サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年1月3日
場所:ラージャムンドリー市
全インド バル ヴィカス グル大会の御講話より

教師ではなくグル

教育は、謙虚さをもたらし、人に豊かさを授ける典拠を与えます。その豊かさの助けを借りて、慈愛と思いやりは実を結びます。このようにして、現世での幸福と来世での平安を勝ち得ることができます。ですから、教育は人類にとって大きな建設的力なのです。ところが、改革派と再建主義者たちが教育のプロセスをあまりにもいじくりまわしたために、教育は今、風刺されるほどに退化しています。教育システムの有効性と、それが人間に与えることのできる利益は、無視され、軽んじられています。今では、物質世界の情報を集める技術に教育という名前が付けられています。人間性を神性へと変容させるというはるかに重要な務めは、人には理解できないものとして放置されています。

古代の教育理念と現代の慣行との違いは驚異的です。現代では、授業料を払わなければ、志願者に教育課程は与えられません。教師も、もし月給が支払われないなら、自分には教える義務はないと感じています。学生は教えてもらうためにお金を払い、教師は教えることに対してお金を払われているのです。何が教えられ、どのように学ばれるかは、お金次第です。「払って受け取る。払われて与える」というのが、教える者と教えられる者の間柄になっています。この取り引きには、「愛と敬意と情」は存在しません。それでどうして教育が実りあるものになれるでしょう? ゴーカク博士は今しがた、教師が教え子を愛しているとき、教師は自分の周りに座っている教え子たちの愛という報意を得る、と言いました。今、教え子たちは自分が持ってくるお金目当てで愛されているのですから、教師と教え子の関係は、表面的で、ハートに根差していません。

最も豊かな文化遺産の継承者

教師と生徒は、お互いに報酬を計算しない愛で結びついているときにだけ、喜びに浸ることができるでしょう。物質的な利益が目的ならば、その喜びは物品に基づくものであり、心には響きません。その喜びは、清らかなもの、安定したもの、本心からのものではあり得ません。

あなた方は、全国のバル ヴィカス〔子供の開花。バーラ=子供+ヴィカス=開花〕教室の教師として、金銭的あるいは物質的な利益を期待していません。ですから、あなた方には愛の光によって子供のハートと知性を花開かせる十分な機会があります。私に言わせれば、現代の教師たちは、ほとんどが西洋式の教授法を専門としているので、自分たちの文化をよりどころにするということがなくなり、そのせいで、魂の深いところにある泉に気づいていません。

教師たちは、物質的、世俗的、利己的にさせられています。教師たちは、五感の快楽の追求と、お金を稼ぐことに没頭しています。教師たちは、真の教育とは子供が自分の中に潜在している神性を現すのを助けることにある、ということを知りません。あなたのところに来る子供たちは皆、世界が与えうる最も豊かな文化遺産の継承者だということを覚えていなさい。子供たちは、古代の聖典の中で、この国の聖賢や学僧たちに「不滅なる者の子供たち」と称賛されています。その子供たちを、数学の達人にはなったけれども自国の通貨の簡単な計算もできない人にしてはなりません。アメリカの地理の専門家にはなったけれどもカーシー〔北インドの大聖地〕の方角を知りたがっている巡礼者にその方向を示すこともできない人にしてはなりません。代数の天才であっても自分の生家の部屋数や面積も答えられない人にしてはなりません。教練や体操のエキスパートではあっても蓮華座(パドマアーサナ)で座るようにと言われて途方に暮れるような人にしてはなりません。植物学に精通していてもインドのどの家庭の中庭にも植えられているトゥルスィー〔クリシュナ神にまつわる神聖な植物〕は何に使えばよいかを知らない人にしてはなりません! 犬やキツネの絵を写実的に描くことはできても手書きの文字はいつまでたっても乱暴で読みにくいような人にしてはなりません。こうした現行の教育制度の産物によってインド文化が保護され、育まれることなど、どうして期待できるでしょう? この責任は、子供たちをそのような道に連れてきた教師たちと、現行の教育制度を考案した教育行政の両方にあります。

