サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年10月4日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
全インド サティヤ サイ セヴァ ダル大会の御講話より

重要な年月

神々に供物を捧げる際、

トゥルヤムバカム ヤジャーマヘー
スガンディム プシティヴァルダナム
ウルヴァールカミヴァ バンダナーン

芳香を漂わせ、力と甘美さ、光と幸福をもたらす、
三つ目の神様、どうか怒りをお鎮めください

「ナマカム」に出てくる
「ムルッテュンジャヤ サハッスラナーマ ストートラム」一二三節の一部

というヴェーダのマントラが唱えられます。三つの目は神を構成するさまざまなものを示しています。例えば、熱と光を象徴する、太陽、月、火。唯一者の多様な具現を象徴する、粗大体、微細体、原因体。唯一なる至高の力が働く道筋を象徴する、意志、仕事、英知。多の中に存在する唯一者の影である「私」という意識を象徴する、行為者、行為、義務等々です。

心(マインド)は、欲望が織り成す模様にすぎず、計画と決断という縦糸と横糸とで成り立っています。心は無数の心象を作り出す計り知れない力を持っているため、想像力とも呼ばれます。想像力は真理を覆い隠します。想像力は知性を曇らせ、ものの見方を歪(ゆが)め、求道者が霊性の道をまっすぐに歩めないようにします。欲望はもともと何もなかったところに蜃気楼(しんきろう)を作り出します。欲望は美の存在しなかったところに美を現し出します。欲望は物事に魅力という衣をまとわせます。怒り、憎しみ、悪意、貪欲(どんよく)、妬み、派閥争い、嘘等々の生みの親である欲望の手の中から自由になるには、祈りとサット カルマ(善業、欲と私心のない行為)によって意識を浄化しなければなりません。セヴァ(奉仕)は、心を欲望へと引き寄せる邪悪な力を消し去るための最良の霊性修行(サーダナ)です。

自分は神を主人とする召し使いであるという態度を取りなさい

ラーマは、アーンジャネーヤ(風神の息子、ハヌマーンの別名)に、そなたと私はどのような関係にあるのかと問いました。すると、ハヌマーンはこう答えました。

「私が自分は肉体であると感じるとき、あなたさまと私は主人と召し使いの関係にあります。自分は個別の魂、ジーヴァートマであると感じるとき、あなたさまは鏡の前に立つ者であり、私はその鏡に写る姿です。自分は普遍なる真我であって、目に見える一切は空虚な幻覚であると認識するとき、私とあなたさまの関係は・・・、いや、私はあなたさまであり、あなたさまは私であるのです」

自分は肉体であり、その肉体に付けられた名前が自分の名前であり、他の人々にはあなたの姿として写るその姿が自分の姿であるという迷信を信じている間は、あなたは神を主人とする召し使い、あなた以外の全人類を主人とする召し使いの姿勢を取り、エゴ(自我)が求めるものを常に否定することによって、エゴを消滅させなければなりません。これこそが、人々が私から奉仕の基本的原理を学ぶことができるように、私が全インド サティヤ サイ セヴァ ダル大会を招集した理由です。

裕福な人が月三十ルピーの給料で奉公人を雇うとき、雇い人も奉公人も、いつも給料を念頭に置きながら、世話を受け、世話をします。両者の間には、本当の意味でのセーヴァク(奉仕をする人)とセーヴィヤ(奉仕を受ける人)のつながりはあり得ません。二人を結び付けているのは金銭のつながりです。一方、奉仕する側が何にも強制されておらず、それを受ける側も報酬を払う義務がない場合、それは本当のセヴァです。

人は誰もがトゥルヤムバカム(三つ目の神)でありアートマが内在していることを感じ取りなさい。人は誰もが三界に遍在し、三つの属性(浄性、激性、鈍性)を超越する神の現れであるとして、報酬を考えずに自分にできる限りの奉仕をしなさい。それが真のセヴァです。これはカルマ ヨーガ(行為の道)の秘訣(ひけつ)であって、「バガヴァッド ギーター」にも定義されており、今、ナクル セーンがそれをあなた方にとても明瞭に解説しました。

