サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年12月24日
クリスマス イブ 西洋人帰依者たちへの御講話より

イエスに従いなさい

誰でも私に仕える者は、私に従わなければならない

(ヨハネによる福音書12:26)

私たちは、イエスの教えを生活の中で実践して、初めて真のクリスチャンとなるのであり、それまでは、クリスチャンとは言えません。

目覚めなさい、おぉ眠れる者よ、死者の中から起き上がりなさい・・・
偽りの道には従わず、心して真理の道に従いなさい
賢者たちの道を行き、無知を離れなさい
時間を最大限に活かしなさい
なぜなら今の時代は油断がならないからです

(エフェソの信徒への手紙5:14:16)

皆さんが生かされているのには理由があります。人間として生きる目的は、神との一体性を経験することです。過去と現在の状況がいかなるものであるにせよ、皆さんは、イエスが、生涯を通じて私たちに示した、いくつかの段階を経て進むことができます。

悲しみや、苦痛や、一時的な興奮を超越しなさい。あらゆる問題の原因と、それらに対する簡単な解答に気付くことです。人生におけるさまざまな矛盾を解決しなさい。人生の黄金律に従って幸せな毎日を送りなさい。透徹した洞察力と、冷静な決断力と、健全な判断力を養いなさい。神があなたに何を望んでいるかに気付きなさい。あなたの人格を作り変えて、神のごとき者になりなさい。何が最善であるかを知って、それを行うのに必要な勇気を奮い起こしなさい。

イエスの歩いた道をたどるのに必要な霊性修行を実践しなさい。神の御名があなたの心の中に鳴り響いているのを聞きなさい。イエスが常にあなたと共にあるのを見なさい。永遠の光と一つになりなさい。イエスがそうしたように、神があなたの内なる真の自己であることを知りなさい。

率先して人類と神とに仕えなさい。神は愛です。神聖な愛は、危害をもたらすことのない積極的な力です。神の愛の、永遠の霊的喜びを知りなさい。永遠の平安の、聖なる甘露を味わいなさい。

Q 神とはいったい誰ですか? またどのような存在ですか?

一部の人々は、神の存在や神の重要性を否定するかもしれません。しかし、彼らが自分たちの無知に基づいた生き方を放棄して、神に慈悲を祈らなければならない日がいつか必ずやって来ます。

「神は遍在である。神はすべてを知っている。神は人類の全能の父であって、この地球と、あなたと、あなたの宿っている身体とを含む宇宙の一切のものを創った」という言葉をほとんどの人が聞いたことがあります。私たちはまた、神は慈悲深く、聖なる愛の本質であって、真実であるということも聞いています。「神はあなた自身の根本的本質であって、あなたは本来、神である」という、イエスが人類に与えた最も大切なメッセージに気が付く人は、ほとんどいません。

Q 真理とはいったい何ですか? どうすればそれを見つけることができますか?

真理は一つしかありません。それは神のさまざまな性質の一つです。本当に真理を見つけてそれを理解するには、神を見つけ、神を体験しなければなりません。皆さんは、何かを体験するまでは、それに関して憶測することしかできません。

Q 真に人類を救うものとは何ですか?

人類を救うためには、人類とは何か、そして、人間として生きることの目的は何であるのかを理解しなければなりません。定義から言えば、人間の霊的側面は、肉体の中に住んでいる生きた魂です。生物学的には、人間はホモ サピエンス サピエンスと呼ばれています。ここで、ホモという言葉は人間の身体を指しています。サピエンスは「賢い」という意味です。人間は、物質的なものと霊的なものの両方を理解することができるので、サピエンスという言葉が2回使われています。人間は神を知ることができるのです。

Q 人間として生きることの目的は何ですか?

万物の創造主である愛の深い神は、私たち一人ひとりが、肉体を活用して、自らの魂を豊かにし、また、イエスがそうしたように、地上で神に仕え、神と一つになることによって神の栄光を表すことができるように、私たちに人間の肉体を与えたのです。

Q 魂とは何ですか?

魂とは、白分自身を何か神とは分離したものであると見なしている、生命をもった意識の主体です。

Q どうすれば魂を豊かにすることができますか?

神は、一人ひとりの魂が成長して分離の観念を超越し、全能の神と一つであることを完全に知ることを願っています。

Q 神は私に何を望んでいらっしゃるのでしょうか?

神実現へと向かう、ゆるやかな成長の過程をたどる魂の任務の中には、イエスが行動したように行動して、神の無私の愛の生きた手本となることが含まれています。人間として地上に生きている間に神性を獲得できることを示すことは、人類に対する理想的な奉仕となります。

Q 私の示す手本が、どのようにして他の人を救うのでしょうか?

あなたの静かな成就は、人に平安と、調和と、聖なる愛と、満足が、到達可能であって、獲得する価値のあるものであることを教えます。あなたの穏やかさ、落ち着き、謙虚さ、純粋さ、美徳、勇気、確信は、人をイエスに従うよう励まします。あなたの使命には大きな責任が伴っています。あなたは、自らの一つひとつの行いによって人類を教化しなければなりません。人生の目的とはそのようなものであり、実践の伴わない言葉のみでは充分ではありません。

Q 神と一つになることは可能ですか?

ええ、それは可能です。すべての宗教がそう約束しています。イエスは私たちに道を示すために命を捨てました。それが可能であるということに、疑いの余地はありません。

Q 他の人の立派な手本となるには、どうすればよいのでしょう?

あなたは、自分が霊的成長のどの段階にいるのかを、自分で見いださなければなりません。そうして、人生という学校において一つの学年から次の学年へと順々に成長していこうと、堅く決心しなければなりません。地道に一歩ずつ進みなさい。あなたが、自分の義務を精一杯果たしていれば、必ずや神の恩寵を勝ち得て、イエスのたどった道を歩いていくことになります。それによって、すべての人々があとをついて行くことができるようになるのです。

Q 厳密に言えば、神の恩寵とは何なのでしょうか?

恩寵とは、「神よりの贈り物」(エフェソの信徒への手紙2:8)です。恩寵は五つの方法で与えられます。

第一に、困難の時に、神は神の法によって加護を与えます。

第二に、神は、エゴと狭量な自己関心を超えて成長するのに必要な、聖なる力を与えます。

第三に、神の愛は、正しい行いをするための聖なる洞察力と智恵とを授けます。そのような贈り物によって、人は人生の浮き沈みによる影響を受けないでいられるのです。

第四に、神は非常に豊かに愛を与えるので、人は、すべての存在を愛によってできた調和に満ちた統一体であると見なし、あらゆるものに対する大いなる愛の喜びを感じます。

第五に、神は、魂が無限にして無形の神の状態に帰融することを可能にするという贈り物を与えます。

Q どのような人が神の恩寵を勝ち得ることができるのですか?

どんな魂でも恩寵を勝ち得ることができます。

Q 神の恩寵によって私たちのあらゆる苦悩が取り除かれないのは、なぜですか?

人間の行う一つひとつの行為によって、それに対する反応が生じます。あなたは何であれ自分が蒔いたものを刈り取るのです。

「少ししか蒔かない者は、収穫も少ない」(コリントの信徒への手紙二9:6)

神は、パートタイムの帰依に対して、どうしてフルタイムの報酬を与えることができるでしょう?

Q どうすれば神の恩寵を勝ち得ることができますか?

現在、あなたの動機は肉体に基づいています。肉体によって動かされることに終止符を打たなければなりません。神に動かされる人になりなさい。自分は肉体でもエゴでもないということに気付きなさい。不浄な行いをして時を過ごしてはなりません。神のほうを見なさい。思いと言葉と行いを最善のものにしなさい。神の愛を切望しなさい。あなたの心とあなたの人生を神の愛で満たしなさい。

すべての行いを、神の法に則ったものにしなさい。神の法を生きなさい。神に向かって進んで行くのは時間がかかり、努力が必要とされます。しかし、あたかも母親が子どもを守るように、神の法があなたを守ることでしょう。神は、あなたの徳にしたがって、智恵と愛と恩寵を与えます。このことをいつも覚えておきなさい。

Q 私たちが通らなければならない人生の諸段階とはどのようなものですか?

まったくの無知の状態から、すべてを包括する神の叡知に到るまでには、三つの意識の段階があります。

Q 一つひとつの段階について、もっと教えてください。

最も低い段階においては、人は、神のことや白分自身の本当の性質をほとんど知らないか、あるいは、それについてまったく考えもしません。その人は、おそらく心が重く、非常に怠慢で、自己中心的でしょう。肉体的、もしくは精神的に病気かもしれません。

第二の段階は、絶えず変化している物質世界における生活を象徴しています。この段階にある人々は、時間をこの世的な物事を追い求める活動と休息とに二分しています。

イエスは、意識の第三の段階のことを、「神の王国」とか、「天の王国」と表現しています。この段階は、感覚の世界を遥かに超越しています。この状態においては、人は、尽きることのない神の栄光と絶えず調和しており、神の聖なる特質に満たされた永遠の命を知っています。

Q 自分がその霊的意識のどの段階に相当するかは、どうすればわかりますか?

自分がどういう動機から神を求めているかを、注意深く正直に点検しなさい。あなたが神に心を向ける理由が、可能な限り高貴なものであるように、大きな注意を払いなさい。

Q なぜ人々は神に心を向けるのでしょう?

一部の人々は持病に悩まされ、疲れ切っています。神が彼らの病を癒せば、彼らは再び困難に直面するまで神を忘れてしまいます。

別の人々は、権力や地位や名声や富を求めて苦闘することに気をとられています。成功を確実なものにしようとして、彼らは神の保証を求めて神に心を向けます。ところが、いったん望みのものが手に入ると、彼らは、それを与えてくれた御方を忘れて、はかない物質的収益や楽しみに浸ります。

あなた方が第三の範疇に入りますように。このグループに含まれる幸いな人は、いつも変わらず神の愛による慰めを希求しています。その人は、万物の父なる神と一つになることを切望します。その人は、探求の旅路に必要な健康と富は与えられるものであることを知っています。

Q 神は、神を愛する人々をどのようにお世話なさるのですか?

