日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習の御講話(20)より
年長者が口にする言葉は、カードライス〔滋養のある浄性の食事〕のようなもの
そのような気持ちで、ありがたく受け入れるべし
そうしなければ、大きな害を招くだろう
このサイの言葉は、真理の声明である
清らかな真我の化身(パヴィットラアートマ スワルーパ)である皆さん、
創造は無限です。創造には起源がありません。この無限で広大な宇宙の中で、神性は至るところに浸透しており、それゆえ並外れて興味深いのです。プルショーッタマ(万物の主)とは何であり、その顕現とはどのようなものであるかを知るために、人間はさまざまな試みをしてきました。そのような探求は古代よりずっと続けられており、絶え間ない追求がなされています。
そのうち何人かは数種類のサーダナ〔霊性修行〕に取り組み、その結果、パラマートマ〔至高の真我〕のヴィジョンを得ることに成功しました。
途中で探求をやめざるを得なかった人々もいましたが、彼らはより優れた力が存在するという結論に達し、神の存在を薄々には感じていました。そのような人々は、主の直接のヴィジョンを手に入れることはできなくても、主が存在しているという信念を強めました。
どんな探求も経験もしていないのに、神は存在しないと言い続けている人、というグループもあります。彼らは習慣的に神の存在を否定するのです。
これら三種類のカテゴリーの人々は、遥か遠い昔からずっと議論を続けており、それは今日でも続いています。今も私たちは、神を直接体験した人々、神をただ間接的に体験した人々、そして、どんな体験も全くしていない人々を見かけます。直接体験をした人々は信者と呼ばれ、間接的に体験した人々はアースティカ〔有神論者/信心のある人〕と呼ばれ、どんな体験も全くしたことのない人はナースティカ、すなわち無神論者〔信心のない人〕と呼ばれています。
しかし、カリの時代の圧力により、第四のカテゴリーが出現しました。このカテゴリーに入る人々は、自分たちが困難や問題に巻き込まれ、悲しんでいる時は主のことを考えますが、ひとたび問題や悲しみを乗り越えると主を忘れ、主の存在を否定さえします。このカテゴリーの人々は、信心のある無神論者〔困難な時のみ神を信じ、それ以外の時は神を信じない人〕と呼ぶべきでしょう。
神を直接体験した人々は、神の存在についての自分の直接の証拠を頼りにします。ヴェーダやイティハーサ〔古伝説〕やプラーナ〔神話〕からの証言の権威を受け入れる人々は、シャブダ・プラマーナ〔音の基準/口述〕を受け入れる人と称されます。何のサーダナもせず、何の体験もない人はナースティカ〔無神論者/信心のない人〕です。彼らは単なる当て推量の権威に頼っています。
第一のカテゴリーの人々は、神は世界で最小のものであり最大のものでもある、と述べています。神はあらゆる場所に遍在であり、全能であるというのが彼らの概念です。二番目のカテゴリーの人々は、神は困難や不正や人間の邪悪な行為が増えすぎた時、いつも人間の姿を取ってやって来ると信じています。彼らは、神が人間の必要に応えてくれると信じているのです。しかし、今も昔も、神の実在の直接的な証拠はあり得ず、神が存在することも、神が存在しないことも、証明できる人は誰もいません。
第一のカテゴリーの人々の体験に基づくなら、神の存在を受け入れる多少の基盤は手に入るでしょう。神は、最小のうちの最小のものとして存在し、最大のうちの最大のものとして存在している、というのが彼らの概念です。皆さんは、どうやって微粒子の中の最小のものと、最大の中で最大のものを見ることができるのかと尋ねるかもしれません。私たちの周りで絶えず動いている空気は常に存在していますが、空気の粒子は見えますか? その意味では、どうやって微粒子の中の最小のものを見ることができるでしょう? 原子と呼んでいる小粒子さえ見ることはできません。ならば、それより小さな粒子をどうやって見ることができますか?
それでは、神を大きなものの中で最大のものとして見ることができるかどうかを考えてみましょう。太陽は地球よりはるかに大きく、何百万マイルも遠く離れています。たとえ時速500キロで進んだとしても、太陽に到達するには200年以上かかります。しかも、そのような太陽は何百万個もあります。それほど遠くにあるものはすべて、ちっぽけな星のように小さく見えます。これらの星は私たちの太陽のようなものであり、場合によっては、もっと大きいこともあります。そういった星と星は至近距離に位置しているように見えます。しかし、一つの星と他の星の間にある距離は、この場合もとても長いのです。太陽まで200年かかるとすれば、すべての星に到達するのにどれほどの時間がかかるでしょう? このように、私たちには創造物そのものの小さな面も大きな面も見ることは不可能です。それでどうして、神を見ることができるでしょう?
この世には、三つの異なる型があります。それらはタモーグナ〔鈍性〕、ラジョーグナ〔激性〕、サットワグナ〔浄性〕に相当します。ヴェーダは、もしパラマートマ〔至高の神〕の側面を実感し、理解したいのであれば、暗い境界線〔鈍性〕を超えなくてはならないと述べています。
真実はただ一つですが、直接体験をしてきた多くの人は、それをさまざまな異なる方法で説明してきました。真実は一つであるが、人はそれをさまざまに描写する、とヴェーダは述べています。私たちの家庭でも、同じ人物が息子にはお父さんと呼ばれ、妻には夫と呼ばれ、母親には息子と呼ばれ、嫁には義理の父と呼ばれ、孫にはおじいさんと呼ばれています。さまざまな人間関係のために、同一人物がさまざまな名前で呼ばれるのです。それと同じように、賢者、ヨーギ、神を体験した人々は、さまざまなに神を描写します。神には特定の名も姿もありません。ヴェーダは神を、千の頭と千の手と足を持つお方、と述べています。もしそのような神の概念を手に入れようとすれば、各人はそれぞれ自分の概念や考えに一致するような神を描くでしょう。
人間に関するかぎり、人々は人間の姿をした神を受け入れたいと望んでいます。残念なことに、人々は科学の発展と共に、生きている人間を神と見なすことはできず、神は生きていない実体としてのみ存在できる、と言うようになりました。体の中に命を持っている体はシヴァム〔吉兆なもの〕であり、命を持っていない体はシャヴァム〔死体〕です。遺骸や死体をシヴァム〔吉兆なもの〕と見なすのは愚かなことではないでしょうか? 今日の現状は、そのような間違った混乱した状態です。神は、人間に信仰を染み込ませ、真実〔真理〕の道を示すという特別な任務を負って、人間の姿を身にまといます。
ヴェーダは私たちに、このすべての混乱の中に多少の平安があり、その平安の中に神聖な光があり、その光こそが神である、と教えてきました。同じことは、タモーグナ〔鈍性〕の中にラジョーグナ〔激性〕があり、ラジョーグナの中にサットワグナ〔浄性〕があり、サットワグナ〔浄性〕の中に神を見る、という言葉で表現することができます。このような物の見方の中で、タモーグナ〔鈍性〕そのものから本当のサットワグナ〔浄性〕が生み出されるのです。
このための実例があります。良いマンゴーの木には青い〔未熟な〕マンゴーの実が沢山あります。マンゴーの品質は間違いなく良いものです。しかし、熟していない時に食べようとすれば酸っぱい味がします。しばらくすると、果実の中には虫さえ現れるでしょう。マンゴーが熟する段階になれば、実の中には多少の甘さと酸味があるでしょう。実が完熟すればすっかり甘くなるでしょう。このように、良い品質のマンゴーでも、初めのうちは酸っぱい味がしますが、この段階で酸っぱいからと言ってそれを捨ててはいけません。良い実を結ぶまでマンゴーを守らなくてはなりません。同様に、タモーグナ〔鈍性〕は未熟な青年の段階に例えることができます。時が来れば、それは大きくなって成熟します。この段階がラジョーグナ〔激性〕です。これは青年の段階であるゆえに、たくさんの揺れ〔ためらい〕が見られます。このような揺れ〔ためらい〕から、あなたはより優れた知識、すなわち英知を育てることでしょう。青年期には、揺れ動く性質と英知が共存しています。老年期になって成熟すれば、同じ性質がサットウィック・グナ〔浄性〕となって完熟することでしょう。
ただ年齢を重ねるだけでは十分ではありません。年齢と共に、良いアイデア、良い考え、良い感情がやって来なければなりません。そうしてこそ、人生は甘さを増すのです。ですから、私たちはタモーグナ〔鈍性〕の段階にある時でさえ、サットウィック〔浄性〕の性質を促進するよう一定の努力をしなければなりません。
このサットウィック〔浄性〕の状態は、サティヤ〔真実・真理〕と呼ばれます。最初のステップは「サティヤム ヴァダ(vada)」、つまり、真実を語ることです。この段階に達するためには、ダルマの実践、すなわち「ダルマム チャラ」を始めなくてはなりません。しかし今日、このプロセスは逆行しています。人々はダルマを実践する代わりにダルマについて話すことしかせず、真実を語る代わりに真実を説教しています。人々は、演台でのかしこまったスピーチではプレーマ〔愛〕、ダルマ〔正義〕、サティヤ〔真実/真理〕等々の言葉をオウムのように繰り返していますが、実践となると最初に捨てられるのはサティヤなのです。
人々は真実を語ることを恐れています。自分自身に関する真実を知ることさえ恐れています。もし誰かが偽り〔非真実〕を指摘すれば、その偽りを隠そうとします。このような状況で、どうやってあなたは真実を語るのでしょうか? それができないために、人々は「サティヤム ヴァダハ(vadha)」、つまり、真実を殺せ、真実を滅ぼせ、と言っています。
学生諸君、真実は最も基盤となる側面です。真実は原子よりも根源的です。「真実」という言葉は原子の基盤でさえあります。私たちには、きわめて小さな原子を見ることはできません。きわめて大きな宇宙を見ることもできません。しかし、真実を見ることは必ずできます。真実は万物の基盤です。それは「サティヤム ナースティ パロー ダルマハ」〔真実を貫くこと以上に偉大なダルマはない〕と言われています。真実のほかにダルマはありません。あなたの人生の旅を、パラメーシュワラ〔神〕に向かう神聖な道へと向かわせなさい。この旅において、真実はあなたの乗り物でなければなりません。そうすれば、真実そのものが神であることを理解できるでしょう。
無神論者や信心のある無神論者について言うならば、彼らはただ無知であるがゆえにその道に従っているのです。彼らの道はきわめて個人的なものであり、権威〔信頼性〕はありません。神に関する見地においては、その人自身の体験こそが最高の権威です。甘いものを味わったことのある人は、甘いものがどんな味かを説明できますが、甘さの形を説明してほしいと頼んでくる人に、どうしてそんなことができますか? あなたの体験は直接の知識から生じたものであるはずで、それが最高の権威です。いかなる状況においても、当て推量や噂からの証拠が、直接体験よりも重要になることはありません。学生諸君はこのことをはっきりと理解しておかねばなりません。
「ナースティカ(ナアスティカ)」(naastika)という単語には、「ナ」(na)と「アスティカ」(astika)の二つの部分があります。ここでは否定の「ナ」〔接頭語〕が最初にきて、「アスティ」つまり神の体験の側面を否定しています。この言葉そのものの中に神の実在を見ることができます。もう一つの例があります。何か特定のものの姿がここにはないと言うとき、それは、その姿が他の場所にある場合にかぎってそう言えるのです。もし「この花は薔薇ではない」と言うのであれば、特定の香りと姿をした「薔薇」と呼ばれる花が明らかに他のどこかに存在しているはずです。どこかに薔薇が存在しているからこそ、この花は薔薇ではないと言えるのです。
同様に、あなたが「これは神ではない」と言うのであれば、それはどこかに神がいて、しかし「これは神ではない」とあなたが言っているということです。これは言葉のトリックにすぎません。無神論者は「There is no God. 神はいない」と言うでしょう。有神論者は「God is now here. 神は今ここにいる」と言うでしょう。「now」の「w」を「here」につけると、「God is no where. 神はどこにもいない」となり、「where」の「w」を離して「no」につけると「God is now here. 神は今、ここにいる」になるのです。
決して個人的な空想に基づいた権威に頼るべきではありません。バーラタの国民にとってヴェーダは権威です。キリスト教徒にとっては聖書が彼らの権威であり、イスラム教徒はコーランを権威として受け入れます。このように、それぞれの宗教集団には権威となる聖典があるのです。バーラタの国民の間には、シヴァ派〔シヴァを崇める宗派〕とリンガーヤタ派〔内在のリンガをシヴァとして崇める宗派〕という二つの〔シヴァ系の〕集団が存在します。また、リンガプラーナ〔シヴァ神を中心とした聖典〕はシヴァを雄牛〔聖牛ナンディ〕に乗る者として述べ、ヴィシュヌプラーナ〔ヴィシュヌ神を中心とした聖典〕はガルタ〔神鳥〕がランガ〔ヴィシュヌ神〕の乗り物であると述べています。こういったさまざまな集団が論争している一方で、キリスト教徒は、神は明るく輝く星のようなものだと述べています。このように、各人は自分の入手できる権威を受け入れていますが、私たちは、このすべてのただ中で、神はまさしく基盤である真実にほかならない、ということを理解すべきです。どこへ行こうとも、唯一無二の真実がさまざまな姿形を取っているだけなのです。
ゴーピカー〔牧女〕とゴーパーラ〔牧童〕たちはそのような神の遍在性への信仰を育て、神は至るところに、すべての場所に存在していると信じていました。彼らは池へ水を飲みに行ったとき、その場にクリシュナを見つけました。人々が嫉妬から彼らに毒入りの牛乳を与えたとき、彼らはそこにもクリシュナを見て、クリシュナのことを思い浮かべました。もしクリシュナがハートの中にいなければ、たとえ捜している場所に本当にクリシュナがいたとしても、絶対にクリシュナを見ることはできません。しかし、もしクリシュナが私たちのハートに据えられていれば、至るところにクリシュナを見ることができます。
もし私たちが色メガネをかけていれば、全世界はその色で現れるでしょう。口に塩のかたまりを入れたまま砂糖を食べたら、甘い味はするでしょうか? そのとき「砂糖はしょっぱい」とあなたが言ったとしたら、その間違いはどこにあるのでしょうか? 間違いの原因は、あなた自身と、口の中の塩にあるのであって、砂糖そのものにあるのではありません。高熱に苦しんでいる時に何か甘いものを食べれば、当然ながら苦い味がします。その苦味は、あなたの熱から来るものであって、甘いものから来ているわけではありません。
昨今の状況は、川のほとりに座っているだけの人が川の深さについて説いているようなものです。彼らは川を体験したことがありません。別の例を挙げると、実際にはおいしい食べ物を食べたことのない人が、おいしい食べ物について講義しているようなものです。盲人や足の不自由な人たちの言葉に基づいて川を渡ろうとするのは、正しいことでしょうか? 盲人は川を見ておらず、足の不自由な人は川を渡っていません。無神論者は足が不自由な人や盲人のようなものです。彼らには神性の直接体験がなく、それについて書かれた本を読んだこともありません。彼らは信じないことを信条としてスタートし、その態度を広めるために団結するのです。学生たちは、この事実をよく理解して、正しい道に沿った行いをしなければなりません。あなたの信仰をダルマの道に置き、年長者の指示を受け入れ、年長者とあなた自身に幸せと喜びを与えなさい。そうした行為を受け入れるなら、皆さんの人生は他の人々の模範となることでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch20