サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習の御講話(19)より

教育は教育を受けた人の謙虚さを増進すべきである

もし卑しい欲望を取り除くことができれば、それは真のヨーガになるだろう
財産や妻や子供たちを捨てて森へ行くことは、ヨーガにはなり得ない
このサイの言葉は正しい道を示している

愛の化身(プレーマ スワルーパ)である皆さん、

幻想と暗闇に包まれているとはいえ、人間の義務はそこから外に出ようと努力して、神のヴィジョンを手に入れることにあります。人間には、サット、チット、アーナンダを手に入れる資格があります。サット、チット、アーナンダを楽しむ権利を持つ人間が、自分はそのような至福を持つ権利のない凡人であると考えています。人間は単なる物質ではありません。物質は人間に従属するものですが、人間は物質に従属するものではありません。人間は、まるで囚人であるかのように、自分の周りの仕事の一部になってしまってはなりません。卑しい欲望を捨て、神聖な道を歩むことによって、人は神性を理解することができます。これが、人間の為すべきことです。

私たちの周囲で起こっているすべてのことには、主体者である者がいるはずです。この世のすべての個体は、この根本原因のサンカルパ〔意志〕によって仕事をしているのです。私たちには、周りで見ている万物の基盤そのものであるパラマ―トマ〔至高の神〕を愛する以外、他に何の仕事もありません。彼こそが、私たちが本当に愛すべき唯一のお方です。ゴーパーラ〔牧童〕とゴーピカー〔牧女〕たちは、私たちにこの教訓を伝えてくれているのです。

バーラタ〔インド〕の文化は、真実から非真ではなく、非真から真実へと進むことが人の義務であることを万人に教えてきました。これに関連して、ウパニシャッドは、人は真実を探求すべきであると教えています。創造という幻想の中に生きているとはいえ、これがすべて非真であると考えて、生きることを避けるのはいけません。水泡そのものから生じる水泡が、水の上でとどまり続け、最終的にはその源である水に溶け込むように、アートマから出てきた人間の本質もまたアートマゆえにとどまり続け、最終的にはアートマに溶け込まなければなりません。人間が悩まされている幻想は人間自身が創り出したものです。それらは人間に生来のものではありません。人間は自分が幻想の中で生きていると考えています。

私が手に香りの良い花を持っていれば、私だけでなく周りの人々にも良い香りがするでしょう。同様に、もし私が嫌な匂いのするものを手に持っていれば、持っている私だけでなく、周りの人々にも嫌な匂いがするでしょう。ここで、良いものであれ悪いものであれ、それは私たち自身の心の反応にすぎないことに気づかなくてはなりません。だからこそ、「人間の束縛も自由も、その原因はただ人間の心にある」と言われるのです。

水面に石を落とすと、石は底まで沈んでいきます。それはまるで、水がその石のために開いたかのようです。そして、水面に石が落ちた結果、波が生じます。それらの波の輪は少しずつ広がって、湖の岸にまで到達するでしょう。それと同じように、私たちの心〔マインド〕に思いを落とすと、その思いから生じた善い考え、あるいは悪い考えは、全身に広がっていきます。心の湖の波が創り出したその悪い考えは、私たちの手に伝わり、何らかの悪い仕事をさせるかもしれません。それは目に伝わり、目に悪いものを見させるかもしれません。それは足に伝わり、足を悪い場所へ連れて行くかもしれません。思いの性質しだいで、私たちは善い行為、あるいは悪い行為をしはじめるのです。このように、私たちの思いが、善いことか悪いことのどちらか一方へ導くのです。それゆえ、善い考えや善い思いを積み上げるよう努力しなければなりません。

自分の心に悪い思いを抱かない人は、常に解脱している状態の人になります。そのような人がどこへ行こうと、どんな仕事をしようと、神は常にその人と共にあり、その人が成功するよう見守るでしょう。その人は自分が引き受けた仕事の成果には関心がありません。そのような人は、自分の仕事の成果がどうであれ、何も考えません。その人は常に、良い仕事をすることだけが自分の義務であると考えます。その人の思いは、自分は常に良い神聖な仕事を引き受けるのだ、ということだけなのです。

ゴーパーラ〔牧童〕とゴーピカー〔牧女〕たちは、人はどのようにして日常生活に神性の側面を取り入れることができるかを示しました。ゴーパーラ〔牧童〕たちは子供時代からずっとクリシュナを見てきており、クリシュナが普通の人間の許容量をはるかに超えて物事を成し遂げたことに気付くことができました。それゆえ、ゴーパーラたちはクリシュナを崇拝していました。彼らは心の内ではクリシュナが神であるという明確な観念を持っていましたが、身体上の関係のせいで、時おり、クリシュナは自分たちの友であり、仲間の一人であるとも考えていました。そのような状態で、クリシュナはいっしょに遊んで、ゴーパーラやゴーピカーたちを喜ばせていたのです。

あるとき、クリシュナは母ヤショーダーに、他のゴーパーラ〔牧童〕たちと一緒に牝牛に草を食ませに行く許可を求めました。母親は、クリシュナはまだ幼子だし、これまで大切に育てられてきたのだからと言って、行くのを思いとどまらせようとしました。するとクリシュナはとても意固地になって、もうご飯を食べないと言いました。クリシュナの譲らない性格を知っていたため、母親はクリシュナの要求をのむことにしました。けれども、森には蛇や棘のある植物やサソリでいっぱいだから、クリシュナのために二日以内に特別な靴を用意するので、そうしたら行ってもかまわない、と言いました。

クリシュナはこれに同意しませんでした。牝牛と幼い子牛たちは足を保護するものを何も履かずに森へ行くのだから、自分も靴を履かずに裸足で行くと言いました。ヤショーダーは、牛たちはよいけれど、クリシュナは幼い少年だから靴を履くべきだと答えました。ここでクリシュナは、優れた教訓を与える絶好のチャンスを得ました。クリシュナは、二本足で歩くものはみな人間で、四つ足で歩くものはみな動物だと考えるのは正しいくない、と言ったのです。

クリシュナは「パシュ」〔動物〕という言葉の起源を説明しはじめ、誰であれ外側を見る目しかない者は動物としてのみ扱われるべきであり、内側を見る目のある者こそが真の人間である、と言いました。姿の上では動物であれ、人間であれ、外側を見る視力しか持たないのであれば、それは動物と同じである、と。多くの人はカラスのようなものです。ただ外側に見えるものを理解したいだけなのです。彼らは内を見る視力とは何なのかを理解したいとは思っていません。彼らは常に、世俗の心地よさ〔慰安物〕を楽しみたいと思っていますが、内なる平安を手に入れて、その結果として至福の人生を送るために努力する人は、めったにいません。クリシュナは、母親とは違う意見で、これらの牝牛たちは動物のように振る舞っているほとんどの人間たちよりも優れている、と言いました。

動物たちは愛にあふれています。動物たちには利己心がなく、常に犠牲に満ちた生活を送っています。本来なら幼い子牛たちのために出す牛乳が、人間にエネルギーと栄養を与えるために差し出されています。人間は青草や干し草を牛の餌として活用し、そのお返しとして、牛たちは神聖な牛乳を人間に与えてくれているのです。牛たちは役にも立たないものを受けとって、そのお返しに貴重な牛乳を差し出してしているのです。それにひきかえ、人間は良いものを受け取って消費をし、その代わりに悪いものを返しています。ここで、本当は誰が動物なのか、注意深く調べてみなくてはなりません。

もしあなたが時折、少しの餌を与えるなら、その動物はずっとあなたに愛着を覚えて感謝するでしょう。人間は、どれほど貴重なものを受け取っても、そうした感謝の念を示しません。このように反論し、自分は牝牛たちと一緒に行かなくてはならないのだと、クリシュナは言いました。クリシュナが考えを変えないことはわかっていたので、ヤショーダーはクリシュナが行くことに同意しました。

翌朝早く、ヤショーダーはご飯とカード〔凝乳〕にピクルスを添えたものを包み、お弁当としてクリシュナに手渡しました。クリシュナと牧童たちは、牧草地の中へ向かいながら、楽しそうに遊んだり歌ったりしていました。牝牛たちも楽しそうにゴーピカーやゴーパーラたちの後ろをついて行きました。子供が母親の後をついて行きたがるように、子牛も牝牛と一緒に行きました。この楽しい雰囲気の中で、自分たちはどこへ向かっているのか、一行はよくわかっていませんでした。彼らは道に迷い、森の奥深くをさまよいました。お昼を食べるため、みんな川のほとりで休憩し、お弁当の包みを開きました。ゴーパーラ〔牧童〕全員の一体性を行動で示すため、クリシュナはすべての包みを開いて、包みの中に入っていた食べ物を全部一緒に混ぜ合わせました。クリシュナはそれを人数分に分けました。ゴーパーラ一人ひとりに同量が配られました。彼らは皆、神の手によって分けられた食べ物をおいしそうに食べました。

主のヴィジョン〔姿を見ること〕によって自分の罪を取り除くことができる、と言われています。主と会話することによって解脱と救済が手に入る、と言われています。ここで、ゴーパーラたちは主のヴィジョンを得ることができたばかりか、主と会話を交わすこと、主に触れることができました。昼食を食べた後、彼らは、かくれんぼをして遊びはじめました。ゴーパーラたちは全員見つかって捕まってしまいましたが、クリシュナは一度も捕まりませんでした。泥棒を一人ひとり捕まえるのはとても簡単ですが、その泥棒集団の長を捕まえるのはとても難しいものです。皆さんは「帰依者のハートの大泥棒」という主の描写を何度も聞いたことがあるでしょう。それほどの大泥棒は、純粋で清らかな愛を持つ人によってのみ捕まえられるのです。ゴーパーラたちがこうしてクリシュナと遊んでいたとき、神々もその遊びをじっと眺めていました。いったい誰に、神と共に遊べるほどの幸運な体験が得られるでしょうか?

彼らは、疲れ果てるまで、遊びに遊びまくりました。ゴーパーラたちは、もしクリシュナも疲れてしまったら、ヤショーダーが取り乱すかもしれないと思いました。ゴーパーラの一人がタオルを広げ、クリシュナはそのゴーパーラの膝の上に頭を載せて休憩しました。他のゴーパーラたちは皆、それを見て嫉妬しはじめました。彼らはクリシュナの近くへ行って、今後は毎日、日替わりで違うゴーパーラの膝の上で休んでもらいたいと要求しました。別のゴーパーラがやって来て、平等心というものはただ食べ物を平等に配ることだけじゃない、と言いました。その牧童は、その喜びも全員に平等に与えられなくてはならないと頼んだのです。

そうしているうちに、いつも家路に就いている時間が過ぎてしまいました。ゴーパーラたちは摂った食べ物をすべて消化していました。彼らはとても空腹になり、皆でクリシュナの周りに集まって、お腹が空いたと言いました。クリシュナは一瞬、目を閉じると、近くでブラフミン〔婆羅門〕たちがヤグニャ〔供儀〕を執り行っていると言い、年長のゴーパーラの一人に、そこへ行って食べ物をもらってくるよう頼みました。そのゴーパーラは他の牧童たちを伴ってその場所へ行き、食べ物を求めました。ルットウィック〔バラモン僧〕たちは非常に苛立って、立ち去るようにと言いました。主への奉納が完了していないことを口実に、彼らはゴーパーラたちに食べ物を与えることを拒否したのです。主への儀式の奉納が終わるまではどんな食べ物も与えることはできないと言って、彼らは牧童たちを追い払いました。牧童たちはクリシュナのもとへ走って帰り、すべてを話して、自分たちはどうすればいいのか指示してほしいと頼みました。クリシュナは大声で笑って、もう一度牧童たちをその場所へ行かせました。クリシュナは、女性のほうが飢えの苦しみをよく知っていて、厨房で料理をしているから、直接話を持ちかければ必ず助けてくれるだろう、と言いました。ゴーパーラたちは、クリシュナの命令は無条件に受け入れて従うのが常でした。彼らはいつも喜んでそうしていたのです。ゴーパーラたちは急いで厨房へ走って行き、女性たちに直接話を持ちかけました。

厨房の女性たちは、クリシュナが食べ物を求めてコーパーラたちを遣わしたのだと聞きました。クリシュナの名前を聞いて女性たちのハートは溶け、クリシュナはどこにいるのか、どんなリーラー〔遊戯〕に夢中になっているのかをもっと知りたがりました。クリシュナがすぐ近くにいると聞いて、彼女たちは急いで食べ物を集め、クリシュナに会いに行きました。ルットウィック〔バラモン僧〕たちは儀式を終え、主に供物を捧げる儀式の時間になったので、食べ物を持って来るために厨房へ行きましたが、食べ物はどこにも見当たりませんでした。厨房には女性たちもいませんでした。彼らが女性たちを探しに行くと、クリシュナが木の下に座っていて、女性たちが与えた食べ物を味わっていました。

「女性は愛情深いが、男性は賢明なだけである」と言われています。これには内なる意味があります。女性がパラマートマ〔至高の真我〕の住む大邸宅の中に入る権利を得るのは、それが理由なのです。自分の知識をひけらかす男性たちは、主が玉座に座っている時、その御足のもとまでたどり着けるだけです。それ以上近くには行けません。ここで心に留めておかねばならないことは、クリシュナは、知識の力に対して、単純素朴な信愛の力を世に示す目的で、この状況を作り出したということです。神聖な集まりや寺院の中に入りたいと思う時は、いつも女性が主導権を握ります。バーガヴァタやマハーバーラタの中のどんな例を見ても、女性が男性を霊性の道へと導いています。

女性たちのハートは伝統的にとても優しいのです。だからこそ、バガヴァッド・ギーターは、女性に悲しみの涙を流させるべきではないと言っているのです。悲しみの涙が流れるほど女性を悲しませるような家には、決して繁栄はありません。これはヴェーダに述べられていることであり、ヴェーダは母性の側面をとても高い台座に置いています。人は傷つくと「アッパー〔お父さん〕」ではなく、「アンマー〔お母さん〕」と叫びます。国も、母国と呼ばれています。私たちは「マートゥル・デーヴォー・バヴァ〔母を神として崇めよ〕」、「ピトゥル・デーヴォー・バヴァ〔父を神として崇めよ〕」という順番で語りますが、その逆はありません。母親が最初に来るのです。私たちは、「ラーマ― シーター」ではなく「シーター ラーマ」と言います。同様に、「パラメーシュワラ パールヴァティー」ではなく、「パールヴァティー パラメーシュワラ」と言います。

このように、バガヴァッド・ギーターやヴェーダなど、すべての聖典は、常に女性に高い地位を与えてきました。だからこそ、女性の内には、パラマートマが7種類の力と16のカラー〔光輝/徳〕を供えて現れているのです。このように、女性の内には神聖な本質が備わっているため、女性は容易に霊性の道に入ることができます。女性たちのこの立派な行動を見せるために、ゴーピカーたちには卓越した地位が与えられました。実際、人間にとって信愛と信仰より価値のある財産などありません。あなたがどんな教育を身に付けようと、どんな物質的財産を持っていようと、主の恩寵がなければ、その一切は無駄になるでしょう。

愚かな人々は、この世の永続しないものや一時的なものを追いかけ、神聖な側面を忘れています。今日あなた方が身に付けている教育は、ただ自分たちを養い、生計を立てるためにしか役立っていないように思われます。人は自分の腹を満たすために努力しているだけです。人々はどんな道徳的行為の必要性にも注意を払わず、動物のように生きています。物質的な富のためなら、自分たちの名誉と良い評判を売る準備をしているのです。

学生諸君! お金は行ったり来たりするものですが、道徳は来ては育ちます。富やお金を稼ぐことが何の役に立つのですか? それは少しも皆さんを助けてくれないでしょう。学生諸君! 君たちは犬やキツネのような動物と同じように生きるべきではありません。君たちは神聖な人生を送るべきです。優れた正しい教育の性質とは、年長者たちを敬い、友人たちに敬われるものでなければなりません。教育は謙虚さを促進します。謙虚さによって、皆さんは当然受けるべき価値を手に入れ、当然受けるべき価値によって、ダルマを広めるために使う富を手に入れるでしょう。

教育によって、優れた性質を身に付けなくてはなりません。もし教育があなたを善良でダルマに適う生活へと導かないのなら、そのような教育を受けた人は動物より悪いのです。あなたが富を持っていて、それを他の人々を助けるために使うのであれば、あなたは善良な人です。たとえ肉体的には非常に強靭であっても、善良な人でなければ完璧な人間にはなれません。常にヴェーダを朗唱し、ジャパをしていても、そのことがその人たちを真の帰依者の段階へと連れて行ってくれることはないでしょう。

人々を結び付けているのは単一性〔一つである〕という神聖な感覚だけです。信仰や信念のない人間は動物以下です。私たちは何のために生きているのでしょうか? 何のためにここに来て、何を求めているでしょうか? 動物たちも食べたり眠ったりしていませんか? なぜ大学の学位を取得するのですか? ただ食べたり眠ったりするためですか? 教育は学位を取るためだけにあるのだという高慢な気持ちを抱いてはなりません。ただ奴隷になるために学位を取ってはなりません。真の教育とは、国に平和を与えるためにあるものです。身に付けた教育を通して地域社会に奉仕し、周りの人々を幸せにしなければなりません。もし社会と周囲の人々に良いことをしたいのであれば、神聖で献身的な心を持つことが最も重要です。

清らかな真我の化身(パヴィットラアートマ・スワルーパ)である皆さん、青年男女の皆さん、この20日間、皆さんは神聖な聖典バーガヴァタについて聞いてきました。私は、皆さんがここで学んだことの少なくともいくつかを実践し、母国に栄光をもたらしてくれることを期待しています。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch19