サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年7月4日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
スグルプールニマー祭の御講話より

たくさんの声、そして、あの声

何十億という生き物の中で、人間だけが、宇宙の真理を探求して悟りの至福に帰融するという特権を持っています。ところが、人はさまざまな誤った目標を追い求めて、道に迷っています。人は疑いという霧の中で、どちらに行くか迷ってもがいています。

人は行為をしてエネルギーと時間を無駄にし、それが人を物質的な欲望という罠(わな)にはめ、さらに動かなくさせています。この種の行為はモーハ カルマ〔妄執の行為〕と呼ばれるもので、妄執から流れ出し、人をさらなる妄執へと至らせます。人はこの癖から脱却し、ダルマ カルマ〔ダルマにかなった行為〕、すなわち、道徳的な行為、理想的な行為、低次の本能と衝動を昇華して一つひとつの行為を献進へと変容させる行為へと、方向転換しなければいけません。

この姿勢が固まって定まると、あらゆる行為はブラフマ カルマ〔神の行為〕(献身的な行為)となります。すると、人は普遍なる者に帰融し、抑制された個別性を失います。これが、アートマが切望し、大いに好む行為です。

モーハ カルマ〔妄執の行為〕の段階にいても、人は行為にプレーマ(神聖な愛)を充電すべきです。なぜならば、目には見えませんが、プレーマはその行為をダルマの道に合わせて訂正し、人の進化の段階を神へと向かう先の段階へと導いてくれるからです。では、プレーマとは何でしょう? プレーマは、獲得することも習得することもできません。プレーマは、人に生まれつき授けられているものです。プレーマは、心(マインド)を拒むことも、かなぐり捨てることもできません。プレーマは、教えられず、学ぶこともできません。五感をそそる対象物へとプレーマを向けるなら、それは破滅を意味します。それらから遠ざけるなら、プレーマは確実に救済を保証することができます。

崇高さへと到達することこそがプレーマ

プレーマ、すなわち、愛は、非常に誤用されている単語です。惹(ひ)きつけるものへのポジティブな反応が何でも愛と呼ばれています。どれほど取るに足らないものであっても、はかないものであっても、執着心が何でも愛と見なされています。愛の姿を示すには、新しい単語を作るか、特定の単語を除外するか、しなければいけません。

親が我が子に抱く執着や、子が親に抱く執着は「情愛」と呼ばなければいけません。異性の魅力に惹きつけられる反応は、「幻想」、「陶酔」、あるいは、「モーハ」(妄執)と描写するのが一番です。親近感や仲間意識は「親愛の情」を呼び起こすものです。所有意識、特に物への所有感から得る悦(よろこ)びは「満悦」と呼ぶことができます。真理に本来備わっている崇高さに到達したいという渇望――これのみが、聖なる単語、プレーマと名付けられるに値します。なぜなら、それは最も甘く、最も魅力的で、最も人を満足させる所有物だからです。

プレーマは、あらゆる障害物を跳び越え、平等観を持ちながらどんな運命の変化にも立ち向かい、遅らせよう、道からそらせようとするあらゆる企てを打ち負かすのに十分な、強く、しっかりとしたものです。プレーマは、この出来事は善い、あの出来事は悪い、とはジャッジしません。プレーマは、それらを別々の作用とは見なしません。同じ太陽が昼と夜の両方をもたらしているように、同じ神の意志が喜びと悲しみをもたらしているのです。ですから、帰依者は、難儀の時、順調な時に、尻込みも大喜びもしないものです。

誤りは、人が「一」ではなく「多」に魅了されることにあります。人は多様を追い求め、宇宙の唯一性を忘れています。実のところ、「多」は「一」が乗るさまざまな乗り物にほかなりません。電流を例にあげましょう。扇風機が回ると、私たちは、今、電流が流れていると言います。扇風機が止まると、電流が流れていないと言います。電球が点(つ)いていれば電流が流れていることがわかり、電球が消えていれば電流が流れていないことわかります。電流自体は「目に見えないもの」であり、無形(ニラーカーラ)です。しかし、電流がさまざまな品を動かすので、私たちは電流の存在を認識するのです。それと同じように、神性は、万物の中に、そして、すべての行為の背後に存在しています。これを理解して認識するには、道具、乗り物といった限定的な補助(ウパーディ)が必要です。

目から無知という濁りを取り除きなさい

目はものを見ますが、器官である「目」が見ているのでしょうか? 目は内在する神聖アートマの促しがなければ機能することはできません。脳は考えますが、脳細胞それ自体がそのプロセスの一切を行うことができるのでしょうか? いいえ、できません。脳細胞は内在の神によって動かされる必要があります。「一」が基盤であり、多となって顕現したものの原因です。生来内在している一なるものは、プレーマを通じてのみ認識されます。なぜなら、神はプレーマであり、それ以外の何ものでもないからです。

イーシャー ヴァースヤミダム サルヴァム
〔万物は神の中に存在している〕

「万物は私に包まれており、私によって動かされている」と、主は言います。万物は一つです。偏見に満ちた目には、一なるものが多に見えます。目から無知の濁りを取り除きなさい。そうすれば、目はすべてのものは一つであるということを認知します。実際、あなたが自分の目であらゆる所に見ているものは、あなた自身です。あなたが誰に話そうと、あなたが話している相手はあなた自身にほかなりません。あなたは、あなた自身に満足し、あなた自身を憎み、あなた自身を傷つけているのです。他には誰もいないのです!

神がアヴァター(神の化身)となって降臨する時でさえ、人がベールを外して神を拝むことは不可能です。クリシュナ神は、「人々は私が神だということに気づくことができない、なぜなら、私をただの人間だと思っているから」と言っています。内在する電流であるアートマに気づいた人だけが、自分の目の前にある力の源を認識することができます。

常に内在の神の声に耳を傾けなさい

万物とアヴァターに内在している神に気づくようになるためには、三つの訓練が必要不可欠です。それは、自分を大きく見せようと思って行為に従事しないこと、知性と感情を、ハートの住人であるアートマを顕現させることへと向けること、行いの一つひとつを、心を込めて、愛をもって、自分の儲(もう)けや名声や利益を望むことなしに行うことです。

それから、何にもまして、内在の神の声に耳を傾けることです。間違った行いをしようと考えると、すぐにその声は警告し、抗議し、やめるようにと助言します。その声は、かくことになる恥、直面することになる罰、科せられる不名誉を、心に描きます。その声は、まるであなたの中に促す者と封じる者という二人の人間がいるかのように現れます。警報、タイムリーな助言は、肉体(アンガム)に内在する良心(ジャンガム)が与えるものです。その声は、自分を体と同一視することに固有の愚かな行為と危険をあなたに思い出させ、正邪を識別するようあなたに勧めます。その声は神であり、すべての人のハートの中に、至高の英知、すなわちプラグニャーナ(覚醒意識)として、また、あなたがディヤーナ(瞑想、座禅)の深みの中で容易に接触可能な永遠の照覧者として、王座に就いているのです。

実際、あなたが自分の心を調べれば、心には一人ではなく大勢の正反対のカウンセラーがいて、威力を振るって混乱をもたらすことがわかるでしょう。たとえば、あなたがスワミのダルシャンを受けにプッタパルティに行こうと計画するやいなや、そのカウンセラーたちはゲームを始めます。ある声は、スワミがいるかどうか確認してから出発するようにと助言します。別の声は、誰々に電話をしてスワミがバンガロールにいるかプッタパルティにいるかを突き止めたらどうかと提案します。次の声は、別のルートや交通手段の選択肢を提案し、それもまた頭痛の種となります。それらは良心(ジャンガム)の周りにいる集団(サンガム)です。その多様な声の集団は、良心の周囲で戯れて、混乱させようとします。

内に向けられた目を養いなさい

他の声たちが言い終わると、さらに別の声がこう言うでしょう。

「さあ、親愛なる君よ! あらゆる視点から君の望みについて考えるのだ。君は多くの出費と面倒を背負ってそこに行くこともできるが、次の可能性も考えてみたまえ。それは、君はスワミのインタビューを得られるかどうかわからないということだ。」

そこにまた別の声が口をはさんで、こう言うでしょう。

「ああ! 君が犯してしまった、すべての良くないこと、すべての過ちを考えたら、スワミが君にインタビューを授けてくれることは非常に疑わしい。」

その声に続いて、別の声がその確実性に関する議論を始めます。その声はこう言って安心させます。

「いいや、スワミは慈悲の化身そのものだ。スワミはきっとすべての過ちを赦(ゆる)してくださる。」

霊性の道に沿ってあなたを導き守るこの動因は、リンガム(無形のシンボル)です。それは良心(ジャンガム)の周囲にいる一群の集団(サンガム)の中心にいます。

リンガムは人のハートの中心核そのものであり、至福と力と光明の唯一の提供者です。リンガムがこの三つをあなたに授けてくれるよう、内に向けられた目を養いなさい。そうすれば、英知という涼やかで心地よい愛の光で心(マインド)が照らされることでしょう。それゆえ、心は自らを司る神として月を有しているのです。

チャンドラマーマナソージャータハ
〔プルシャの心は月になった〕

こうした理由で、あらゆるグルたちに、そして、至高のグルであるヴェーダヴィヤーサ仙に感謝する祝日は、満月の日に行われるのです。

あなたの心を愛で清めなければ、霊的英知という月があなたの心の中で輝くことはできません。唱名、誓願、寝ずの行、断食、祝祭の遵守は、心の中にある空の星々となって輝くでしょう。けれども、愛の明かりが灯るまで、暗闇はなくなりません。

グルは無知を取り除く者を意味する

今日はグルを礼拝するために定められた日です。誰がグルですか? 目的地に到達していない人があなたを目的地に道案内できますか? 自分が暗中模索している人が、どうやってあなたの道を照らすことができますか? 導くことを公言しているグルの多くは、道をよく知らないか、自分の道の正しさを確信していないかのどちらかです。「グ」は、「暗闇」すなわち「無知」を意味します。「ル」は、それを「取り除く」ことです。ですから、グルは人から無知を取り除く方法を知っていなければなりません。自分の無知を取り除いていない者が、どうやって他人の無知を取り除くことができるでしょう? 盲人が盲人を道案内することはできません。

「グル」にはもう一つの意味もあります。「グ」は「グナーティータ」〔三属性(グナ)〕(宇宙を構成する三本の撚糸(よりいと)であるエネルギー)を意味し、「ル」は「ルーパ ラヒタ」(特定の姿を持たない者)を意味します。であれば、神だけがこれらに影響されないものである、と言うことができます。ですから、神こそがグルであり、グルはあなたのハートの中にいて、いつでも導き照らす準備ができています。グルは全知、全能、そして、遍在です。

あなたのハートの空に輝く太陽を覆っている、無知とエゴの暗雲を散らしなさい。あなたの両親はあなたと縁を切るかもしれません。あなたの親戚はあなたを見捨てるかもしれません。あなたの友人はあなたとの関係を断つかもしれません。あなたの所有する財産は失われるかもしれません。しかし、神は、いつでもあなたのそばにいて、いつでも愛情深く、いつでもあなたに助言と勇気を与える用意ができています。人々は、あなたがお金と力を持っているうちはあなたの周りにいるでしょうが、あなたがそれらを失うと、あなたを一人残して情け容赦なく去っていくでしょう。彼らは蛙(かえる)の群れと同じです。池が水を湛(たた)えている時は、ゲロゲロと媚(こ)びへつらって鳴きながら池の水を汚し、池が干上がると、どこかに消えてしまいます。

グルへの礼拝は、年中、毎日行うことができる

あなた方は、グル プールニマーのお祭りのために、ここに駆けつけてきました。けれども、グルを崇めるのに、この年に一度の行事を待つ必要はありません。人々は、グルを礼拝し、グルの指示を求めて今日の日を過ごします。それは、年中、毎日することができます! 特別な日が選ばれているのは、上っ面と自己顕示にぴしゃりと平手を打って叱るためです。私は、あなた方がそうした態度を改めることを望みます。私は、あなた方に、そうした外的な式典やお祭りではなく、内面の霊性修行をし、内側の視力、霊的な熱望を養ってほしいと思っています。

私は、自分はグルだとは主張しませんし、あなた方を弟子や生徒だとも思っていません。私はそのすべてであり、そうであるなら、誰がグルと呼ばれて区分され、誰が弟子や生徒と呼ばれて区分され得るでしょう? 一なる者を知らないことが、人をこうした二分へと導くのです。真理を悟ることが、この区別を終わらせます。誰も教える必要はなく、誰も習う必要はありません。すべての人は、根本的にはチット(純粋意識)です。それが実体です。

教師――このほうが相応しい呼称です――は、自分のほうが上だと思うべきではありません。生徒は自分のほうが下だと思うべきではありません。どちらも実体はアートマです。高いも低いもありません。すべての人は至福の海の波です。あなたの体が健康で、魅力的で、充分に満足している時、あなたはどれだけ幸せかを考えてみなさい! 次に、実はすべての生き物の体はあなたであるということを理解しなさい。そして、それら他の体が皆、幸せで、健康で、強く、満ち足りている時、あなたのハートにどれだけ至福があふれているかを測ってみなさい! 宇宙普遍相(ヴィラート)の目は、自分のエゴを明け渡し、主を避け所とし、静寂の中で主が歌ったギーターを注意深く吸収する人に、与えられます。神は遍在です。神は宇宙の素粒子の一つひとつの中にいて動機を与える者です。「神は私の礼拝のやり方だけに心を動かされる、神は私が唱えるようになった御名だけに応答する」と言うのは、神の全知と神の栄光を見くびっていることになります。すべての人の中に神を見て、すべての人の中にいる神に奉仕しなさい。すべての人の中にいる神を崇めなさい。「全世界が栄えますように。全人類が幸せになりますように」と祈りなさい。これが今日、私があなた方に与える特別なメッセージです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C42