サティヤ サイババの御言葉

日付:1973年4月
場所:ハイダラーバード
シヴァム落成祭の御講話より

愛が鍵

人間は、人類同胞との結びつきを通してのみ、至福(アーナンダ)を引き出して、至福を持続させることができるよう創られています。他人との接触をやめて孤独な道を歩むのは、弱さや恐れの印であって勇気の印ではありません。活気にあふれて人と関ることこそが、道徳、公正、思いやり、同情心、愛、堪忍寛容、平等観その他、人格を整え、強靭にする性質、人の性格を形作る多くの性質を、生み出すのです。文化は、ハートと頭がいっしょになった結果として起こるものです。

互いに憎悪し、軽蔑し合っている人たちのグループは、どの活動部門においても、有益な成果を生み出すことはできません。共通の見方、さらには、共通の内的な見方を持っていることが不可欠な要素であり、サマチンター〔同心〕、すなわち、信じていること、見解、態度が同じであることが、最初の要因です。このサマチンター〔同心〕は、グループ全体を包み込み、グループ全体を夢中にさせる神聖な至福(アーナンダ)の洪水、という結果をもたらすものでなければなりません。

もし個人が、自分は神であり、しかも、他のすべての人も同様に神であるということを知っているなら、その意識こそが社会にとって最良の絆であり、その至福(アーナンダ)こそが社会を支える最良の空気です。すべては神だと知っている人が、自分の認識している神から離れていることなど、どうしてできるでしょう? 「私は神である、神は私であり、私と神はどちらも神の中にいる親類縁者である」――この気づきは、とても胸躍る、とても満足感に満ちた、とても精神を高揚させるものであり、そのような社会は人間が常に加わることのできる最も高潔なサットサング(聖なる仲間)です。

宇宙は神に包まれている

部屋に閉じこもって神の写真や絵姿や神の像に線香や花を供え、神の栄光を歌ったり唱えたりすることは、あなたを無知から解放させてくれる規律の代用品としては非常に貧弱です。すべての存在は神の像であり、すべての人は神の写真や絵姿です。なのに、なぜ、あなたは閉じこもるのですか? すべての創造物は神へ向かう巡礼の歩を進めています。なのに、なぜ、あなたは独りでその道を歩いているかのように振る舞うのですか? あなたは、教会や寺社あるいは家庭の祭壇で礼拝や儀式に費やした時間は神に捧げられ、それ以外の時間は他の目的のために費やされたと思っています。しかし、あなたには、神や神のごとき人の領域の境界を定めたり、限界を定めたりすることはできません。神は、常に、どこでも、あなたと共にいます。「ヴァースデーヴァスサルヴァミダム」――「このすべては神である」のです。

社会は学校であり、そこでこの教訓が熱心な求道者に教えられます。この国の聖賢たちは、森の庵に行き、そこで揺るぎない求道者と交流しました。そこには学問的な論議や戒律の実践がありました。彼らは互いにに感化し合い、教え合い、「イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム」――「この宇宙は神に包まれている」、つまり、神こそが世界を繋いでいる糸である、という真理を学びました。自惚れを捨てて、自然の暴君となるのではなく自然の生徒となった時、人は、自然の助言、忠告、啓蒙の声を聞くことができます。

人間は、人間が必要とするすべての富を自分の中に持っています。人間はそれらを確認して顕現させること、そして、それらを他の人と分かち合うことによって、その栓を抜くことができます。人間は、サット(実在)、チット(純粋意識)、アーナンダ(至福)です。人間はシヴァ シャクティ スワルーパ(神とエネルギーの具現)です。人が人を褒め称える時、それは神を褒め称えているのです。自分はただの人間だという思いを募らせてはなりません。自分は神となるよう運命づけられているのだと確信しなさい。『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタ』に述べられているような、神が人間の姿をとった時には、人は神の行いを模範と御教えとして解釈すべきであって、娯楽のために演じられた人間の物語だと解釈してはなりません。

人の心は花の園であるべき

パーンダヴァ五兄弟は人間の性格の中の五つの性質であり、誰もが長兄の示す模範を見ています。それは最も高潔で最も正しい模範です。ラーマは、ダルマを迂回しようとさせるどんな誘惑があっても、一切妥協することなくダルマの原理に立脚した手本です。ラーマは、カーストや信条の優越にまつわる一切の考慮を超越した愛、動物や鳥や人類に拡げられた愛に満ちていました。エゴと貪欲によって錠がかけられた扉を開くための鍵は、愛です。

もしあなたの行動が他の人を軽蔑、あざけり、皮肉、憎しみで汚すことを自分に許すなら、あなたはインドの汚れなき名前を汚すことになります。インドの文化、インドの伝統はそれを黙認しないでしょう。神は一つである、そして、神はさまざまな名前と姿で知られる、知られ得る、とインドは宣言してきました。神は万人のハートの中に座している、とインドは言明してきました。サティヤ サイ オーガニゼーションの紋章を見てごらんなさい! それはあなた方に、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、拝火教徒、仏教徒、キリスト教徒は皆、同一の完結をめざして、同一の神を崇めているということを告げています。人間の心は、色とりどりの花の園、ナンダナヴァナ〔幸せの森〕であらねばなりません。クリシュナは必ずや喜んでそこで踊り、その園の木陰で人を魅了する笛を吹くことでしょう。

神への愛が浸み込んでいるハートが暴力的な思考を抱くことは、決してあり得ません。神の御前にひざまづく一方で、自分にひざまづくよう人々に強要するのは、まったくの偽善です。神は愛です。神は平安です。神は力です。神と触れ合った人が、どうして尊大で、辛辣な人間でいられるでしょう? なぜ相変わらず動揺し、怒るのでしょう? 弱く、揺れ動いているのでしょう? 自分は神と触れ合ったという主張は、滑稽な自惚れにすぎず、本当ではあり得ません。木は、その木になった果実によって評価されます。

人々のリーダーたちは、10年単位で変わってしまうような政治的な境界線や、一時的な必要に合わせるために添えられたり外されたりする宗教的なレッテルに制限されない、普遍的な気持ちを持たなければなりません。この国の何百万人という人々から、あらゆる寺院、供犠の斎場(ヤグニャシャーラ)、聖河の水辺(ティールタ)、海に面した神聖な場所、神社、祭壇から、何十世紀もの間わき起こってきた祈り、それは、

サルヴェー ジャナーハ スキノー バヴァントゥ
世界のすべての人々が幸せになり栄えますように

サマスタ ローカーハ スキノー バヴァントゥ
すべての世界が平安と繁栄を得ますように

というものでした。ですから、全人類のために祈りなさい。ロシア、中国、アフリカ、パキスタン、世界のすべての国々、すべての場所のすべての存在の、繁栄と幸福、平和と進歩のために祈りなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C15