サティヤ サイババの御言葉

日付:1975年7月23日
場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学 卒業・入学式の御講話より

宇宙は大学

ああ、地上の人間よ!
なぜ、自分が学んだ高尚な科目、自分が読んだ本の数を自慢するのか?
それら幻想にすぎない学問の一切は、何の役にも立たない
なぜなら、それらは、手を合わせて全能の主に祈るようにとあなたを促すことはないから

神聖アートマの化身たちよ!

教師の皆さん、学生の皆さん、教育を讃美している皆さん、教育を奨励している皆さん!

今日は卒業生を送り出して新入生を迎え入れる移行の日です。人生は、それ自体が時間という巨大な海であり、その上を悲しみと喜びという潮の満ち干がうねっています。人間は、一瞬ごとに悲しみと喜びを映し出し、経験しています。時間は台風のように速く進みます。人間に与えられた体の寿命は、氷が溶けるようになくなっていきます。しかし、人間は人生の目的を知らぬまま命を落としています。それは人間らしからぬことなのか? それとも、神が定めたことなのか? あるいは、それは思考のなせるものなのか? その実際について熟考することが必要です。

教育の意味するものは何ですか? 書物で得た知識だけが教育ではありません。特定の体系が教育と呼ばれ得るのでもありません。州の大学の集まりが大学というものの概念を総括しているわけでもありません。宇宙が本当の大学です。人間一人ひとりがその学生です。

絵画、彫刻、農業、耕作、工業といったものは、どれも大学の科目です。あなたがどこに住んでいようとも、あなたがどこに行こうとも、その場所が、ある種の教育をしてくれます。

どんな場合でも、何かを学ぼうと努めなければいけません。なぜなら、知識は人生であり、人生は知識であるからです。ヴェーマナ〔テルグの詩人〕は述べました。

カーミ ガーカ モークシャ ガーミ カードゥ
まず欲の段階を通り抜けなければ、解脱を熱望する者にはなれない

「悪」の影響を体験しなければ、「善」を信じることはできません。「善をつかんで、悪を捨てる」――この言葉の意味することを理解して、初めてそれは可能になります。教育は、霊性の分野と世俗の分野という2つのカテゴリーに分けられるものではありません。この2つは互いに補い合っています。どちらも互いに従属しています。霊性は世俗のものに反するものだという考えは間違っています。逆もまたしかりです。2つが結合して、初めて人生の種が形づくられるのです。人は今、人類に内在している神性を顕現させることができずにいます。人はそのための試みさえしていません。

社会の程度は女性次第

今、人々が学んでいることはどれも、教育とは呼べません。自分たちのゴール、すなわち目的地について知ること、自分たちが体を授けられた目的について知ることは、大切なことです。目的地を知らずに旅を始める人がいたとしたら、その人は、まぬけです。女性は社会の土台のようなものです。社会の程度と能力は、もっぱら女性次第です。私たちの大学は、世界の幸福を達成することのできる能力を秘めた女性を開発するという、神聖な意図をもって創立されました。本校の理想を再度あなた方に強調する必要はありません。しかし、私たちは、新しく入学してきた学生たちのために、それを繰り返しているのです。現代の若者は、智慧においても、能力においても、知性においても無能であるなどとは言えません。皆、それらを豊富に持っています。しかしながら、若者たちは正しい道を歩くことができずにいます。それは、そういった持って生まれた才能を花開かせるのに必要な原理を、誰も若者たちに教えていないからです。そして、それに加えて、否定的な影響力をこうむっているからです。

若者たちを荒廃させている2匹の悪魔がいます。それは映画と小説です。呪物であるこれらは、若者たちの顔までも変えてしまっています。映画と呼ばれる呪物はどのようなものですか? 映画を見たことがない人は世の中にいないでしょう。今の状況は、壊色(えじき)の衣をまとった出家者でさえ映画界に進出しているという有様です。まさに、映画の影響力は、ぞっとするほどです。映画にはどのような芸術が見られますか? 人間性を育てるような芸術は見当たりません。あの種の芸術は悪魔的な傾向を育てるだけです。

それから、もう一つの呪物は小説です。小説は、性的な快感に夢中になることと情欲を教え込み、若者たちの人生を崩壊させています。小説は、柔らかな幼いハートに破壊を招くような話の筋を打ち出しています。これらの呪物への信用の度合いは、誰にもどんな人にとっても不可欠なものである霊性、ダルマ、倫理に対しては見出せないほど、さらには、俗物に対しても見出せないほどに、強まっています。霊性とダルマという2つの目を持っているときにのみ、体は安全に目的地へたどり着くことができます。

ある日、一人の学生が自分の将来を知りたいと思い、手相を見てもらいに行きました。その学生の手を見て、手相見は言いました。

「あなたの頭脳線は太いですね」

学生は大喜びして、手相見に余分に2銭払いました。手相見はさらにこう言いました。

「あなたは無限の富を得るでしょう」

すると、学生は喜びで身の程を忘れて鼻を高くしました。最後に手相見はこう言いました。

「しかし、ああ! あなたは、あと数日しか生きられません」

それを聞くと、学生は哀しくなって、すっかり落ち込んでしまいました。寿命がそれほど限られたものであるならば、富が何になりますか? それと同じように、善い性質を持っていないなら、学位を取っても何にもなりません。今、皆さんが身に付けている教育は、人生から学ぶべきものの1つのかけらにすぎません。統合的な教育は至福に満ちた存在である神の恩寵を受け取ることによってしか得られない、と言われています。ですから、私たちは神の恩寵に通じるような思考と性質を持たなければいけません。

女子学生の皆さん!

現代の脚本には人格の低下が見受けられます。徳を欠いているために、人間性は魔性へと低下しつつあります。動物でも、ある種の理由と時季を守りますが、人間には理由も時季もなくなっています。そのような状況の下で、私たちにまず必要なのは、善い性質を身に付けることです。

マートゥル デーヴォーバヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ
アティティ デーヴォー バヴァ

母を神として崇めよ
父を神として崇めよ
霊性の師を神として崇めよ
客人を神として崇めよ

これはインド文化が公言している教義です。この意味は、母、父、教師、客人を神のように扱うべしというものです。インドの老人たちは何も大した教育は得ていませんが、自分の生涯を名誉と尊厳のために捧げました。これらの性質は、どの村にも、どの通りにも浸透していました。この種の教育を放ったまま、人は書物の知識を得て重苦しい学位を取得しています。

正しい内観とはどのような類のものか?

「神はどこにいるのか? ダルマはどこにあるのか? ダルマなどというものはない。神はいない」などといったことを話すのは適切なことではありません。人間性には神性が満ちています。神はどこにでもいます。神のいない世界はありません。花輪の首飾りを見てご覧なさい。見えるのは花だけで、花の内側に通っている糸は見えません。内側までよく見たときに、初めて糸の価値がわかります。それと同じように、目に見える世界の基盤は目に見えない神です。ですから、その糸こそが万物の基盤です。今、私が話しているのは「ブラフマ スートラ」〔神の糸〕のことです。どの人間の中にも極小の姿となった「ブラフマン」〔神〕が内在しています。ですから、人はアートマ原理を忘れてはなりません。この目的を目指して霊的な思考を抱かなければいけません。昨今では、理想的な学生が見当たりません。ですから、皆さんが理想的な学生になるよう努力しなければいけません。まず最初に、皆さんは両親を満足させるという務めに人生を捧げなければいけません。

「この体は両親から授かったものだ。私の血は両親からの贈り物だ。私の服は両親から与えられたものだ。私の食事は両親が犠牲を払った結果だ。もし私が両親の役に立たない場合には、他にどんな奉仕をすることができるだろうか? 身に付けた教育と、体と、理智を、まず両親への奉仕に役立たせたときにのみ、私は国に奉仕をすることができるだろう」

皆さんはこの種の内観をしなければいけません。そうすれば、皆さんは国に奉仕するのに必要な自信を身に付けることができるようになります。たとえば、風船を膨らませるときには、風船に入る分量だけ空気を入れるでしょう。それより多く入れたら、風船は破裂して、中に入っていた空気は外の空気と混じってしまいます。それと同じ要領で、自分の思考と活動範囲を拡げなければいけません。自分の愛も拡げなければいけません。愛がどんどん拡がって、初めて人は神の愛の海に溶け込むことができます。あなたはどのくらい長い間、水のしずくを手に持っていることができますか? 水のしずくはすぐに蒸発してしまいます。しかし、水のしずくを海に入れれば、しずくは海の姿をまといます。それと同じ要領で、水のしずくのような自分の人生を宇宙の広大な海に溶け込ませる努力をしなければいけません。これが本当のセヴァ〔無私の奉仕〕です。あらゆる類の勉強も、この種の「奉仕」という一つの意図をもって取り組まなければいけません。

私たちには様々な教育が必要なことは確かです。木を例にあげましょう。重要なのは木のどの部分ですか? 根、枝、花、実――どの部分も重要です。けれども、その中で最も重要なのは何ですか? 一番重要なのは根っこです。根に水をやってこそ、他の部分がよく繁るのです。それと同じように、人生という木にとって一番重要なのは自信という根です。人生という木は愛という水をやって育てなければいけません。人は愛を拡げたとき満足感を得ます。愛はハートという地でよく育たなければいけません。愛のないハートは、まさに砂漠です。このことは次のように歌われています。

ああ、クリシュナ
あなたの横笛で、うっとりとしながら、きれいな曲を奏でてください
そうすれば、甘露のような雨が降り、
愛がなく何も生えていないハートの大地の上に愛の苗木を芽吹かせるために
愛の川が流れ出す

これはどんな類の歌ですか? これは完全に愛に満たされた歌です。

愛の欠如はハートを不毛にします。愛の肥料を施し、愛の苗木を植え、愛の水を与えたときにだけ、愛の収穫を味わうことができます。ですから、私たちはこの種の愛を、全世界に、すべての社会に、配らなければいけません。愛を分配し、愛の花と果実を育てることは、私たちの本性です。これはすべての人に歓迎されました。これこそがバーラタ〔インド、神を愛するものの意〕の宗教です。これは私たちの古代の聖仙たちの余暇の楽しみでした。私たちは、この種の決意、この種の宗教、この種の情熱を支えるために、私たちの教育の実を結ばせなければなりません。

まず人間性を完成させなさい

女子学生の皆さん!

外の世界を見ると、まったく恐ろしいほどです。人間性は日に日に低下しています。単に人間の体を授かっているからといって、人を人間と呼ぶことはできません。手、足、目、耳、鼻等々は人間性を保証するものではありません。人間として生まれるのは立派なことではありません。重要なのは人間らしく生きることです。

人は人間として生まれ、人間らしく生き、人間らしく死ぬべきです。反対に、犬のように死んだら、それは人間として恥ずかしいことです。「人間の真の研究対象は人間である」〔英国の詩人アレキサンダー・ポープの言葉〕ということを実践しなければいけません。ハートで信じていることだけを話さなければいけません。自分が話していることを実践しなければいけません。何よりも大切なのは、両親を幸せにすることです。

神聖アートマの化身たちよ!

学位を収入や名声や評判と結び付けてはなりません。教育は社会奉仕という展望を発展させるべきものです。人生は、社会奉仕がなされたときにのみ、意味のあるものになります。ああ、人よ、教育の真髄を知らずに、自由にしていてはなりません。実に、有徳の行いこそがその真髄です。悪い道に留まったまま高い教育を得ても意味はありません。あなた方の教育のレベルは、扇動や苦痛を与えるという手段に訴えることなく、理想的な人生の道へとあなた方を高めるものでなければいけません。社会に扇動の炎が放たれたとき、教育のある者は油を注いでその状況に拍車をかけるのではなく、水をかけなければいけません。

昔は、お婆さんが旅をしていて列車に自分以外の乗客がいないとき、学生が乗ってくると喜んだものでした。しかし、今では車両で学生に乗り合わせると、そうしたお婆さんのような救いのない人たちは不安を覚え、目的地に着くまでずっと恐れが心を離れません。鬼のような振る舞いをするなど、何と恥ずべきことでしょう。慎みは女性にとって最も重要なものです。本校の学生は、バーラタの気高い伝統を維持し、本校の規範と規律を守るようにしなさい。

私は、あなた方が皆、家庭に評判と名声をもたらすよう祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C9