サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年5月22日
場所:ブリンダーヴァン
1978年夏期講習(4)の御講話より

ヴィヤーサ仙とナーラダ仙は人と神にたとえられる

ヴィヤーサ仙  ナーラーヤナ神の一部分の化身である聖仙。『マハーバーラタ』に登場するパーンダヴァ兄弟とカウラヴァ兄弟双方の祖父でもあり、『マハーバーラタ』を口述した。さらに、『ブラフマスートラ』、18のプラーナ(インド古来の神話集)、および『バーガヴァタ』も著した。「ヴィヤーサ」は編者を意味する。

ナーラダ仙  世界に信愛を広めるためにブラフマー神が念じて生じさせた聖仙。いつも神の御名を唱え、神の栄光を歌っていることで知られている。楽器ヴィーナの創作者でもあり、ヴィーナを携えて三界を自由に行き来する。「ナーラ」には「知識」、「ダ」には「与える者」という意味がある。

自分の望みが叶えられると、神への信愛は強まり、
望みが叶えられないと、信愛は弱まって、
人は神をお払い箱にしさえする

純粋な神我の化身たちよ。ヴィヤーサ仙は、しばしば第五のヴェーダともいわれている神聖な『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の物語集。バーガヴァタ プラーナ、あるいは、シュリーマド バーガヴァタムとも呼ばれる〕を書きました。ヴィヤーサ仙は、怒り、貪欲、肉欲といった人間のあらゆる弱点を克服した偉人でした。だからこそ、ヴィヤーサ仙は偉大な『バーガヴァタ』を書くことができたのです。今日、皆さんはヴィヤーサ仙の事実のいくつかを学びます。ヴィヤーサ仙は生涯ヨーガ〔五感を制御して神に意識を合わせること〕の修行に専心しました。

ある日のこと、ヴィヤーサ仙は、川のほとりに座り込んで、非常に憂鬱な気分でいました。流れ去る時について思いを巡らせ、自分の一生が、何一つ価値のある偉業を達成しないまま一塊の氷のごとく徐々に消えてなくなりつつあると感じていました。ヴィヤーサ仙は、人はどう人生を送るべきかを理解しようとしていました。すべてのヴェーダとプラーナを学んで理解してもなお、ヴィヤーサ仙は、自分の著述や教えが世の人々に平安と幸福をもたらしていないことを悩んでいたのです。ヴィヤーサ仙は、自分の知識はすべて、世の中に平安と繁栄をもたらすために使われるべきだったということに気づきましたが、実際にはそうした目的のためには役立っていなかったことを悲しく思いました。

その時、その場にナーラダ仙が現れました。ナーラダ仙はサラスワティー女神〔弁財天、ブラフマー神の神妃〕の息子です。ヴィヤーサ仙が腰を下ろしてこうした問題について考えていたのは、サラスワティー川〔人目に触れることなく地面の下を流れて、根に養分を与え、泉を満たしている川〕の岸辺でした。サラスワティーは、内に潜む、言葉にされない言葉の姿を象徴しています。サラスワティーは、姿を現さずに流れていると信じられている伝説の川のようなものです。ナーラダ仙はサラスワティーを象徴する人物です。現れている側面と、サラスワティーという現れていない側面の間には、分かつことのできない結びつきがあります。

通常、人はまず心(マインド)の中で思考のプロセスを生成し、それから意見を述べます。私たちが聞く言葉は、現れていないサラスワティーを象徴する、現された言葉です。人の心に浮かんでくる思いの流れに、話し言葉という姿形が与えられるのです。『バーガヴァタ』は、姿を現したものと姿を現していないものの間にある、分かつことのできない結びつきについて物語ってきました。この二つの側面、すなわち、姿を現したものと姿を現していないものの間には、物体とその映像のような密接な関係があります。

主のリーラー〔戯れとして行う奇跡〕への賞賛が含まれていない教本や経典は、すべて中身のないものであり、命が宿っていない――とナーラダ仙はヴィヤーサ仙に説きました。そうした書物が人々を引きつけることは決してありません。人が所有しているであろう、あらゆる書物と学問に関する知識は、世間を引きつけるためのものではあっても、自分自身の心を引きつけて清めることはできないでしょう。もし書いたものが、思考の清らかさと、世俗的な執着からの解放を与えることができるなら、それこそが正しい教本であると見なすことができます。甘さは砂糖本来の性質ですが、そのことについての知識を持っているでは、砂糖というものが本当に甘いものなのかはわかりません。その体験は味覚とのみ結びついているものであり、舌だけが砂糖の甘さを確認することができるのです。砂糖自身は砂糖の甘さを知りません。味覚を通して砂糖の甘さを体験した人だけが、砂糖の甘さを実感することができます。

それと同様に、神と結びついている至福は、それほどの至福を探し求める人にのみ知られるのです。至福の体験を探し求めて至福を楽しむことができるのは帰依者であって、神ではありません。ナーラダ仙はヴィヤーサ仙に言いました。ヴィヤーサ仙はただそうした幸福について書いただけで、自分ではそれを体験してはいない――と。それからナーラダ仙は、今日からヴィヤーサ仙は神の栄光を歌う能力を得るであろうと言い、神の栄光を歌って至福と歓喜を得るべきである、と助言しました。

バジャンを歌うことは、通常、リズムに合わせて歌うことと結びついています。実際、サーマ ヴェーダ〔リグ ヴェーダに含まれている詩節を一定のサーマン(旋律)にのせて詠う歌詠の集成〕に含まれているものに形を与えることができれば、それこそがバジャンであるといえるでしょう。旋律の型はどれもサーマ ヴェーダに起源があります。ナーラダ仙はヴィヤーサ仙に言いました。それほど神聖な歌が、その歌に適した気持ちと信愛を込めて歌われたなら、歌の意味も明瞭になるであろう――と。

すべての人が持っている神性の神聖さは、歌という形の中で体験することができます。このことに関する小さな例があります。二人で対話をしている時、一方の人は音の形をとってもう一方の人の中に入り込みます。人が音の形をとって他の人の中に入りこむという概念は、現代ではきちんと理解されていません。あなたが神と顔を突き合わせ、神の御名と栄光を思う時、あなたの中に神の御姿が入ってきます。

それに基づいて、シャーストラ〔論書や法典〕やプラーナは、時間のすべてを、神を思い、神の栄光を歌うことに費やすよう助言しています。それゆえ、神は一切の生き物の内に存在しているといわれており、さらには、それとは逆に、一切の生き物は神の内に存在している、ともいわれているのです。もし何人かの人が集って神の栄光を共に歌うなら、そこに集まったすべての人に、プラグニャーナ、すなわち「神の英知」が浮かんでくるでしょう。

ヴィヤーサ仙の神聖な作品は、創造世界のあらゆる多様性の間にある唯一性を実証するほどのものでした。ナーラダ仙は当時、「アンボージャ」〔蓮の花〕という語を使いましたが、その語の意味は「水の中で生まれるもの」というものです。人間だけでなく、すべての生き物は水の中から生まれます。どの木も、木以外のものも、水から生じます。私たちが小さな種を持っていたとしても、水と接触して初めて種は芽を出すことができます。水がなければ種も死んでしまいます。

それに基づいて、ナーラダ仙は、人間の体は蓮の花と見なすべきであると述べました。神に関係するあらゆる聖句や記述は、「そうした聖句は湖から生えている蓮の花のようなものであることを示唆する蓮の花」で構成されています。私たちの心の状態は、「ソーハム」の側面〔ソー(神)とアハム(私)〕によって象徴される二羽の白鳥のいる湖に喩えられます。「ソーハム」という音は「私はそれ〔神〕である」と宣言し、それはすべての被造物は一つであるということを明示しています。私たちの伝統において、白鳥はつねに清らかさのシンボルであり、その清らかさの側面を「ソーハム」の側面と同等のものと見なす時、私たちはすべての被造物の中にある清らかさを引き出したくなります。それは、心の湖(マーナサ サローヴァル)すなわち人の心という湖のごときものの中で人と神の同一性を増進すべし、ということを示唆しています。

ナーラダ仙のこうした神聖な教えのおかげで、ヴィヤーサ仙の中の神聖な気持ちがヴィヤーサ仙に『バーガヴァタ』という聖典を書くことを可能にさせたのです。ナーラダ仙がヴィヤーサ仙の心からあらゆる疑念を取り除いたことから、ナーラダ仙はグル〔導師〕であると考えられるようになり、それ以来、満月の日はグル プールニマー〔導師の満月の日〕と呼ばれるようになりました。グルの役割は愚鈍な心から無知を取り除くことであることから、満月の日は、「プールニマー」、すなわち、「明るさの到来」とも呼ばれています。ヴェーダは、月を心に喩え、目を太陽に喩えています。私たちは、直接、容易に、「月」、すなわち、「自分の心の反映」を見ることができます。グルの助けで、心は洗われ、しみや汚点が取り除かれます。そのため、満月の日はグル プールニマーと呼ばれるべきなのです。

一般的に、人は「ハート」という語を、「心臓」や、すべての行いを生じさせる生命力、という意味で用いますが、そうではありません。ハートを体の一部に限定されるものと解釈してはいけません。人間の生命力の完全性がハートと呼ばれるべきです。もしアメリカのことを話せば、私のハートは遠くアメリカまで旅をしたということになりますか? まったくの事実として、あなたの中の生命力をハートと見なすことができます。それは「マハー プラグニャーナ」と呼ばれており、ブラフマンの姿として私たちに示されています。大格言の一つである「プラグニャーナム ブラフマー」という文言の「プラグニャーナ」は、実際、ブラフマンのことです。

ナーラダ仙はグルの立場をとり、グルの役目を説明するためにヴィヤーサ仙を用いました。それに基づいて、満月の日はヴィヤーサ プールニマーとも呼ばれています。満月の日は、もう一つ別の例外的な意味も有しています。私たちはヴェーダを典拠として、ブッディ〔知性〕は他のどの感覚器官よりも優れていると信じています。ブッディと比べると、アートマはさらに高い位置にあります。ブッディとアートマはとてもそばにあるので、ブッディは自らの光をアートマから得ています。心は他の感覚器官よりも高い位置にあります。ブッディは心よりも高い位置にあります。アートマの光は直接ブッディを照らします。それゆえ、もし私たちがブッディの指示に従うなら、自分の感覚器官を制することができます。それに基づいて、今日はブッダ ジャヤンディ〔覚者(ブッダ)の生まれた日/お釈迦様の誕生日〕であるとも言われています。

このように、グル プールニマーとブッダ ジャヤンティとヴィヤーサ プールニマーは、三つの聖河の合流点のようなものなのです。それに基づいて、「プルシャ讃歌」(プルシャスークタム)では、この三つの側面をいっしょに引き出してシヴァ神に捧げなければならない、と言われているのです。ナーラダ仙のこうした神聖な教えのおかげで、ヴィヤーサ仙はその日からクリシュナとその神聖遊戯(リーラー)の物語を書くことを誓いました。

ヴィヤーサ仙はよくクリシュナ神に、「あなたは私が達した卓越した学識と、私があなたを称賛する方法に満足しておられますか?」と、尋ねていました。ヴィヤーサ仙がそのような質問をしたのは、自分の学識と業績をまだ自慢に思っていたからです。自分の知的な業績をおごるのは、エゴがあるからです。学識以外に基づいたエゴは取り除くことができますが、自分の学識ゆえに身についたエゴはそう簡単には取り除けません。教養と学識はあなたが自分のエゴを取り除くことを可能にさせるべきものです。しかし、もしその同じ教養と学識があなたの中にエゴを生じさせるのであれば、どうやってエゴを取り除いたらよいのでしょうか? 自分はものごとをとてもよく知っていると思うことで身につくエゴは、神の悟りを得る道における最大の障害です。しかしながら、それは歓迎すべき側面でもあります。というのは、そのような障害が生じた時にだけ、人は自分の欠点をなくそうと試みるからです。

幸せから幸せを得ることは決してできません。幸せは困難からのみ得ることができます。金で良い装飾品を作りたいと思ったら、金を火にくべて、高温にさらさなければなりません。それと同じように、神は人々のためにいくつかの困難を作り出し、人に自らの聖なる神の側面を気づかせる前に、人を多くの試練にさらします。これは特に、知力のエゴをこうむっている人に顕著です。ここで私たちは、ヴィヤーサ仙は『バーガヴァタ』とすべてのプラーナを書いたけれども、自分がその中に書いたことをどれも実践しなかった、ということに注目しなければいけません。ヴィヤーサ仙は自分の考えを他の人々に伝えることには大いに長けていましたが、それらを実行しようとはしませんでした。自分のその欠点があるということを認識したヴィヤーサ仙は、クリシュナ神にこう祈りました。

「私たちはあなたの神性を見出すことができるでしょうか? ああ、クリシュナよ、あなたは最も小さなものよりも小さく、最も大きなものよりも大きいお方です。私たちがあなたの偉大さを表現することなどどうしてできるでしょう?」

ヴィヤーサ仙はさらにこう書きました。

「あなたは創造世界の840万のジーヴァ〔生き物〕のハートの中に住んでおり、そこから離れていないといわれています。」

ここで私たちは、ヴィヤーサ仙が神の側面に関する自分の知識を語っていた時に、それ以外の側面に関する疑問にも言及していたということに注目すべきです。この段階で、ナーラダ仙はヴィヤーサ仙に、神のどんな側面に関する疑念も決して心の中にあってはならない、と言いました。

私が今日、これほど多くの時間をかけて皆さんにヴィヤーサ仙のことを話しているのには、理由があります。話し手への信用がある時にのみ、あなたは話し手が話すことを信用しますね。『バーガヴァタ』の書き手側の考えと、『バーガヴァタ』という聖典の登場人物の側の考えを理解して、初めてあなたはその聖典それ自体を理解することができるのです。このことに基づいて、私はヴィヤーサ仙とナーラダ仙の一生の話をしたのです。ヴィヤーサ仙とナーラダ仙は、人と神にたとえられます。ヴィヤーサ仙は質問をし、ナーラダ仙はそれに答えました。もしヴィヤーサ仙とナーラダ仙のこの関係を理解するなら、『バーガヴァタ』の内的意味を正当に理解することができるでしょう。明日はナーラダ仙の生涯の物語について聞いて、それからクリシュナ神のリーラーについて学びましょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 C4