教育の高次の目的を知っていなさい

これらの間違いの訂正は、教師から始めなければなりません。教師は、教育の高次の目的と、国の子供たちを導くべき行き先を、知っていなければいけません。

この国で古代から大切にされてきた霊的理想を求めて、私たちのバルヴィカス教室の生徒と教師の双方の間に、今、強い熱意が広まっていることを私は知っています。しかしながら、私は、あなた方教師には子供の教授法のトレーニングを受ける重要で切迫した必要がある、と言わざるを得ません。たとえば、バジャンや詩や聖歌を教えるとき、教師はそれぞれの音の正確な発声の仕方や、それぞれの文字の正しい発音に注意を払わなければなりません。なぜなら、それらが違っていると、その意味が見る影もなく歪(ゆが)められてしまうことが多々あるからです。

「読み書きそろばん」は、今、最も軽視されている

昔、教師は新しい単語が出てくるたびに、語源や語根を生徒に説明することに細心の注意を払っていました。「サ」〔~と共に〕や「トワム」〔あなた〕といった語についてさえもです。教師は、ただ単語の意味を教えただけでなく、語根を掘り下げて、関連する数々の語の広大な眺めと、意味深い語彙の膨大な広がりを、生徒の前に開示していました。

インドの諸言語の単語は他の単語とつなげて書かれたり発音されたりすると変形するので、あなた方には単語単体を個別に認識して識別する方法を教えるという義務があります。少年たちは〔テルグ語で〕、「ラームニトー カピヴァールドゥ イトラニイェー」(ラーマと共に、猿たちの王はこう語った)と書く代わりに、「ラームニトーカ ピヴァルドゥ イトラニイェー」(ラーマの物語を、ピヴァラはこう語った)と書くかもしれません。

私は以前、真実の道を放棄して己を堕落させる物質的快楽を追い求める、という人々の間違いを指摘するために、「サンタ パコディール」という言葉を使ったことがありました。私は、物質的快楽を、「サンタ」(お祭りや家畜の品評会のときに開かれる村の市場)で売られている「パコディール」(辛い揚げ物)になぞらえたのです。というのは、人々は色に引かれて体に悪いものが入っている物を食べ、健康を損なうからです。テルグ語をあまり知らなかったカストゥーリ〔サナータナ サーラティ誌の編集長〕は、「サンタ パコディール」を「サンタパ」と「コディール」に分けて、意味をわからなくしてしまいました。なぜなら、「コディール」は鶏という意味で、「サンタパ」は、「ピヴァルドゥ」同様まったく意味の存在しない、ただの音の羅列だからです! 単語やフレーズの意味に注意を払いながら声に出して読むという訓練をさせないかぎり、このような誤りが繰り返されるでしょう。「読み書きそろばん」の三つは、今、最も軽視されている技能です。

書くこともよく教えなければいけません。なぜなら、一つひとつの文字の正しい形を知ることは、すべての人が習得すべき知識だからです。さもなければ、ほんの小さな書き間違いが、高尚な考えをわけのわからない言葉に変えてしまうかもしれません。「リシコーティ」〔聖仙の千の御名〕という単語を、間違ってテルグ語の文字の上向きの曲線を一本抜かして書いた結果、「ブッシュコート」〔サファリジャケット〕という文字になってしまい、そのせいで文章全体がわけのわからないものになってしまったことがありました! 細かな世話と、しっかりと注意して見ていることだけで、生徒たちにこのような誤りをさせないようにすることができます。

子供にとって価値のある本を学びなさい

私が一つここで強調しなければならないポイントは、現在の学校で使われている、いわゆる学者と呼ばれる人たちが出版した本を扱う際には注意が必要である、ということです。それらは、『ラーマーヤナ』のような大叙事詩の真実に疑問を投げかけ、ダシャラタ王やラーヴァナは実際の歴史には存在していなかったと主張しています。それらは、ダシャラタ王やラーヴァナを、対抗文化の象徴やシンボル、アーリア人と非アーリア人であると見なし、内紛や憎しみの種を蒔いています。そのような文章によって、子供たちは、善や真実や美の根底に疑問を持ちはじめ、正しい行いや振る舞い、正しい理想や生き方を決める際に混乱してしまいます。

