サティヤ サイババの御言葉

日付:1968年7月7日
場所:東アフリカのウガンダ共和国の首都カンパラ
アフリカでの御講話?より

賢者の道

神はすべての愛の源です。神を愛しなさい。世界を神の衣服として愛しなさい。それ以上でもそれ以下でもなく。あなたは愛によって愛の大洋に溶け込むことができます。愛は、心の狭さ、憎しみ、悲しみを治します。愛は束縛を解き放ちます。愛は生死の苦痛から人を救います。愛は柔らかな絹のような交響曲で、すべてのハートを繋ぎます。愛の目で見れば、すべての存在が美しく、すべての行いが献身で、すべての思考が純真無垢です。世界は一つの大きな家族です。

人は社会に生まれます。人は社会で育ちます。社会の微妙な影響力によって、人は良くも悪くもなります。順繰りに、人は社会の一員として自分にかかわる人々に影響を与えるようになります。人は、社会の基準、流行、行動様式によって、自分の生活をひっくり返され、ねじられますが、どの社会に生まれるかは自分が積んだカルマの結果です。肉体と国は解きようのないほど絡み合っています。人の魂にとって、肉体は一つの入れ物であり、国はもう一つの入れ物です。自分を向上させるために社会を活用しなさい。社会が個人の向上を助け、人々を神から離れさせないようにすることができるよう、社会を作り上げる取り組みをしなさい。

内なる平安を獲得する技術を身につけなさい

すべての人が、安全、平安、喜び、幸せを切望します。そして、それらは外の世界から得ることができると、ほとんどの人が信じています。その結果、人は、食べて飲んで、遊んで休んで、稼いで消費することで、年月を無駄に過ごしています。人は、揺りかごから墓場までの旅を嫌になるほど繰り返し、何年経っても、自分はどこでその旅を始めたのかも、自分の一歩一歩はいったいどこへ続いているのかも知らずに、流されています。下等な種の一員として何回も生まれ変わって努力した結果、人は頭とハートの比類のない特質を勝ち得ました。その勝利が今、無精な怠惰によって灰と化しています。

あなた方は、悲喜と損得の波を横切って泳ぐ技術を持たなくてはなりません。肉体と感覚器官と心に何が起ころうとも、ずっと穏やかで、動揺せず、安らぎに満ちている技術を習得しなければなりません。内なる私である理性や自覚に促されなければ、それらはどれも自ら動くことはありません。内なる平安を獲得して維持する技術、内なる実体としてのアートマを意識し続けるための技術を、学びなさい。そうすれば、あなたの注意と同じくらい速く、安全に世の中を旋回することができます。

人は病気です。ところが人は、それを治すことのできない治療法に頼っています。自分を診察し、病気の根本原因を発見し、適切な治療を施すこと――これが賢者の道です。にせ医者や、まやかしの万能薬を追い求めてはなりません。あなたのハートという土を耕し、雑草を抜いてから、愛(プレーマ)という種を蒔きなさい。その種に信仰心(シラッダー)という水を与えて育て、不屈の精神(サハナ)という花を咲かせなさい。そうすれば、後に平安(シャーンティ)という果実が確実に手に入ります。これが任務です。これが責務です。このことを誓わなければなりません。

礼拝の形式、崇拝の言葉や呼びかけ方は、さまざまかもしれません。しかし、すべての宗教は同じ成就を目指しています。体内のあらゆる部位には同じ血液が巡っています。同じ神の流れが全宇宙に活力を与えています。至高の建築家、理解を超えた設計者、目には見えない生命の授与者を、思い描きなさい。これは、神は父であり人類は兄弟である、ということを実感認識することであると言われています。生活に翻弄されてはなりません。生き残るため、成功するためにもがく中で、生きることを可能にしてくれた神を忘れてはなりません。

人生はざっと目を通すだけの価値しかない

人生は新聞です。ざっと目を通して、あなたの嗜好を捕らえるコラムや見出しを読み、傍らに投げ置きなさい。それ以上の価値を置いてはなりません。明日になれば、新聞は紙屑になります。それと同じく、人生はざっと目を通すだけの価値しかありません。再び目を通すために置いておいてはなりません。一度生まれれば十分です。あなたにとって最後の死が来るようにさせなさい。

あなたが個々人に注意を向けるなら、相違点を押し付けられます。注意を総体(サマシティ)に固定しなさい。そうすれば、正体がより明らかになります。ヒンドゥー教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒といった、外側のラベルに注意を向ければ、驕りや軽蔑や憎しみが増すでしょう。そうではなく、人間は肉体の段階から神の段階へと到達するために自らを向上させる過程にある、ということに注意を向けるなら、すべてのラベルは些細なものだとわかります。その時、それは、愛、協力、励まし合い、称え合いだけになります。

宗教の象徴や儀式や行事の内的な意味、より深い意義を探りなさい。外面的な姿形や形式というものは、場所や時間や個人の必要に応じたものです。あなた方の中には、特定の甘いデザートを他のデザートよりも好む人たちもいますが、他の人たちはそれが一番美味しいということには同意しません。けれども、どのデザートも砂糖という同じ材料で甘味が付けられています。それと同じように、すべてのもの、すべての生き物は、同じ原理である神によって甘味を付けられているのです。

至高の喜びをあなたの永遠の財産としなさい

あら探しや批評をして、「神がいるというのなら、どこにいるのか?」、「神はどんな姿をしているのか?」といったような質問をしてくる人たちは、霊性の探求におけるアルファベットの最初の文字さえわかっていません。全部のアルファベットを習得して、初めて単語を読むことができます。それから、文、段落、本全体へと進んでいくのです。もしあなたがI(私)という文字を知らなければ、どうやって、あらゆるI(私)のI(私)、つまり、それぞれのI(私)にI(私)というものを味わわせている存在、を知ることができますか? 無知の霧は、あらゆるI(私)の背後にあるそのI(私)を隠して、あなたに見えないようにします。その霧は、ヒンドゥー哲学ではマーヤーと呼ばれています。マーヤーは、魔女で踊り子の狡猾な女性、踊りであなたの知性を狂わせるナルタキーに喩えられます。ナルタキーは、キールタナ(神の恩寵を信じきって神の栄光を歌うこと)によって動けなくすることができます。「キールタナ」は「ナルタキー」の文字の順番を入れ換えたものにほかならない、ということに注目しなさい。英知とは無知に打ち勝つことです。キールタナは、視野を明瞭に保ち、荘厳で至高なる存在に向かわせます。

あなた方は皆、神の愛の入った宝箱です。愛を分け与え、愛を広げなさい。奉仕の行為、思いやりの言葉、同情の思いによって、愛を表現しなさい。あなたが眠りから覚めた時、一連の出来事は夢の中では何年にもわたるものであったけれども、その夢は数分の出来事でしかなかったことがわかります。それと同じように、あなたが短い「人生という夢」を見た後で英知に目覚めた時、人生は束の間の出来事であったということがはっきりとわかるでしょう。

いつも喜びに満ちていなさい。そうすれば、死が訪れた時、悲しんで泣き言を言いながらではなく、軽く笑って人生という舞台をはけることができるでしょう。私は、あなた方がその至高の喜びを自分の永続的な所有物にできるような生活と活動を作り上げることができるよう、祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C23