サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年6月19日
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習におけるババの御講話より

サティヤ サイ ババとは誰か?

一風変わった風貌
丸い籠(かご)のような髪形
特定の宗教や宗派を示す印も、
特定のカーストを示す印も付いていない顔

素早く一瞬にして現れて、
現れたときと同じように素早く消えていく
そしてまた、突然、目の前に現れる

身にまとっているのは足元まで隠れるローブ
ローブは時に足を覆い、時に足を覆わず

彼が戯れ、歌うとき、
生来の美しさと魅力が明らかになる

これらは、彼の内にあるシヴァ シャクティ〔シヴァ神とその神妃〕の側面です。彼の髪形も、身体上の特定のマークも、身に着けているローブの種類も、彼の神性の手がかりにはなりません。これらの表れはすべて、外見上の若き日のサティヤ サイを指し示しています。彼はいつも微笑んでいます。あなた方は、彼の中にシヴァとシャクティの側面を見出すでしょう。これらの描写どおりの姿をしたサティヤ サイの神秘を、誰かが理解することなど可能でしょうか?

学生諸君、少年少女の皆さん!

この数日間、私たちは、学問と言葉の女神であるサラスワティーの側面や、バーラタやプラジャーパティといった名称を取り上げて、それぞれの意味を理解してきました。「神とは何なのか?」、「神に属性があるとすれば、それは何なのか?」 太古の昔より多くの人々がこれらを切に知りたがってきた、と言われています。「神の特別なパワーと力とは何か?」 これは、何千年もされ続けてきた一種の探求です。

これらの質問への返答は存在します。古代のマハリシ〔大聖賢〕たちは、タパス〔苦行〕をして、これらの問いの答えを手に入れました。光り輝く神がプラグニャー〔神の意識〕という形をとって自らの内に存在していることに、彼らは気づきました。また、自分たちが外側の世界の中で知りたがっているものは、プラグニャーナ〔至高の英知〕という形をとって自分たちの中に存在していることにも気づきました。人は、外側のヴィジョン〔肉眼〕を使うことで、ある程度は確かにこの神性に気づくことができますが、内なるヴィジョン〔内なる目〕を使えば、神をアートマ〔神我、本当の自分〕の本質として悟ることができます。これが、マハリシたちが理解して、人々に教えたことです。

これに関連して使われている、「チャルマ」と「シャルマ」という二つの言葉があります。これらは前に出てきたので、皆さんはこの二つの言葉の本質的な違いを知っていますね。「シャルマ」が内なる至福であるアーナンダを表しているのに対して、「チャルマ」は外側の覆い、つまり、人の体を覆っている皮膚を表しています。皮膚は人の体の中の器官を保護するために創られました。けれども、皮膚は人間性を覆い隠すことは意図していません。人間の体は「シャルマ」すなわち至福という内なる側面に気づくことを意図した道具である、ということを認識している人、あるいは気が付いている人は、正しい道にいます。

私たちは、この至福と幸福を体験することができる方法はすでに学びました。この至福をどのように得るかという知識だけでは、あなたに至福がもたらされることはありません。その知識を実践に移すことができたとき、初めてあなたは真の至福を楽しむことができるでしょう。もし宝石を見つけたければ、土の中と荒石の中を探さなければなりません。土の表面を探しても宝石は見つかりません。体は土に等しいものですが、あなたは体の中にいるときにだけ、神を見つけることができます。人間の義務はそうした試みをすることであり、そうすることによって、あなたは人間の体の中にある神の側面という宝石を見つけます。

今、人が払っている努力は、宝石の付いた金の器を手に入れて、それを毎日の食事を料理するのに使っているようなものです。アートマタットワ〔神我の原理〕という神聖な宝石を有する人間の体が、人の卑しい欲望を満たすために使われています。肥沃な土地を耕すために金の鋤(すき)を手に入れて、結局そこに雑草を植えるのは、愚か者ではありませんか? 自分の家でおいしい食事にありつけるのに、食べ物を乞い求めて街中を歩き回るのは、愚か者ではありませんか? それと同じように、あなたのハートの中に神聖な平安と幸福があるのに、自分のハートの内側に向かうことをせず、いたる所にそれらを探しに出かけることに何か意味があるでしょうか? 自分のハート以外の場所でパラマートマ〔至高神〕を探すのは愚かなことです。人は、神は遍在だと思いながら、実際には自分のハート以外のあらゆる場所で神を探しています。

プラーナ〔古代の神話〕は、パラマートマを様々に描写し、パラマートマはこれこれしかじかの属性を持っていると述べています。そうした描写はすべて、人々の内にある感情と、人々が自分で創作した神の絵に起因しています。神の本質を描写できる人は極めて少数です。神はすべてに存在し、すべての責任を負っていますが、神というものの意味を完全に理解するのは誰にも不可能です。すべては神であり、万物のどの側面も神の一面です。神はどこにでもいると明言して話をしていながら、神をどこか特定の場所に探すのは正しいことではありません。それでは意味がありません。

様々な人たちによる記述の一切は、述者自身の理想や長所と短所や好き嫌いを頼りとしたものです。彼らは自分の気まぐれな思いつきと空想に頼って神を様々に描写してきました。彼らのパラマートマの描写の基盤を形作っているのは、彼らがこの世で知覚したもの、彼ら自身の日常体験の一部をなすものです。しかしながら、彼らのうちの誰にも、神を正しく描写することは不可能です。実のところ、神の栄光を本当に体験した人は、他の人々に説明することはできませんし、それに着手することもないでしょう。まだ自分自身の弱点、欲望、気質を克服していない者が、神をこれこれこのような姿を持っているなどと描写するのは、正しいことではありません。そのような描写は中身のないものです。自分自身がグナ〔属性〕に追従しているとき、どうしてグナを超越している神を認識して描写することができるでしょう? ですから、そういう人が神を描写するとき、それはその人自身の体験に基づいたものではなく、他人が書いた本で読んだことに基づいたものです。

海はとても大きく、広く、無限ですが、一人の人が海から汲むことのできる水の量は、その人の持っている器に入る分だけで、それ以上は汲めません。どの人も一定の限度に縛られています。人々が把握できるのは神の特定の一面だけですが、その一面が神の全体像を表していると人々は考えます。

無限なる神の性質を限られた狭い空間に閉じ込めることなどできるでしょうか? ヴィシュヌ神の信者は、すべての中で最も偉大なのはヴィシュヌ神であると公言します。シヴァ神の信者は、シヴァの相が最も偉大であると公言します。ガナパティ〔ガネーシャ神〕の信者は、すべての神々の中で最も偉大なのはガナパティであると言います。シャーラダー〔サラスワティー女神〕の信者は、神の最高の様相を表しているのはシャーラダーであると請け合います。アッラーの信者は、アッラーが最も偉大であると公言します。さらには、皆どれも同じだという人々もいます。神の様々な御姿の中で最も偉大なのは誰々だと言うことなど、どうしてできるでしょう? 何が本当の肖像となり得るでしょう?

これに関連して、適例を示したいと思います。七人の盲人が一頭の大きな象に近づきました。そのうちの一人が象のそばに行って脚に触りました。その体験に基づいて、その盲人は、「象は大きな柱のようなものだ」と言いました。別の盲人は象の耳を触って、「象は大きな団扇(うちわ)だ」と言いました。三人目の盲人は象の尻尾を触って、「象は太い縄のようなものだ」と結論を下しました。別の盲人は象の腹部に触って、「象は大きな壁のようなものだ」と判断しました。このように、盲人たちはそれぞれ象の特定の部分に触れて感じた結論を出しました。各人が自分の触った部分が象の全体の姿だと推論したのです。盲人たちは、それぞれ象の特定の部位を正しく完全に描写しましたが、一部分が象の全体の姿を表すことなど決してできません。象と呼ぶことができるのは、それらすべての部分の結合体です。

以上のように、人が普遍的な宗教を理解しようとするとき、人々は特定の側面を把握して、自分が把握したものが宗教の全体像であると思っています。普遍的宗教は、実に、そうした様々な人たちが把握したあらゆる側面の総体です。それは、世界の様々な宗教すべてに共通する一致した内容です。その構成要素のどれにも、同じ種類の健康な血液が流れていなければなりません。世界のすべての宗教の中に流れている血液は、プレーマ、すなわち、愛であると言えます。一つの宗教があるだけであり、それは愛の宗教です。愛は小川としてすべての宗教の中を流れていて、それこそがすべての宗教の本質です。すべての宗教の中に含まれている、このなくてはならない愛の小川を認識することなく、人々は外側の形と儀式だけに注意を払って、自分の宗教こそが偉大である、とお互いに言い争ってきました。外側の形だけに目を向けている人は、真理全体を把握することができません。

同様に、サイに関しても、外側に現れていることだけに基づいて、様々な人が様々な考えを練り上げています。彼らは、根本的な真理、サティヤ サイの中にある不変不滅の真理を認識するための試みをしません。あらゆる力はサイの支配下にあります。残念なことに、ヨーギ〔感覚を制御した人〕、マハーヨーギ〔偉大なヨーギ〕、パンディト〔賢者、学僧〕を自称する教養ある人々、あらゆる能力を有している人々が語るのは、私の行う奇跡のことだけです。彼らはサイの力と本質を理解しようとは試みません。近ごろでは、教育を身に付けた人々、自分の所有している学歴の種類を誇る人々が、大勢ここにやって来ますが、彼らはここに存在している真理に気がつきません。彼らはウパニシャッドやヴェーダやシャーストラに関する自分の知識ばかりを話して時を過ごします。彼らは、自分たちが話しているすべての基盤そのものがここに存在していることに気づかないのです。彼らはこの真理に気づくための試みをしません。多くの人は、自分の知識を非常に重視して、知識をひけらかします。そのような人々は、自分が今、知識の基盤そのものである場にいることに気づいていません。また、自分の知識をひけらかすよりも、この基盤のダルシャンを得ようとすべきであるということにも気づいていません。

そうした態度の人々を見れば、彼らは何ら本当の神性を体験したことがないこと、彼らが持っているのは何冊かの本で得た知識にすぎないことが、明らかになります。彼らは本当に重要な物事の知識は何も持っていません。神の本当の相を認識することは誰にも不可能です。太古の昔から現代に至るまで、人々の中に神が現れても、人が神の本質に気づいて、その真価を理解することは、ずっと不可能でした。その理由は、人々が惑わされているからです。

私の力には限りがありません。私の力と恩寵を、どこか一箇所に限定したり、閉じ込めたりする道理はありません。無限の力と無限の恩寵が、ここに、私の手の中にあります。時折、私自身に関して、このような事を話すことが必要になります。知ることを拒む人に話しても無駄です。知っている人には話す必要はありません。しかし、知ってはいても知らない人には、私が名刺と呼ぶものを与えることが必要になります。ですから、もし今日、私が私自身について皆さんに語ることに着手したのであれば、それは皆さんに私の名刺を与えることが目的であって、皆さんが心の中で考えているかもしれない他の目的のためではありません。

霊性の歴史全体をひもといてみれば、こうした方法で自らの神性をはっきりと公言したのはクリシュナ神だけだったということがわかります。そのクリシュナ アヴァターでさえ、明らかな後退、何らかの困難があった時期がありました。しかし、これは何も珍しいことではありません。それはあらかじめ仕組まれた現象にすぎず、神の側面の一部であり一端です。そういった後退は、試みは為されたけれども成果はなかった、ということを人々に知らしめるために仕組まれるのです。

クリシュナ アヴァターの時代、多くの王たちが、「なぜクリシュナがいたのに恐ろしいマハーバーラタの戦いが起こってしまったのか?」、「なぜクリシュナは和平交渉をして戦争を止めようとしなかったのか?」ということについて、クリシュナに尋ねました。これに対して、クリシュナは、「自分はもちろん努力したけれども成功しなかったのだ」と答えました。これをクリシュナの失敗と解釈してはなりません。実のところ、それはクリシュナ自身が考え出した計画によるものです。クリシュナは、自分はできる限りのあらゆる努力をしたけれども、邪悪なカウラヴァ兄弟はクリシュナの忠告に注意を払わなかったということを、世間の人々に見せて、知らせたかったのです。そうすることで、人々も、努力は為されたけれども、カウラヴァ兄弟は邪悪だったのでクリシュナの言葉に耳を傾けなかった、ということを納得することができました。以上のように、クリシュナは交渉を行い、カウラヴァ兄弟は邪悪で、平和を得ることには関心がない、ということを人々に示しました。