セヴァ ダル プログラムの一環として、今、病棟への親善訪問、刑務所や少年院や少年鑑別所でのバジャン、バス ターミナルや鉄道の駅で途方に暮れている訪問者に手を差し伸べるといった、さまざまな奉仕が挙げられました。これらはどれも疑いなく良い行いですが、何がなされたとしても、それがどれだけ役に立つ明白なものであったとしても、重要なのは、その奉仕の裏側にある精神です。

与え、許すことは人の本質

奉仕を受ける相手を、あなたの兄弟や姉妹として、あなたの母であるバーラタ マーター(母国インド)の子どもとして、扱いなさい。あなたの兄弟や姉妹も、そうした人たちと同じように、あなたの肉体とは別の肉体を持っていますね? ところが、あなた方は実の兄弟や姉妹には特別な愛着を感じています。なぜでしょう? それは愛の結果です。他人にも同じ愛を持ちなさい。あなた方は、私を愛し、崇拝していますね? ならば、すべてのものの内に私を見なさい。なぜなら私はそこにいるからです。私は万物に内在しているからです。明るい電球にも薄暗い電球にも同じ電流が流れているように、あなたの神は生きとし生けるものすべての内にいます。すべての生物に内在し、すべての生物を通して動く私を礼拝することによって、恩寵を勝ち取りなさい。

あなた方は、ユニフォームを着る必要も、バッジを誇示する必要もありません。奉仕を受ける側も、懇願というユニフォームを着たり、苦痛というバッジを誇示したりする必要はありません。実の兄弟の隣に座るように、相手のそばに座りなさい。その受難者の手を取って、慈悲の心でその目を見つめ、手のひらいっぱいにプラサード(神に捧げた供物)を盛って、どうすれば力になれますかと尋ね、生気が戻ったその目から感謝の涙が流れるようにしなさい。それを、あなたを支える報酬としなければなりません。たとえ感謝が示されなくとも、たとえ冷たい沈黙にあったり、肩をすくめて嫌悪を示されたりしても、続けていきなさい。というのは、与え、許すことは、あなたの本質であるからです。

銀製のガナパティ(群の主の意、ガネーシャ神の別名)の像を持っていたとします。その像の代わりにクリシュナの像が欲しいと思い、ガナパティの像に布をかぶせてクリシュナの像に変わるようにと祈るのは愚かなことです! あなたはガナパティの像を小さく砕いてその銀を溶かし、新しい型、つまりクリシュナの型の中に注ぎ入れなければなりません。同様に、もしあなたがマーダヴァ(神)に変容することを求めるなら、心(マインド)を溶かしてグニャーナ(英知)の火に注ぎ入れなければいけません。心は、セヴァ、サンキールタン(集団でバジャンを歌うこと)、ジャパ(神の御名やマントラを繰り返しと唱えること)、瞑想(ディヤーナ)といったさまざまな行為という、よく切れる捨離(しゃり)の刃を持つ手段を用いて小さく切り砕くことで、初めて溶かすことができるのです。

愛はセヴァの胎内から生まれる

今、人間は不浄なものを次から次へと伝染させて、歪(ゆが)み、打ち砕かれ、病に冒され、苦痛に喘(あえ)ぎ、意気消沈しています。そうした人たちを向上させるために、そして、人類の遺産を価値あるものとするために、私は来ました。私がこうして熱心にセヴァに対する正しい姿勢を教えているのは、愛はセヴァとして表れるもの、セヴァによって育まれるもの、セヴァの胎内から生まれるものであるからです。そして、神は愛であるからです。

アヴァター(神の化身)は、子どもには子どもであり、少年には少年です。男性の間では男性であり、女性の間では女性です。そうあることで、アヴァターのメッセージが各人のハートに届き、至福(アーナンダ)という熱烈な反応が戻ってくるようになるからです。アヴァターの一つひとつの行動を促しているのは、アヴァターの慈悲です。

鳥や獣や木は、自然の摂理から外れておらず、それらを正当に保守しています。人間のみが、それを改良しようと未熟な試みをして、外観を損なっています。それゆえアヴァターは、人間として人々の間にやって来なければならないのです。そして、友人として、支持者として、親類として、指導者として、教師として、病を癒す者として、一人の仲間として、人々の間を動かなければならないのです。神はダルマを復興するためにやって来ました。それゆえ、人間がダルマに従うとき、神は喜び、満足するのです。

人間としての生涯が汚されること、冒涜(ぼうとく)されることのないように行動しなさい。両手を胸に当てて、「私は人だ。私は人間だ。私は、輝ける人間性、人間らしさで満ちあふれている」と言い切りなさい。 神は、あなたを近くに引き寄せたり、遠くに引き離したりはしません。あなたのほうが神に近づき、神から遠ざかるのです。神に好き嫌いはありません。あなたの本質の最も崇高な要求に従って生きなさい。そうすれば、あなたは神の近くにいることになります。

すべての仕事を神への礼拝としなさい

太陽、月、雲、海に学びなさい。これらはどれも、不平を言わずに自分の義務をなすことのこの上ない重要性を示す教師です。木は、誰にでも自分の実と影を与えます。木を切ろうと斧(おの)を木に立てかける者にさえもです! 山は、暑さ、雨、嵐に苦情を述べることなく、長い年月、瞑想をしています。鳥は、食べ物や巣作りに必要なものを何年分も蓄えるようなこともせず、生き残るのに最低限必要な量だけを雛(ひな)に与えます。そして、我が子に惜しみない愛情を注がなかったなどと言って嘆くこともありません。

自然(プラクリティ)はあなたの教師であり、研究所であり、解脱への入口であり、神の多様な尊厳のパノラマです。教訓を知ろうと努めなさい。自然は教える準備ができています。自然界にあるものはすべて、あなたと同様にブラフマンです。ですから、どんな行為も神であり、どんな仕事も神への礼拝なのです。すべてはブラフマンであるということへの信仰を堅固な基盤として、人生という家を建てなさい。

僧侶、サンニャースィン(出家行者)、僧団や修道会の長たちは、仰々しさと学者ぶった態度と宣伝に満ちた空気の中で教えを説きます。

「ヴェーダは自我を消滅させることを力説している。コーランは全託を力説している。聖書は謙虚さと慈善を強調している」と。

しかし、彼ら自身は、金銭や権力、評判や名声といった低級な欲に溺れて、はかない、ちまちまとした装身具、派手派手しい名声、安っぽい見かけだけの栄光を熱望しています。彼らが説かなければならないことは、手短に言えば次のことです。

自分をジーヴァ(個々の存在)だと思うなら、あなたは神と離れています。自分をデーヴァ(神)と思うなら、あなたは神と一つです。あなたは、ロープを蛇だと思えば震え上がり、それがロープだとわかれば恐れは消えて、ロープで遊びはじめます。ロープはあなたのものであり、つかむためにあるのです! 蛇は現れたわけでもなければ、いなくなったわけでもありません。ロープも、現れたわけでもなければ、なくなったわけでもありません。光が射せば暗闇は消えてなくなります。無知は消え去り、知識が現れはじめます。すべて一瞬のことです。

クリシュナはドラウパディーの呼び声に遅れて応じた

光である神を呼びなさい。(そうすれば、)無知と恐れ、そして、その結果は消え去ります!

