サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年11月21日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ オーガニゼーション全インド大会(第4回)②の御講話より

過ちと失敗

人々は、ヴェーダは単なる音の集まりであり、文字の連なりにすぎないと言うかもしれませんが、ヴェーダはそれ以上にはるかに優れたものです。ヴェーダは英知です。英知は神です。ヴェーダの上に築かれているバーラタ(インド)の文化は、この真理を詳述し、ヴェーダの実践を命じています。この真理は今、個人と社会に影響を与える恐ろしい諸問題が解決されるよう、日常生活の中で活(い)かされています。

歴史の流れの中で、この文化に多くの慣習や行動様式が加えられてしまいました。それらを捨てて態度を清める必要があります。これはオーガニゼーションの主要な任務の一つです。経済発展と五ヵ年計画は生活水準を上げるかもしれませんが、それと共にヴェーダの中に大切に収められている根本的な英知が人々に吸収されない限り、その発展は惨事に終わるでしょう。

道徳、すなわち高潔な人格は、まさしく発展の基盤であり、まさしく根本的に必要なものです。それは魂の王国で成長します。しかし、今日、霊性はおざなりにされています。肉体的、動物的な必要への要求を満たし、それが人生の目的として受け入れられ、あらゆる努力はそこに向けられています。

クリタ ユガでは、ダルマ(正義)が受け入れられ、人生の基盤そのものとして追求されました。次の時代、トレーター ユガでは、ハートに祀(まつ)られた神が受け入れられ、求められました。ドワーパラ ユガでは、親類縁者や友人との接触と愛着を強めることが、人を安全に、そして幸福にするのに十分であると見なされました。現代、カリ ユガでは、食べ物、そして、生計を立てることが、まさしく人生における極めて重要なものと見なされています。

愛を育てることがリーダーシップに値する方法

今、人々は神(マーダヴァ)よりも薬に信頼を置いています。カプセルと錠剤を基に人生が築かれています。神が行き先を知るこの巡礼(ヤートラー)(人生)のための力を諸元素(マートラー)(丸薬)に補ってもらっています! 職場に通う人のポケットの中身を調べてみなさい。神の写真や『バガヴァッド ギーター』の本は見つからないでしょうが、必ずアスピリンやサリドンか何かの錠剤が見つかるはずです! 学校に通う少年や、映画館に行く父親の場合も同様です! 女性の化粧バッグにも錠剤やカプセルが入っています。たとえ最高の食材を食べていても、丸薬は間違いなく健康を害します。そのような一時的なその場しのぎを半永久的な習慣にしてはなりません。

我こそは霊的な学問の大家であり、霊性修行の師であると主張する偉大な名士たちでさえ、習慣に支配されており、その習慣が妨げられると気分を害します。そのような人々のジャパや瞑想(ディヤーナ)は、朝一杯のコーヒーが数分遅れただけで、もう冷静に続けられなくなるような代物です! 彼らがどれほど弱いか見てみなさい! そんな人たちに何が達成できるというのでしょう? どうやってそのような人たちに自らの実体としてのアートマを悟ることができますか? 彼らは自分自身よりも、自分が宿っている肉体に大きな関心を抱いています! 彼らは自分が見たいと切望しているアートマに何の信頼も置いていません。英知を求める純粋な渇望もありません。彼らは、今は亡き先人の方法や言葉を真似ているだけです。愛を育て、愛を実際に示し、あなたの周囲から愛を引き出しなさい。これがリーダーシップに値するための方法です。

霊的な造詣は宣伝を遠ざける

ジャパや瞑想(ディヤーナ)について説教し、高いレベルの達人を装って国中を歩き回っている人々が大勢います。彼らは、自分が達人であると主張して、大勢の観衆を集め、自分の業(わざ)を見せびらかします。しかし、そんなふうに才能を誇示することは霊的な造詣の印ではありません。霊的な造詣は宣伝を遠ざけます。霊性修行は、衆人環視から離れた静寂の中でなされます。

ミーラーは、神の御名と御姿を「宝石」と讃(たた)えました。宝石はたたき売りする商品として市場に持ち込まれたりはしません。そんなふうに皆が見ることができるように並べられるのは野菜だけです。私たちのオーガニゼーションの各ユニットは、誇示や見せびらかしを助長すべきではありません。それらは霊性の道とは縁もゆかりもないものだからです。

サイ オーガニゼーションは、愛を引き出して育てるために創設されました。サイ オーガニゼーションは強制的に創設されたわけではありません。サイ オーガニゼーションはハートから生じました。サイ オーガニゼーションはハートを広げます。愛に到達したい、愛を広げたい、という内なる願望が、このオーガニゼーションとして外的な形を取ったのです。

私たちの思考は木綿、木綿が形作る欲望は糸、そして、それら欲望の糸が混合して相互に織られたものが、縦糸と横糸から成る布です。そこから一本、また一本と糸(欲望)が引き抜かれると、布(心)は消えてしまいます。欲望はできる限り少なくするのが最善です。鉄道での旅が気づかせてくれるように、「荷物が少なければ、より快適で、旅は楽しいものになる」のです。短い鉄道の旅のために荷物を減らさなくてはならないのであれば、それよりはるかに長い人生の旅路で荷物を減らすことは、どれほど急を要するでしょう! 荷物を減らす過程は、霊的な言葉では「ヴァイラーギャ」(無執着)と呼ばれています。

アートマ、つまり無形の絶対者は、浄性(サットウィック)(純粋な、落ち着いた)の媒体を通して映し出されると神(イーシュワラ)として現れます。激性(ラジャスィック)(活発な、熱烈な)の媒体においては個人(ジーヴァ)として現れます。鈍性(タマスィック)(鈍い、不活性な)の媒体においては物質として現れます。すべてはアートマであり、それが異なる媒体を通して認識されるだけです。アートマは唯一の実在であり、唯一無二(アドワイタ)です。

すべての良い行為は不滅へと導く

人間の行動にはある種の特徴があり、私たちはそこから良い教訓を引き出すことができます。善行、たとえば、貧しい人に食べ物を与えたり、お寺を建てたりすると、人はその喜びを他者と分かち合いたいという気持ちにかられます。しかし、悪い行為をするよう駆り立てる悪い衝動に促されると、人はその恥を分かち合いたいとは望みません! さらに、これとは別の行動の特徴についても考えてみなさい! 善い行いをするよう提案すると、人はそれをするのを延ばしがちです。というのは、何かがその人に、次の日も、数日後も、それよりずっと先も、おまえはまだ生きているじゃないか、と囁(ささや)くからです。ところが、何か悪いことをすることを決めると、人は即座にそれを行います。「明日はもう生きていないかもしれない」と感じるのです! 悪い行いはすべて死をもたらします。善い行いはすべて不死をもたらします。これが、以上のことから学ばなければならない教訓です。

朝の影は、あなたがどれほど速く走ってもあなたの前で動き、平地であれ山であれ、あなたは影に追いつくことができません。一方で、(夕方の)影はあなたを追いかけ、あなたは影から逃れることができません。これらは欲望の性質です。あなたが欲望を追いかけるか、欲望があなたを追いかけるかで、あなたは欲望に打ち勝つことも、欲望と調和することもできないのです。欲望は実体のない影です。しかし、欲望を内に向け、霊的な宝に向かわせれば、欲望は実りある結果をもたらします。オーガニゼーションの様々な活動に従事するときには、すべての欲望を神に捧げなさい。一切を、あなたのハートの中に祀(まつ)った神の命令として行いなさい。

人間を神に高めよ

ここに、全ユニットの役員が集まっています。今まさに、皆さんは様々な規則と規定を検討し、承認しようとしています。しかし、まず、よく考えて、基本的な問いに対する答えを確かめなければなりません。なぜ私たちはオーガニゼーションの中にいるのですか? その目的は何ですか?

オーガニゼーションの目標は人を神から遠ざけている障害物、神性(マーダヴァットワ)から人間性(マーナヴァットワ)を切り離している障害物を取り除くことである、という堅い信念を持たなくてはなりません。人間など存在していません。すべては神です。オーガニゼーションは、人を神へと向上させなくてはなりません。

私たちのオーガニゼーションの中には、内輪もめにふけり、違いにこだわる一部の人々がいます。オーガニゼーションとその任務を信じていない人々もいます。さらには、仕事への熱意がなく、嫉妬(しっと)と悪意に満ちている人々もいます。ニームの木に水をやっても、甘いマンゴーの実はなりません。霊性修行(サーダナ)という木に信愛(バクティ)という水を注ぎなさい。そうすれば、至福という甘い果実がなるでしょう。

すべての人を、あなたが礼拝している神の化身と見なさい。あなたの言葉と行為の一切を、あなたが崇(あが)めている神への捧げ物としなさい。そうすれば、あなたは、妬(ねた)みや悪意、嘘(うそ)や貪欲、怒りや利己主義の悪影響から逃れることができます。オーガニゼーションの誰の中にも、これらの悪い特性が見つかるべきではありません。

自分の好きな人だけを会員として受け入れて、信仰と信愛のある人を近づけないなら、それは神に対して神性冒涜(ぼうとく)を働いていることになります。オーガニゼーションは、いかなる役員の好き嫌いをも重視しません。オーガニゼーションは信愛と信仰心だけを基盤にしています。信愛と信仰心があり、オーガニゼーションを自分の命のごとく愛する者は、誰であれオーガニゼーションの中に居場所があり、オーガニゼーションの中にいる権利があります。

自分のすべての活動をダルマに基づいたものとせよ

もう一つ、別の要点があります。私たちは明日それを決定する予定ですが、私は皆さんに、今日その指示のいくつかを与えましょう。

私たちのすべてのユニットには、会長一名、総務一名、共同の事務員一名、会計係一名がいます。ですが、私たちはお金に関心がないのに、なぜ会計係がいなくてはいけないのか、私は不思議に思います! 会計係という名前は、私たちがお金を持っているということ、そのお金を集めたということ、そして、それを守り、それに頼っているということを示唆しています! 私たちは、お金よりもはるかに貴重なもの、すなわち愛と関係しています。お金が集められ、保持される場所には、誤解が増え、内輪もめがはびこり、愛は離れていきます。お金、そして、人がお金を追いかけるやり方が、世界に混沌(こんとん)を引き起こしているのです。あなた方の活動をダルマに基づいたものにし、あなた方のハートを愛(プレーマ)で満たしなさい。そうすれば、私は恩寵を注ぎ、いつまでもあなた方と共にいます。

バジャンや瞑想(ディヤーナ)やナガラ サンキールタンにお金が必要ですか? ナガラ サンキールタンに必要なのは二本の脚と、歌うための舌と、神の御名を迎え入れるハートだけです。特別な企画や特別な行事のための資金は、サミティ(サイの組織)の会員からのみ集めること。これはまさしく、当初からの規則であり、オーガニゼーションの基盤そのものです。他の一切の活動には、資金は必要ありません。必要なのは、愛に満ちたハート、純粋なハート、寛大なハートだけです。

オーガニゼーションのいくつかのユニットは、私が指摘しなければならない、いくつかの誤りを犯しています。私は今そのことを話しているので、各州の代表者たちは、私が個別に面会するときには正しい精神で私に説明することができますね。今、私が忠告すれば、皆さんの態度は、もっと穏やかで明瞭なものになるでしょう。

協力と寛容が広がるべきである

地区の会長と州の会長の選択は私が行いますが、皆さんの希望も考慮に入れます。(候補者の)名前を検討するときには、嫉妬や興奮や誇張ではなく、愛と寛容の雰囲気がなければなりません。ひとたび平安と愛の雰囲気の中で人選されたなら、協力と寛容が広がるべきであり、さらには、すべての人が選ばれた人の指示に従って、その人からの指導を尊ぶべきです。そうして初めて、神の恩寵はあなた方に授けられるのです。

いくつかの土地には何の活動もしていないユニットがあります。あるいは、活動しているにしても、プラシャーンティ ニラヤムの原則とやり方、あるいはオーガニゼーションに定められた規則と正反対のことをしているユニットがあります。どこであれ、そのようなユニットがあれば、州の会長か地区の会長が、直ちにそのユニットをオーガニゼーションから除名する策を講じなければなりません。

いくつかのサミティでは、会員たちが会合(バジャンなどの定例会)に五〇パーセントも出席していません。一〇〇パーセント欠席しています。出席率を計算できないようにするために、まったく会を開いていないサミティもあります。そのようなユニットのためにも、規則と規定は絶対に必要です。もし規則が定められた通りに守られないのであれば、オーガニゼーションは混乱に陥るでしょう。

これは、皆さんに他の過ちについても話す良い機会です。なかには、発起人たちのためのお金を得るという目的のためだけに設立されたユニットもあります。特定の名前や人物が世界中に知られ、皆から尊敬されるようになると、その人たちは私腹を肥やすためにその名前と自分の活動を結びつけ、その名前と評判を利用しようとします。これは無理からぬ計略です。そのような人々の手足となる人がいたるところに大勢現れています。このようなことが起こると、オーガニゼーションは悪い評判を得ます。

悩み苦しんでいる人は皆、助けるに値する

私たちのオーガニゼーションの中にいる人は、霊的あるいは宗教的性質を持つ他団体と関わりを持ってはいけない、ということも厳しく定められています。もちろん、奉仕に関する限り、会員たちはすべての人を差別なく助け、奉仕すべきです。悩み苦しむ者は誰であれ、助けるに値します。しかし、サミティの会員は、そうした他の組織や他団体とは、どのような関わりも持ってはなりません。

たとえば、皆さんの地元にサイ サマージ(サイ ソサエティという意味の名前が付いた他団体)があるかもしれません。私はしばしば、「サイはサティヤ サイです。サティヤ サイはサイです」と宣言し、皆さんはそのことを知っていて、その真理もわかっています。それなのに、なぜ皆さんは、「サイ サマージはサティヤ サイ サマージとは違うのですか?」などと、尋ねることがあるのでしょう? なるほど、サティヤ サイという名を持つこの肉体は、その名を冠して設立されたすべての組織に対する完全な権限を持っています。サイ サマージには、権限を保ち行使するための、その名を持つ肉体はありませんから、もし資金が集められたり、使われたり、乱用されたりしても、この肉体には具体的にサイ サマージをどうすることもできません。それゆえ、二つをはっきりと区別し、あちらの団体はあちらのやり方でやらせるのが最善です。

様々なタイプのスワミたちによって始められた他団体も数多くあります。もしそうした他団体と関わりを持つ人がいたら、私は即座に地区の会長と州の会長に、その人たちを辞めさせるよう求めます。人は誰でも自分の好きな対象を崇(あが)め、礼拝してよいのですが、オーガニゼーションの中には二つの忠誠心を持つ人たちがいるべきではありません。この名と姿に信仰と信愛を抱く者だけが、意欲と熱意を持って目標を成就することができるのです。もちろん、どの人も神ですが、神性が現れている度合いというものがあります。線香や煙草(たばこ)の先端の火では、乾いた薪にすら火をつけることはできません。一方、森林火災は、青々と繁(しげ)った樹木さえ大火で焼き尽くすことができます。神聖な要素が現れている度合いには個人差があるのです。それは、電流を光に変える電球の電圧の度合いに差があるようなものです。

なかには、自分は優れているとか、最高であると主張する人々がいるかもしれませんが、たとえ高い境地に達していたとしても、そのような人たちの目は、食べ物を求めて平原を探すハゲ鷹の目のようにきょろきょろしています。彼らの姿と名前は高尚な大師のそれであっても、思考は低俗です。どれほど地位が高くとも、ものの見方が低俗であったなら、そんな人とは関わりを持ってはいけません。自分自身の努力によって自らを救いなさい。識別力を身につけて、真理を悟りなさい。そうすれば、他の人々が悟りを得るのを手助けするために、出て行くことができます。

個人的な誤解に余地を与えてはならない

礼拝堂で州ごとのミーティングが開かれます。私がその場に来たら、皆さんは感情的になったり派閥を意識したりすることなしに、現時点で会長がいない地区と州のために、自分が望む地区会長あるいは州会長の名前を私に提案することができるでしょう。もうすでに会長がいる地区でも、交代したほうがいいと思うなら、交代を提案することもできます。ただし、それは双方の協議と同意を得た後に行いなさい。

個人的な敵対心は追い払い、個人的な誤解に余地を与えてはなりません。会員に不可欠な資格は、信仰心と信愛であることを覚えておきなさい。オーガニゼーションの発展は、混沌によって引き裂かれた世界に平和と静けさをもたらす、ということも覚えておきなさい。世界は、霊的な組織の努力による霊的な進歩によってのみ、改善し、救うことができるのです。

人々は、自分は社会奉仕に携わっているだとか、地域社会の安寧を推進するための政府の事業を指揮している、あるいは、それに協力しているなどと、主張するかもしれません。けれども、仕事として何がなされていようとも、霊的な促しや捨離(ティヤーガ)、そして、心からの愛がなければ、それは「奉仕」とは言えません。私はローカ サングラハ(世界の安寧と幸福を促すこと)のために降臨したのですから、皆さんがオーガニゼーションを使って世界中に調和と愛を広めるなら、皆さんの活動は間違いなく私を喜ばせるでしょう。もし、すべてのユニットが、愛と寛容をもって働き、奉仕において互いに協力するなら、国土に平和と繁栄を得ることができます。

静謐(せいひつ)をもたらすものに耳を傾けよ

ある州の会長と地区の会長たちが、自分たちは誤解され、中傷され、善意を非難される手紙を受け取ったと私に書いてよこしました。そんな手紙に動揺するのは、その求道者(サーダカ)の弱さの印です。中傷に耳を貸して平安を失わないよう注意しなさい。真理、つまり静謐をもたらすものに耳を傾けなさい。そうすれば、あなた方の霊性修行(サーダナ)は成功します。私でさえ中傷を免(まぬが)れないのです。皆さんには、私の髪がどのように私の耳を覆っているかが見えますね。私には、帰依者からの報告も届けば、他人を中傷し、他人の悪口を言い、偽りの不安を広めたがる人からの報告も届きます。私の髪はそれらの報告を「ふるい」にかけ、真実の報告、喜びをもたらす報告だけが、私の耳に入ることができるのです!

今日、私は過ちと失敗について、少々厳しい話をしてきました。明日は、霊的進歩のために皆さんの技能や才能を使う最善の方法について指針を与える話をして、これを補いましょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C33