日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習の御講話(22)より
近ごろ、私たちの中にある欲望は度を超えた様相だ
怒りは、その欲望をさらに増大している
欲望や怒りを抱く人は、ただ災難に遭うだけだ
これ以上、どんな偉大な真実を伝えられようか
ここに集まっている善良な人々に
その場所はヤムナー河のほとりでした。あたりの雰囲気は安らぎに満ちた美しいものでした。涼やかな空気の中、ムラリー(横笛)の音色が聞こえていました。ラーダーは手に壺を持って、砂丘の中へ入って行きました。壺を地面に置き、ラーダーはムラリーのうっとりするような優しい音色に耳を傾けはじめました。そして、棒のように突っ立ったまま悲しみの涙を流しました。しばらくして、彼女は誰かが「ラーダー、ラーダー」と呼ぶ声を聞きました。その瞬間、彼女は目を開けてあたりを見回しました。そこは、ひと気のない場所でした。それから彼女は腰を下ろし、人が誰もいない場所はあるけれど、クリシュナがいない場所はあり得ない、と自分自身に言い聞かせました。あの呼び声は、きっとクリシュナからのものだったに違いないとラーダーは確信しました。
「私は、演じられるものを演じてきました。歌えるものを歌ってきました。太古の昔から、私はさまざまな役を演じることを引き受け、さまざまな行為に加わってきましたが、もう十分です。私は、怒りや欲望と呼ばれるような衣装を身に付けました。執着やモーハ〔妄執〕と呼ばれる宝石も身に付けました。貪欲と呼ばれるアンクレット〔足首飾り〕も付けました。そのせいで浴びせられた非難や汚点についても耳にしました。私の心も私の行為を支え、私のドラマに背景音楽〔BGM〕を提供してきました。時折、悪人たちの仲間と言われるようなものがリズムとビートを取りました。執着とエゴが拍子を合わせました。とても多くの付随する助手たちと共に、私のドラマは終わりを迎えます。
しばらくの間、私は水上でドラマを演じていました。あるときは地上でドラマを演じました。主の蓮華の御足に私の全人生を捧げることができなかったのは、これらの執着と人間的な欠陥が原因です。綿の実をマンゴーの実だと思って追いかけて、落胆するオウムのように、私は世俗の欲望と魅力に目を向けて、それらが何か良いものであると誤解して、落胆の中で人生を無駄にしてきました。
クリシュナ! もう十分です。私のこのドラマは終わりにしなければなりません。私の命を取り上げて、あなたの中に溶け込ませてください。ずっと以前、私はダーラ〔流れ/支え〕という名前でした。今はラーダーと呼ばれています」
この創造世界には三つの属性があります。一つはその女性的な性質です。「ストゥリー」〔女性〕という語には三つの文字、「サsa」「タta」「ラra」があります。「サ」はサットウィック・グナ〔浄性〕を意味し、「タ」はタマシック・グナ〔鈍性〕を意味します。三番目の文字である「ラ」はラジャシック・グナ〔激性〕の象徴です。女性(ストゥリー)にとって、「サ」という文字は最初にくる文字であり、サットウィック・グナ〔浄性〕は最も本質的なものです。堪忍寛容、謙虚さ、従順さは、浄性のグナに伴う三つの絶対不可欠な性質です。
次に重要なのはタモー・グナ〔鈍性〕です。恐れ、慎み深さ、内気〔恥じらい〕は、鈍性のグナに関係しています。これに反して、浄性と鈍性があるところには、勇猛、自立、自由に決めたがるといった特徴が現れるようになります。これらの特徴は一部の女性の中にも見られ、カリ・ユガでは、より顕著になります。実のところ、その当時はカリ・ユガが始まったばかりでした。ラーダーは、勇猛、自由、独断行動といった性質が女性たちの中に見られはじめたら、自分はもう生き続けたいとは思わないと言いました。
男性にはたった一つの家しかないのに対し、女性には二つの家があります。自分の生まれた家に良い評判をもたらし、自分の嫁いだ家の名誉を高く保つことは、女性の義務です。しかし、両方の家の評判は、女性たちの間の独断行動のせいで、ある程度まで落ちています。
女性を「アバラー」〔強くない者〕すなわち「弱い人」と呼ぶのは奇妙なことです。「女性は常に男性に従属している」と言って、この言葉を解釈するべきではありません。それは、女性は台所においてのみ最高の権威を持つということではありません。家全体、そして、国家全体の評判さえ、女性にかかっています。しかし、バーラタ〔インド〕の文化背景においては、女性には特定の儀式や寄贈の儀式において特別な役割があり、こういった背景において、女性は「アバラー」〔弱き者〕と呼ばれているのです。ハリシュチャンドラ王が王国を譲ったとき、チャンドラマティー〔王妃〕には果たすべき役割がありました。贈り物を与えるとき、妻にも果たすべき一定の役割があります。そうでなければ、それは良い贈り物になりません。それゆえ、女性には卓越した地位が与えられ、アルダーンギー〔夫の半身〕と呼ばれているのです。
もう一つ例を取りましょう。あるとき、ラーマチャンドラ〔ラーマ神〕はアッシュワメーダ・ヤーガ〔馬供儀〕を執り行いたいと思いましたが、できませんでした。というのも、シーターが共にいなかったからです。そして、伴侶の存在という必要条件を満たすために、シーターの黄金の像を作らなくてはなりませんでした。そのように、伝統によれば、ヤグニャ〔供儀〕が執り行われる時はいつでも、妻も夫と同席しなければならず、そうしてのみ儀式は完了するのです。その意味で、夫と妻はそれぞれソーマデーヴァ〔月の神〕とソーマデーヴィ〔月の女神〕と呼ばれています。こういった立場において、女性一人で儀式を行うことはできないため、女性は「アバラー」〔弱き者〕と呼ばれてきたのです。この言葉を、女性は精神的、肉体的スタミナにおいて弱いのだと解釈してよいはずがありません。
ここで、女性としてのあり方の中で、思いやり〔慈悲〕と呼ばれ得る偉大な性質に目を向け、注目しなければなりません。
心に留めるべき次の性質は、女性たちの犠牲を払う能力です。女性という存在は、相手に多くの短所があっても、なお守ろうとする性質を持っています。女性はまた、喜んで学ぼうとしない相手にも辛抱強く教えるような、良い教師のいる学校に例えることもできます。女性は、自分の不便など一切考えずにすべてを整えている、幸福な家庭そのものとも言えます。女性は、アジャ〔ブラフマン〕、ハラ〔シヴァ〕、ハリ〔ヴィシュヌ〕、つまり神自身を目の前で遊ばせることができるほど霊的能力のある人、と考えることもできます。また犠牲と思いやりに満ちあふれた人、と呼ぶこともできます。
妻の家庭は、夫があらゆることを学ぶことのできる学校です。ラーダーは、この女性としての神聖なあり方が、近ごろでは非常に歪められた道になっていると言いました。さらにラーダーは言いました。「クリシュナ! あなたのおそばにいることが私の最大の望みです」。このような祈りと共に、ラーダーは手に壺を持ったまま、恍惚として砂丘の上で身をよじらせていました。
ラーダーがこのような様子だったとき、クリシュナ自身はブリンダーヴァンでラーダーの帰りを待ちわびていました。ラーダーの行動を考え、思い出しながら、クリシュナは自分がラーダーから学んだすべてを反復していました。その人のどんなアイデアや思いが形を取ったとしても、神はそれに基づいた反応をします。ラーダーはどんな時もクリシュナを思っていたため、クリシュナもラーダーのことを思っていました。絶えずブラフマンを理解し続けることでブラフマンと一つになれると望むことができるように、ラーダーも絶えずクリシュナを思い続けることでクリシュナに溶け込みたいと願っていたのです。「ラーダー」という単語をくり返し言い続けているといつしか「ダーラー」になるように、「ラーダー クリシュナ」と唱え続ければ、それはいつしか「クリシュナ ラーダー」となります。ですから、ラーダーはクリシュナに変容し、クリシュナはラーダーに変容することもあり得るのです。
神の性質とは、私たちがどのような想いで神を思うか、そして、神はどういう考えを持っているかと思うかによって、神は私たちにどのように応じるかが決まる、というものです。神はきれいな澄んだ鏡のようなものです。あなたのなす行動はその鏡に映し出されるでしょう。ラーダーは言いました。「クリシュナ! 本体が手に入るのに、鏡像を見たがる人がいるでしょうか? 対象物の美しさは、鏡像の中に完全に映し出されるでしょうか? 腐ったミルクからカード〔凝乳〕が得られるでしょうか?」。
このようにラーダーがクリシュナを思っていたとき、クリシュナの神性も明るい光り輝く姿をとって現れました。そうして分離した姿をとったとき、その姿はクリシュナを離脱して、前に進みはじめました。自らの光輝の中に戻るため、クリシュナの肉体はその光輝の後をついて行きました。その光輝は徐々にラーダーの中へ溶け込みました。このジョーティ〔光〕がやって来てラーダーに溶け込んだことに鑑み、ラーダーはアハラーディニー〔歓喜や至福をもたらす力〕とも呼ばれています。これはアーナンダ〔至福〕を意味する名前です。その至福はクリシュナから現れ出てラーダーへ溶け込んだため、クリシュナは自らの光輝を取り戻すためにラーダーのもとへ行かなければならなかったのです
神の至福は帰依者にしか理解できません。神は単なる目撃者です。神の至福と喜びはただ帰依者のためだけにあります。神は仕事の賜物や果報をあなたに与えますが、その仕事をあなたに引き受けさせることはしません。この喜びの体験は神のものではなく、帰依者のものなのです。もし神聖な至福を体験したいのなら、人はラーダーのように自分自身の心を清め、自分の心の中に神の姿を焼き付けなくてはなりません。神性の栄光に気づき、あらゆる生き物の中に存在する神性を悟るためには、人もまた自分の心を清め、きれいにしなくてはなりません。人間の中にある愛と神の中にある愛は、切り離せないほど互いに密接に結びついています。あなたの中にある愛の側面が神の愛と結びつけば、それは神への最も甘美な種類の信愛となるでしょう。
信愛と信仰について語るとき、六種類の異なる信愛があることを知っておかねばなりません。それは、シャーンタ・バクティ〔平安な信愛〕、サキーヤ・バクティ〔友情の信愛〕、ダースヤ・バクティ〔召し使いの信愛〕、ヴァーッツァルヤ・バクティ〔母性の信愛〕、アヌラーガ・バクティ〔愛着の信愛〕、マドゥラ・バクティ〔甘美な信愛〕と呼ばれるものです。これらすべての中で最高のものはマドゥラ・バクティ〔甘美な信愛〕、すなわち、甘美さを含んだバクティです。この六つの段階すべての中で、マドゥラ・バクティは最高であり、最終段階と見なすことができます。それ以上に高貴で、優れた形を見つけることは不可能です。人はただこのバクティの甘さを体験できるだけです。それは簡単に説明できません。牛乳の最終的な産物がギー〔液状バター〕であるように、マドゥラ・バクティはバクティの最終的な姿でもあるのです。
これは、次の例で説明できるかもしれません。少しだけカード〔凝乳〕を追加で使えば、牛乳をカードやバターミルクに変えることができます。それを攪拌すればバターが得られます。このバターを加熱すればギーになります。このギーをそれ以上優れたものに変えることはできません。同様に、シャーンタ・バクティをダースヤ・バクティに変え、ゆっくりとマドゥラ・バクティへ進むことができます。しかし、それをそれ以上優れたものに変えることはできません。
ある村へ到着しようと出発した人は、その村に到着すれば旅が終わるでしょう。同様に、帰依者やサーダカは、目的地に到着したとたん、そして、その時初めて、自らの旅を終えるのです。これはプールナ・プレーマ、完全なる愛の姿です。その中から出てくるものもすべて完全なものであり、残ったものもすべて完全なものです。それは完全であり完璧なのです。そこからはまた、完全で完璧な何かが生じるでしょう。そこに残るものは、依然として完全で完璧なままであるでしょう。
この完全さという果実は万人の生命の中に存在しています。すべての生命の木には、マドゥラ・バクティという果実がついています。もしその果実を味わいたいのであれば、皮を剥かなければなりません。皮は執着という姿形をしています。さらに、その果実にはいくつかの種もあります。私たちの思考や欲望というこれらの種も取り除かなくてはなりません。そのとき初めて、あなたは甘い果肉を食べることができます。この甘い果肉はヴァイラーギヤ〔無執着・捨離〕と呼ばれてきました。ヴァイラーギヤとは、妻子を捨てて森へ逃げ込むことではありません。あなたの中にある悪い性質を取り除くことが、本当の意味でのヴァイラーギヤです。自分の中にある悪い性質を一掃したいと本気で思うのなら、あなたは努力しなければなりません。
ラーダーのドレス〔衣服〕は怒りと欲望でした。ここでの「ドレス」とは肉体的な幻影のことです。自分はそれらを手放してしまったとラーダーは言いました。ラーダーは執着というアンクレット〔足飾り〕を付けていました。そのアンクレットから響く音は、汚点のようなものでした。これは、執着からはただ非難と汚点を得るのみであることを示唆しています。ラーダーはまた、自分が感覚器官でできた花輪を首に掛けているとも言いました。これが意味することは、感覚器官から生じる欲望をすでに手放していたということです。それによって、自分はラーダーに変容し、出来上がったジュース〔果汁〕のような存在になったのだ、とラーダーは言いました。つまり、種や繊維、皮といった役に立たないものは、すべて自然に分離してしまったということです。その理由は、神の神聖な愛にあります。神の神聖な愛を手に入れたので、ラーダーは神以外の人の愛には関心がありませんでした。ラーダーは自分のすべての動きがクリシュナの中へ溶け込むようにと祈りました。
明日以降、皆さんはラーダーの融合の様相について聞くことになるでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch22