サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年11月22日
場所:プラシャーンティ・ニラヤム
第3回サティヤ・サイ・オーガニゼーション全インド大会 連続講話?より

決定事項を行うこと

インドゥラル・シャーは、様々な小委員会で採択された決議を発表し、オーガニゼーションとしての現行の規則への追加と修正を提案しました。これらの規則すべてに流れている主要な目的は、皆さんも知っているように、サットサンガ〔敬虔な仲間との交流〕を確立することです。サットサンガは、真我顕現、すなわち、アートマ サークシャートカーラを助けます。サットサンガは、この動揺する世界の中の至るところで、皆さんが生まれながらに持っている権利である平安を取り戻し、その平安をハートの啓蒙(けいもう)のために役立たせます。サットサンガは、真のあなたであるアートマの輝きを明らかにするでしょう。

アルジュナは、行為者は自分であり、行為の結果を味わう者であると信じていたときは、不幸でした。しかし、クリシュナ神がアルジュナに、アルジュナは道具であり、アルジュナの義務はただ神の意志に全託することだけであり、アルジュナが殺そうとしている者たちは既に神によって殺されているのだということを教え、証明した時、アルジュナは悲しみから解放され、言葉にできない平安に満たされました。

これは、あらゆる宗教に共通する教えであり、それぞれの気候風土や、地理や、人口に基づいて各宗教が定めた形式的儀礼や儀式に養分を与える地下の水源のごとく流れている、一つの教えです。宗教は互いに異なるかもしれませんが、それぞれの宗教が教えている基本的な教訓は、神の至高の意志に全託すること、立派に果たした行いの結果を神にゆだ委ねることです。その結果は神の意志であり、あなたの唯一の義務は自分をふさわしい道具に形作ることです。強情なエゴ〔アハンカーラ、自我意識〕を押さえつけるために、どの宗教でも、あらゆる道徳律の編纂者、人間道徳の教育者、そして改革者たちによって、戒律というものが定められてきました。しかし、最も古く、最も効果的で、最も成功を得て実践された方法は、インドのヴェーダやシャーストラ〔法典や論書〕に定められている一連の教示です。

「私」という概念の究明を進めよ

妻が口やかましければ、家庭には喜びも平安もあり得ません。あるいは、夫が大酒飲みで無慈悲な暴君であれば、家庭の雰囲気は憎しみと悲しみに包まれます。体もそれと同じことです。心(マインド)が口やかましく、知性が暴君であれば、体に平安はあり得ません。体という家の主(あるじ)は、めったに主人であることを認められず、気づかれもしないアートマです。アートマが主人として見出され、認められると、その家庭には喜びが乱されることなく保たれるようになります。

さて、発言と思考において、体、手足、感覚器官、心、そして、論理的に考える能力を有するものとして使われる「私」というものがあります。しかし、「私」という概念を究明する努力は何もなされておらず、その所在と特徴を突き止める熱意も見られません。これらは、いわゆる自己探求(アートマ ヴィチャーラ)と呼ばれるものです。すべてのユニットは、会員たちに自己探求(アートマ ヴィチャーラ)を深めるよう奨励しなければなりません。肖像の除幕式といった、倶楽部での活動に慣例の出し物に満足していてはなりません。アートマの探求は、ウパニシャッド、および、ウパニシャッドの教えの精髄である「バガヴァッドギーター」の学習によって促進されるでしょう。あるいは、神聖な愛(プレーマ)が培われるなら、それで十分です。神聖な愛(プレーマ)は自他の区別を知りません。なぜなら、一切は全能の神の一つの体の手足だからです。愛の化身は、愛によってのみ獲得できます。学識は必要ありません。実際、学識は障害になるでしょう。というのは、学識は自我意識(エゴイズム)を満足させ、疑い、論争を求める欲望、他人に打ち勝つ誉れを生み出すからです! 神聖な愛(プレーマ)が確立されれば、オーガニゼーションの会員たちは、誰も他の会員と競争したり、他の会員を見下したりしなくなるでしょう。その愛の絆は、全員を類まれな型の家族にして、結びつけます。この家族は、一つの神意と、一つの方向だけを知っています。個人的な恨みを晴らすために、並はずれた悪意が、心の弱い者たちに裁判所という手段に訴えるよう説き伏せるかもしれません。しかし、オーガニゼーションの会員は、ダルマの確立(ダルマスターナ)という、この名と姿〔サティヤ・サイ・ババ〕の手の届くところにあるものを重んじるユニットの運営において、決してそのようなことはしないでしょう。

