サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年11月20日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ オーガニゼーション全インド大会(第4回)④の御講話より

人を改善すること

サティヤ サイ オーガニゼーション(SSO)の全ユニットの代表者たちによるこの大会をプラシャーンティ ニラヤムで開催することは、私にとって大きな喜びの源です。私はここにいる皆さんが、世界中に広がっているサティヤ サイ オーガニゼーションの目的と意義を理解していることを確信しています。その責務を常に念頭に置いておくことも必要です。

何事においても、人間が努力して成功するためには、習練が不可欠です。それは、経済の分野でも、社会の分野でも、教育の分野でも、単なる浮世の世俗の分野でも、どのような分野においてもです。霊的な努力において成功を収めるためには、なおさらです。たとえば、集中する習練は、歩くこと、話すこと、書くこと、読むことといった一般的な行動にさえ、必要不可欠なものです。

霊的進歩と至福は、習練を重ねる努力次第です。それは、楽しく安易な道によってではなく、厳しく困難な苦役によってのみ到達できるものです。習練を重ねる習慣と心の集中、感覚の喜びの放棄、アートマ(真我)への信仰を身につけたとき、初めて人生は生きる価値のあるものとなります。

習練と集中は、氾濫(はんらん)した川の水を制御し、無害で有益な水路へと方向づける堤防のようなものです。皆さんは霊性修行(サーダナ)に従事して真我を探求していますが、この崇高な任務において、この二つは大きな助けになるでしょう。道を知らない者は、誰も目的地に到達できません。目的地を知らない者は、誰も道を選んで歩いていくことはできません。皆さんは、旅を決意する前に、旅の目的地と、行く道についての正しい理解を得ていなければなりません。

役職を求める前に自分の力量を考えよ

重ねて言いますが、人々は権力の座の果実だけを求め、その権力に付随する責任を怠っています。これはインドだけのことだと考えてはなりません。これは今日の世界中の求道者の態度です。権力を求めていますが、権力に伴う責任を歓迎していません。今日の世界の混沌(こんとん)と苦難は、権力の座に昇りつめても、その地位に伴う責任を果たさない人々が作り出しました。その座に本来備わっている責任を担うことができない人、快く責任を担う気がない人、また、誠実に義務を果たさない人は、誰であれ権力の地位に就く資格はありません。そのような人々は、どんな地位にあろうとも、どれほど深い学識を身につけていようとも、どれほど裕福であろうとも、自分が渇望する地位や、維持したいと思っている地位には値しません。

オーガニゼーションのユニットにおいても、これと同じルールが当てはまります。責任を果たす技能と、力量と、意欲のない人のための場所はありません。オーガニゼーションに加入する前に、あるいは、オーガニゼーションで何らかの役職を求める前に、自分にその熱意と力量があるかどうかを熟考しなさい。さもなければ、もしあなたが誰か他の人や何らかの計画に対して不平をこぼしたとしても、それはあなたの卑小さや弱点をさらけ出しているにすぎません。オーガニゼーションに加入する前に、よく調べ、十分検討しなさい。加入したのであれば、他の人々と活発に協力し合って、すべての義務を良心的に果たしなさい。

諸感覚は霊性の道の障害物

このオーガニゼーションは津々浦々に広がっています。しかし私は、オーガニゼーションは発足当初の目的から流されてしまっていると言わざるを得ません。オーガニゼーションは少しも恩恵をもたらしていないのです。

というのは、霊性の道における第一歩は、「無私の奉仕」だからです。無私の奉仕を通して、人は、神性という、この全創造物であるものを悟ることができます。

もちろん、すべての生き物とすべての物事は神です。しかし、知的な分析によって、あなた方は自分を助けてくれる人と物事を選び、自分を妨げる人と物事は避けなければなりません。これは英知の道です。電流や火や鋭いナイフを例に取りましょう。これらは皆、使い方を知らなければ危険ですが、慎重に扱う方法を知っていれば役に立ちます。これらは敵にもなれれば、味方にもなれます。諸感覚も同じです。感覚にあなたを支配することを許してしまえば、感覚は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となりますが、あなたが感覚を支配すれば、感覚は目的地に到達するのを助けてくれます。

人は、外界に注意を引きつける諸感覚を支配しなければなりません。感覚に引っ張られている限り、輪廻(りんね)の二元(苦楽、悲喜など)の鎖から自由になることはできません。諸感覚は、人を外界にではなく内なる意識へと連れていってくれる霊性の道の、障害物です。鳥や獣は魂の渇きに苦しめられることはありませんが、人は苦しめられます。人は、神の恩寵によって、この偉大な贈り物を授けられているのです。

人は、諸感覚から離れ、自分の本性を探求することによって、生死の連鎖から自由になることができます。あなた方は、今日は友である人が明日には敵となり、今日は敵である人が明日には友となることを知っていますね。しかし、確かなことは、欲望(カーマ)は永遠に敵であるということです。この敵に屈すれば屈するほど、敵はますます優勢になり、あなたはますます心を奪われて、その虜(とりこ)となってしまいます。

今日、どの人にも、頭の天辺(てっぺん)から足の爪先まで、富、社会的地位、名声、贅沢な暮らしなど、種々様々なものへの欲望が染み込んでいます。数々の渇望が、常に、あらゆる面から人を襲っています。それらは絶えず数と勢力を伸ばし続けています。習練と義務という堤防が、欲望の洪水によって押し流されています。

思いと言葉と行動において誠実であれ

ですから、あなた方は、無執着を培い、放棄を育て、欲望を点検し続けるべきです。人生の目的は、富や虚栄、黄金や浮世の名声ではありません。道徳的でありなさい。高潔でありなさい。思いと行動と言葉において誠実でありなさい。自分自身に正直でありなさい。お金は行ったり来たりします! しかし、道徳は来ると育ちます! それゆえ、人はお金を欲しがるのをやめて、もっともっと道徳を切望しなければなりません。

サティヤ サイ オーガニゼーションは、あらゆる宗教に属する人々と共に働いています。オーガニゼーションがそうするのは、キリスト教徒も、ゾロアスター教徒も、ヒンドゥー教徒も、仏教徒も、ジャイナ教徒も、イスラム教徒も、すべての宗教は愛と非暴力を根本教義としているからです。愛と非暴力という特質を育てなさい。そうすれば、愛と非暴力を他の人々に説いて広める資格が手に入ります。

この国、バーラタ(インド)は、昔からずっと人間の生き方を宣言し続けてきました。それは、すなわち、混乱と辛苦の海、悲しみと苦痛の海を渡る際には、「自分自身が渡ってから、他の人々が渡るのを助けるべし」というものです。悟りなさい。それから、他の人々が悟るのを助けなさい。手本となりなさい。これが、人に教えるための最良の方法です。

バーラタが聖地として名高いのは、ここには欲望を放棄し、成就を得た人々がいたからです。聖者たちは自ら解脱を得て、歓喜と平安の中で生きていました。聖者たちは、一般人をも感化し、人々の人生を愛と信仰で清めました。聖者たちは、エゴとその貪欲さに影響されることなく、歓喜の中で、長い年月を軽々と越えて、百年以上生きました。しかし、今日では、利己的な欲望が原因で、寿命は短くなり、人生はより悲惨なものになっています。

四つの根本的な問いの探求を奨励せよ

サティヤ サイ オーガニゼーションは、愛と非暴力という原則を日々の実践に移すために設立されました。同様に、サティヤ サイ オーガニゼーションは、四つの根本的な問いを探求することを奨励してきました。(一)体――それは何か?(デーハム)、 (二)体――私はそれではない(ナーハム)、(三)では、私は誰か?(コーハム)、(四)、そうだ、私はそれである(ソーハム)

最初は体です。体は何をするか、体は本当に私たちの役に立つのかをよく考えなさい。ある男が道を歩いていて人間の糞便(ふんべん)を見かけたときの話があります。男はうんざりして脇へよけました。すると、その糞便は、ひどく腹を立てました。糞便は、男を恩知らずの裏切り者と呼びました。

「昨日、私は甘くみずみずしい香り高い果物だった。私はあなたに力と滋養を与えた。私は自分の力と美と存在そのものをあなたに捧(ささ)げた。そのお返しとして、あなたは私をこのような汚物の状態に貶(おとし)め、不当な扱いで侮辱を加え、嫌悪するようになった! 嫌悪してあなたから目を背けるべきは私のほうだ。あなたと関係を持ったばかりに、私はこの恥辱を被ったのだ」

男はそれを聞いて、なぜ自分はそんな酷(ひど)いことをしたのだろうと思いました。その出来事は、男に自分がまとっている体というものの性質について自問させました。

私たちは、「私の手」、「私の本」、「私の心」、「私の行動」、「私の考え」などと言います。なぜなら、これらすべてを所有している「私」、これら一切を道具として使っている「私」というものが、いるからです。この「私」とは誰でしょうか? 機械、(および機機械に付いている留めネジやボルト、歯車やベルト)を作動させ、働かせている電流のように、「私」は、不活性な体と、体の構成要素を、内外で動かしているのです。

ここ、私の目の前にマイクがあります。それから、マイクの中に取り付けられているケーブルがあります。しかし、たとえこれが最新型のマイクと最高級のケーブルであっても、中に電気が流れていなければ、私の声はあなた方に届きません! 体においても同様です。そこには、手や目や心を鼓舞し作動させるこの私、この神の力がなくてはならないのです。

二元性の浮き沈みからの解放を欲しなさい

あなた方は、自分が企画実行する一切の基盤となる原動力は神の意志である、という信仰の下に、自らのユニットの活動を遂行しなければなりません。あなたは誰ですか? あなたは、あなたに生命、活力、意志、英知を与えてくれた神の意志です。これを悟ることが、人生の目的です。それは、無知すなわち迷妄(マーヤー)の終焉(しゅうえん)を意味します。

聖賢たちは、地上における人間の四つの目的を定めました。それは、ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)です。つまり、人は正しい方法で富を稼ぎ、二元性の浮き沈みからの解放を何よりも望まなければならない、ということです。解脱が人生の一切の活動にまさる目的でなければなりません。残りの三つは、付随的なものでなくてはなりません。

木の花や果実を必要なとき、あなたは葉っぱや蕾(つぼみ)や若芽のある枝に水をかけたりはしません! あなたは根に水をやるでしょう! それと同じように、四つの目的の最後にある解脱(モークシャ)を求めるなら、ダルマを育てなさい。ダルマは、あなたの富(アルタ)を聖化し、あなたの欲望(カーマ)を清め、あなたが手に入れようと懸命に努力している解脱(モークシャ)を授けます。ダルマを育て、富と快適さを手に入れるための努力の中にダルマを染み込ませなさい。

このオーガニゼーションのワーカーの誰もが、階級や信条、貧富に基づいた、人間同士の分離感や差別の概念を取り除かなければなりません。ワーカーは、常に悲しみを共有しなければなりません。そして、これはより難しいことですが、他者の喜びを共有することも切望しなければなりません。

アートマの力だけが世界を救うことができる

私の願いは、あなた方の間でどんな小さな誤解が生じても、いつも愛と寛容を実践しながら、自分たちの間でそれを正すことです。激情に駆られて、物ごとを口論や派閥的な分裂の炎にして燃え上がらせてはなりません。あなた方は、自分たちのハートを広くする修行、愛を表現することによって神の御足に到達する修行に従事している、ということに気づきなさい。愛、寛容、謙虚さ、信仰、そして、尊敬の念を培わない限り、どうして神を悟ることができるでしょう?

現在のように、国中に混乱と恐れと不安が見られるとき、各ユニットのワーカーたちは、怒りと激情を抑えるために、一人ひとりが、冷静さと落ち着きと愛を分かち与えることにもっと貢献しなければなりません。どのような政府の権威にも、あなた方が愛と同朋意識によってそれができるほど、効果的に、素早く抑えることはできません。

この世界は、万人に生来備わっているアートマの力によってのみ、救われることができます。アートマの力を、個人の霊性修行(サーダナ)によって、そして、愛と純粋さと奉仕によってのみ得られる神の恩寵によって、引き出さなくてはなりません。もしこの二つがなければ、崩壊(プララヤ)は確実です。それは避けられないことです。 今、最も不足しているものは愛です! 家庭においても、父と息子、夫と妻、兄弟同士の間に愛がありません。私たちのユニットにおいても、会員同士の間の愛を不足させるべきなのでしょうか? いいえ、そうすべきではありません。あなた方は、自分の行動と態度を通して、また、万人に内在する一なるアートマの認識を基盤として、愛が世界の問題を癒すことができるということを、証明しなければなりません。

生活が、とても人工的なものになっています。人は、次の段階で何が起こるかわからないまま、先が見えない恐怖の中で動いています。人々を正しく導くランプとなるために、準備を整えなさい。

愛の化身になりなさい

愛のランプになりなさい。それには一切が含まれています。そうであれば、ジャパや苦行(タパス)をする必要はありません。愛、他の人々(神がまとった姿)への愛のこもった奉仕は、あなたに神の恩寵を授けるでしょう。ですから、あなたのハートの中に愛を祀(まつ)り、その愛を育てることを、今日、決意しなさい。その愛を、全人類のためのものに、利己的な欲望のないものにしなさい。愛の化身(プレーマ スワルーパ)になりなさい。

どこそこの地区がオーガニゼーションのユニット数で他の地区のオーガニゼーションを上回った、と自慢しても、私はそんなことに関心もなければ、大喜びすることもありません。私の関心は、仕事に、愛のあれふるハートに、無私の奉仕にあります。名前しか存在していないユニットがあります! 他にも、私たちの目的や考え方とは正反対のやり方で動いているユニットがあります! それらのユニットには存続を許さず、速やかに解散させるのが最善です。不当に活動をしている百のユニットがあるよりも、正当に活動をしている二、三のユニットがあるか、あるいは、むしろ、まったくないほうがよいのです。二口(ふたくち)の牛乳のほうが、一樽(ひとたる)のロバの乳よりも好ましいのです。

ユニットを発足すれば役員をこの大会に出席させられるからという発想だけでユニットを始めたり機能させたりしているのであれば、あるいは、会員たちに信仰も信愛もないのであれば、あるいは、会員たちがオーガニゼーションの理想を実現するための絶え間ない努力をしていないのであれば、それらのユニットは終わりにする必要があります。もし、そうしたユニットの存続を許せば、それらのユニットは、オーガニゼーションの中に政治の舞台で見るような混乱を作り出すことでしょう。

自分が保持しなければならない性質と、捨てなければならない性質をよく考えなさい。そして、今日、この日から、望ましくないものを捨て、望ましいものを育てることを、実行しなさい。先を見据え、自分自身を改善し、前進しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C32