ドラウパディーは、ダルマの君主、ダルマラージャとして誉れ高かった一番年長の夫の手によって、博打(ばくち)に賭(か)けられました。従兄弟(いとこ)の悪漢ドゥルヨーダナとドゥッシャーサナは、ドラウパディーを隷属させたことを悪用して、ドラウパディーの髪をつかんで宮廷の大広間に引きずっていきました。そして、悪に染まったその手で、あつかましくもドラウパディーのサリーの端をつかんで、大衆の面前で裸にしようとしました。ドラウパディーの夫たちはその場にいて、その極悪非道を目撃していました。夫たちが皆、ドラウパディーの前にずらりと並んだ悪の一団を上回る英雄的資質と武勇を備えていたにもかかわらず、ドラウパディーは激しい苦しみにあっても夫たちを呼びはしませんでした! 救いを求めて、アルジュナが神々から勝ち得た天界の武器に頼ることも、甲冑(かっちゅう)を身に着けた最強の戦士の胸さえも打ち砕くことのできるビーマの強力な鎚(つち)矛(ほこ)に頼ることもありませんでした。ドラウパディーは、人間にではなく神に頼りました。五兄弟は皆、英雄的資質を過度に賞賛されてはいても単なる人間にすぎないということを、ドラウパディーは知っていたのです。

女性は雄弁であり、嘆くことにおいては特にそうですが、ドラウパディーもその例に漏(も)れず、ドワーラカヴァーサ(ドワーラカの都に住むお方)、ゴークラヴァーサ(ゴークラ村に住むお方)、ゴーピーヴァッラバ(牧女の最愛のお方)、アーパドバーンダヴァ(災難のときの友)といった呼称を連ねて、クリシュナを呼びました。

自らの真理に忠実でありなさい

神はカーシーやラーメーシュワラムやプッタパルティに住んでいるなどと想像してはなりません。神はあなたのハートの中にいることを知りなさい。神をあなたのハートの中から呼び出して、そこで神に祈願しなさい。そうすれば、神はすぐさま、あなたに御姿を見せてくれます。

私はあなたのハートの中にいます。ですから、いくらあなたがごまかしても、あなた自身である神をだますことなどできません。あなた方は、サティヤ スワルーパ、真理の化身です。だからこそ、私はあなた方に、「弟子たちよ!」、「信者たちよ!」とは呼びかけないのです。そう呼ぶなら、それはあなた方に実際とは違う状態にあると信じ込ませることになってしまいます。私はあなた方に、「アートマ スワループ ラーラ」(アートマの化身たちよ)と呼びかけます。これが事実に適(かな)った正しい状態です。どんな試みをしようとも、それを真実ではないと証明することなどできません。あなた方もこのことを自覚しなくてはなりません。

あなた方はイエーリッアフでも、マーリッアフでも、プーリッアフ(いずれもインド人の名前)でもありません。あなた方は不死なる永遠のずっと純粋なままのアートマです! ガーンディーはカールンニャーナンダが祝福を願ったときにこう応じました。

「私の祝福はまったくあなたの助けになどならない。まさにあなたの芯である真理の祝福を勝ち得なさい! 必要なときにあなたの傍らにいてくれるのは真理のみです!」

あなた方は、サティヤ スワルーパ、真理の化身です。自らの真理に忠実でありなさい。

プラシャーンティ ヴィドワンマハーサバー(ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会)は、ヴェーダとウパニシャッドの主たる教えを伝えています。それを聞く人は多くとも、養い育てる人はごくわずかです。私のもとに来て、マントラのウパデーシャ(伝誦(でんしょう))を請う者たちがいます。マントラの波動によって自分を縛りつけているであろう手かせ足かせを外そうというのです! 彼らは、自分は「バガヴァッド ギーター」を解説と共に幾度となく読んでいる、自分はその七百のシュローカ(詩節)を全部、逆からでも唱えることができる、自分はそれらを三つの方法のいずれによっても、すなわち、二元論的にも、条件付不二一元論的にも、不二一元論的にも解釈することができるなどと言います。そのような人には、私はこう言って聞かせます。

「もしあなたが、自分が長年読み、唱え、暗記して学び、崇敬してきた神の言葉への信心を持っていないなら、いったいどうやって私のウパデーシャを、自分を救ってくれるものと確信して用いる自信が持てますか! 私はスワデーシャ(自分の国)も、デーシャ(国)も、ウパデーシャも持っていません。私はあれやこれやの伝誦はしません」

最良のグル(導師)は内なる神

解脱の秘伝は、耳元でささやかれた真言、数珠をくって繰り返す真言にあるのではなく、行動に踏み出すこと、実践して前に歩き出すこと、敬虔(けいけん)な巡礼の道、そして、勝利を得てゴールに到達することにあります。最良のグルはあなたの内なる神です。その声を、そのウパデーシャを聞くことを熱望しなさい。もしこの世のグルを求めるなら、両面太鼓の中に入れられて、左面を叩(たた)かれると右に逃げ、右面を叩かれると左に逃げるネズミのように、グルからグルへと走り回らなければならなくなるでしょう!

あなたが何をするときにも、何を語るときにも、神と、すべてに勝る神の愛を意識していなさい。これが、セヴァ ダルのメンバーに私が与えることのできる最良のアドバイスです。

悪い仲間には近寄らず、神に祈りなさい

十六歳から三十歳の間は重大な時期であり、人はこの時期に頂点に達し、また、そこに至るために悪戦苦闘します。ひとたびこの時期を無駄に過ごしてしまえば、二度と取り戻すことはできません! 邪道に陥らず、人生のこの時期に、神と信心深い者たちの足跡をたどりなさい。肉体は生死の間に持ち運ぶ土の塊にすぎません。私たちは生まれる前アートマでした。そして、地上に逗留(とうりゅう)した後、再びアートマになるのです。肉体を持っている間、私が指し示す目的のために、理智や想像力、技能や知識といったあらゆる肉体の備品と共に肉体を捧げ、恩寵を勝ち得なさい。

あなたが最善を尽くしたにもかかわらず、憎悪や怒り、獣性といった、醜く有害な気持ちが芽生えたなら、それはあなたの誤った食習慣か、あなたの持っている友人か、本か、映画か、あるいは他の娯楽のせいだと推測しなければなりません。そういったものには近寄らず、あなたが向かいつつある堕落から救い上げてくれるあなたの守護者である、神に祈りなさい。

言っておきますが、自殺という考えは、臆病の最も卑しむべき形から生まれるものです。そのようなものがあなたに影響を及ぼすのを許してはなりません。勇敢でありなさい。自分に襲い掛かってくるかもしれないどんな災難にもへこたれないと決意するほどに勇敢でありなさい。あなたのハートに神が鎮座しているとき、誰があなたを破滅へと導くことなどできますか?

怒りや憎悪や激情にかき乱されたときは、冷たい水を飲み、静かに横になって、バジャンを何曲か歌いなさい。あるいは、一人で長い距離を早歩きしなさい。そうすれば、あなたを悩ます思考は静寂と独居の中へと追い込まれ、血の巡りが速くなり、その動きが思考のとげとげしさを和らげます。

あなたは心配しているかもしれません。なぜなら、あなたは私に何か約束をしておきながら、後でその約束を破ってしまおうかという気になったからです。今、二の足を踏んではなりません。煙草(たばこ)を吸わない、あるいは、映画に行かないと約束したなら、その約束は、はっきりとした、固い、完全なものでなければなりません。あなたの約束によって私が得るものは何もありませんし、あなたが約束を破ったとしても私が失うものは何もありません。(約束を守るなら)あなたは自信を得、力を得、道徳心を得、至福(アーナンダ)を得ます。そうです、あなたの至福(アーナンダ)は私の食事です。ですから、私も得るのです!

英知があらゆる区別を取り払う

山頂の雪は、日中は太陽の影響で柔らかくなりますが、太陽が顔を出さない夜の間は固くなります。それと同じように、あなたの固いハートは私を固くさせ、あなたの柔らかなハートは私を柔らかくさせます。このことを理解しなさい。あなた方は皆、一人の母の愛しか知りません。しかし、私の愛情、あなた方一人ひとりに向けた私の愛は、千人の母の愛です! 私にあなたの愛を与えないことによって、その愛情を、その愛を受け取るのを拒否してはなりません!

誰かが全託の必要性について言及しましたが、誰が捧げ、誰が受け取るのですか? あなた自身が神であるとき、あなたは誰に捧げているのですか? 依然として、あなた方はアルパナ(奉献)やアートマアルピタ(真我を捧げること)という言葉を使っています。この問題は極めて重要です。その解決策は言葉を使うことによって退けられてしまいます! 自分は神だということを発見したとき、アルパナもアートマアルピタもなくなります。英知がすべてを取り払い、神だけが残ります。

かつて、富(ダナ)と英知(グニャーナ)の間で、どちらが賞賛に値するかを巡って長い争いがありました。富は言いました。

「例えば、もしプッタパルティに旅しなければならないとしたら富が必要だし、映画に行くにしても、食事をするにしても、お金を払う必要がある。コインが回転しなければ、この世は一秒たりとも回転しない!」

英知は言いました。

「知性がなければ、十ルピー紙幣と一ルピー紙幣を見分けることもできなければ、無益なお金の使い方と有益なお金の使い方を識別することもできない」

猿を仲裁に選んだ二匹の猫のように、両者はグルのもとに行って自分たちの問題を訴えました。グルは言いました。

「どちらもよい。もし、善い目的のために使われるならば、同じようによい。両者の善悪を決めるのは、その使い方である」

人間であることは、それ自体があなたの持っている大きな富です。それを最大限に使いなさい。自分は人間であるということのみならず、自分はもはや動物ではない、獣でも畜生でもない、ということを自覚するのに十分な英知を持ちなさい。それはグニャーナを完全なものにしてくれます。それを持たないなら、それは不完全な英知であるのみです。

厳しい規律は必須

セヴァ ダルのための規則と制約に関して一言話しておきましょう。あなた方は、(今大会の)議長たちを指名した州の会長と地域の会長の指示には、絶対的に従わなければなりません。もし彼らの指示に異議を唱えようという気持ちになったら、彼らの言葉は彼らを指名したバガヴァンの恩寵と祝福を通じて出たものだと、自分に言い聞かせなさい。自分が受けた指示には、礼儀正しく、謙虚に、優しく応じなさい。厳しい規律は必須であり、例外や譲歩は容認できません。一言(いちごん)、一道(いちどう)がモットーであるべきです。

あるサンガ(社会)やサミティ(組織)では、一人の人物の野望や一つのグループの貪欲の結果、派閥ができて霊的な空気が汚されています。その組織には政治の伝染病が潜入しています。それは、個人的な権力を拡大するためにサミティを始めた人がいたからです。それらは排除されますから、心配は要りません。

あなた方は、年長者たちが名声や評判を得るために何をしているかにかかわらず、自分の奉仕を続けなければなりません。奉仕をしなさい。それは、せずにはいられないからであり、内なる衝動がそうするよう駆り立てるからであり、それによって至福(アーナンダ)が得られるからです。

薬で病気を治すことができても、貧しいために薬が買えない病人がいることを知ったとき、もし医者が、その患者の救命は急を要す必要事項だと言ったなら、お金を借りたり貸したりすることをためらってはなりません。サミティのメンバーか他の誰かに頼んで都合をつけなさい。なぜなら、命のほうが大切だからです。一番必要とされている時に奉仕を施すことが、最もためになるのです。

病院で無視されて苦しんでいる貧しい人々のために粉ミルクを手に入れたり、牛乳や果物をあげたりするよう努めなさい。神は慈悲という花で礼拝されるのを好むのです。

荒涼とした砂漠のようなハートに愛の種を蒔(ま)きなさい。そうすれば、愛が芽吹いて荒野を歓びの緑に染め、愛の花が開いて空気をかぐわしい香りで満たし、愛の川が谷に沿ってさらさらと音を立てて流れ、鳥や獣や子どもたちが皆、愛の歌を歌うでしょう。今、セヴァ ダルはいくつかの村と町にしかいません。すべての村と町にセヴァ ダルがいなければなりません。そうすれば、人による人への奉仕が、自らの実体である神の発見を人にもたらすことができるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C23