役職という誘惑の餌食になってはならない

こうした大会に招かれるのは会長と副会長と事務長だけであることから、各ユニットが二つに分割されていることを私は知っています。そうすれば、自分は要人であると主張する人たちも参加することができるからです。この大会に他の人が参加するのを差し止めるために裁判所へ行った人は、このことを念頭に置いていたのです! その人は、自分がこれは極めてすばらしいと考える栄誉を他の人から奪いたがっていました。私はこれを、名声への貪欲が引き起こした心のゆがみによって生じたものであると見なしています。私がこのような愚かな管理方針に基づいて恩寵を制限することなどありません。たとえ役職に就いていない人でも、その人の信仰がひたむきで、その人の愛が揺るぎのないものであれば、恩寵を得る資格があります。サミティ〔組織〕やマンダリー〔サークル〕の役職や、権威ある地位という誘惑の餌食になってはなりません。役職には順番に交替で就きなさい。そうすれば、誰もが奉仕を率いる機会を手にすることができます。くじ引きで役員を選んでいるマンダリーやサミティもあります。そうしたところの会員たちは、役職が割り当てられた人は誰であれ、他の人たちと同じように善良であると感じています。

サミティ、サンガ、女性(マヒラー)サットサンガ、そして、オーガニゼーションのその他のユニットの公式年度の開始日は、今後、ウッタラーヤナ・プンニャカーラ、すなわち、マカラ・サンクラーンティの日としなさい。これは通常1月14日に当たります。年次報告書は、この日の直後に、地区の会長、州の会長、および、本部役員らに届くようにしなさい。新しく選任された委員たちがいれば、その人の氏名を添えなさい。

心に留めておくべきもう一点は、公共での会(パブリックミーティング)は、町においても市街地においても、サミティの後援の下でのみ計画できるということです。公共での会を計画するにあたっては、招待状の印刷と配布、講演者へのもてなし、経費の捻出、座席の用意、スピーカー等々に関して、サミティと熱心すぎる所属のユニットとの間での競争があってはなりません。サミティの各ユニットには、そのような会合のための供給源はないでしょうし、各ユニットが他のユニットに勝とうとすれば、友愛と協調の雰囲気は汚されてしまうでしょう。一つのユニットの中の会員同士の間にも、ユニットとユニットの間にも、いかなる派閥争いもあってはなりません。

ナガラサンキールタンのガイドライン

ナガラサンキールタンについてです。開始時間は早すぎても遅すぎてもいけません。地元の人たちが眠りから目覚め、夜が明けて新しい日を迎える仕度をしているときに、あらゆる御姿の御名を高らかに歌いながら、ゆっくりと街路を練り歩かなければなりません。特定の御名と御姿への忠誠心を示そうとして、写真や絵を抱えて歩いてはなりません。よく考えて配列したグループをいくつか作り、男女別々に進みなさい。バスやトラクター、自転車や荷車を使ってのナガラサンキールタンを計画してはなりません。ナーマーヴァリー〔一連の神の御名〕を歌うことを競い合って、妬みや憎しみを育ててはなりません。声が良く、音楽の才能のある者にリードさせなさい。キールタンは快いものでなければなりません。耳障りになるようではいけません。もしあなたの声が耳障りだったり、調子外れだったりするなら、美しい旋律を妨げるのはやめて、心の中でナーマーヴァリーを繰り返しなさい。それぞれの御名の意味がどれも聴く人にはっきりとわかるように歌いなさい。一つの行は二回以上繰り返さないようにして、一つの道程の間に、神の多くの御姿と御業を伴う、様々なナーマーヴァリーのための時間を確保しなさい。グループにとって長すぎる距離を歩くような計画を立ててはなりません。最初の一歩から最後の一歩まで、神聖な雰囲気を保ち続けなさい。

信愛は平安と喜びを授けなくてはならない

寺院かどこか、神聖な場所に集まって、プラナヴァ(オームの音)を繰り返し唱え、スップラバータム〔善い朝の意、早朝の祈りの歌〕を歌って、それからナガラサンキールタンへと移行しなさい。オームは、その広大な潜在力を黙想しながら、ゆっくりと繰り返し唱えます。喉からアカーラの音が出て、ウカーラが舌を回転させ、マカーラは唇の上で終わります。このようにAとUとMの合成であるオームは、人間の舌から生じる一切の言葉の根本です。オームは原初の基盤となる音であり、宇宙の絶対者の象徴です。「ム」の後は、耳には聞こえない共鳴があらねばなりません。その共鳴は、無属性で、無形で、抽象的な、ニラーカーラ パラブラフマン〔無相の至高神〕です。プラナヴァすなわちオームの上昇する声音は、「ム」で湾曲し、上昇した時と同じくらいゆっくりと下降し、上昇した時と同じくらい時間をかけながら静寂の中へと消えて行き、内なる意識の中でこだましなければなりません。

信愛は、平安と喜びをもたらさなくてはなりません。ですから、あなた方が会員となっているマンダリーやサットサンガを、自分の平安や、他人の平安をかき乱すために使ってはなりません。自分の目の前に置かねばならないものは、真我顕現(アートマ サークシャートカーラ)という一つの目標であることを覚えているなら、そして、霊性修行(サーダナ)に着手するなら、あなた方の中にそのような性向が現れることはありません。あなたの目的が世俗的なもので、あなたの理想が物質的な成功や、名声や、他者に権力を振るうことであれば、あなたは他の会員たちの間に不和と疑いを引き起こします。自分の態度と見方を変えなさい。自分の人生を価値のあるものにしなさい。ユニットを、すべての人のためにもっと役立つようなものへと変えなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C34