サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年10月14日
ダシャラー祭の御講話より

栄光のしるしと表れ

人は苦楽と悲喜の上に敷かれた道を旅しなければなりません。その旅がスムーズにできるのは、その骨の折れる旅の道具として、英知と信愛と無執着を用いる場合だけです。これらは、経典に書かれているように、あるいは、あなたの身の回りで個人的に語られているように、もしあなたが先人たちの経験に耳を傾けさえすれば、大抵の場合、手に入れることができます。また、もしあなたがしばらく静座して、人生というキャラバンのさまざまな出来事が流れていくさま、通りすぎていくさまを眺めさえすれば、それらに精通することもできるでしょう。

道端の糞尿の上を子供が平気で転げ回るのは、子供はその汚さや嫌悪感を知らないからです。しかし、子供が成長して経験と知恵を積むにつれ、汚物の上を這い回るのは恥ずかしくて危険なことだということを学びます。それと同じように、大人も無知なうちは五感の求める馬鹿げた物事にふけりますが、その時は、よく知らなかったからという言い訳もたつでしょう。けれども、もしその後も、経験から学んで自分の知性や識別力を低下させるような不快な習慣や追求から遠ざかることをしないなら、嘲笑の的となってしまうでしょう。そのような人は、本人にとっても他人にとっても危険人物です。

名詞が多くの形容詞を集めて自らに付加するように、純朴な人は、多くの属性を付加されて自分の純粋さを汚されてしまいます。医者が病気の性質を究明することはできず、医者が診断できるのは三種の体液であるヴァータ(風)とピッタ(胆汁)とカパ(粘液)の均衡だけです。グナ(三属性)を識別して、それらが個人の性格や行動に及ぼす影響を見分けることができるのは、神という医者、すなわち、個人の内なる鞘であるヴィグニャーナマヤ コーシャ(英知鞘)とアーナンダマヤ コーシャ(至福鞘)の専門家だけです。

功徳とは他人に善いことをすること

霊的な分野で向上して、それによって心の安らぎを得たいという熱意が近年高まっていますが、これはアヴァター(神の化身)が注いでいる恩寵のもう一つの証拠です。この国のリシ(聖仙)たちが採用した、プレーマ(愛)やヨーガ(神との合一のための行)やダルマやサティヤ(真理)を通じてシャーンティ(平安)を得る方法に、インドのみならず世界中で大きな関心が寄せられています。10年前、15年前は、宗教的なテーマの講演会への参加者は非常に少なく、一握りの老人だけでした! しかし、今では、何千という大勢の人々が遠方からやって来て、期待に胸を膨らませながら熱心に長い時間、講演会に座っています! そして、その大部分が若者です! 若者たちは、過去の遺産を分かち合って自分たちのためにより良い未来を築くことを望んでいるのです。

ヒンドゥーという単語には、「ヒン」(ヒンサーすなわち傷害や暴力)+「ドゥー」(ドゥーラすなわち遠ざかる)で、暴力の道から遠ざかる人、他人を傷つけることから遠ざかる人という意味があります。シャーストラ〔諸経典〕は、インドで大変崇拝されている18のプラーナの本質はどれも、功徳とは他人に善を行うことであり、罪とは他人に悪を行うことであると明言しています。この道に定まるなら、あなたはすべての信仰と宗教を親類縁者として歓迎するようになるでしょう。すべての信仰はこの道に沿って人を教育しようと努めています。イスラム教徒もキリスト教徒も、仏教徒もユダヤ教徒もパールシー教徒〔ゾロアスター教徒〕も、皆、善行によって心を清めることで同じ光源を得ることを切望しています。これらの種はすべて、ヴェーダーンタのサナータナ ダルマ〔古来永遠の法〕の中に存在します。

インドの議会には、サミュクタ社会党やプラジャ社会党、さらには共産党まで、多くの分派が存在しますが、それと同じように、他のさまざまな信仰も、インドのサナータナ ダルマの右寄り、左寄り、中央寄りであるにすぎません。そのダルマは、神へのあらゆる可能なアプローチを検討し、志願者が自分の身につけた知識や達成度に応じて活用することができるよう、それらを順に配置しています。木の種が芽を出すと、初め、芽には双葉と茎が付きます。けれども、その後、成長すると、一つの幹と多数の枝になります! どの枝も幹と呼んでもいいくらい太いかもしれませんが、根が養分を樹液として送っている先は一本の幹であるということを忘れてはなりません。神が、同一の神が、真理、美徳、謙虚さ、犠牲といった共通の栄養を通して、あらゆる国、あらゆる信仰の霊的飢えを満たしているのです。

ヴェーダのダルマはすべての宗教の祖父である

5月に私がダルマクシェートラの創立記念日でボンベイにいた時、K・M・ムンシ博士のところで知識人の集まりがあり、副学長、医師、弁護人、教授といった多くの人たちがそこで私に会いたがりました。その会合は質疑応答の場となり、それは6時間ほどにも及びました!

そのうちの一つの質問は、「信仰の違いが、人を多様な道、分かれ道へと引きずり込む」ということについてのものでした! 私は彼らにこう言いました。ヴェーダがいつ現在の形にまとめられたのか、誰も正確には知りません。バール ガンガーダル ティラクはそれを約13,000年前と推測し、他の人は6,000年前としていますが、誰もが同意しているのは、それは4,000年以上前であるということです! ブッダは約2,500年前に生きていた歴史上の人物です。キリストが生まれたのは今から1969年前であり、イスラム教ができたのはその600年後です。ですから、年代的にも論理的にも、ヴェーダのダルマが祖父であり、仏教が息子、キリスト教が孫、イスラム教が曾孫である、という推論は正しいのです。これらの間で誤解があったとしても、それは一家族の問題であるにすぎません。万人が共有している先祖代々の財産は同じものです。

もう一つの質問は、原子爆弾についてで、「インドは原子爆弾の獲得に努めるべきか否か」というものでした。私は、原爆を作っていないことは恥ではない。原爆を作っていないことは誇りである、と答えました。安心感を得るために原爆を持つ必要はありません。パーンダヴァ五兄弟を率いていたのは長男でした。彼は、ダルマラージャ〔ダルマの王〕という、まさしく正義の支持者にふさわしい名で呼ばれていました。弟のビーマは当代最強の戦士で、よく鎚矛(つちほこ)を振り回していました。ビーマが鎚矛を地面に叩きつけると大地が揺らぐほどでした。ビーマは巨漢のキーチャカ〔ヴィラータ王の義弟〕と格闘し、見事に倒しました。ビーマは、知力、体力ともに群を抜いていました。もう一人の弟であるアルジュナ〔五兄弟のうちダルマラージャとビーマとアルジュナの三人はクンティー妃の息子で他の二人はマードリー妃の息子〕は、当代の弓の名手で、最も強力な矢で武装していました。それらの矢は神々がアルジュナの勇気と信心を高く評価して授けたものでした。この二人の弟は、長兄ダルマラージャの手足であるかのように、兄の敷いたダルマの道から決してそれることはありませんでした。

「奉仕」をこの国のスローガンとしなさい

私はその会合で、インドがダルマの道を歩むかぎり、現代のビーマであるロシアや現代のアルジュナであるアメリカはこの国を尊敬し、心の平安と安全を確保する手段を学ぶだろうと話しました。なぜなら、二者の現在の力とプライドは内在する恐怖の表れであり、命を蝕む、まだ癒えていない苦痛だからです。だからこそ、パーンダヴァ兄弟は、襲ってくるあらゆる苦難を乗り越えるために、主クリシュナの祝福を得たのです。パーンダヴァ兄弟は、敵であるカウラヴァ兄弟がガンダルヴァ〔空中や水中の住むとされる男の半神〕の一族に誘拐されたことがわかると、急いで彼らを救出するほどの正義感を持っていました! というのも、ガンダルヴァの手からカウラヴァ兄弟を解放するには他に方法がないということを知っていたからです! これは、あなた方が果たすべき役割でもあります。「奉仕」——これをこの国のスローガンとしなさい。それは、奉仕してくれる人が大勢いる人や自助努力ができる人のためのものではなく、看護してくれる人や栄養補給をしてくれる人、あるいは、入院先の病院で笑顔や花で見舞ってくれる人、家に手紙を書いてくれる人のいない、病人のための奉仕です。

与えること、分かち合うことで、喜びは倍になる

ある日、聖賢たちが何人か集まって、女性の行動規範について議論していました。そこには女性もいて、主婦の務めを知りたがっていました。女性たちは、自分たちが至福に満たされるのは与える時であり、受け取って保有する時ではありませんと言いました! 母親にとって最も幸せな瞬間は、目に入れても痛くないわが子に母乳を与え、自らの活力をわが子に吸わせている時です、と。また、別の女性は、自分がこしらえた料理を自分で食べる時よりも、夫や子供や客人に振る舞った時のほうが喜びを感じます、と言いました。喜びは与えることにあるのであって、受け取ることにあるのではありません。どんなに豪勢な食事でも一人では楽しめません! 分かち合うことで喜びは倍になるのです、と。

私が皆さんに伝えたいのは、あなたが奉仕から得る至福は、奉仕以外の活動からは決して得ることのできないものである、ということです。優しい言葉、小さな贈り物、適切な身ぶり手ぶり、同情のため息、思いやりのしるしが、苦しみ悩む心にもたらす感動は、言葉では言い表せないほどのものです。

ヴェーダは、すべての人は親族である、すべての人は神である、ということを人に教えています。神は愛であるということを、ヴェーダは強調しています。この貴重な伝承を保持して広め、この世を圧倒している憎しみと暴力の波から世界を救うために、全インド プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー(偉大な学者の集まり)は結成された〔設立は1963年〕のです。この会は、この国の古来の寺院への敬意を植え付けます。霊的な波動は寺院から共同体すべてに広がっていきます。寺院は、芸術の博物館であり、詩の振興会、ヴェーダの学問の学校、カーストを統合するもの、そして、道徳的な向上の手段でした。プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバーは、そうした活動を促進し、宗教の普遍的価値を育むという理想を有する他の関連団体を奨励するよう努めています。

今、人は平安という恩恵を自ら拒んでいる

西洋諸国の言う平和(平安/シャーンティ)とは、戦争と戦争の合間に敗北の屈辱を晴らし、戦利品を整理し、次の戦争に備えるために精力的な努力をすることを意味します! それは平和ではありません! 人が善いことを考え、善いことを話し、善いことをすれば平和は確実ですが、人は今、悪いことを考え、悪をしようとしているにもかかわらず、口では善いことを話しています! 人は、自分の核である不死の原理や、人間社会の生命線である愛の原理を無視し、平和という恩恵を自ら拒んで、破壊に向かって突進しています。他人を滅ぼすことで自分を滅ぼしています。

人が平安でいられるのは、神の美しさ、荘厳さ、遍在を黙想している時だけです。皆さんは、ここでぎゅうぎゅう詰めになって私の前に座っている時間、きっとそれらのこと以外考えていなかったはずです。神の栄光と、あなたがその栄光のしるしであり現れであることを回想することによって、あなたのハートをプラシャーンティ ニラヤム(至高の平安の館)にしなさい。大臣は、このニラヤム〔ババのアシュラム〕のために何かしたいと言いました。大臣は、自ら省内の同僚に働きかけてこの場所への道路がすぐに改善されるようにしますと言いました。体は、砕石やタールで舗装した道の快適さを切に求めますが、ハートは、神への帰融というゴールに到達することができるよう、清らかさと謙虚さの道を好みます。私はこの道のほうに興味があります。私にはタールで道を舗装することへの熱意はありません。なぜなら、それはこの場所への旅を今より容易にするものであり、そうなれば、今ここに来る人々に課されている、ゆっくりと慎重に運転するという小さな規律さえも消えてしまうでしょうから。

ここに来る間に多少の困難に耐えることを学びなさい。人生は平坦な道ばかりではありません。人生は山あり谷ありの連続です。バーラタ〔インドの正式名で神を愛するものの意〕は、何世紀にもわたって、スムーズな旅をするこつを教え、実践してきました。そのこつを身につけて、平安でいなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C22