの復誦(プラナヴァ ウパーサナ)に従事するよう奨励することなのです。あなた方は、私が誰かにオームの復誦をやめさせるのを見ることはないでしょう。オームの復誦は霊的勝利への王道であり、すべての人が使う権利を与えられているものなのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C42