あなた方は、子供の前に置く物語や記述の一つひとつを、個人の信仰と社会の調和という見地から吟味しなければいけません。「これは、より善良で、より和を持った、より神に向いた生活へと子供を招くだろうか?」。これが、あなたが自分に問うべき質問です。『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の神話集〕において、プラフラーダ〔羅刹王ヒランニャカシプの幼い息子でナーラーヤナ神の偉大な帰依者〕は、歓迎すべき規律について遊び友だちにアドバイスをしているときに詠った詩節の中で、この原則を美しく要約しています。

神の栄光を述べている本の学習は、価値のある学習
神の栄光について教える師は、求め、尊敬すべき師
神に近づくようにと言う父は、
子が敬い、服従するに値する父
そうでないなら、それには値しない

丘や山々は石や岩で覆われています。彫刻家はそれらを集め、それぞれの石を、特性と特徴に応じて、有益で美しいものに形作ります。職人は、岩を刻んで、一般家庭の台所の隅に置く巨大な乳鉢と乳棒を作るかもしれません。彫刻家は、別の岩を粗く削って、邪眼〔嫉妬や悪意の視線〕を撃退するために家の外壁に取り付ける、不気味な怪物の彫刻を作り出すかもしれません! 三つ目の石は、美術館の棚を飾る魅力的な小さな踊り子の少女に変身するかもしれません。別の石は、熟練した彫刻家の目と注意を引き、神殿に安置されて何世紀にもわたって何百万人もの崇拝を受けるにふさわしい、神の像に昇格するかもしれません。

親は子供の教育の重要な役割を担っている

どの石も同じ一つの山の子供でしたが、彫刻家から与えられた留意と献身に応じて、それぞれ異なる運命を得ました。教師は石を、美しさと意味、有用性とインスピレーションを備えたものに形作る彫刻家です。教師は生徒の性格や素養を考察し、その教え子の社会での役割や道、進歩の段階を判断します。 しかし、彫刻家すなわち教師は教育の過程で考慮されるべき唯一の要因ではない、ということも指摘されねばなりません。子供の母親と父親には、教育の過程での重要な役割があります。電流を作り出すにはプラスとマイナスの両方がつながらなければなりません。神でさえ、信者を地獄落ちから救おうという自らの意志を果たすためには、信者の切望と努力を必要とします。あなたは花も長い糸も針も持っているかもしれませんが、花輪を作る人がいなければ、どうやって花は糸に通されることができるでしょう? あなたはランプも油も芯も持っているかもしれませんが、誰かが火を灯してランプを点灯させたときにだけ、あなたは光を得ることができます。それと同じように、親が教師と生徒を連れてきて、学ぶこと、教えること、そして、愛情深く自分の知識と経験を分かち合うことを、助成しなければいけせん。そうすれば、教育は進み、祖先たちが残してくれた遺産を子供たちが継承できるようになるでしょう。

教師は、生徒に愛を注ぐことによって生徒の敬意を勝ち取らなければいけません。生徒は、先生に敬意を浴びせることで教師の愛を勝ち取らなければいけません。これは相互のやり取りであり、ハートの感情を分け合うことです。疑いや憎しみが根底にあったら、どうやってその上に学びと教えにふさわしい空気を築くことができるでしょう? 現代では、教師の恐れと疑念、生徒の敵意と厚顔によって、空気が汚されています。そこには、教える者と教えられる者の関係を円滑にするための愛がありません。

グルは神に等しい

私たちは、グル〔導師〕は神に等しいと称賛されているということを聞きましたね。ゴーカク博士は、グルは三位一体による最初の創造を司(つかさど)るブラフマー神であり、次なる維持を司るヴィシュヌ神であり、最後の破滅と終結を司るマヘーシュワラ神であるとして、畏敬をもって見られている、という詩節を引用しました。この説明は、教師すなわちグルが果たすよう期待されている仕事を分析すればわかるとおり、象徴として正しいものです。

グルは生徒のハートに美徳と英知と信仰の種を蒔きます。ですから、グルは創造主の性質を備えたブラフマー神です。グルはよく耕した自分の畑に苗を植える農夫のようなものです。

苗を植えた後、農夫はただ手を合わせて座ってはいません。農夫は絶えず苗の世話をして、元気によく生育しているかを見ています。農夫は、育っていく作物に油断なく水をやり、成長の適切な段階で肥料を与えます。教育と教育者にとって、これはヴィシュヌ神の役割です。最初の数回の授業が終わったら、グルは座って静かに生徒の運命を見物していることはできません。グルは、生徒の一歩一歩をすべて導き、良い習慣、健全な判断力、正当な感情を育んで助成し、三位一体の二番目のヴィシュヌ神として行動しなければなりません。