国の特質、人々や環境によって、神はそういった立場を演じて特定の事柄を行う振りをすることが必要になります。このサイ アヴァターにおいては、そのような振りをする余地もなければ、そのような後退をする場もありません。私がサンカルパ〔神の意志〕として請け負ったことは、必ず実を結びます。しかし、私は自分が望まなければサンカルパを請け負う必要はありません。私自身の思いや、サンカルパや、考えは、帰依者自身がどのような行いをするかにかかっています。私の恩寵は、すべての帰依者が得ることができるように、たっぷりとあります。私が普通の人間のように動き回り、皆さんと話したり戯れたりするため、多くの人は私の本質を理解できません。この点については、卓越した精神力を持つ人々でさえ、このサイの本質、外観と真の内面の違いを認識できずにいます。私の目的は、人類の間に一体性を確立し、ブラフマンという、人が求めるべき唯一のゴールである神性の側面を人類に明らかにすることです。あなた方に人と人との間にあるべき類の関係を気づかせること、神性は万人の中に隠れて存在していることを気づかせることもまた、私の義務です。人は、単にヴェーダを唱えることや、華々しくスピーチをしたりすることで偉大になるわけではありません。私がそういったことをしないからといって、私が卑小な存在になることはありません。私は最も難しい問題を解決する能力も持っていますが、私がそうした能力を持っていない振りをして、あたかも問題を解決できないかのように話しているというだけの理由で、私は単に奇跡を行う人間で、それ以上の存在ではない、と考えるのは大変愚かなことです。

私が行う奇跡は、象の体に蚊が止まったときの感覚のようなものです。奇跡は、私の完全性においては無意味な部分です。時たま、私は、人々が私の奇跡を重視するとき、その人たちの無知を笑いたくなります。人々はそういった小さなことだけを話題にし、私の中にある遥かに大きな側面を忘れています。私の中の最も神聖な特質はプレーマ〔真の愛〕です。プレーマは計り知れないものです。どれほどそれを試みたところで、人が私のプレーマの大きさを測ることはできません。それは無限であり、理解不可能です。私の中のプレーマの存在を認識している人だけが、私が誰か、私は何か、という見解を幾ばくか得ることができます。

学生諸君!

神に到達する唯一の王道はプレーマの道であることに気づき、それを完全に理解しなさい。皆さんは、神の蓮華の御足においてのみ、プレーマの甘い蜜を味わうことができます。その甘い蜜は、蓮の花の中から得られるものであり、神の足に蜜を塗りつけたようなものではありません。「蓮」という言葉に関連して、私たちはこの言葉のもう一つの意味にも気づかなければなりません。蓮は泥水の中に生息し、泥の中から生えてきます。にもかかわらず、蓮は泥も水も吸収することはありません。水がなければ、蓮は一瞬たりとも生きられません。興味深いのは、蓮は水があってこそ生きていけるのに、自分の中に水が入り込むのを許さないことです。

それと同じように、人間の生命は泥に匹敵するものの中で生まれ、水に匹敵するような物質世界の中で成長します。泥から生まれて水の中で生きながらも、泥と水に汚されずにいることは、神の御足の特徴です。だからこそ、神の体の様々な部分はすべて、蓮華の御足、蓮華の瞳、等々というように、「蓮」と呼ばれるのです。

以上のように、何であれパラマートマ〔至高の神〕がすることは、無執着で行われ、自らはその影響を受けません。神は常に純粋で清らかです。神のヴィジョン〔見えるもの、見方〕は常に清らかで、神の心〔マインド〕は決して汚されません。ヴィジョンが清らかで、心が波打たないことは、神の特徴です。何か油の付いたものを手でつかむと、手のひらがべとべとになり、石鹸や洗浄剤で洗わなければならない、というのは日常的な体験です。しかし、舌は脂っこいものを食べても決してべとべとにならない、ということを覚えておきなさい。舌はべとべとにならないので、常に清らかなものであると見なされています。それほどのものである舌は、ゴーヴィンダ、マーダヴァ〔クリシュナ神の別名〕等々といった神聖な言葉だけを口にするために使われなくてはなりません。そうした神聖な言葉を発する資格は、舌だけにあります。なぜなら、他の器官はすべて、自らに油が付着するのを許しているからです。

