サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年8月30日
場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学創立10周年祭の御講話より

休息と平安

人間は、よい時間、よい地位、よい人生を望んでいながら、
よい考え、よい知恵、よい振る舞いを示さない
ああ、ここに集った優しき善良な求道者たちよ
これ以上、何を教えることができようか!

(テルグ語の詩)

愛の化身である女子学生たちよ!

近ごろ、青年男女の間の大きな不満が目につきます。どこを見ても、憤りのこだまが響き、扇動、暴動が見られます。この理由は何でしょう? 私心のない、純粋で、裕福な青年男女の間に広まっている不満の理由は何でしょう? 私たちはこうした面についてよく考えなければなりません。その根本的な理由は、青年たちが、私たちの命であるバーラタ文化を大切にせず、役にも立たないことを模倣して、非難にさらされていることにあります。なぜ青年たちは西洋文化に熱狂し、競ってそちらの方向を崇めているのですか? バーラタ文化の正当性を否定する理由は何なのでしょう?

実に、人の一生で一番大切なことは、神の愛を得ることです。この愛の側面をないがしろにするならば、教養の一切は役に立たないものとなります。「ヴィッディヤー」(教養、教育)とは何を意味するのでしょう? 「ヴィッディヤー」は「智慧」を意味します。教育を身に付けた人が皆、賢ければ、どこで扇動が起こるでしょうか? ですから、この種の教育〔現行の教育〕は悪い習慣であり、何とか生計を立てていくために身に付けているものであるとも言えます。

教養は解脱のためのもの

本当に賢い人々は、自分が模範となって教えることで、自分の知識と人間の理想を社会に広める努力をしなければいけません。

サー ヴィッディヤーヤー ヴィムクタイエー
〔教養とは人を解脱させるものなり〕

インド文化の声は、「ヴィッディヤー〔教養、教育〕とは冷酷な生死の輪廻から人を自由にさせるものである」と宣言しています。しかし、今、私たちの教養は自分を悲しみから解放させてくれていますか? 事実を言うなら、教養は俗世の縛りと悲しみと心配を強めています。人は平安と独立と満足心を失っています。人は精神的充足を失ってしまいました。人は物理的な安楽だけを得ています。体に休息が必要なように、心(マインド)には平安が必要です。人々が建てているのは娯楽のための倶楽部で、平安の館ではありません。それでどうして平安を得ることができますか? 平安は買うことも借りることもできません。平安は自分のハートからのみ得られるものです。平安と幸福は神の恩寵によってのみ可能なものです。神の愛から離れているということは、平安と幸福からも離れているということです。神の恩寵を得るには、謙虚さ、霊的な貞節、社会の理想を保持していなければなりません。これらの側面は大変重要なものであり、それらを欠いていれば人間性を失ってしまうほどのものです。人間性を維持するには、何らかの世俗の知識ももちろん必要です。そのためには教養が必要です。しかし、学問を、生計を立てることだけに限定してはいけません。学問は、霊的進歩のための適切な道を敷かなければいけません。

昨今では、多くの女性が教育を身に付け、なかには教育機関を設立している女性もいます。しかし、残念なことに、それらの教育機関が世の中にどんな貢献をしているかを考えてみると、それらの活動の背後には利己的な動機しか見えません。私心のない神聖な気持ちで献身している人は滅多に見つけられません。教育の分野に参入してくる人の多くはお金目当てです。

女性が皆働きに出てしまったら
家のことは誰がするのか?
夫婦そろって会社に行ってしまったら
家のことをする女性はどこにいるのか?
母親がよその子供を教えに行くなら
その母親の子供はどこの母親が教えるのか?
女性が本を抱えて、男たちと同じように外に出るなら
台所に立つ女性はどこにいるのか?
人々は、お金の問題を解決しようとして、家庭の問題を増やしている
全体を総括して見るならば、会社勤めの女性に幸福はない

(テルグ語の詩)

女性にとっての一番の優先順位は家庭

このように、女性たちは職に就くことで自分を幸福から遠ざけています。母親は家庭の義務を優先し、家庭に名誉を高めるために尽力しなければいけません。母親は我が子に、謙虚さ、忠誠、規律、一般知識という側面を教えなければいけません。母親は家庭を理想の家庭に変える能力を持っていなければいけません。現代人が品行に欠けている主な理由は、お金に狂っているからです。

富と共に驕りが増し
驕りと共に邪心が増す
富を失えば驕りは消える
おお、ヴェーマ、驕りが減れば邪心も減る

(テルグ語の詩)

アシャーントルプトー ニジョー ナシタハ
心の安らぎがないことが、本当の損失

不満は人の地位を落とします。飽くことを知らぬ金銭欲に限度が設けられているでしょうか?

科学者も、ビジネスマンも、役人も、皆、権力と富という点において、もっと上に登りたいと望んでいます。誰も満足していません。今、それほどまでに、貪欲がどんどん大きくなり、人々は基本的な識別力を失いつつあります。

新聞に「神」という職業の募集広告が載っていたとしましょう。翌日には応募が殺到するでしょう。人々は、それに必要とされる能力と神聖さが自分にあるかどうか考えもせずに応募してきます。人々は、人間は尊いものであるということは考えもせずに、あらゆることを切望し続けています。必要とされていることは、責任をもって自分の義務を果たすことです。

学生たちの不満の根本的な原因は何でしょう? すべての人が「有言不実行」という生き方になっています。平安、富、品行方正が国に普及するのは、人々が生活の中で理想の実践に励んでいるときに限られます。

人々は無思慮に西洋文化を模倣しています。人々は、西洋文化を正しく吸収することも、母国を正当に評価することもしていません。自分の文化を理解することもできない人が、どうして外国人の文化を理解することなどできますか? 教養の有用性は、幸福を得て悲しみを取り除くことにあります。

教養は謙虚さをもたらす
謙虚さは適正をもたらす
謙虚さは富を形作り、富はダルマを形作る
ダルマはこの世と先の世に成就をもたらす

(テルグ語の詩)

舌は正しく使いなさい

私たちの教養は、どれほど「謙虚さ」を育んでいますか? 「謙虚さ」は規律の一部です。規律は、学生にとっても教師にとっても重要なものです。規律は人生にとって最も重要な側面です。規律がなければ、私たちはブッダ(仏陀、賢者)ではなく、エッドゥ(雄牛、乱暴者)かモッドゥ(邪魔者)になってしまいます。今、皆さんが育んでいる規律正しい生活は、将来、とても大きな幸せと平安を生み出します。多くの学生は、まだ、この大学の規則と決まりごとと理想をよく知りません。彼女たちは本校の管理体制を厳しいと思っているでしょうが、それらは将来において彼女たちが神聖な人生を送れるようにしてくれるものなのです。

神は、五感のすべてを頭に任せました。五感のうち、口だけに道が付いています。この意味は何でしょう? 家にはドアや窓があります。空気は窓を通って入ってきますが、人は窓からは入ってこれません。皆、ドアから入ってきます。体という寺院には、目と口にドアが付いています。口のドアは話をするのを制限するためのものです。人は自分の好きなだけしゃべるべきではありません。目のドアは、目が見るものを吉祥なものに制限するために尽力します。悪いものだけを見るのが癖になると、人の内側にある中心核も時間が経つにつれて悪いものになっていきます。目は正しい道に沿うためにあります。逆に、目が何でも追いかけていたら、人は困難に直面することになります。『バーガヴァタム』〔バーガヴァタ〕には、プラフラーダについてこう述べられています。

目はいつも慈悲に満ち
言葉はいつも信愛に満ち
顔はいつも思考の甘美さで輝いている

私たちに耳が授けられているのは、真実の想いで満たされた神聖な言葉を聞くことができるようにするためです。耳は野生動物が住み着く洞穴ではありません。

アティバシャ マーティ ハーニ
(しゃべりすぎは心を損傷する)

だらだらと話をしていると、意志力が失われ、それによって、信用も、記憶力も失われます。そうなると、はやく老けます。人々のなかには、黙っていても、心の中ではずっと独り言を言っている人もいます。

女子学生は、誰もが将来、母親になる可能性を持っています。女性の現在の振る舞いが、子供たちの将来の種、平和の種、保護の種を植えるのです。教養は、最終的には霊的な英知とならなければいけません。ある日、シッダールタ〔出家する前の仏陀〕は、偶然、病人と老人と死体を目にしました。その光景は、シッダールタの意識を上げて仏陀〔覚者〕とさせるに十分でした。人々はそのような光景を毎日のように目にしていますが、ハートはどんな変化も受けません。そのような人々は、ブッダ〔覚者〕ではなくバッダ(拘束されている者)です。若者たちは驕った態度を取っています。そして、後には自分も老いに直面することになるということを忘れています。

あなたの美しさ、若さ、力を驕ってはならない
老いはあなたを待ち構えている

(テルグ語の詩)

ですから、虚しいことを追い求めていないで、解脱に到るための努力をしなければいけません。神の恩寵を得るために努力しなければいけません。人生の目的は解脱です。

プラフラーダは父親に言いました。

チャドゥヴァラロー マルマメッラ チャディヴィティ
(私は一切の教育に隠された真髄を読みます)

プラフラーダは一切の行為を、

オーム ナモー ナーラーヤナーヤ
〔ナーラーヤナ神に帰命いたします〕

と唱えながら行っていました。皆さんは、「いつもジャパ〔神の御名やマントラを繰り返し唱えること〕ばかりしていたら、お腹のことはどうするのですか?」と尋ねるかもしれません。ハートに神を据えて日々の家事をすればよいのです。執着(ラーガ)と無執着(ヴァイラーギャ)は二極です。何をするにも、すべて神を喜ばせるために行わなければいけません。

シュリ クリシュナは、一方でアルジュナに霊的な知識を説きながら、それと同時に、一方で戦いをするようアルジュナを促しました。パルタ〔アルジュナ、大地の息子の意〕は当惑しました。というのも、その2つが矛盾していたからです。すると、クリシュナは言いました。

「それを行うのは私のためだと思って進みなさい」

このように、私たちはすべてのことを神の仕事としてやらなければいけません。自分が食べる物も、消化の火の神であるヴァイシュワーナラへの供物であるべきです。

アハム ヴァィシヴァーナロー ブートワー
プラーニナーム デーハマーシリタハ
プラーナーアパーナサマーユクタハ
パチャーミャンナム チャトゥルヴィダム

〔私は消化の火となって生類のすべての体に宿り、
プラーナ気(吸気、摂取する作用)と
アパーナ気(呼気、排泄する作用)に結びついて
四種の食物(噛む物、飲み込む物、吸う物、舐める物)を消化する〕

欲望、怒り、利己心、情欲、傲慢、嫉妬にふけって時間を無駄にすべきではありません。人生は理想的な方法で過ごさなければいけません。欲望は規制しなければいけません。そうすることで、高次の神聖さに導かれます。規律は、沈黙の実践から始めなければなりません。

今、この大学は10歳を迎えました。それはまるで、頬のふっくらした、明るく元気で、可愛らしい少女に成長しているかのようです。この年齢には特別な注意が必要です。2、3歳の子供が外に出ていくことはありません。20歳の女性は、自分のことは自分でできます。10歳の少女は、外を歩かなければなりませんが、事故を回避する術を知りません。ですから、この段階にある大学には特別な注意が必要です。この大学は、皆さんの倫理と誠実さが頼りです。この大学は、「規律」と「信愛」と「義務」に依存しています。これらの性質は家庭環境にも有用です。

自由奔放と、ダルマに反することに、道を譲ってはなりません。なぜなら、これらはあらゆる騒動の根源だからです。女性は向こうみずに動き回ってはなりません。先に述べた価値を、あなた方の、純粋で、私心のない、神聖なハートに保っていなさい。皆さんが飛躍的に成長し、高い評判を得ることを願います。教師の皆さんは、いつも一つの側面を心に留めていなければなりません。一人の学生が道を踏み外したとき、それに巻き込まれるのはその学生に関わった人だけです。一方、もし一人の教師が道を踏み外せば、学生全員が駄目になります。教師にとって、学生は我が子同然です。教師の善い性質は学生に反映します。教師と学生が皆、母と娘のようにつながって、愛の心、情の心を取り交わすようにという願いと祝福をもって、私はこの講話を終えることにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C18