サティヤ サイババの御言葉

日付:1967年3月27日
場所:ジャームナガル
グジャラート州ジャームナガル市における御講話より

あなたに必要な支え

世界には三つのものがあり、人はそれらに対処しなければなりません。それは、パラマートマと、プラクリティと、ジーヴァートマ、すなわち、神と、自然と、人です。もちろん、神は、人に礼拝されねばならず、自然(プラクリティ)を通じて人に悟られなければなりません。自然とは、人に印象を与える多種多様なあらゆるもの、それら神の栄光や光輝の名前です。

自然はマーヤーとも呼ばれています。マーヤーは神の衣であり、それは神の美と威厳を隠しもすれば、明かしもします。人は自然を活用することを学ばなければいけませんが、それは自分の安楽のためや、自分が得る喜びの背後に存在する神をすっかり忘れるというがんじがらめの状態に陥るためではなく、世界を導く知性をもっと理解するためです。木はどうやって成長し、花はどうやって開くのでしょう? 歓喜というインスピレーションがなかったら、そして、神が内に宿っている知性というものが授けられていなかったら、人はどうやって星や宇宙について学ぶのですか? 祈りに満ちた謙虚な気持ちで自然に近づきなさい。そうすれば、あなたの末来は安全なものとなるでしょう。

ラーヴァナは、プラクリティ(自然)の象徴であるシーターを欲しがり、人目を盗んでシーターをさらいました。しかし、その利己心と貪欲が、ラーヴァナを地の底まで落としました。もしラーヴァナが、自然の背後に存在する神、すなわちラーマ、を欲しがっていたら、ラーヴァナは永遠の歓喜を得ることができたでしょう。

現代人のあらゆる苦しみの一切は、突き詰めると、この間違った価値観に行き着きます。一番目のものは一番目に来なければなりません。一番目はセルフ〔自分〕であり、ヘルプ〔人助け〕はその次です。昨今では、人々は霊性の道で他人を助けることから始めますが、自分自身は道を踏破していません。そのせいで、導く人も、導かれる人も、穴に落ちてしまうのです。まず、あなた自身に奉仕しなさい、つまり、あなたは誰なのか、あなたはどこに行くのか、あなたはどこから来たのか、なぜあなたは旅をしているのか、を理解しなさい。これらの答えを、諸経典、諸聖仙、そして、自分自身の明白な体験から見出した後、初めて人は大胆にも他人を導くことができるのです。

二元性はつねに悲哀と苦痛のもとである

さらに、人々は、嘘と真、つかの間のものと永遠のもの、間違っていることと正しいこと、弊害のある社会と有益な社会、を見分ける訓練を積んでいません。人々は古い慣習やマナー、古い聖句や祭祀の一切を、単にそれらは古いからという理由で、役に立たないものとして退け、単にそれらは新しいからという理由で、新しい慣習やファッションを取り入れています。時間は良い試験装置です。批判、外国文化という多くの打撃、おかしな考えに耐え、何十世紀も存続してきたもの――これらは真理と正当性の真髄である核に違いありません。

心(マインド)には、一時の気まぐれに引っぱられる癖があります。だからこそ、ギーターは、各章にヨーガというタイトルが付けられ、ヴィシャーダヨーガで始まり、モークシャサンニャーサヨーガで終わっているのです。ヨーガという言葉は、「チッタ ヴリッティ ニローダハ」すなわち「心の揺れを克服すること」の重要性を強調するために用いられるものです。「マーナサ サロ−ヴァラ」すなわち「心の湖」の水は、決して落ち着かず、めったに平らになることはありません。ほんの小さな大気の揺れが湖水の表面に影響を及ぼして一連のさざ波を生じさせ、それが治まるには長い時間がかかります。心もそれと同じように、外側の世界の物事と、それらが内側の諸感官に刻み込む印象によって、かき回されます。心は、物事にうんざりしたり、引きつけられたりします。それは平等観を妨げます。

二元性は、つねに悲哀と苦痛のもとです。悲哀とは一時的に歓喜がないことであり、歓喜とは一時的に悲哀が消えていることです。霊的な方法によって歓喜を勝ち得ないかぎり、どちらも永遠に続くものではありません。

ギーターが人類に与えている保証

どうすればそのヨーガの段階に到ることができるのでしょうか? ギ−ターはまさにそのことを教えることを意図しています。ギーターに最初に出てくる言葉は「ダルマ」で、最後の言葉は「ママ」(私のもの)です。ギーターはギーターを学ぶ者すべてに、「ママ ダルマ」、すなわち、「自分のダルマ」、「自分の義務」、「自分に対する自分の責任」を教えています。

では、それは何なのでしょうか? ヨーガです。どうすればヨーガ〔神との合一〕に到達できるのでしょうか? それは、神に全託すること、すべての言葉と思考と行いを神に捧げること、自分の意志をなくして神の意志を受け入れること、物事を行う意図をすべて神の促しに委ねること、すべての実行を神の指示に委ねること、そして、その結果の一切を神の計画に委ねること、によってです。

「?正しい″と?間違っている″をすべて手放して、そなたの意志を私に全託しなさい。そうすれば、私はそなたを転落から救おう。私はそなたを悲嘆から守ろう」――これはギーターが与えている保証であり、それはあなたが必要とする支えです。

全託は、五感の快楽への執着を完全になくした後にのみ、達成できるものであり、それには真と非真を識別することが伴います。「私」と「私のもの」という汚れを、厳格な霊性修行によって取り除かなければいけません。修行の最たるものは、ナーマスマラナ〔唱名〕です。なぜなら、あなたが主の御名に没頭する時、神の威厳、神の恩寵、神の力、神の遍在があなたの意識に定着し、あなた自身の能力や手腕は神に覆い隠されてしまうからです。すると、謙虚さが増し、全託は極めて容易になります。これこそが人として存在する目的、すなわち、神を見て、神の栄光に帰融することす。これ以外の勝利は取るに足りないものです。ヴェーダは、これを人の最終目的とすべしと宣言しています。ウパニシャッドは、その道を明言しています。ギーターは、それに光を当てています。聖人賢者たちは、その偉大さを賛美しています。アヴァターたちは、人々が道に迷い、荒野とゴミの中で途方に暮れている時に、降臨します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 C12