サティヤ サイババの御言葉

日付:1975年4月20日
場所:ブリンダーヴァン
ラーマ神降誕祭の御講話より

『ラーマーヤナ』は万人のもの

『ラーマーヤナ』は、いつの時代においても、宗派や身分が何であれ、万国、万人にとっての手引きであり、聖典であり、人を鼓舞する経典です。なぜなら、『ラーマーヤナ』は、落ち着き、バランス、平常心、内面の強さ、そして、平安を与えてくれるからです。平安は最高の宝であり、平安でないなら、権力も名声も財産も、すべて無味乾燥な重荷となります。ティヤーガラージャは、内面が平安でなければ幸せにはなれないと歌っています。

平安を得て、それを揺るぎないものにするためには、修行の積み重ね(アビャーサ/常修)と、完全な無執着(バイラーギャ)を身に付けなければなりません。生まれてから死ぬまで、人は習癖と習慣の奴隷であり続けます。このことについて内省し、客体的な喜びよりも主体的な喜びのほうに自分を導いてくれるものを信頼しなければいけません。主体的な喜びは、家庭における調和、家族や共同体の一員同士が互いに協力すること、他の人々に奉仕すること、自分の住んでいる社会の福利と繁栄を考慮することによって、得ることができます。

『ラーマーヤナ』には、父親、息子、母親、兄弟、友人、召し使い、主人、師、弟子等々が追い求めるべき理想があります。国家的な組織体の基本組織は、幸せな家庭です。幸せな家庭は、幸せな世界を確実にします。なぜなら、人類は一つの家族であり、もし家族の一員の一人が悲しんでいたり、苦悩にあえいでいたりしたら、どうやって残りの家族が、安心して、あるいは、満足していられるでしょうか?

欠点や短所のないものはない

無執着(ヴァイラーギャ)とは、家族の絆(きずな)を断って森で孤独感を味わうことではなく、物事は永遠に続くものだとか、物事にはこの上ない喜びを生み出すことができるなどと思う気持ちを手放すことです。心(マインド/思考の束)は人に策を弄(ろう)します。心は、あるものは善であり、あるものは悪である、あるものは永遠であり、あるものは束の間のものである、と信じています。ご馳走(ちそう)が盛られたお皿が目の前にあり、それは、おいしそうで、きれいに見えるかもしれません。けれども、もしも料理人から、そのご馳走を火にかけていたとき鍋の中にヤモリが落ちてきて、料理と一緒に煮てしまったと聞かされたら、そのご馳走に引きつけられていた気持ちは一瞬にして冷めてしまいます。欠点や短所のないものはありません。痛みの伴わない喜びはありません。エゴ(自我意識/アハンカーラ)に汚されていない行為はありません。ですから、用心し、あなたを辛い悲しみから救い出してくれる無執着を身に付けなさい。

『ラーマーヤナ』は、そうした、賢く、正当で、価値のある無執着、すなわち、ティヤーガ(犠牲/捨離)を少しずつ教えます。ラーマが流刑者として森に入ることを父親が望んでいるということを知るやいなや、ラーマは喜んで森へと旅立ちましたが、その時刻は、追放を命じた父親その人によってラーマが王冠を戴(いただ)くことになっていた時刻だったということを覚えておきなさい。『ラーマーヤナ』では、最大の力と権利を有する人物が、地位と権力を放棄しましたが、現代では、力も権利も持っていない人たちが、地位と権力をやかましく要求しています。

『ラーマーヤナ』の説く義務についての教訓

「義務は神なり」は、『ラーマーヤナ』が説いている教訓です。「義務」という言葉は、現代では、人が自分の権力を行使するための方法を指すのに使われています。これは間違いです。「義務」とは、他人を尊び、敬うこと、そして、自分の能力の限りを尽くして他人に奉仕すること、という、あなたが担っている責務のことです。あなたは自分には歩く自由があると主張して、道を歩いているときに杖(つえ)を振り回すかもしれませんが、あなたの後ろから来る人にもその道を使う同じ自由があります。他人の自由を制限すること、害することなく、自分の自由を行使することが「義務」であり、それは礼拝となります。

王家の年老いた大臣スマントラがラーマとシーターとラクシュマナを王家の馬車で送り、一行はガンジス川のほとりに到着しました。スマントラはそこから先へは同行することがかないませんでした。都に戻るという義務を負っていたからです。そのため、スマントラは目に涙を浮かべて三人に背を向けました。そして、グハ(地元の部族の首長)が三人を小船で渡し、一行はそこから森に入りました。シーターを真ん中に、ラーマが先頭に、ラクシュマナが後ろに付いて、三人は一列になって密林の中を歩きはじめました。ほどなくして、三人は聖賢ヴァールミーキの庵(いおり)に到着しました。三人を出迎えるためにヴァールミーキが表に出ると、どこか住める場所を示してほしいとラーマが頼みました。ヴァールミーキは言いました。

「我ら聖賢は、あなたの中に住んでおります。あなたは我らの中に住んでおります。他のどこに住んでくださいとあなたにお願いすることなどできるでしょう? そのような人間の姿をまとっていても、あなたの中で輝いている美があなたの正体を明かしています。」

ラーマの美しさは、内面の平安の美しさ、ダルマに生きていることを自覚するときに満ちる光輝の美しさでした。

はかなさに打ち負かされた時人は絶望する

『ラーマーヤナ』は、自分を肉体だと思う誤った同一視を手放すために必要なことも説いています。ヴァーリ(猿王スグリーヴァの邪悪な兄)の遺体の上で妻のターラーが泣き崩れているのを見たラーマは、肉体は消え行くものであり、神へと向かう旅で使う乗り物(肉体)と人物を同一視することは愚かである、ということをターラーに説いて聞かせました。

はかなさに打ち負かされたとき、人は絶望し、目的地から遠ざかってしまいます。シーターを考えてみなさい。シーターは、自分の父の城と義理の父の城で快適さを与えてくれるであろうすべてのものを捨てて、ラーマに付いて森に行くことを選びました。それゆえ、シーターは、主の近くにいること、主の御前にいることを手にしました。しかし、悲しいかな、まやかしの金色(こんじき)の鹿の姿を目にしたとき、シーターはそれが欲しくなり、なでたり、餌をやったり、ペットにして飼うことができるよう、ラーマとラクシュマナの両者にその鹿を追わせたのでした。致命的となったその望みは、どんな結果を招きましたか? シーターは、主から遠く離れて生活することを強いられ、非常な苦しみの中で主を恋しがる羽目に陥りました。

ハートにラーマが据えられているときには、名声、幸運、自由、充足等々、万事があなたに添えられます。ハヌマーンは、ラーマに出会う前は猿のリーダーにすぎませんでした。ハヌマーンは主人(猿王スグリーヴァ)の宮廷の大臣でしたが、ラーマからシーターを捜すという任務を与(あずか)って、送り出されたとき、言い換えるなら、ラーマがハヌマーンのハートの中に、導き手、守り手として据えられたとき、ハヌマーンは理想の帰依者として不死身となりました。

『ラーマーヤナ』は、重要な深い意味を有しています。「ダシャラタ」とは、「十(ダシャ)の馬車(ラタ)に乗る者」を意味しますが、これは、つまり人のことです。『ラーマーヤナ』の中で、ダシャラタ王は三人の妻と結ばれていますが、この三人の妻とは三属性(グナ/浄性・激性・鈍性)のことです。ダシャラタ王には四人の息子がいましたが、これは、人生の四つの目標(プルシャールタ)である、ダルマ(ラーマ)、富(ラクシュマナ)、欲望(バラタ)、解脱(シャトルグナ)を意味します。人間のこの四つの目標は、常に最後の目標である解脱(モークシャ)を眼中に置きながら、体系的に実現されなければなりません。シーターは真実(真理/サティヤ)の象徴であり、ラクシュマナは理智(ブッディ)の象徴です。ハヌマーンは心(マインド/思考)であり、もし制御され、訓練されれば、勇敢さの宝庫となります。ハヌマーンの主人であるスグリーヴァは識別力です。ラーマは、これら自らの助けとなるべきものを伴って真実を捜し、成功を収めました。これが、この叙事詩が万人に説いている教訓です。

古代インド文化の根底にある理想

この国の文化は、『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』に記されている正義(ダルマ)という高き理想を基盤にしています。この二つの叙事詩のどちらにおいても、神は人間の姿をまとって人類を導きました。

アレクサンドロス大王にまつわる話の中に、インド文化の栄光を例証しているものがあります。アレクサンドロス大王は、インド滞在中、運命によって導かれたこの見知らぬ目新しい国の習慣と作法を学ぼうと、よくお忍びで陣営の周囲の村々に出かけて行きました。ある日、大王は、一人の男が金の器を別の男に押し付けようとしているのを見ました。相手の男はその器を見ることさえ拒んでいました。その金の器は、それを押し付けようとしている男がそれを拒んでいる相手の男から買った土地の中から見つかったものであることを、大王は知りました。土地を買った男は、自分が買ったのは土地だけなのだから、自分には金の器を所有する権利はないと主張しました。土地を売った男は、土の上であれ中であれ、自分が売った土地で何が見つかろうと、もはや自分には何の権利もないと言いました。

アレクサンドロス大王はその論争をしばらくの間見ていましたが、どちらの男も引きませんでした。最終的に、村の長老を呼んで決めてもらおうということになりました。アレクサンドロスが見ている中で、長老は(両者共に)幸せな気持ちになる策を見出しました。それは、土地を買った男の息子に土地を売った男の娘を嫁がせて、金の器を持参金代わりに新郎に与えるという策です。人間の徳が達することのできる高みを目にして、アレクサンドロスは高揚しました。そして、それと同時に、他人の所有物を武力で征服しようという自分の野望を恥じ入りました。古代インド文化の根底にある理想の数々を、少なくともインド人全員が学んで実践しなければいけません。そうすれば、世界がその立派な模範のもたらす恩恵を得ることができます。

穢(けが)れを掃(はら)い、浄化するために、目を内に向けよ

今日、あなたがラーマの誕生を祝っているとき、あなたの行動をラーマが生涯の中で示した理想に捧げなければいけません。今日あなたが生きていることは、祝福です。なぜなら、あなたはそうした理想を知ることができ、さらには、その理想を日常生活の中で実現する方法を知ることもできるからです。

ラーマの御名を機械的に繰り返している人、『ラーマーヤナ』全編を一定の時間割に沿って読んでいる人、ラーマ、シーター、ラクシュマナ、ハヌマーンの御姿を日々の礼拝として拝んでいる人がいますが、それら大勢の人々は、多くの時間を費やして、得意になったり知ったかぶりをしたりしながらそれらを行っています。しかし、そういう人たちは、後ずさりするために一歩踏み出す人のように、何年経ってもまったく進歩がありません。思考と意図の清らかさ、思いやり、奉仕がしたいという切なる思いを得なければ、そうした表向きの表現と見せびらかしは、あなたを立派な帰依者として褒め称える社会を欺く方法であるにすぎません。あなたの視力は眼識とならなければなりません。目を内に向け、穢れを掃って浄化するために使わなければいけません。

人々は、「サークシャートカーラ」(神の眼力の意)、解脱をもたらす眼力について、いい加減なことを言っています。見る者と見られる者は、融合して一つになって、唯一無二を経験しなければいけません。それが「サークシャートカーラ」であり、価値のあるものです。あなたは果報を得ているかもしれません。あなたは苦行の果実を手中に収めているかもしれません。しかし、その果実を食べて、消化し、自分の活力の一部とし、そこから力を引き出すことをしないなら、あなたはまったく救われません。本当のあなたである神に帰融しなさい。それが成就というものです。

その終着点に到達するためには、はるか先へと進まなければなりません。まず、今の自分の装備を点検し、欠陥を見つけなさい。たとえば、エゴや貪欲、言行不一致、気まぐれや怠惰によって損傷を受けていないかを見るのです。なぜなら、欠陥があれば、内外どちらの神であれ、神を思うことに集中することは難しいからです。また、あなたは愛(プレーマ)のポジティブな性質を育まなければいけません。なぜなら、愛の化身は愛を通してのみ悟ることができるからです。これは、『ラーマーヤナ』を学びたいという真摯な望みを持って『ラーマーヤナ』を学ぶすべての人に対して、『ラーマーヤナ』が授けているメッセージです。そして、これは、私が今日あなた方に授けたいと思っているメッセージです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C11