サティヤ サイババの御言葉

日付:1977年3月20日
場所:ブリンダーヴァン
テルグ正月の御講話より

ラーマの時代

サルヴァ ジーヴァ ダルマ シャーンタム
サルヴァ ナーマ ダルマ シヴァム
サッチダーナンダ ルーパム アディヴァイタム
サッティヤム シヴァム スンダラム

すべての生き物の支え、至高の平安
あらゆる名前で呼ばれる者、最高善
不二なる唯一者、存在、意識、至福
真理、繁栄、美

財産は使った分だけなくなりますが、あなたがこの世で生きられる寿命は、あなたが好むと好まざるとにかかわらず、また、あなたがそれを意識しているかいないかにかかわらず、一瞬ごとに短くなります。ですから、人生における大きな務めを果たすことは急を要すると思わなければいけません。理智(ブッディ)は人に授けられた特別な贈り物です。人に理智が与えられたのは、自分自身を知ることができるようにするためです。ところが、不幸なことに、今、理智は自分のことではなく他人のことを知るために使われています。自分の顔を見て顔の汚れを落とすようにと鏡が与えられたのに、人は愚かにも鏡を他人の顔に向けて持っているのです!

一生のうちに返すべき三つの借り

人が自分の知性を使って果たさなければならない根本的な義務があります。経典には、そのうちの三つは「借り(ルナ)」であると言及されています。人は、人間として生まれてこの世で生涯を送るからには、三つの借りを返さなければなりません。

最初の借りは「神への借り(デーヴァ ルナ)」、神々に返さなければならない借りです。人間の体の各器官、各機能は、実のところ、神聖な力つまり神によって、支配され、制御され、動かされています。ですから、人が神に負っている借りを感謝して返すには、自分の器官、手足、機能、技能を、人のため、社会のために使わなければいけません。

二つ目の借りは、「聖仙への借り(リシ ルナ)」と呼ばれるもので、これは人が聖仙や予見者や古代の法をもたらした人々に負っているものです。今の世代が生まれるずっと前から、無私の予見者と聖仙たちの努力によって、アートマの領域にとって善い結果をもたらす道徳規定と貴重な指針の集成が、遺産として保たれ、伝えられてきました。どの世代も、前の世代の人々、とりわけ、倫理、法、神秘主義、社会学、宗教の分野で道を切り開いてきた人、先駆者、橋渡し役の人々から、インスピレーションと知識を引き出しています。そうした人々は、和合と発展を促進し、社会の対立を取り除きます。彼らの足跡は個人と社会の発展を示しています。ですから、人には彼らに返さなければならない莫大な恩義があるのです。

聖仙と予見者たちは、自然に関する知識、意識に関する知識、さらには、それらの知識を試すため、大きくするための手段や方法に関する貴重な知識を伝えてきました。ところが、現代人はこの遺産をおろそかにし、それらを価値のないもの、余計なものだといって捨ててさえいる始末です。これは自殺行為です。人はそうした先人の知識を保ち、育て、使わなければいけません。これが聖仙(リシ)たちへの借り(ルナ)を返す方法です。

人が聖仙たちにお返しする一番の方法

今日のユガーディ〔テルグ正月の元日/ウガーディ〕といったような宗教の暦の祝祭日は、その適切な例です。それらの日を聖日と定めたのは聖仙たちであり、それぞれの祝祭日の意味と大切さ、そして、どうしてその日が祝祭日となったのかを知るのは、あなた方の義務です。皆さんは、今日の祭日の始まりに各家庭で一般的に行われている事から、聖仙たちが意図した真の目的を推測することができます。今日、人々は儀式的な沐浴をし、新しい服を着て、自宅の玄関のドアの柱に新鮮な緑の葉綱を掛け、家の壁を白く塗り直し、路面に新しい図柄を描いて、家の見た目を良くします。この一切は、本来の目的を思い出させるためにあります。それは、新しい考えを抱いて、古い色あせた考えを手放し、アーナンダ(神聖な至福)を心に据え、勇気と自信を取り戻し、希望と信心を強く持つことです。

ユガーディは来ては去ります。ナラ年〔去年〕はピンガラー年〔今年〕に道を譲ります。とてもたくさんの標石があっという間に超えられていきますが、旅はなかなか進みません。あなた方はまだ、時代遅れの信念と空想に浸っています。聖仙たちが定めた正しい規律を、聖仙たちが意図して深く見据えて定めたものだと意識して守りなさい。シャーストラ(論書や経典/霊性の科学)に従って、薦められている毎日の儀式、季節ごとの儀式、断食、誓願の儀、徹夜の行を、常に各祭事の内的意味、意義、そして霊性な側面に重点を置いて行いなさい。これは、あなた方にできる一番のお返しです。

先祖に借りを返すのは普遍的なことである

三つ目の借りは、「先祖への借り(ピトゥル ルナ)」、特に両親への借りです。この借りも普遍的なこと、つまり、どの土地の人も、どんな気候の地域の人も応えなければならないものです。というのも、私たちは皆、両親から生まれたからであり、体を授けてもらった恩を返すのは当然のことだからです。両親を崇敬し、両親を幸せにし、愛情深く見守って、愛情を込めてお世話をすることによって両親に満足と喜びを与えなさい。清らかな人格と高い徳を持ち、目的に向かう気高い活動をする子供たちを通じて道を広めることは、もう一つの義務です。

アヨーディヤーの皇帝であったダシャラタ王は、先祖たちにお返しをしたいと欲し、プットラカメーシティ ヤーガという、息子を授かるためのヴェーダの儀式を行いました。今は春の時(ヴァサンタ カーラ)です。この季節にはマードゥ マーダヴァとメーシャ リシャバという二つの月が含まれています。メーシャ リシャバは、一年で一番栄光に満ちた月です。ダシャラタ王が馬供犠〔王が恩赦を祈願して行う供犠〕の馬を放った季節も春(ヴァサンタ)でした。それは馬が何の妨げもなく大陸中を自由に走り回ることができるようにするためでした。馬は無事にその月にアヨーディヤーに戻ってきました。息子を授かるための供犠(プットラカメーシティ ヤーガ)も春に始められ、ラーマ、バラタ、ラクシュマナ、シャトルグナという四人の息子は春に生まれました。だからこそ、ユガーディは、ラーマナヴァミー〔ラーマが降誕した日〕に至るまでの春のナヴァラートリ〔九夜祭〕の始まりの日として、歓呼して迎えられているのです。

人はより高次の目的地に到るよう運命づけられている

ユガは時代という意味です。今日は元日(サムヴァッツァラーディ)ではなく、ユガーディ、すなわち新しい時代の一日目です。その時代というのは、ダルマ ユガ、すなわちラーマ ユガです。それは「ラーマはダルマの化身である」(ラーモー ヴィグラハヴァーン ダルマハ)と見なされているからです。ですから、この祝祭に参加している人たち皆にとって、ダルマに忠実であること、ダルマを支えること、ダルマを養育することは、第一の義務なのです。

たいていの人は、自分の人生に重要な最終目的を据えています。その最終目的というのは、個我(アートマ)と至高我(パラマートマ)は一つであると悟ることです。なぜ個我はわざわざ人間の姿をとらなければならないのでしょう? もしただ「生きること」、あるいは「幸せに生きること」が目的であれば、個我は鳥や獣の姿の中に入っていてもよかったでしょう。人が記憶力や心、知性や識別力、将来を予想する能力や、五感への執着をなくしたいという望み等々を備えているという事実は、人はより高次の目的地に至るよう運命づけられているということを示しています。にもかかわらず、もしそれよりも程度の低いことを希求するなら、その人は罪人(パーピ)です。一方、誘惑や障害に遭っても自己実現と神我顕現へと続く道の上に居続けるなら、貫くなら、その人はゴーピー〔牧女〕です。なぜなら、ブリンダーヴァンのゴーピーたちは、最も人を鼓舞する模範的な者たちだったからです。

その高遠な目的に到達するために人が採ることのできる最も効果的な修行は、五感を制御して征服すること、つまり、目と耳と舌と心と手が犯しがちな過ちと悪を避けることです。その悪は五悪(パンチャドーシャ)と呼ばれています。

目は、いつも不道徳なものや低俗なものを見たがります。自分の命と身に危険が及ぶかもしれないのに、車の運転者は映画の淫らな宣伝ポスターを凝視します。目が身と心を滅ぼすことがないように、目を管理下に置かなければいけません。

耳は、スキャンダルや色事を聞きたがります。耳はあなたに、霊的な成長にとって実際に役に立つ講話を聴きに行くようにとは促しません。たとえあなたが講話を聴きに行く機会を得ても、耳はあなたに頭痛を与えて参加を思いとどまらせようとします。ところが、誰かが誰かに非難を浴びせる時、両耳は最高の集中力を発揮します。

一日を愛で始め、愛で終えなさい

舌は、よく管理していないと二重に危険です。なぜなら舌は、スキャンダルを話すこと、そして、舌で味わうことを求めるからです。神の御名がどれほど甘くても、舌をジャパ〔唱名〕やディヤーナ〔瞑想や座禅〕の道へ向かうよう導くのは不可能に近いことです。スールダースは、どうかゴーヴィンダ、ダモーダラ、マーダヴァといった神の御名を唱えてくれと、舌に懇願しました。

目と耳と舌が管理下に置かれ、自己改善のために使われることが可能である時、心と手も容易に管理することができます。

人は、自分を悟った時、神はどこにいるのか尋ねる必要がなくなります。神は人の清らかなハートの中にいて、生来の英知の光、愛の力で、まぶしく輝いています

すべての人に喜びを与えなさい。この理想を達成する方法は愛(プレーマ)です。愛は神さえもあなたに近づけることができるのですから、どうして人に関してそれができないことなどあるでしょう? クリシュナは、愛以外のものに捕えられることはありませんでした。だからこそ、サイはこう言ってきたのです。一日を愛で始めなさい。一日を愛で過ごしなさい。一日を愛で満たしなさい。一日を愛で終えなさい。これが神へと到る道です、と。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C31