インド女性には、目を美しく見せるために瞼にアイラインを描く習慣があります。アイラインを描くとき、眼球に染料が付着するのを許す人は誰もいません。眼球が染料を受け入れないのと同じように、「ヴィジョンは常に完全に澄みきっているべし、決して邪悪な考えを抱いてはならない」と、私たちのシャーストラ〔法典〕は述べています。「グニャーナ」〔英知〕という言葉のもう一つの意味は、ヴィジョンです。シュルティ〔天啓経典〕は、「不二の側面に気づくことそのものがヴィジョンである」と教えています。「ヴィジョン」という言葉を使うとき、そこには、「見ることができるのは目だけである」という意味が含まれます。なぜなら、体の他の器官は見る能力を持っていないからです。これに関連して、私たちは自分のヴィジョンそのものがグニャーナドルシティ〔英知を通して見ること〕であることを理解します。このことに加えて、私たちのヴィジョンはもう一つの教訓も説いてきました。もし誰かがやって来てあなたの目の前に立てば、あなたはその人の瞳の中に自分の姿を見ることができ、その人はあなたの瞳の中にその人の姿を見ることができます。この過程において、自分の姿を見ることを可能にするために、姿を映し出す鏡として目が用いられていることに気づきます。それと同じように、もし神のヴィジョン〔御姿を見ること〕を得たいと望むのであれば、神を映し出すものとして、英知の目を用いなくてはなりません。世の中のものを見たいと思うとき、私たちは目を見開いてよく見ます。もし見えなければ眼鏡の助けを借ります。

しかしながら、神のヴィジョンを得るために寺社に詣でると、私たちは目を閉じてナマスカール〔合掌〕をします。これはどういう意味でしょう? あなたは寺院へ詣で、神を見たいと望み、目を閉じます。その意味を考察すべきです。神のヴィジョンを得るという試みにおいては、肉眼は役に立たず、英知の目、すなわちグニャーナ ネートラを使わなくてはなりません。あなたが目を閉じるのは、神を見るのに肉眼は役に立たないということを、あなたが理解していることを暗示しています。したがって、あなたが肉眼で見ているものはすべて非真実であり、英知の目を用いることのできる人だけが神の真の姿を得ることができるということになります。

ジャナカ王の宮廷では、王が偉大な学者たちを招いて学者たちと意見を交わす慣例がありました。ジャナカ王の宮廷で許されていた問答には三つの種類がありました。第一の種類は、議論、すなわち言葉を交わすことです。第二の種類はジャルパ、第三の種類はタルカ、すなわち論法です。最初の種類は、自分が言いたいことに徹底して注目し、自分の見解を表すのにどんな方法でも採ることができるということを意味しています。第二の方法であるジャルパは、シャーストラを用いること、すなわち、聖典から引用すること、そして、その引用の助けを借りて自分の見解を立証することで成り立っています。第三の方法であるタルカは、自分の考えを裏付けるためにヴェーダを引用することによって深い論法を用いることで成り立っています。この方法は深い分析法の一つであり、ヴェーダの権威を引用することによって、自分がしたいことを論理的に立証するのです。

かくのごとく、ジャナカの宮廷では三種の発表をする準備が整えられていました。大勢の名高い学者が宮廷に入ってきました。高度の専門知識があることを示す様々な肩書きを持つ人々が参加しており、彼らは博学を象徴するルッドラークシャ〔インド菩提樹の実の数珠〕を身に着けていました。その中に、アシュターヴァクラ〔八つ曲がり〕という名の、とても若く、野心に燃える学者がいました。アシュターヴァクラが討議に加わるために宮廷に入ろうとした時、年長の学者らは、若輩のアシュターヴァクラと議論するのは自分たちに相応しくないと考えました。このような態度は、知力に関する驕りと、学識からの高慢を示しています。彼らは何とかしてアシュターヴァクラの参加を阻止しようとしました。しかし、アシュターヴァクラは頑として譲らず、ジャナカ王に嘆願して宮廷に入る許可を得ました。

宮廷に入ってきたアシュターヴァクラを見た学者たちは、皆、大声を上げて笑いました。そのお返しに、アシュターヴァクラはもっと大きな声で笑いました。パンディト〔学僧〕たちは、いささか驚きました。というのも、自分たちが笑うのにはもっともな理由があるけれども、アシュターヴァクラが笑うもっともな理由は見当たらなかったからです。アシュターヴァクラは一人のパンディトに止められて、なぜ笑ったのか理由を述べるよう求められました。パンディトの一人が、「アシュターヴァクラの湾曲した体を見たら、誰でも笑いを抑えることはできない」と、〔自分たちが笑った理由を〕述べました。するとアシュターヴァクラは、「もし聞きたければ、私が笑った理由を教えてもいい」と述べました。アシュターヴァクラは、「多くの学者が来ると聞き、会に参加しようと宮廷に来てみたが、ジャナカ王がこんなチャルマカーラたちを本物のパンディトや学者と勘違いしていることがわかったので、笑わずにはいられなかった」と言いました。アシュターヴァクラが靴職人のカーストを指すチャルマカーラ〔チャルマは皮革の意〕という言葉を使ったので、パンディトたちは皆、激怒しました。アシュターヴァクラは、「パンディトたちを靴屋と呼んだのは、履物に使われている革の質がわかるのは靴屋だけであり、パンディトたちは外側の体を覆っている皮を重視して靴屋のように振る舞ったからだ」と言いました。

内なる目でハートの内側を見ることができるパンディトだけが、真のパンディトです。その反対に、もし外側の姿だけを見て、それを過度に重視するなら、アシュターヴァクラが言ったとおり、そのパンディトは靴屋と同じ部類に属するでしょう。私が与えるヴィブーティ〔神聖灰〕や、私が物質化する品物や、私が行う奇跡のことばかり話すのは、正しいことではありません。教養ある人々でさえ、私の神聖な面を認識することができずにいます。これが彼らの受けた教育の結果なのでしょうか? より重要な内面を見ることができずに、その他の詳細にのみ意味を持たせるのであれば、彼らの受けた教育に何の価値を置くことができるでしょう?

学生諸君!

皆さんはそのような道を歩んではなりません。皆さんは、私のハートの奥深くを見て、私の様々な神聖な面を体験することのできる道を歩まなければなりません。私の全知、全能、遍在に気づくようにならなければいけません。私からロケット〔中に写真を入れることのできるペンダントヘッド〕をもらったとか、腕時計や指輪をもらったという話ばかりする人に、まんまと乗せられてはなりません。そういったものに大きな意味はありません。もし私の恩寵を手に入れるなら、それは全世界を手に入れるに等しいことです。私の奇跡についてではなく、あなたが自分の行いによって私から得ることのできるプレーマ〔真の愛〕について話しなさい。それこそが最も重要なものであり、皆さんはそれを手に入れるための試みをしなければいけません。私の中には非常に貴重なダイヤモンドがあるのですから、皆さんは努力してそれを手に入れなければいけません。それより劣るものを得たいと望むことに何の意味がありますか? この非常に貴重な宝から離れていってはなりません。可能な限りその近くにいなければいけません。皆さんは、それを受け取って、大切に身に着けている必要があります。皆さんは、「私たちにとって、そういったものを神の恩寵とプレーマとして得る必要性は何なのですか?」と尋ねるかもしれません。それに関しては、私の中に存在する神性から生じる愛の種類を知ることが、その助けとなるでしょう。

私が帰依者にお守りを与えると、その人はそれを首に掛けたり、体のどこかに着けたりします。絶えずスワミのことを考えている必要はありません。たとえ皆さんが私が与えるお守りを身に着けていなくても、スワミは皆さんと共にあり、皆さんの面倒を見ています。私の恩寵は、いつでも、すべての人が手に入れることができます。しかしながら、私の与えるお守りの目的は、それを身に着けている人が何らかの危険や困難に遭った時、そのお守りが一瞬のうちにその知らせを私に届け、私の恩寵と共にその人のもとに戻る、ということにあります。これが、私の与えるお守りが果たす役割です。それは、危急の時に、お守りを身に着けている人と私を結ぶリンクのようなものを作ります。そうした物品の贈り物が、何千人という人々を守ってきました。

具体的な例として、今ここにいる人の事例をあげることができます。今年の4月、その人は私と一緒にボンベイ〔ムンバイ〕に来て、幾つかのプログラムに参加しました。ところが、その最終日、彼は外国へ行くために真夜中にボンベイを発たなければならなくなりました。外国での仕事を終えて、インドへ帰国する準備をしていた時、彼は具合が悪くなり、意識がもうろうとしました。飛行機に搭乗するために空港へ来た時、彼は航空券も関連書類も所持していませんでした。そのような遠い外国から帰って来なければならないとき、航空券を持たずにこっそりと空港に入り込もうとしたとしても、とうてい搭乗など無理なことです。彼は意識がはっきりせず、自分のことさえわかりませんでした。あらゆる場所を探し回っても航空券は見つからず、大変な窮地に立たされました。その時、彼が着けていた指輪が一瞬にして私にメッセージをもたらしました。次の瞬間、一人の空港職員がやって来て、航空券なしで彼を飛行機に乗せました。彼はどうやって自分がインドへ帰って来たのかさえ覚えていませんでした。

似たような例がもう一つあります。以前はロンドンに住んでいて、数日前この夏期講習に来たカルカッタ〔現コルカタ〕出身の信者の例です。私がその信者に指輪を与えようとした時、彼は、「自分は生涯で一度も指輪をはめたことがないので、遠慮させていただきたい」と言いました。私はその信者に、私が与える指輪を身に着けるよう強く求めました。すると、「それはきっとスワミの恩寵を授けてくれるでしょうから、指輪を身に着けることにします」と、その信者は答えました。彼は指輪をはめてロンドンに行きました。指輪を与えた時、私は彼に、「いかなる危険に巻き込まれようとも、その危険はスワミに渡され、あなたは救われるでしょう」と言いました。ロンドンで車が猛烈なスピードを出して走っているのを見たら、人は飛行機に乗っているほうが安全だと感じるでしょう。その信者が乗っていた車が他の車に衝突され、車は大破し、無残にも車体はめちゃめちゃになって道路に散乱しました。すべて粉々になりました。その車の乗客であり、私が与えた指輪をはめていた信者に関する限り、見たところ元気で、道路の真ん中に具合よく座ったまま、何が起こったのかわかっていませんでした。そうして座っていた時、別の車が彼を拾って乗せて行ってくれました。その信者が私の与えた指輪を見ると、指輪の中の私の写真が完全に粉々に砕けていました。家に辿り着くころに、その信者は私からの電報を受け取りました。ブリンダーヴァンからホワイトフィールドに電報を送る場合でも少なくとも6、7分はかかりますが、その信者がロンドンの自宅に着くまでの数分のうちに、電報はすでに彼を待っていました。その電報にはこうありました。

「幸せでいなさい、私はあなたと共にいます。事故のことは心配しなくてよろしい」

電報を読んで、その信者は強く心を打たれました。彼は直ちにインドへ戻ってきました。

なぜ私が、ここに座っている若者たちにこのことを話しているかというと、私の特質はハートと結び付いている、ということを気づかせるためです。こうした外的な品々や物品の贈り物は、ハートからハートへのリンクをもたらし、働く必要のある時に働きます。そのような働きと、ハートからハートへの体験は、一人や二人ではなく、無数の人々に起こっています。実際、そのような出来事は、私の頭の髪の毛と同じくらいたくさんあります。私が降臨した目的は、小さな欲望を満たすためでも、あなた方が今しがた聞いたような小さな出来事に携わるためでもありません。私には、私が確立しなければならない崇高な真理があります。私がもたらさなければなければならない人間の前途の著しい変化があります。私がそのために降臨した任務、すなわち、唯一なる永遠の真理の確立を果たすことを、阻止したり、思いとどまらせたりできる者は誰一人いません。私たちの前途にあるサイの使命を達成させるにあたって、皆さんには担うべき役割があります。

ダルマの確立は、私たちが直ちに精力を注がなければならない任務であり、サイの仕事を達成させるにあたって、あなた方が皆、それがどれほど小さなものであっても、自分の役割を果たすことを私は望んでいます。万物は真理に依存しているのですから、真理は何者かに譲らなければならないようなものではありません。非真実は、接触したほぼすべての人から、ないがしろにされなければいけません。真理は決して誰にも屈従することはありません。この姿は、真理の権化である、サティヤ サイの姿です。サイ ババという名前の「サ」は神、「アイ」は母を表しています。ですから、「サイ」は神なる母を表しています。「ババ」は父を意味します。ですから、サイ ババという名前は、神なる母と父を意味しています。サーンバシヴァ〔シヴァ神の別名〕とサイ ババという語は同じことを意味しています。サーンバシヴァは神なる母と父を意味し〔「サ」+「アンバー」+「シヴァ」〕、サイ ババという語も同じです。母と父の側面があり、その両方が存在しているので、この姿は、まさしく、シヴァ シャクティ アートマ スワルーパ〔シヴァとシャクティとアートマの化身〕と呼ぶことができます。私は、母のように優しく穏やかになって、あなたに幸せを授け、必要なときには、父のようにあなたを罰し、非難します。これらの方法を通して、私はあなたをより高い段階へと連れて行きます。あなたの生みの母と父でさえ、世俗的な感覚から時として自分本位になり、身勝手さが感じられるやり方であなたを罰するかもしれません。しかし、私の中の神なる母と父には、いかなる身勝手さもありません。神なる母と父は無私であり、私が与える罰は、あなたをより高い次元へ連れて行くことだけを意図しています。

もし、母親に息子が二人いて、一人が病気であれば、母親は病気の息子に苦い薬を与え、もう一人の息子には何でも望むものを与えるでしょう。病気の息子には苦い薬だけを与えます。もし母親が一人の息子に苦い薬を与え、もう一人に甘い薬を与えたとしても、それは母親がもう一人の息子のほうをより愛しているからではありません。苦い薬を飲むのは病気の息子のためになる、ということを母親はわかっていて、そのために苦い薬を与えるのであり、その息子への愛情がより薄いからではありません。善い性質を持った人が私の近くへ来たら、私はその人に優しくします。反対に、悪い性質を持った人には厳しくし、私の近くに来させないようにします。それは、私が一人の人をもう一人の人より気に入っているからではなく、そこにある悪い性質を治すために薬を与えているのです。

さらには、信仰のある人とない人がいます。信仰のある人は、神の近くにいる至福を楽しむ用意が常にあります。信仰のない人は、神の御名が話に出るだけで、すこぶる心が乱れます。ここで、私たちは、信仰のない人が神の御名を嫌う理由を調べなくてはなりません。彼らは神が嫌いなわけではありません。それは彼らが持っている病気です。結婚式やこうした集会のような行事では、来賓全員に甘いお菓子を振る舞います。全員にお菓子を勧めても、何人かは欲しくないと言います。彼らはお菓子が嫌いなわけではなく、糖尿病を患っているから断るのです。神の近くへ来たがらない人は、糖尿病患者のようなものです。彼らは病気を患っていて、その病気が治ったときに、初めて他の人たちと同じように神の甘い御名を味わうでしょう。

マラリヤに罹っているときには、何を食べても苦く感じます。苦い味は、食べた物の特性ではなく、その人の病気から起こるものです。マラリヤが治れば、甘いものは甘く感じます。そのような状況においては、患者に甘いものを摂ることを強いるよりも、病気がある限り病気を治そうと努めるべきです。

私の見るところ、世界中どこにも、信仰のない人はいません。実のところ、人は、自分の組織を作りたいといったような、利己的な目的を持っています。人の注意は、そうした仕事を達成することに向けられます。自分を愛せない人は、もっぱら、無神論者、あるいは、信仰のない人と呼ばれるかもしれませんが、この世に自分を愛していない人は一人もいません。「私は神を信じていない」と言う人は大勢いますが、その人たちは「私は自分を信じている」とも言います。しかし、自分とは誰なのかを考えません。人の中の「自分」は神です。人は「私の体、私の目、私のマインド、私のアンタフカラナ〔内的心理器官〕」等々と言い続けていますが、所有者であることを主張しているその「私」とはいったい誰ですか? 「私の体」と言っているのですから、あなたは自分を体だとは思っていません。あなたは体ではありません。ですから、マインド〔心、思考〕、ブッディ〔理知〕、チッタ〔マインドの要素〕、そういったものすべては、実際は「私」のものであって、「私」ではありません。ですから、「自信」は「神を信じること」と同義語です。自分を信じている人は皆、信仰のある人と呼ばれなくてはなりません。自分を信じている人を信仰のない人とは呼べません。神なるアートマ〔本当の自分〕は、プラグニャーナという形をとって、光を放つ炎として、すべての人の中で輝いています。これに関して、「プラグニャーナム ブランマー」〔プラグニャーナはブラフマンなり〕、すなわち、「神我はブラフマンと同一である」と言われてきました。ブラフマンは、プラグニャーナ、すなわち、神の英知という形をとって、万人の内に存在しています。誰かを、神を持たない人、と呼ぶことは無意味です。

パヴィットラアートマ〔純粋な神我〕の化身である皆さん、学生諸君!

今日、私は長々と話をして皆さんを困らせました。私の一連の講話は今日で終わりになります。けれども、私たちのハートの親密さが終わることはありません。サイの本質をあなたのハートに持ち続けなさい。私はサイのいくつかの側面をあなた方に伝えたかったのです。それらは多くの人が知りたがっていることですが、サイの神性を理解すること、推し量ることは、誰にも不可能です。私が私自身について話したかったのは、そのことが背景にあります。私は、私以外の者には伝えられないことを、あなた方に伝えたかったのです。明日からは、講習で学んだことすべてを実践に移して、神聖な至福を楽しみ、神と一つになりなさい。あなたの頭を単なる情報と知識でいっぱいにしてはなりません。ハートをプレーマ〔真の愛〕で満たしなさい。そのようにして、皆さんが私の一連の講話の要点でハートを満たし、未来の人生に立ち向かう準備をすることを私は望んでいます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Summer Showers in Brindavan 1974 PartII” C32