日付:1978年
夏期講習の御講話(10)より
それ自体には何の価値もない人間の肉体の中に、
アートマという 神聖で値が付けられないほど貴重な宝石が置かれている
このサイの言葉は真理の声明なり
人間の肉体は五つの物質元素〔五大元素〕からできており、いつの日か朽ち果てるほかありません。その肉体の中に宿っているアートマ〔真我〕は、肉体とは異なり、永遠かつ神聖なものです。このアートマの神聖な相には、誕生も死も、執着もありません。もし私たちが深くじっくり考えるなら、アートマの姿をとった神は万人の肉体に宿っていることがわかるでしょう。
プレーマスワルーパ〔愛の化身〕である皆さん、
誰であれ人間の肉体に執着している人は、姿が見えない〔無形の〕神を容易に理解することができません。人間の肉体そのものが自分の肉体と似たものを好み、常に姿形のある神を見たいと欲しているのです。多くの場合、私たちは姿形のある神の相を通して、初めて無形の神の相に気づく機会を手に入れます。バーガヴァタは、無形の神を理解できる神聖な機会を与えてくれます。バーガヴァタの目的は、内なるアートマの神聖さを私たちに教えることなのです。姿が見えないアートマの何らかのヴィジョンを得るために、バーガヴァタは三つの手段の形でウパーサナ〔礼拝〕を教えています。それらはヴィシュヌ・ウパーサナ、ヴァースデーヴァ・ウパーサナ、ナーラーヤナ・ウパーサナです。
第一の手段であるヴィシュヌ・ウパーサナは、名と姿のある万人の中にいる神を実感認識します。この側面は、バガヴァッド・ギーターの中で「ヴィラート・スワルーパ」〔遍在者の姿〕と記載されています。それは「ヴィシュワルーパ・ダルシャナ」〔一切の相を見ること〕であり、すなわち、被造物という姿をした神の顕現です。この意味は、ビーシュマが矢の床に横たわっていた時にダルマラージャに伝えたものです。バーガヴァタは、被造物全体〔森羅万象〕が実際はヴィシュヌ神の相であることを明らかにしています。バーガヴァタは、ヴィシュヌ神はあらゆる時にあらゆる場所であらゆる被造物の姿の中にいることを教えているのです。この道は、普通の人間が歩むのに容易な道であると言えるでしょう。神はあらゆる生き物の姿の中にいるのですから、私たちは万人を神の何らかの姿と見なすことができます。
第二の手段はヴァースデーヴァ・ウパーサナです。この手段においては、あらゆる人間の中だけでなく、あらゆる行動と仕事の中でも神を体験しなければなりません。ここでは、名と姿のある一切のものと結びついているあらゆる行動の中に神の側面を認識しようと努めるべきです。これはさほど容易な道ではありません。というのも、人間は色欲、怒り、嫉妬、憎しみのような性質でいっぱいであり、さらに執着も持っているからです。これらの性質のために人間は神を思うことができません。ある人が悪いことをするのを見てしまうと、その人をただ悪人と見なすだけでなく、悪い思いが私たちの中に入ってくる可能性もあります。こういった状況では、そのような人を受け入れることや、その人が神聖な行為としてなす行為を受け入れることは難しくなります。そんな神聖でない状況に余地を与えないために、私たちの中に神性〔神〕の側面を育てなければなりません。ニシキ蛇にとぐろ巻きにされている人が必死に手足を解放しようともがくように、怒りや色欲、貪欲、憎しみのような性質にとぐろ巻きにされた人間は、必死になって神を思い、自分が目にする万物の中にある神性に気づくように努力しなければなりません。ですから、ヴァースデーヴァ・ウパーサナは歩むのに難しいものなのです。
第三の手段はナーラーヤナ・ウパーサナです。この手段は、個人の姿や行動における神性を体験するのを可能にするばかりか、あらゆる被造物の一体性を見ることも可能にしてくれるでしょう。これはあなた方がアートマの体験を得ることに繋がります。アートマの側面に気づくことにより、それはあらゆる被造物の中に存在する単一性を確立するのを可能にするでしょう。これによって皆さんは、神性のさまざまな姿の間に差異はないことを受け入れることができるようになるでしょう。
バーガヴァタの中には、これら三つのウパーサナ〔礼拝〕の形式を象徴する三人の偉人がいます。ラージャリシ〔王仙〕であるパリークシット王〔アルジュナの孫〕は第一の型のウパーサナの象徴です。偉大な苦行者であるシュリンギはウパーサナの第二の型に属します。有名なブラフマリシ〔梵仙〕であるシャミーカ仙〔シュリンギの父〕はウパーサナの第三の型を象徴します。シャミーカ、シュリンギ、パリークシットの体験を合わせたものがバーガヴァタの核心です。これら三つの型は、実は三つのグナ〔属性〕であるサットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕のグナでもあります。バーガヴァタはこれら三つの相を調和させ、神性は一つであることを実証した教本なのです。
パリークシット王は母の胎内にいる時からクリシュナの加護を受けていたため、大変学識のある人となり、実に賢明に王国を統治しました。それほど善良で気高い王が、なぜカッとなって自分を抑制できなくなり、シャミーカ仙の肩に死んだ蛇を巻きつけたのかと疑問に思うのは当然です。どれほど偉大な人間であっても、どれほど立派な帰依者であっても、怒りを覚えれば自分を制御できなくなります。怒りは人間の最大の敵です。カッとなったパリークシット王はシャミーカ仙の肩の周りに死んだ蛇を巻きつけましたが、それは尊大で軽率なふざけた行為のように扱われるべきではありません。それは心が弱くなった瞬間にしでかした単なる過ちだったのです。パリークシット王は、シャミーカ仙や他のリシ〔聖仙〕たちが〔王である〕自分を出迎え、注意を払おうとしなかったのを見てひどく動揺しました。そして、そこから立ち去る時に死んだ蛇を拾い上げ、シャミーカ仙の肩の周りに巻きつけました。シャミーカ仙の息子シュリンギは、しばらく後にこの光景を見て激怒し、パリークシット王が草庵から立ち去ろうとしていたその時、「七日以内にパリークシットが蛇に咬まれて死なんことを」と呪いの言葉を吐いたのです。
ここで、起こった出来事はパリークシット王の一過性の怒りであって、行為自体には何の残酷さも邪悪な意図もなかったことに気づくべきです。しかし、その光景を見たシュリンギはとても腹を立て、自分の怒りによって王を呪いました。王はこの呪いに気が付きませんでした。ここで、私たちはシュリンギの怒りの理由を注意深く調べ、この状況でダルマがどのように働くのかをしっかりと理解しなければなりません。もし徳高い善良な王が気づかずに過ちを犯した場合、その結果は、国民ではなく王だけに影響を与えます。ラージャリシ〔王仙〕でありながら、王の中にほんのわずかなラジャス〔激性〕が残っており、そのため気持ちが弱くなった瞬間、王は怒りを覚えたのです。
シュリンギは多大な混乱をもたらしました。というのも、シュリンギの呪いのせいで、国民も苦しみ、〔王から〕守ってもらえない状態になってしまったからです。このように、王の過ちの結果は国民にも影響を及ぼしました。実際、シュリンギには呪いをかける権利はありませんでした。ここで私たちは、呪いをかける権利のないシュリンギのような人物が呪いをかけたことに目を留めましょう。実際、これはダルマの深遠な側面です。善良で徳高い王〔王仙〕が腹を立て、ブラフマリシ〔梵仙〕を侮辱し、呪いをかける権利のないリシ〔普通の聖仙〕が呪いをかけた、という事実は、ダルマの正当な規範が衰退している象徴です。実に、この時こそがカリユガ〔暗黒の時代〕の到来でした。カリ〔暗黒〕の結果、ヴァースデーヴァ・ウパーサナとヴィシュヌ・ウパーサナの中にいくらかの汚点が入ってきているのが見て取れます。
深い瞑想から目覚めた時、シャミーカ仙は起こったすべての出来事をすぐに悟りました。シャミーカ仙は息子を叱責する措置を講じました。シャミーカは言いました。「あの王はとても気高く、親切で、われわれ皆を大事にしてくれていた。一瞬の気弱さのせいで軽はずみなことをしたとはいえ、おまえは王を呪うべきではなかった。この行為のために、おまえは自分が積み上げてきたタパス〔苦行〕による一切の功徳を無にしてしまった。おまえはただこんなやり方で過ちを犯すために一切の苦行に取り組んできのか? あのような状況下では、王も時折ああした怒りに駆られるのは当然のことに思われる一方で、おまえのようなタパスヴィ(苦行者)が、平静を失って呪いをかけたりするべきではない。我々の国にはもう指導者がいなくなり、月のない闇夜のようになるであろう」
こうして息子を叱責した後、シャミーカ仙はパリークシット王に伝言を送って呪いの力を知らせることが最善であると考えました。彼はまた、パリークシット王に怒りの悪果についても教えることにしました。「人の富と繁栄は怒りによって破壊されます。人がどれほど名誉や良い評判を得ていたとしても、怒りはそれらを破壊します。怒りはその人を自分のものである人々から引き離します。高慢と怒りによってすべては破壊され、怒りに駆られた人間は何一つ達成できません。怒りを持つ人は恥をかくでしょう。その人は常に罪を犯し、すべての人が彼を叱責します。怒りは罪を助長します」
使者は、怒りの悪果についてシャミーカ仙が伝えたとおりパリークシット王に述べた後、さらにシャミーカ仙からの言葉を伝えました。「気弱になった瞬間、あなたが自分を抑制できなかったのは当然かもしれませんが、あなたは自分の怒りを克服し、責任ある態度で振る舞う必要がありました。あなたの過ちを見逃して自分を抑制する代わりに、わが息子のような神聖な苦行者が、あなたが七日以内に蛇に咬まれて死ぬという呪いをかけてしまいました。これから七日間は常に主を思い、あなたの中の善を増強してください」
このシャミーカ仙の言葉を聞いたとたん、パリークシットの心は完全に変容し、ブラフマリシであるシャミーカ仙に敬意を込めたプラーナム〔挨拶〕を伝えて言いました。「これは、私にとっては呪いではなく素晴らしい贈り物です。自分のカルマの結果と自分の為した行いから逃れることはできません。これを悟らせてくださったあなたに感謝いたします」
その日から、パリークシット王は政治の責任を大臣たちに引き渡し、神に思いを馳せました。この呪いの知らせを聞いたとたん、数人のリシ〔聖仙〕や他の者たちがパリークシット王に会いにやって来ました。高潔で神聖なハートを持つパリークシット王が呪いを免れ、長生きできるよう、彼らは神に祈りました。しかし、タパスヴィ〔苦行者〕による呪いは償うことができず、パリークシット王は死の準備を始めました。多大な平常心を持っていた偉大なブラフマリシのシャミーカ仙も、パリークシット王の安寧を祈っていました。シャミーカ仙は外界の目的のために世間との繋がりを持っていましたが、心の中にはまったく執着がありませんでした。シャミーカ仙は完全にアートマ〔真我〕に溶け込んでいました。そのようなブラフマリシと神の間には何の違いもありません。
ある時、戦いの後、ダルマラージャは自分の失望と落胆を伝えるためクリシュナの邸宅へ行きました。その時、クリシュナはダルマラージャにパリークシットの未来に関する詳細をすべて語りました。パリークシットがいかに偉大な名声と評判を得るか、彼の祖先たち全員よりも偉大な栄光を達成するかを教えたのです。またクリシュナはパリークシットがどのように聖者の呪いを受け、蛇に咬まれて命を落とすかも語りました。こうしてダルマラージャに話していたとき、突然クリシュナは沈黙状態に陥り、ダルマラージャはすっかり混乱しました。数分後、ダルマラージャはクリシュナに、なぜ話の途中で沈黙したのか理由を尋ねました。
クリシュナは、矢の床に横たわっているビーシュマの呼び声に応えて行かねばならなかったのだ、と言いました。神聖なハートを持つ人は、心を込めて祈ることによって、主の恩寵を得ることができるでしょう。神聖な心と神の間には何の違いもありません。神聖な人の祈りはまっすぐ主に届くのです。そのような人々は英知の化身であり、彼らはアドワイタ〔不二一元〕が姿をとった者です。彼らは神との一体感を楽しみました。彼らはこの世には唯一の真理〔真実〕のみがあり、同時に二つの真理〔真実〕はないと固く信じていました。そのような人々は常に素晴らしい恍惚の境地にあり、本当に子供のようです。ですから、子供の境地、素晴らしい恍惚状態にある人の境地、頭のおかしい人の境地は似ていると言われるのです。自分の感覚が興奮状態に陥った結果、人は時として自分の本性を忘れてしまいます。本当は、人はアーナンダ〔至福〕だけを求めているのです。また、人は本来、無私無欲ですが、感覚器官の圧力によって物質的な欲望に執着し、神を忘れます。そのような人々への恩恵のために、大きな愛と情愛をもって、バーガヴァタはクリシュナのものの見方を教えているのです
愛の化身〔プレーマスワルーパ〕である皆さん、
私たちがこの世で見ているすべての名と姿は、神の反映に他ならないことを悟る努力をしなければなりません。またすべての被造物は神の一部であることも理解すべきです。名と姿の中に差異に惑わされ、これらすべての中の本質的な単一性を忘れてはなりません。あるとき、ナーラダ仙はゴーピカー〔牧女〕たちの誠実さを疑うようになり、クリシュナに尋ねました。「ゴーピカーたちはあまり教養もなく、シャーストラ〔経典〕やヴェーダも知らず、未開の者のようにさえ見えます。なのにどうして彼女たちが神のものの見方を正しく認識できるでしょう? グナ〔属性〕の水準を超越した者だけが神を理解できます。それ以外の、世俗の性質や思いに夢中になっている者たちが、どうして神を理解できるでしょう?」。するとクリシュナは言いました。
「ゴーピカーたちの本性はとても清らか(神聖)だ。たとえ姑たちが彼女たちに小言を言い、夫たちが彼女たちを懲らしめようとナイフを研いでいても、彼女たちは口答えをしないし、怖がることもない。ゴーピカーたちの心の中には、紙に刷られたようにクリシュナの姿がくっきりと焼き付いている。ハートからクリシュナを引き離すことができないほどのゴーピカーたちに、教養の一切が何の役に立つだろう? 運命の結果から逃れられる者がいるだろうか?もし人の心〔マインド〕に悪い思いが入ってきたら、その人に望みはないのだ。
そなたは、身に付けた教養やヴェーダの詠唱によって主を喜ばせることはできない。神は神聖なプレーマ〔愛〕だけに惹きつけられる。そなたが得た学識は頭のためだけのものだ。もしそれを実践に移さないなら教養が何の役に立つのだね? 書物には多くの学び〔知識〕はあるが、誰のハートもゴミでいっぱいだ。私たちが書物から得られるものは何もない。ただ生計をやりくりし、空腹を満たすために、そうした書物を読まなくてはならないだけだ。純粋な愛〔プレーマ〕のみがそなたに主を理解させることができる。だからこそ我々の聖典は『不死は富によっても教養によっても得られず、善良な性質と犠牲によってのみ得られる』と教えているのだ。犠牲によってそなたは不死を獲得できる。しかし、もしボーガ(感覚の悦楽)に浸っていればローガ(病気)になるだけだろう」
学生諸君、あなた方は犠牲の真の意味を理解しなければなりません。だからこそティヤーガラージャは、「我々は主の御名を意図的に口にしなければならない」と言ったのです。もし吸い込んだ空気を吐かなければ肺は損なわれるでしょう。もし摂った食べ物を排泄しなければ、体は病気になるでしょう。たとえ血液が絶えず体中に流れていても、手には腫れ物ができるでしょう。犠牲から生じる善を理解しなければなりません。教養は善い活動のためにのみ使うべきです。
すべての瞬間は、それを上手に使っても使わなくても、新しい瞬間へと過ぎていきます。もし時間が進まなければ、日は変わらず、寿命は減らず、変化はありません。時間が過ぎていくからこそ、私たちの人生は変化していくのです。泳いでいる時は、目の前にある水を後ろへかこうとしなければなりません。もし水を後ろへかこうとしなければ、全く前に進めないでしょう。私たちは人生のあらゆる領域――道徳的、霊的、倫理的、政治的――において、犠牲を払わなければなりません。
ディッヴィヤー アートマ スワルーパ〔神我の化身〕である皆さん、
私たちの苦しみや楽しみは過ぎゆく雲のようなものであり、つかの間のものです。そのような一時的な楽しみで人生を満たしてはなりません。あと七日で人生が終わると悟った時から、パリークシット王はずっと主〔クリシュナ〕を思い続けていました。パリークシットがそのような神聖なハートを持っていたので、偉大なリシであるシュカ仙は会いにやって来たのです。もし私たちのハートが清らかであれば、神聖なパラマートマ〔至高神〕自身が私たちに会いに来るでしょう。善いものを手に入れるには、ハートを清らかで神聖なものにすることが必要不可欠です。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch10