サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年1月4日
場所:ラージャムンドリー
サティヤ サイ ババ 第6回SSO全インド大会の御講話(下)より

五歳の子供

人間の心(マインド)は欲望の束であり、常に動揺しており、絶えず走り回って物事を追いかけています。心の気まぐれの言いなりになれば、人は堕落します。しかし、人は心を支配し、手なずけ、物事への束縛からの解放を手に入れる道具として鍛造することさえできます! 心は解脱と束縛の両方の原因であると言われています。人がどうすることもできずに心の奴隷になっているのを見ると、私は着飾った人形が内蔵のトーキング ディスクが作動することでキーキーと甲高い声で話す様子が目に浮かびます。人形は機械的に動きます。支配的な欲望が人形の糸を引くからです。操り人形はその主人に指示された通りに話し、その欲望が敷いた線に沿って考えます。それゆえ、かなりの不自然さや言行不一致があるのです。

スクリーンに映し出される映画の光景は実際には何コマもの静止画であることを私たちは知っています。しかし、それらは照明を通して連続で速く写されるので、登場人物の男女が歩いたり、喧嘩したりしているように見えるのです。映画のサウンド トラックはふさわしいタイミングでふさわしい声や騒音を出します。そのため、あたかも登場人物たちが話をしたり、歌ったりしているように見えます。映画の映像はこのようにしてスクリーンに映し出されるものだとわかっていても、人は映画を見ると心を動かされて、悲しんだり喜んだり、憎しんだり同情したりするのです。

喜びと悲しみは心の変化

心が動揺させられ、そうすると、あなたも熱情や情動へと引き込まれます。あなたが座っている厚板が動くと、あなたも動きます。あなたが乗っている列車が速く走ると、あなたは外の木々も動いているように感じます。その一方で、地球が地軸の周りを自転し、太陽の周りを公転していても、心はあなたが地上で静止しているように感じさせます。これらはすべて心の仕業であり、真実を隠して、あなたの体験に心の幻影を押し付けているのです。実際の真実は、心が生じさせる真実の映像とは異なっています。

人が人生で経験する喜びと悲しみを個人の魂の性向のせいにするのは無知の行為です。他から切り離して考えなければいけません。上機嫌と憂鬱、快楽と苦痛、喜びと悲しみは、心の変化であって、個々の魂(ジーヴィ)の変化ではありません。外界の物や出来事に反応して、これは望ましい、あれは望ましくない、これは善い、あれは悪いなどと言うのは心です。このことは、なぜ心の気紛れを制御すべきかを明らかにしています。

心を支配している人は、自分の人生を、真実、正しい行い、平安、普遍的な愛の道の上に、まっすぐに、しっかりと向けることができます。そのような人は不滅の子(アムルタ プットラ)となることができます。不滅になるというのは、死を避けてずっと肉体の中に生き続けることができるという意味ではありません。それは、人の人格と功績が気高く有益なものであれば、その人の名と姿は人々の記憶の中で輝き続けるという意味です。あなたの行いが神聖なものであれば、次の世代の人々はそれを見習い、その模範に感謝の気持ちを示すことでしょう。しかし、もしあなたの行いが有害なものであれば、同世代の人々さえあなたを非難し、あなたのような人は生まれて来なければよかったのにと思うでしょう。

サティヤ サイ セヴァ オーガニゼーションには、あなた方が人々に何世代も自分の名前を忘れずにいてもらうのに必要な、あらゆる機会、あらゆる指導、そして、あなた方の望む励ましがあります。なぜなら、オーガニゼーションは、世界の平和と繁栄を築くため、社会における相互奉仕を促進するため、個人の無私の愛を培うために、懸命に努力しているからです。あなた方は、喜んで、まったく謙虚に、オーガニゼーションの様々な任務を分かち合いさえすればよいのです。

この宇宙は真実という土台の上に立っている

人間に「最高の目的」とは何でしょう? 人間の最も貴い理想とは何でしょう? ヴェーダは宣言しています。

サッティヤーンナースティ パロー ダルマハ
信実よりも高次の規範はない

宇宙という名のこの大邸宅は、真実、すなわち「サティヤ」という土台の上に立っています。

あなた方は皆、サティヤ サイ セヴァ オーガニゼーションの会員です。「サティヤ サイ セヴァ オーガニゼーション」の「サティヤ」は私の名前であるということを覚えておきなさい。「サティヤ」〔真理、真実〕は、オーガニゼーションのすべての活動はもちろんのこと、会員の一人ひとりを、形作り、支えるための第一の理想であらねばなりません。あなたの思考と言葉と行いにおける第一の場を「サティヤ」に与えなさい。

真理のみが慈善と富と善い関係を維持する

古代、サティヤヴラタ〔真実の誓願〕と呼ばれた王がいました。王にその名が付いたのは、真実がまさに王の生き方であり、目標であり、指針であったからです。王は真実を固く守ることで大きな喜びを得ていました。ある日のことです。夜明け前のブラフマ ムフールタ(神への瞑想に適した午前3時から6時の時間帯)に、王は海で沐浴をするために一人で城砦(じょうさい)の獅子門〔宮殿の出入口〕をくぐって出かけていきました。その日は沐浴の儀式をするのに適した日として暦に定められていた聖日だったからです。

獅子門をくぐっているとき、王は輝かしい後光の射した美しい娘を見かけました。その娘は誰なのか、なぜこんな早朝に外に出て行くのか知りたいと思い、王は娘に声をかけました。娘は、自分は富の女神、ダナラクシュミーであると答えました。

「私はここに長居していたので、変化が欲しくなりました。私は一箇所に長く留まりません」

「どうぞ、お行きください! 私は反対も邪魔もいたしません」と、サティヤヴラタ王は言いました。

ほどなく、魅力的で勇ましい体格をした一人の男が静かに獅子門から出て行こうとしているのが目に留まりました。王はその男はいったい誰で、何の用事で出かけるのかを尋ねました。

「私は慈善です。ダナラクシュミーが去った今、私がここに留まる理由がありますか?」と、慈善は答えました。王は慈善が立ち去ることを許し、慈善は出て行きました。

しばらくすると、また魅力あふれる別の人物が獅子門をくぐろうとしました。その人物は、社会的振る舞いの善良さの象徴、サダーチャーラでした。

「富と寛大さという性質がなければ、どうして善い社会的関係を維持できるでしょう?」とサダーチャーラは言いました。

「もうここに2人がいないので、私も立ち去るのです」と、サダーチャーラは説明しました。王は了承し、サダーチャーラも出て行きました。

同様に、次の転出者である名声は、先の3人が立ち去ったことを嘆き、自分も立ち去りたいと願いました。王は名声も行かせました。名声は言いました。

「富、慈善、幸せな社会生活がなければ、どうして名声が存在できるでしょう?」

王は、名声の言ったことは正しいと思いました。

そうしているうち、まばゆい光輝を放つ一人の男が、その都を去ろうとして城砦から獅子門にやって来ました。その男は、あなたは誰かと尋ねられると、「私は真理です」と答えました。それを聞くなり、王はその男に、ぜひこの都に、この王国に、この宮殿に、国民の家に、留まってほしいと嘆願しました。もし真理が出て行ってしまえば、損失は計り知れず、生活は無価値なものになってしまうと、王は言いました。そこで、真理は留まることに決めました。

すると、一瞬にして名声が城砦に戻ってきました。というのは、真理は名声が栄えるための十分な基盤だからです。それから、サダーチャーラが戻って来て、成長しました。慈善と富も戻ってきて、王国に根を下ろしました。皆、喜んでサティヤ(真理)の栄光を共に分かち合いました。

人生を善に捧げ、神に捧げよ

あなた方もまた、このサティヤの栄光を分かち合う喜びを、つまり、この私の栄光を分かち合う喜びを、見出さなくてはいけません。あなた方は私の名前を冠した団体の会員です。ですから、あなた方は一瞬一瞬、その責任を自覚して生きなければなりません。上級の名前を有するのであれば、下級な生き方をすべきではありません。神へと上がりなさい。獣性へと落ちてはなりません。ハゲ鷲が死肉の横たわる場所をもっと広く見渡そうとして高く飛翔するのと同じように、多くの人は低い地面をもっとよく見渡そうとして上がるだけです。

人間(マーナヴァ)は、神(マーダヴァ)の地位に到達しなければいけません。では、神とは誰でしょう? 真理が神です。愛が神です。平安が神です。真理を育て、愛を培い、あなた自身を平安の中に安住させなさい。あなた方は神への道の途上にいます。

水になりなさい、そうすれば水に溶け込むことができます。あなたが油のままであれば、水に溶け込むことはできません! ですから、神の特質を育てなさい。あなた方は今、神の手中にあり、神の世話を受けています。しかし、あなた方はそのことに気づいていません。私は今、手でハンカチをつかんでいますが、もし私が手を放せば、ハンカチは下に落ちてしまいます。それと同じように、もし神があなたをつかんでいなければ、あなたは下に落ちてしまいます。あなたが何をするにせよ、あなたがどこに置かれるにせよ、神がその仕事のためにあなたをそこに置いたのだと信じなさい。そうすれば、それは教育となり、霊性修行となります。今大会で、その教訓を学びなさい。あなたに割り当てられた仕事を喜んで行いなさい。そして、神のさらなる栄光のために、あなたの能力の限りを尽くしてそれを果たしなさい。あなたの人生を世俗的なものに捧げてはなりません。善と神に捧げなさい。

ペトロマックス〔圧力式灯油ランタン〕の明かりが暗くなると、ピンを使って煤(すす)を掃除します。調子が悪くなってきたら、ポンプを使って勢いよく空気を入れます。そうではありませんか? そうすればランプは明るく輝き、良い光を放ちます。全インド大会よりも短い間隔で開かれる州大会はピンを使う処置であり、全インド大会はポンプで勢いよく空気を入れる作業であると見なしなさい。

両方の大会の目的は同じであり、オーガニゼーションを通じて世界の平和と調和を確立することです。ランプであるオーガニゼーションにとっての灯油は愛です。ランプを灯すには少量のメチルアルコールを使わなければなりません。グニャーナ(至高の英知)がそのアルコールです。愛を堅実で普遍的なものとするにはグニャーナが少々必要です。そして、愛という灯油が豊富になければいけません。善い仲間、善い行い、善い思考――これらは大きな助けとなります。

これは第6回全インド大会です。これまで5回の全インド大会が開かれ、様々な計画と規則が決議されてきました。どんな進歩がありましたか? 私は、「我々は同じ場所にいる」と言わざるを得ません。進歩はまったくありません。5歳の子どもが遊び回り、五感によってあちらこちらに引っぱられるのは許されます。6度目の年(シャシティアブダ〔通常は60周年の意〕)は、あなた方が五感の束縛を解き、高慢と意気消沈の両方をなくし、信仰と信愛をもって自らの任務を大胆に実行しなければならないと、警告します。毎日、行いの一つひとつ、思考の一つひとつ、言葉の一つひとつを通して、あなた方はますます神に近づかなくてはいけません。それはあなた方に最高の至福を与えるでしょう。それは真の解脱を授けるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C24