サティヤ サイババの御言葉

日付:1977年8月
場所:サティヤ・サイ女子大学 アナンタプル
ガネーシャ神聖誕祭の御講話より

ヴィナーヤカ チャトゥルティー

年長者、教師、両親、神を目の前にしたときに平伏(ひれふ)すのは、バーラタ〔インド〕の重要な習わしです。現代の青年は、行為(カルマ:義務)を前にしたとき、

タスマイ カルマネー ナマハ
〔行為に帰命いたします〕

と言って平伏さなければなりません。そうすれば、行うことはすべて、無私の奉仕や神聖なものに変容します。まさに行為こそが、人間を偉大な高みへと引き上げること、そして、奈落の底へ突き落とすことができるのです。人間は自分の行いに合致して、高潔にも卑劣にもなり得ます。ですから、善くも悪くも、行いこそがそのすべての背後にある理由なのです。

動物は行為(カルマ)から生まれる
動物は行為の中で生まれ、行為の中で育ち
行為の中に帰っていく
行為は幸福と悲しみの原因
人間にとって、行為は地上における神

あらゆる悲しみと喜びの裏にある原因は、行為です。神はその応報を授ける者です。人間には行為を行う権利があります。しかし、人間は神から与えられるその応報を拒む権利は持っていません。人間は、自分が行為者であると思い込んでいます。もし、人間が行為を操る権限を持っているなら、なぜ自分の行うことのすべてを成功させることができないのですか?

クリシュナが『バガヴァッド ギーター』の中で述べたのは、「マ パレーシュ」であり、「ナ パレーシュ」ではありませんから、「行為の応報に対する権利はないが、応報がないということではない」という意味を含んでいるのです。人は行為をすべきですが、その応報への権利を主張すべきではないのです。ただし、行為を完全に拒絶するわけにはいきません。神が与えるものは何かの行いの応報として受け取らなくてはなりません。幸福は神が授ける恵みです。悲しみも神が授けます。医者は感染性の病気をわずらう患者に苦い錠剤を与えます。患者が癒されて、初めてその薬の効き目がわかります。それゆえ、神が与えてくれるものは何でも自分のためになるものとして受け取らなければなりません。

皆さんの校長先生は、ヴィナーヤカ〔ガネーシャ神、始める者、導く者の意〕はスィッディ〔成就、超越的な力〕とブッディ〔理智〕を携えてスワミに付き添っている、と述べました。人はスィッディとブッディを欠いているわけではありません。もちろん、人はブッディを所有しています。しかし、ブッディを清めなくてはなりません。そうして初めて、スィッディを手に入れるのです。

今日はヴィナーヤカ チャトゥルティー〔ガネーシャ神聖誕祭、チャトゥルティーは新月から四日目の意〕です。ヴィナーヤカは、

アルカ ドローナ プリヤーヤ ナマハ
〔雑草を好むお方に帰命いたします〕
ウンマッタ シェーカラーヤ ナマハ
〔最も偉大な狂人に帰命いたします〕

と言われて懐柔されます。これは「狂人の中の狂人」という意味です。そのような者を礼拝して、人は何を得るのでしょうか? あるとき、ヴィナーヤカが母親のパールヴァティー女神に随行していたとき、チャンドラ(月)がヴィナーヤカを見て、

「パールヴァティーは息子といっしょに歩いているが、あの息子といったら、山あり谷ありのような図体で、大きなやかんのような腹をしている」

と思い、愚弄して笑いました。一番初めに礼拝されるべき神である息子を月があざ笑ったので、パールヴァティー女神は立腹して呪いをかけました。

「ヴィナーヤカ チャトゥルティーの日に月を見た者は、誰であれ何らかの非難を受けるがよい」

他人を嘲笑してはいけない

私たちがヴィナーヤカ チャトゥルティーの日に月を眺めないのは、それが理由です。これを単なる物語として扱うべきではありません。その内なる意味には霊的な重要性があるのです。万人は、パールヴァティー女神の息子であり娘です。誰かが他人を罵倒したり見下したりすれば、パールヴァティーは許さないでしょう。他人を物笑いの種にすべきではありません。実際、ヴィナーヤカは理智の権化です。

ある日、パールヴァティーは、ヴィナーヤカ〔長男〕とスッブラマンニャ〔次男〕に競争をさせました。パールヴァティーは、二神のうちどちらが速いか知りたいので、それを証明するために世界を一周してくるようにと言いました。先に帰ってきた者が勝利者というわけです。スッブラマンニャは即座に自分の孔雀に飛び乗って駆け出しました。気の毒に、ヴィナーヤカは途方に暮れました。ヴィナーヤカの体はずっしりと重かったので、速く動くことができなかったのです。ちょうどその時、ナーラダ仙がやって来て、ヴィナーヤカが悲しんでいる訳を尋ねました。人々はナーラダ仙のことを「カラハ プリヤ」(論争を好む者)と呼びます。しかし、実はナーラダはつねに、知識を授けてエゴを抑制する行為に従事しているのです。ナーラダはヴィナーヤカに言いました。

「愛しいお方よ、貴方の重い体とちっぽけな乗り物〔ねずみ〕を斟酌(しんしゃく)すれば、貴方が世界を一周するのは不可能であり、競争に勝つことなど到底できません。そこで、私は、貴方のご両親の周りを歩くことをお勧めします。それは全世界を一周するに等しいのですから」

こうしてヴィナーヤカは勝利を獲得したのでした。パールヴァティーとパラメーシュワラ〔シヴァ神〕は、自然界とイーシュワラ〔主〕の具現です。全宇宙はこの二つの力を支えに動いています。バイオリンには四本の弦しかありません。しかし、その四本の弦で歌曲の全音階が奏でられるのです。同じように、英語のアルファベットには二十六文字しかありません。けれども、これらの二十六文字を使って、数々の分厚い本が書かれています。同じように、森羅万象は、自然と主という二つの力によってのみ動いているのです。それゆえ、そのような両親のまわりを一周することは、全世界を勝ち取るのに等しいのです。このようにして、ヴィナーヤカは、どんな礼拝を行うときも真っ先に礼拝されるという特別な地位を手に入れました。罪深い行為の前には障害物を置いてもらい、賞賛に値する行為からは障害物を取り除いてもらえるように、人はヴィナーヤカに祈らなくてはなりません。

人間が救いを見出すのは、神を愛し、罪を恐れているときのみです。しかし、最近では誰も罪深い行為を恐れていません。その結果、神への愛も存在していません。人は、これからは罪深い行為を用いないという決意をもってヴィナーヤカを礼拝します。若者たちの幼いハートは、放っておけば舵のない船のように動きまわります。若者たちは凧のように飛んでいってしまいがちです。若者たちは野放しの想像や光景を頭に描いてそれに浸っています。私たちの大学の学生たちは、母性の具現である未来の母親となる可能性を秘めています。ですから、そのような想いにふけるべきではありません。なぜなら、子どもは、母親が善良であるときにだけ善良になるからです。嫁が善良であれば、嫁ぎ先の家族全員が善良になります。私たちは皆、善良な性質を育てるよう努めなければなりません。皆さんが得ている教育は、お金を稼ぐためのものでも、仕事に就くためのものでもありません。徳を身に付けるためのものです。徳があれば座はあります。徳がなければ座はありません。ですから、大小にかかわらず、どんな仕事を始めるときにも、その前に、障害物を取り除いてくれるようヴィナーヤカに平伏さなければなりません。

神は郵便配達人のようなもの

人間はよく、

「ああ神様、なぜ私にこのような困難が降りかかるのですか? なぜ私はこんなにも非難され、傷つけられるのでしょう? どうして私に善いことをしてくださらないのですか?」

と言って神を責めます。しかし、神はそうした困難を与えることを望んでいるわけではありません。人が経験する善悪はすべて、自分自身の行いに原因があります。自分の思考が自分の現状の原因なのです。郵便配達人は、あなたに手紙を配達するだけです。郵便配達人は手紙の内容も差出人も知りません。引力と重力は地球の有する特質です。引力が届く範囲内にあるものは、何であれこの自然の法則に従わなくてはなりません。この性質を拒むこと、超越することができる者は誰もいません。それと同じように、神は人の行いに応じた果報を手渡すのです。

その昔、ドラウパディー〔『マハーバーラタ』のパーンダヴァ兄弟の妻〕はドゥッシャーサナ〔パーンダヴァ兄弟の敵であるカウラヴァ兄弟のうちの一人〕に髪の毛をつかまれてドリタラーシュトラ〔カウラヴァ兄弟の父王〕の宮廷の真ん中に引きずってこられました。そのとき、ドラウパディーは、

「クリシュナ! クリシュナ!」

と大声で叫びました。助けに駆けつける前に、クリシュナはドラウパディーの過去の行いの数々を考察しました。私たちは皆、このことをつねに心に留めておかなくてはなりません。ドラウパディーの過去の善い行いを詳しく調べていたとき、クリシュナの心にドラウパディーのある行為がパッと浮かんできました。ボーギの祝祭の日〔ポンガルという収穫祭の初日〕、クリシュナは、牧女たちとラーダー、ドラウパディー、ルクミニーやサティヤバーマー〔クリシュナの八人の妃のうちの二人〕、その他の女性たちの真ん中にいました。クリシュナが一本のサトウキビを切っていたとき、指を切ってしまい、血が流れ出しました。ルクミニーとサティヤバーマーは、クリシュナを救護しようと召し使いを探しはじめました。しかし、ドラウパディーは即座に、ためらうことなく自分のサリーを引き裂いて、その布切れをクリシュナの指に巻いて縛りました。その小さな布きれが、今や、無限の長さを持つサリーとなったのです。別の例をあげましょう。クリシュナは、幼なじみのクチェーラから焼き飯を一口受け取ったことがありました。そのお返しに、クリシュナはクチェーラに莫大な富を授けたのです。敬愛を込めて捧げるならば、小さな果物でも、花一輪でも、葉っぱ一枚でも、神の恩寵を得るに値するのです。

私たちはガナパティに次のように言って祈ります。「シュクラームバラダラム」は「白いローブを着たお方」という意味です。「ヴィシュヌム」は「至るところに遍満するお方」という意味です。私たちが探求しなければならないのは、辞書に載っているこれらの言葉の意味ではありません。そこに秘められている意味をつかみ取らなければいけません。「シャシ ヴァルナム」は「灰色」という意味です。「チャトゥルブジャム」は「手が四本あるお方」を意味します。その四本のうち、二本の手は世界中に伸ばされ、他の二本は目に見えません。私たちも疑いなく二本の手を持っています。人はその手を自分の生計を立てるために使っています。その手で他人を守ることはできていません。人は、私利、快楽、幸福だけを切望し、この種の追求にすべての時間を費やしています。それでどうして自分を他人のために役立たせることなどできるでしょう? 一方、目には見えない神の手には、包容力があります。神は、その二本の手の中に時間と音を握っています。円盤は時間を表しており、法螺貝は音を象徴しているのです。「シャブダ ブラフマン」は「ブラフマンすなわちパラマートマで満ちている音」という意味です。「プラサンナ ヴァダナム」〔明るい顔〕。ヴィナーヤカはつねに至福に満ちた顔をしています。皆さんはどんな時でもヴィナーヤカのヒマシ油を飲んだような顔など見たことはないでしょう。ヴィナーヤカはつねに微笑んでいます。普通の象でも、つねに楽しげです。これは「サマーディ」〔三昧〕の状態と言ってもよいでしょう。「サマーディ」の状態で感情的な発作やヒステリーを起こすことはありません。したがって、「プラサンナ ヴァダナム」〔明るい顔〕は、「平常心」と「サマーディ」を暗示しているのです。サマ〔均衡状態〕にあるディー〔理智〕、サマーディにおいては、悲喜も寒暑も等しく易々と受け入れられます。「ディヤーイェーット」は、「私はそのようなお方を黙想しています」という意味です。これは、信者がどのように考えているかを示しています。しかし、皮肉屋たちは、これらの文言をネガティブな意味に解釈するのです。

人は、

イーシュワラ サルヴァ ブーターナーム
(神は万物に内在する)

という真理を決して忘れてはなりません。聖者エークナートの生涯には、ある興味深いエピソードがあります。エークナートは、ラーメーシュワラム〔南インドの聖地〕の主であるシヴァリンガにガンジス河の聖水を注ぎたいという心中でカーシー〔聖地ベナレス〕へ行き、聖水を汲みました。ラーメーシュワラムへの帰途で、エークナートはたまたま水を飲みたがっている驢馬(ろば)に出くわしました。エークナートは、ためらうことなくガンジスの聖水を驢馬の口に注ぎ込んでやりました。エークナートの弟子がこれに気づき、なぜエークナートがそのような神聖冒涜を行ったのか、その訳を知りたがりました。するとエークナートは言いました。

「愛しい者よ、この聖水で命拾いをさせるほうが、石の上に聖水を注ぐよりも善いことなのだよ」

謙虚さは霊性の基盤

神はあらゆる生き物に宿っているという事実を、決して忘れてはなりません。私たちは、

アルカ ドローナ プリヤーヤ ナマハ
〔雑草を好むお方に帰命いたします〕

という文言でヴィナーヤカをなだめます。そのような役に立たない花を供える意味は何でしょうか?

グニャーニ バーローンマッタ ピシャーチナハ
〔英知の人は、子ども、狂人、幽霊でもある〕

と言われます。英知の人(グニャーニ)、子ども、狂人、幽霊という四者は、よく似た心の状態にあります。この四者には罪がありません。というのは、皆、故意に何かをすることがないからです。最初の人は万人の中に神を見る英知の人(グニャーニ)です。二番目の人は無邪気な子どもです。三番目は何も自覚していない狂人です。四番目は肉体を持たない幽霊です。しかし、「ウンマッタ シェーカラ」(最も偉大な狂人)であるヴィナーヤカを礼拝する目的は何でしょうか? 泥沼にはまり込んでいる人を救出するには、泥沼の外にいなければなりません。そうであってこそ、助けることができるのです。罪のない者だけが、罪のある者を救うことができます。

ヴィグネーシュワラ〔ガネーシャ神、障害を取り除く者の意〕には利己心がありません。ヴィグネーシュワラを礼拝すれば、人も利己心をなくせるようになります。ヴィナーヤカ チャトゥルティーは最初の祝祭であり、この後にナヴァラートリー、サンクラーンティ、シヴァラートリという三大祭が続きます。ヴィナーヤカはこれらの祝祭の障害物をくじくために最初にやって来るのです。ヴィナーヤカは、これら三大祭を聖化するよう私たちを奨励します。ヴィナーヤカは言います。

「私はそなたらの悪い行いゆえに障害物を作り、そなたらの善い行いゆえに障害物を取り除く。それゆえ、私を崇めなさい」

皆さんは、知ってか知らずか、過去に悪い行いをしてきたかもしれません。しかし、今後は繰り返さないようにしなさい。この大学は高い理想を掲げて設立されたのです。

本校の学生は、身に付けた教育の神聖な精髄でハートを満たし、謙虚に振る舞わなければなりません。皆さんは教育から謙虚さを身に付けます。謙虚さから適性を手に入れます。適性から富を得ます。富によって慈悲深い有徳の行いをすることができ、世俗の安楽のみならず人知の及ばない安楽も実現するでしょう。

ドラウパディーは模範に値します。パーンダヴァ兄弟が森での生活に入ろうとしたとき、ダルマラージャ〔パーンダヴァ兄弟のうちの長兄〕はドラウパディーに、そなたは弱くて森での生活の辛苦に耐えられないだろうと言って、ハスティナープラ〔カウラヴァ兄弟の都〕に居残ってガーンダーリー妃〔ドリタラーシュトラ王の妃〕に必要な奉仕をするようにと言いました。するとドラウパディーは、自分はパーンダヴァ兄弟と共に草の根や木の実を食べることは厭わないけれども、彼らがいないところで生きていくことはできないと言いました。ドラウパディーはこう言いました。

高貴なドルパダ王の娘として生まれたからには
強大なパーンドゥ王の義理の娘として選ばれたからには
パーンダヴァ兄弟を夫として選んだからには
勇ましい息子たちの母親であるからには
どうして私が、奴隷の身になど甘んじていられよう?

皆さんはこのような高潔な考えを吸収しなければなりません。ドラウパディーは、「ヴィーラ パトニー」(勇敢な夫たちの妻)でした。「ヴィーラ マータ」(勇敢な息子たちの母親)でした。両親に名声をもたらしたことで、「ヴィーラ プトリカー」(勇敢な娘)ともなりました。

心の中に悪い思考が入ってきたときには、いつでもよく考えて、それらの思考を追い払わなくてはなりません。そうして初めて、皆さんはどんなことでも達成することができるのです。皆さんは、大学の中ではもちろん、大学の外でも善い評判を得るような行動をとらなければなりません。ここで学んだことをだめにしてはなりません。理智を研ぎ澄まし、清めて、自らの義務として着手することを成功させる方法を習得しなければなりません。あなたの行う善は、つねにあなたの後について来て、あなたを守ってくれます。皆さんはこう祈らなくてはなりません。

「おお、行為よ! 私を堕落の道へ連れていかないでください。どうか私が正しい道の上で行動することができますように。タスマイ ナマハ カルマネー〔行為に帰命いたします〕」

行為は、それによって私たちが善くも悪くもなる媒体です。私は皆さんがこの大学で規律正しい生活を身に付け、皆さん全員が永続する幸福を引き出すよう願って、祝福と共に私の講話を終わりにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C15