教師は生徒の高次の資質を呼び起こすべし

さらにグルは、生徒の歩みを一歩一歩すべて見ていて、生徒が間違った一歩を踏み出したり、悪い習慣を身につけたり、害のある疑いを抱いたりしたときに生徒を注意する、という義務を与えられています。グルは、雑草や害虫の繁殖をいつも警戒していなければならない農夫のように、悪徳という害虫と、怠け心や不規則という雑草を除去するために、つねに警戒していなければなりません。

「教師」という言葉では、これらの高い役割を表すことはできません。「教師」という言葉で表すことができるのは、情報を伝えてスキルを養成する人、という意味だけです。私は、バルヴィカスの教師を、今後、「グル」という、はるかにふさわしい名前で呼ぶよう指示します。そうすれば、あなた方は常に、自分が担わなければならない霊的役割とその責任と価値を、意識していることができるようになるでしょう。あなた方はランプであり、生徒たちのみずみずしいハートは、そこから光と愛を受け取らなければなりません。あなた自身が真実、正義、平安、愛を貫くことによって、あなた方はこれらの資質を、自分のもとに来る生徒の内側から、そして、その子たちの家庭の中から、呼び起こさなければなりません。

この大国の未来を思うとその見通しに身震いしてしまう多くの人がいます。あなた方は決してそのような疑いや恐怖を心に抱いてはなりません。なぜなら、あなた方は未来を築く人であり、未来は明るいものであるということを知っているからです。あなた方が導き、感化しているバル ヴィカスの子供たちは、この国の将来のリーダーとなるでしょう。あなたが子供たちに植え付けている美徳、与えている助言、そして、目の前に置いている模範は、子供たちの記憶に刻まれたままあり続け、来るべき日にその子の物の見方と行動を変容させるでしょう。誰かここに集まっている人に、今朝読んだ本の内容を思い出せるかどうか尋ねてごらんなさい。この大群衆の九十五%はそのテストに合格しないでしょう。一方、自分が小さかったときにおじいさんやおばあさんの膝に座って教わったストートラ(賛歌や道徳的な詩)を思い出せるか尋ねれば、あなた方のほとんどがそのストートラや詩節を唱えることができるはずです。そうした幼少の早い年齢のときに学んだことは、記憶に残り、成長していく心に微妙に静かに働いて、後の年齢の行いを修正して清らかなものにするのです。

霊性教育は人生の早くに始めるべし

近視眼的な批判者の中には、霊的なことは子供に伝えるべきではない、なぜなら子供は幼すぎてその教えの恩恵を体験できないからだ、と断言する人たちがいます。しかし、行うに値することを行うなら、早ければ早いほど良いのです。「早めに出発、ゆっくり運転、安全に到着」というスローガンは、道路や鉄道での旅にだけでなく、非真から真実へ、暗闇から光へ、死から不滅への旅にも当てはまります。今の世界を苦しめている不安、心配、恐れ、憎しみは、人の感情や情緒を整えることのできる規律を成長期の子供たちから遠ざけていたことが、主な原因です。

人々は、危険を承知で、教育のこの不可欠な務めを先延ばしにしています。なぜならば、子供たちが心のバランスや平等観、調和や平安を確保するための規律を身につけたとき、子供たちはもはや、荒れ狂う冒険や不毛の活動に巻き込まれ得ないからです。あなた方は、情報を提供する科目のカリキュラムと平行して、霊的規律も身につけなければなりません。あなた方は、文学修士や理学修士といった生計を立てるに役立つ資格と平行して、不滅の子供(アムルタッスヤ プットラ)になるという、ウパニシャッドが提供している高次の修了証書も取得しなければなりません。

人は皆、幸福の秘訣を学ぶべし

しかし、活発な奉仕活動から引退してから突然サーダナ(霊性修行)に取り掛かることはできない、ということを覚えておきなさい! あなたが肉体的に衰弱し、迫り来る死に飲み込まれたとき、霊的なサーダナを学ぶことは不可能です。この世から離れる必要が差し迫り、自分自身が悲しみに飲まれているとき、親類縁者が皆、涙を流し、声を上げていつまでも泣いているとき、どうやって自らの救い主である神を思うことなどできるでしょうか? できません。

誰も皆、幸福の秘訣を学ばなければいけません。その秘訣は、神より劣るもののために涙を流すのを拒むことにあります。あなた方は、徳を積むために何度も生まれ変わってきた報いとして、今の人間の体を、人間としての生を、獲得しました。あなた方は、このチャンスを、サイのダルシャン(見ること、謁見)を得ることができるという類まれなる幸運を、獲得しました。あなた方はこのサムサーラ(世俗の生活)という激動の海に飛び込んで、サイの恩寵という貴重な真珠を手にし、英雄のように海の底から浮上してきたのです。あなたの手から真珠が滑り落ちて再び海の底に沈んでしまわないようにしなさい。しっかりとその真珠を握っていなさい。それを永遠に持ち続けてそれが与えてくれる喜びで満たされることができますように、と祈りなさい。それが、今生を実りあるものにすることのできる方法です。

バル ヴィカスの子供たちに両親を敬うよう教えなさい。これは一番最初にすべきことです。これは人生のための物質的な道具〔人間の体〕を授けてくれた人への、シンプルな感謝の行為です。しかし、ただ人間の体を所有しているだけでは、それがいかに素晴らしいものであったとしても、平安と喜びを得るには不十分です。人はその謎を解き明かす方法と、自分の衝動や渇望を規制する方法を知っていなければなりません。このプロセスはグルによって達成されるのですから、生徒たちにグルのその奉仕への感謝の気持ちを持ってグルを敬うことを教え、奨励しなければなりません。

教育は、生計をもたらすことを目的とするのではなく、生きる価値のある人生をもたらすことを目的となければいけません。そのためには、手や頭のスキルを取得するだけでは不十分です。自分の真我と、真我の神性を信じることが、絶対に不可欠です。これは、私たちの古来の経典と、あらゆる国と宗教の聖人賢者の経験に蓄積された、英知という貴重な財宝です。

宗教は一つしかなく、それは愛という宗教

私が強調したいもう一つのポイントがあります。何人かの教師が、バル ヴィカス教室はどんな宗教の子供にも施すことができるのか、それとも、ヒンドゥー教の子供だけに許可したほうがよいのかと、私に尋ねました。この質問が上がったのは、質問者がヒンドゥー教の根本原則を知らないからです。覚えておきなさい、宗教は一つしかなく、それは愛という宗教です。カーストは一つしかなく、それは人類というカーストです。バル ヴィカス教室では、宗教、カースト、信条、肌の色に基づく「差別」を、ほんのわずかでも助長したり、心に抱いたりしないよう、注意しなければなりません。

ある子供と別の子供を差別する差別意識を感染させて、子供たちのきれいな心を汚してはなりません。すべての子供に等しく教えとインスピレーションを授けなさい。子供たちに善良な人生の価値に対する関心を持たせるために、あらゆる宗教の経典から物語を選びなさい。子供たちに、あらゆる土地の道徳的な英雄、あらゆる宗教の聖人について話しなさい。なぜなら、彼らには皆、同じ印があるからです。暴力を行うよう命じていたり、虚偽という生き方を定めたりしている経典は一つもありません。どの宗教も、真実、正義、平和や兄弟愛、そして、愛を賞賛しています。どの聖人も、奉仕と思いやり、そして、放棄の権化です。

神の化身たちを比較して、ラーマはクリシュナよりも偉大であるとか、シヴァ神はヴィシュヌ神よりも優れているなどといった決めつけを口にしてはなりません。こうした考え方は有毒であり、敬虔な求道者にとって有害です。あなた方は自分自身を知りません。それなのに、自分が経験や理解をしていない人物や力について判断を下すとは、何とあつかましいのでしょう。あなた方はラーマのこともキリスト同様知らないのですから、黙って両者を同じ温かな気持ちで敬うのが一番です。なぜなら、皆、同じ神の光輝の現れだからです。

私は、あなた方が自らに課した素晴らしい務めに成功し、この国の子供たちのために永遠の喜びという栄光の地へと続く道を照らすことができるよう、祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C22