神は、気を散らすものから彼らを守り、彼らを啓発する聖典や書物を与え、正しい友人関係へと導きます。さらに、彼らに霊的教師を与えて、彼らに見合った霊的生活にまつわる聖なる法に従って生きることを助けます。彼らの理性はより鋭くなります。神の王国の門が勢いよく開かれる時、彼らはそのチャンスを捕えて、すべてを慰める神の暖かい包容を、永遠に受け入れることができます。

Q イエスのように神と一つになることは可能でしょうか?

神を求める人は、誰もが、イエスの通ったのと同じ、さまざまな段階を通らなければなりません。イエスの聖なる布教活動は、闇の勢力によって加えられた命取りになるほどの打撃すらも、静かな自制心と神の愛によって克服することができることを、すべての人に教えました。

Q イエスに従うには、何から始めるべきでしょうか?

霊性修行や、人格改善や、他の人への奉仕の生活を始める時は、初心者として神の仲間に加わるのであり、戒めに背いて神の不快を招かないように常に気を付けていなければなりません。絶対の忠誠心と誠実さとを養わなければなりません。神の一つひとつの戒めを敬い、忠実に神に仕え、無条件に神の意志に従わなければなりません。その人が成長するにつれて、信頼された召し使いの地位が与えられ、果たすべき小さな任務が課せられます。

神とのこの緊密さによって、その人は聖なる諸特質を育て、霊的成長を遂げることができます。周りの人々が、次第にその人を神の手足と見なすようになり、その人は神の聖なる家族の一員として認められるという特権を得ます。

この第三の段階が熟すると、他から隔てられていた自我が究極の神我に溶け込んで消滅してしまい、神だけが残ります。すべてが一つになります。イエスは、「私と父なる神とは一つである」と言いました。あなたと天なる父(神)は、いつの日か一つになります。

Q どうしたら神が自分の根本的特質であることを体験できますか?

イエスをあなたの道案内人として選び、イエスの示した手本を見習いなさい。イエスが通ったのと同じ意識の成長の諸段階を通りなさい。霊性修行を実践しなさい。

Q 霊性修行とは何ですか?

イエスは、生涯において、いくつかの霊性修行を通して霊的進歩を遂げました。正しい霊性修行の方法を知るためには、各人がイエスの示した手本を見習わなければなりません。

Q イエスが実践した霊性修行にはどのようなものがあるのでしょうか?

イエスは、聖典の学習から始め、次には物質世界における神の探求に集中しました。次に、イエスは、神を心の目で見ることと神を黙想することへと進みました。イエスの最後の修行は、神を瞑想し、神と融合することでした。

Q それらの霊性修行の方法は聖書に書いてありますか?

聖典の学習に関して、イエスは、

「あなた方が私を愛するのであれば、私の戒めを守るであろう」と言い、また、

「人は神の言葉の一つひとつによって生きなければならない」と言いました。

神に集中して物質的加護を求める方法は、マタイによる福音書とローマの信徒への手紙の中に、

「あなたがたが祈りの中で求めるものは、何であれ与えられるであろう」

「神の御名を呼び求める者は誰でも救われるであろう」

とあります。神の姿を霊視することは、ヨハネによる福音書の中で、

「私が道である」

「私が扉である。私によって入るものは誰でも救われるであろう」

と要約されています。

神に帰融するための適切な瞑想の主題は、次のような言葉で与えられています。

「私は世の光である。私に従う者は・・・命の光を得るであろう」

「神は光である」

ですから皆さんは、魂の救いのために、次のような修行によってイエスの道を歩まなければなりません。すなわち、愛に生き、聖典を学び、神の法に則して生活し、神に祈り、絶えずイエスを呼び求め、イエスの御姿を万物のうちに見て、イエスを常に身近に感じ、神の本質である永遠の光と一つにならなければなりません。

Q 聖典はどのようにして学ぶべきでしょうか?

イエスと弟子たちが人類に残した贈り物に関して、私たち一人ひとりが彼らに大きな恩義を受けています。もしイエスと弟子たちが地上で神に仕えていなければ現存しなかった聖なる諸教典に対して、心から謙虚に頭を下げなければなりません。そのようにして頭を下げる一方で、それを敬虔な心で集中して読み、イエスが伝えているメッセージを理解するように、最善を尽くさなければなりません。

書物を読むという行為だけでは、心を浄化するのに充分ではありません。日常生活で実践できることがわかるまで、聖典の言葉についてよく黙想しなければなりません。もし本当にイエスを愛するのであれば、聖書の言葉の完全な意味を理解するために必要な時間をつぎこみ、霊的体験を持っている人々と、それらの言葉に関して話し合うでしょう。

なかには、優れた知識を持っていると主張しながら、実際は他からの注目や、自己宣伝や、金銭的利益を求めている人々がいるかもしれません。こういう人々には、彼らの望む道を歩かせておきなさい。

誠実に霊的生活を求めている人と霊的な勉強会を設けるのは賢いことです。真理を交換し、徳について語り合い、神の栄光に耳を傾けなさい。世間には、時間を見つけてはおしゃべりをする人々があふれています。そのような世の中でも、皆さんが神について学ぶ時間を見いだすことは可能です。

悪い仲間を避け、いつでも神の愛を吸収できるように、心の準備をしておきなさい。あなたを神のもとへ導いてくれるものは、愛のほかにはありません。聖典に書かれた精神を高揚させるいくつかの言葉は、あなたの心に共鳴することでしょう。祈るためにひざまずいたり座ったりする時、それらの言葉を思い浮かべなさい。心が静まり、心の動揺やこの世のしがらみは遠くに消えて行くでしょう。

Q 祈りとは何ですか? 祈りの目的は何ですか?

祈りは、宗教にとって欠くことのできないものです。その目的は、人と神とを一つにすることです。祈りには、あなたが望むことを神にお願いすることが含まれます。あなたの思いや言葉にならない祈りに、絶えず気を付けていなければなりません。神はすべての運命を司っており、あなたが心から願えば、その望みを叶えてくれるからです。しかし、よくよく注意しなければなりません。本当に有益なことだけを神に願いなさい。

「あなた方が祈り求めるものは何であれ与えられるであろう」(マタイによる福音書21:22)

富を求める祈りによって、あなたはそのうち裕福になるかもしれません。しかし、真の幸福を味わうことのできる億万長者がいったい何人いるでしょう?

Q 私たちは何を求めて祈るべきでしょうか?

許し、永遠の命、神の愛、イエスを見ること、何が正しいかを知る力、そして、正しい道をたどる勇気を求めて祈りなさい。

Q どのようにして祈ればよいのでしょう?

まことに、あなたの一生は、魂の救いを求める絶えざる祈りでなければなりません。これを成し遂げるために、最も進んだ魂たちでさえ、邪魔が入らないように静かな場所に行って祈ります。

一番望ましいのは、毎日の祈りのために、神聖な場所を一ヶ所用意しておくことです。直接地面に接触した状態で祈ったり瞑想したりしてはなりません。大地の力によって、貴重なエネルギーが吸収されたり、妨害されたりするからです。木の台か布を敷きなさい。毎日そこに2回座りなさい。理想的な時間は、世の人々が起き出してあなたの注意をひく前の、早朝の時間です。就寝直前の夜の祈りの時間も、非常に有益であることがわかるでしょう。

Q 祈りの姿勢はどのようにすればよいでしょう?

リラックスした、気持ちのよい姿勢で椅子か床に座り、背中と首をできるだけ真っ直ぐ伸ばしなさい。祈る目的のためだけに地面に敷く、特別の布を用意するのが一番です。祈りの姿勢は、あなたが身体に気を取られない限り、ひざまずいても、座布団の上に足を組んで座ってもよいでしょう。心が落ち着かないために色々姿勢を変えれば、あなたの祈りは、日常生活と同じようにせわしないものになってしまう可能性があります。旅行をするときは、いつもの祈りの場所と決められた時間の祈りに意識の焦点を合わせるだけで、心が高揚するでしょう。

Q 祭壇を作る必要はありますか?

あなたの心こそが本当の祭壇です。この世的な祭壇は簡単なものにしておきなさい。一枚のイエスの写真(もしくは絵)と、蝋燭一本と、香りのよいお香を使いなさい。

Q 神と一対一になった後、何をすればよいのでしょう?

目が覚めてすぐに、最初の活動として祈りを始めたらなら、ただちに神の御名に集中することを始めなさい。起床してから祈り以外の活動をした後や、夜の祈りの時は、リラックスして緊張をほぐさなければなりません。そのあとで、意識を神に集中しなさい。それを一定の手順に添って行いなさい。一つひとつの筋肉を、緊張させてから緩めなさい。頭の筋肉を一つひとつ引き締めて、次に緩めなさい。首の筋肉、肩の筋肉、腕と手の筋肉、背中と胸の筋肉、という順番で、一つひとつの筋肉を緊張させ、それから緩めなさい。次に、腰と、腰から足首までの両脚の各部分、足首から先のそれぞれの筋肉に力を入れ、それから緩めなさい。すべての筋肉をリラックスした後は、心をリラックスさせなければなりません。

Q どうすれば心をリラックスすることができますか?

長くゆっくりとした深呼吸を3回行いなさい。心が静まるまでこれを繰り返しなさい。聖書の言葉か、神に関する話を思い浮かべなさい。そのようにして心が静かになってから、朝の祈りを始めなさい。

「愛する神様。起こしてくださってありがとうございます。 おかげで私は眠りの胎内から生まれ、新しい日を迎えることができました。 今日一日、柔和で思いやりのある言葉で語ることができますよう、お導きください。 また、誰に対しても、落ち着いて、慈しみあふれた振る舞いができますように。 すべての人に幸せをもたらす善い行いをすることができますように。 イエス様がそうであったように、皆の理想的な手本となれますように。 どうか今日一日、神様によくお仕えできますよう、お導きください。」

Q 朝の祈りはいつ始めるべきでしょうか?

毎朝同じ時間に、祈りのために起きなさい。できれば、午前3時から6時の間がよいでしょう。少しずつ、あなたは日課に順応して行き、毎朝、神の促しによって目が覚めるようになります。初めのうちは、毎日10分〜15分間だけ祈るようにしなさい。そのうちに、心を高揚させる平安の喜びを感じるにつれて、祈りの長さは徐々に増えていくでしょう。

Q その15分の間、私は何をすればよいのでしょう?

イエスの生き方そのものがイエスのメッセージでした。イエスのたどった道を見習いなさい。イエスの人生は、神の使者として始まりました。

イエスは、聖霊に満ちた神の息子、すなわちキリストとなりました。そしてついにイエスは、神と一つになることによって、運命を全うしました。イエスが通った三つの意識レベルを経て前進するためには、あなたが完成しなければならない三つの聖なる修行があります。それらは、聖なる御名に集中すること、聖なる御姿を黙想すること、光としての神を瞑想することです。聖なる御名と御姿と光は、霊性の目覚めと霊的完成と霊的不滅性への三つの鍵です。神の御名と、神の御姿と、神の光の三つです。

Q どのようにして神の御名に集中すればよいのですか?

イエスは、「神の御名を呼び求める者は誰でも救われる」(ローマの信徒への手紙10:13)と言いました。そのための簡単な方法があります。「ジーザス、ジーザス、ジーザス・・・」あるいは、「ジェーシュ、ジェーシュ、ジェーシュ・・・」または、「イエス、イエス、イエス・・・」とイエスの名前を繰り返して唱えなさい。これを、一分間に20回〜60回、一度の祈りに300〜1,000回繰り返すとよいでしょう。そのうちの、ただの1回でも完全に真心から唱えることができたとすれば、それはあなたにとっての収穫です。このような祈りによって、過去の罪が少しずつ清められてゆくのです。

Q ロザリオを使ってもよいですか?

ロザリオや数珠は心の集中を助けます。神の御名を1回唱える毎に、右手の人差し指で数珠を一つ繰りなさい。

Q もっと長い祈りの言葉を使ってもよいですか?

初めのうち、もっと長い祈りの言葉を使う必要を感じたら、

「イエス キリスト様、どうか私の魂を憐れんでください」と繰り返し唱えなさい。もし、これと少し違った祈りの言葉が心に浮かんだら、恐れずにそれを使いなさい。神はあなたを誤った方向へ導くことはありませんが、いったん祈りの言葉が決まってからは、それを変えないように注意しなさい。

Q 祈りを終える時にはどうすればよいでしょう?

祈りが終わった時に、急いで立ち上がってはなりません。ゆるやかに膝を動かしなさい。必要なら、少し手でさすってもよいでしょう。イエスによって与えられた心の平安を思いなさい。静かにゆっくりと、少なくとも3回「アーメン」と唱えます。それからゆっくりと立ち上がりなさい。そして寝床に入るか、あなたの一日の仕事に取り掛かりなさい。

Q 夜の祈りを終える時にはどうしたらよいですか?

夜祈るときは、あなたの魂をその夜一晩、神に委ねるようにしなさい。一日の出来事を手短に吟味しなさい。あなたの言葉や行いが誰に対しても苦痛や不快感を与えることがなかったか、振り返りなさい。そうしてから、

「父なる神様、慰めに満ちたあなたの両腕にこの身を委ねます。何か過ちがあれば、それを許してください。あなたの愛の力を私にお授けください」と祈りなさい。

そして、眠りに就くまでイエスを呼び続けなさい。

Q 一人の時には、イエスの御名を声に出して繰り返し唱えるべきなのでしょうか?

あなたが祈りを始めてまだ間もないうちは、声を出したり、小さくつぶやいたりする必要があるかもしれません。しばらくすると、黙って唇を動かすだけで充分になります。そしてついには、あなたの内なる声が、一日中、「イエス、イエス・・・」と呼んでいるのが聞こえるようになります。このようにして聖なる御名を繰り返し唱えることによって、あなたの帰依心は大いに高まり、神の平安がもたらされます。

Q 私が意識のそれぞれの段階を通って成長するのには、どのくらい時間がかかるのでしょう?

各人が、自分が今すでにいる地点から、自分に合ったペースで、神がその人に示す道に沿って、自分自身の内なる衝動に促されて進まなければなりません。あなたが突如として神の栄光に飛び込むのがいつになるかということは、神だけが知っています。

イエスは、祈りと瞑想と人類に対する奉仕の歳月を17年以上も送った後に、「私と父なる神とは一つである」と公言したのです。魂の成長は短期間に進むものではありません。毎日同じ手順に従いなさい。時間、時間の長さ、方法、姿勢を変えてはなりません。そうすれば、気を散らすものや心の動揺を容易に克服することができるでしょう。

Q イエスの御姿を黙想するには、どのようにすればよいのでしょう?

イエスは、「私が道である」、「私が門である。私を通って入る者は誰でも救われる」と言いました。あなたの心を鼓舞するイエスの絵か写真を一枚選びなさい。目の前の祭壇にそれを掲げなさい。あなたの職場にイエスの絵を一枚飾っておきなさい。どこに行くにもイエスの写真を一枚持ち歩きなさい。

あなたが朝起きた瞬間から夜眠って意識を失うまで、ほとんど自動的にイエスの御名を呼び求めている自分に気が付くようになったら、あなたの持つ絵に描かれているイエスの御姿を黙想する準備ができたのです。

朝の祈りの時に、御名を繰り返し唱えながら、あなたが愛してやまないイエスの御姿を心の眼で描くことを始めなさい。イエスの髪から描き始めます。髪の一房一房を区別して描きなさい。それから、顔の特徴を一つずつ描き加えなさい。これは、目を開けたままででも、目を閉じて行っても構いませんが、イエスの御姿を心の眼で描いている間中、その聖なる御名を呼び続けることをやめないように気を付けなさい。

これを一日中、少しでも時間がある時はいつでも行いなさい。いつも同じ絵を用いなさい。朝は羊飼いのイエスの御姿を使い、昼は神殿の12歳の少年イエスの御姿を使い、夜には幼な子イエスの御姿を使うというようなことをしてはなりません。どの御姿をあなたが選んだにしても、それを変えないようにしなさい。その恩姿があなたの心の中にいつまでも定着するようにしなさい。

あなたの思いがイエスの御姿から離れてさまようときは、イエスの御名に焦点を当てなさい。思いが御名から離れてさまようときは、御姿を描き続けなさい。心が100回さまようなら、心を100回連れ戻しなさい。その御姿が定着するにつれて、だんだんあなたは、イエスを実際に生きている存在として見るようになるでしょう。また、事実イエスは生きているのです。あなたは一日中、何があってもイエスを見、イエスが近くにいる暖かさと愛に満ちた導きを感じるようになります。

Q 光としての神を瞑想するにはどうすればよいのですか?

永遠の光を瞑想することに関して、イエスは、

「私は光であり・・・私に従う者は・・・命の光を得るであろう」、「神は光である」と言いました。イエスを最も誠実な真の友と見なし、心を喜びに満たしておくために絶えずイエスを呼び求めるようになったとき、あなたは永遠の光を瞑想する準備ができたのです。

「目を覚ましなさい、おぉ眠れる者よ。死者の中から起き上がりなさい。そうすればキリストが光を与えてくださいます」と聖典の中に書いてあることを思い出しなさい。

祈りを始める際に、イエスのために蝋燭を一本灯しなさい。イエスを心に描きつつ、イエスの御名を繰り返し唱えながら蝋燭を見つめ、しかるのちに目を閉じなさい。光の中にイエスがいて、イエスから光があらゆる方向に広がっている様を思い描きなさい。その光を、左右の眉の間からあなたの身体の中に導き入れなさい。イエスの光をあなたのハートの中に入れなさい。あなたのハートを、一枚ずつ花弁を開いていく光の花と考えて、それを開花させなさい。イエスからの光が、だんだん大きく、広く、明るくなっていく様子を観想しなさい。

その光があなたの口まで届けば、偽りを言ったり、中傷したり自慢したりする可能性は完全に消えてしまいます。それが耳に届く時、スキャンダルを聞きたがる気持ちはなくなってしまいます。光が手足を包む時、あなたの手足は、無益な行いや間違った行為に携わろうとする傾向を失ってしまいます。一切の暗い欲望は、まばゆい智恵の光によって破壊されてしまいます。よこしまな思いや、有害な想念はすべて消えてしまいます。あなたの全身を光で満たしなさい。

光が輝きを増すにつれて、それはあなたの周り一面を照らし、あなたを愛で包んでしまいます。それをさらに広げて、光があなたの家族や、あなたの愛する人々や、友人たちや隣人たちをも包むようにしなさい。見知らぬ人々や、競争相手や、あなたに敵対する人々までも愛の光に包み込みなさい。全世界を光で満たしなさい。全人類を光で照らしなさい。生きとし生けるものすべてを、その光の中に入れなさい。その光を宇宙の果てまで広げ、さらには、あらゆる空間と時間を超えて広げなさい。すべてが光であると観想しなさい。

すべてが一つであると見ることができるようになったとき、あなたは瞑想の状態に入ったのです。その光を覆い隠す冷淡さや頑迷さを取り除きなさい。闇の働きを振り払って光の鎧を着けなさい。すべてを光と見なすことは、あなたにとって最もやりがいのある大切な任務となります。神は光です。

Q 毎回の祈りの長さはどれくらいにしたらよいでしょう?

毎日の祈りは、あなたが喜んでそれを続けられる長さとしなさい。15分間の祈りは、そのうちだんだん長くなり、1時間かそれ以上になるでしょう。深く祈りなさい。また、一定の手順に従って祈りなさい。祈りや瞑想に過ごす時間の1分1分が、それだけあなたを神に近づけてくれます。

Q 日々の祈りは悪癖を克服する助けになるでしょうか?

あなたが、もはや暗くよこしまな思いを楽しまず、不正な計画や、不正手段による収益を望まなくなる時が必ずやって来ます。あなたは、死んだものや毒性や中毒性のある食べ物や飲み物を好まなくなります。人間性を落としめる一切の行為に喜んで携わろうとする心がなくなってしまいます。ゴシップや危害に無関心になります。

Q 神と一つに溶け込むまでには、どれくらいの時間がかかるのでしょう?

あなたの心の旅路は、あなたがそう望むからという理由だけで、すぐに完成されるというわけには行きません。神の王国に入ることは、長い年月をかけて霊性修行を行った結果、もたらされるものです。

Q 私は待つことが嫌いです。神に到達する近道はないのでしょうか?

すべての出来事の中に神の御手を感知しなさい。そうすれば、あなたは、はしゃいだり、憂惨になったり、せっかちになったりしなくなります。あなたの人生は、神の体験の連続となります。あなたは、イエスと共に聖なる世界に生き、言葉に言い尽くせない平安を知り、すべてを神の永遠の光と見るようになります。「神は光であり、神のうちには微塵も闇がありません」〔ヨハネによる福音書1:5〕。

Q どうしたら最もよく神に仕えることができ、最も人類の役に立つことができるのでしょう?

まずあなたは、神を体験しなければなりません。あなたにとって、自分自身の体験ほど真実なものは他にありません。人生において神を体験するには、人類を神と見なさなければなりません。神と人類同胞とに捧げる何らかの仕事に携わりなさい。説教するのではなく、実践しなさい。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」〔ルカによる福音書6:31、マタイによる福音書7:12〕。自分が人からされたくないことを人にしてはなりません。二重の規準を持ってはなりません。すべての人を自分自身のごとく扱いなさい。他者を信頼するには、まず自分自身を信頼しなければなりません。自分自身と他の人々との両方を尊敬しなければなりません。人類は一つの社会です。あなたが自分自身に危害を加えれば、全人類を弱めることになります。あなたが人を害すれば、あなた自身の力が失われます。あなたが人から望む待遇は、あなたが人に対して果たさなければならない義務の尺度です。個人としての完成は、他の人に奉仕することを通して初めて得られます。

Q どのようにすれば、最もよく他の人に奉仕することができますか?

まず最初に、あなた自身の人格を作り直しなさい。次に、あなたの家庭を神の愛の天国にしなさい。それから、あなたの近所を改善し、あなたの住む都市、あなたの国、そして全世界を改善しなさい。あなたは、イエスの道が完全なる喜びに到る道であるということを、身をもって示さなければなりません。あなたには大きな責任があります。どんな状況に置かれても、あなたが勇気と無私の心と確信とを持っていれば、周りの人々は、あなたが霊性修行に時間をかけたことによって以前より善い人間、幸せな人間、建設的な人間になったということに気が付くのです。祈りや霊的生活は、あなたが公衆の目から離れた時だけに実践するものではありません。それは毎日24時間携わっていなければならない仕事です。神に近づくために祈り、黙想し、瞑想することは、神と自分自身の魂に対するあなたの義務です。

神から与えられた身体は、有益に使わなければなりません。それは、健康を保って、肉体を持って生きるという神の贈り物を充分に役立てることができるようにするためです。怠慢になったり、強情や気まぐれに陥ったりすることによって、神を裏切ってはなりません。

Q 人格の欠陥とはどのようなものですか? また、それらの欠陥を克服するにはどうすればよいのでしょう?

人格の欠陥とは、あなたの性質の中にあるもののうち、あなたと他の人々を神への道から逸脱させたり、神への道の邪魔をしたりするもののことです。善い人格とは、人間本来の神聖な魂が顕現されたものです。

Q 人格の欠陥は、どのようにして作られたのですか?

心と感覚は、欲望と挫折という泥沼にはまり込みます。誰かが新しい車を持っているのを見ると、すぐにその人の車と同じものを欲しくなるばかりでなく、その人のものよりもよいと思える車が欲しくなります。こういったことはどれも、私たちをより一層神に近づけてくれるものでしょうか? 聖書には、イエスは「富める人が神の王国に入るより、駱駝が針の穴を通るほうが易しい」(マタイによる福音書19:24)と教えたとあります。

Q それは、世界の富める国々の人には魂の救いのチャンスがないという意味ですか?

必ずしもそういうことではありません。しかし、それは、イエスが生きたように生き、また、イエスが私たちすべてに望んでいる生き方をするには、自分を神から逸脱させる物事への欲望をコントロールすることに、非常な注意を払わなければならないことを意味しています。

神の目に映る私たちの姿は、私たちがどの程度まで人格改善を行ったかによって決まります。野放しの感覚と、心がさまようことによって、霊的な努力に対する感情的な障害が生じます。これらの弱点に心を占領させてしまえば、神の居場所がなくなります。祈るために静かに座る時、私たちの注意は何に向けられているでしょう? それは、私たちを神から引き離すもの、すなわち、怒り、貪欲、欲望、妬み、悲しみ、高慢、恐れ、利己主義、憎しみなどに向けられています。これらの名前は、私たちのさまざまな人間的弱点のうちのいくつかに付けられたものです。私たちのうちの誰が、それらを完全に克服しているでしょうか?

Q よいクリスチャンとなってイエスに従うには、欲望を克服しなければならないのですか?

私たちが、野放しの感覚的欲求や穢れた感情などによって生じた不満や不安や心配を満足させようとして、神から与えられる愛を消耗している間は、どうして霊的により強く成長することなどできるでしょう?

平和の鳩と悪魔の蛇が、一人の人間の中に仲良く共存することができるでしょうか? 立派な人格の基礎である、神の愛、規律、美徳、慈悲の心は、私たちの心のよこしまな傾向が克服されていないうちは、育つことができません。イエスは、布教を始める前に、40日間にわたって悪魔の誘惑と対決しなければなりませんでした。私たちも、イエスの例にならって、他に対する奉仕に専念し始める前に、心の中の悪魔を退治しなければなりません。

Q 私たちは、抑制心を養わなければならないのですか?

今日、私たちの多くは、頭に浮かぶことを何でも口に出して言っています。良心や道徳や神のごとき振る舞いを見失っています。深い知恵から出た助言を耳にしても、堕落し切った人は変わりません。自分の性格の欠点を認めた時、初めてそれを改善するための第一歩を踏み出すことができるのです。

Q 悪い感情は、実際どのようにして生まれるのですか?

人間には、生まれた時から、霊的な力と愛とが備わっています。子どもたちに対して、感覚の正しい使い方に関する教育がされていません。そうした子どもたちは、躾の行き届かないさまざまな習慣を持ったまま成長します。感覚は、どんなものであれ、魅力的だったり、興奮を誘ったり、剌激的であったりする行動や物事に惑わされてしまいます。心は、誘惑的な物事や心をかき乱す物事に関する取り留めのない思いで一杯になります。私たちがこの世を眺める時、私たちの霊的エネルギーは、今までに蓄積して来た想念を経由して流れます。そしてさまざまな欲求が生じます。

物事が起こるのには時間がかかります。私たちが物事を早く欲しがるために、心の中で欲望と苛立ちが育っていきます。そして、私たちは怒ります。怒りは、望んでいたものを手に入れたけれども、それが気に入らないか、あるいは、欲しがっていたものが手に入らないかの理由で生じます。そのため、私たちはその状況に関して、自分以外の誰かを責めます。

私たちは、望みのものを持っている時は、それを失うことを恐れます。それを持っていない時は、それが手に入らないことを恐れます。人生が継続していく間には、いくつかの欲望は満たされないままに終わります。私たちは落胆し、敗北感や悲しみを覚えます。また、私たちは誰か他の人が何かを持っているのを見て、嫉妬を覚えます。妬みは、貪欲と憎しみを生みます。かたくなな感情は、私たちを視野の狭い人間にし、人を許せない偏見に満ちた人間にします。ようやく何かが手に入ると、私たちは高慢になってしまいます。

Q どうすれば、その不幸な出来事の連鎖を止めることができるのでしょう?

感覚をコントロールしなさい。

Q そのコントロールは、どういうふうに訓練するのでしょうか?

まず目から――すなわち、あなたの視覚から始めなさい。何か心を騒がせるものが見えた時には、そのつど、その代わりにイエスの写真を見るか、その時あなたがしていることに集中するかしなさい。そうすれば、すぐに心の平安が感じられるようになります。このようなコントロールが得られるまでには時間がかかるかもしれません。ですから、とにかく少しずつ、たゆまずこの課題に取り組みなさい。

舌による失敗は、あなたにとって最も大きな災難をもたらす原因となります。人の悪口を広めたり、淫らな会話をしたりすることを好む傾向は根強いものです。口数を少なくしなさい。差し迫った必要が生じた時には、優しく語りなさい。怒りや興奮によって叫んだり、声を荒だてたりしてはなりません。そうすれば、健康は増進し、人間関係は改善されます。あなたは面白味のない人だと笑われるかもしれませんが、あなたが求める種類の喜びは決して失われることはありません。舌を、神の御名を繰り返し唱えるために使いなさい。神はあなたが舌をコントロールするのを助けます。

Q 私は騒がしい心の持ち主です。それに関してはどんなことをすればよいのでしょう?

神に奉仕することによって、あなたの心を制御しなさい。祈りと、神を黙想することは、心の平安をもたらすのに非常に役に立ちます。私たちの日常生活を妨げる、人格上の弱点の正しい治療法は、規律と、節度と、適切な判断力です。

Q 正しい規律を身に付けるには、意志の力が必要ではありませんか?

神は愛です。愛は神の力です。神の力(愛)が動機となっている意志の力は、あなたを向上させるプラスの力です。あなたの人生を、神の意志が具現化されたものにしなさい。心があなたを誤った方向に導くのを許してはなりません。

マタイによる福音書26:41によれば、イエスは、「誘惑に陥らないように注意して(WATCH)祈りなさい」と言いました。注意しなさい。(WATCH)。「W」―あなたのWords(言葉)に注意しなさい。「A」―あなたのActions(行動)に注意しなさい。「T」―あなたのThoughts(思考)に注意しなさい。「C」―あなたのCharacter(人格/性格)に注意しなさい。「H」―あなたのHeart(ハート)に注意しなさい。今の時代には、私たちは別の種類のWATCH(時計)に注意しています。少なくとも、あなたのWATCH(時計)を見ることによって、今話した戒めを思い起こしなさい。誘惑をWATCHし(見つめ)てはいけません。――WATCH(注意しなさい。)

Q 私が助けを必要とする時、誰もそこにいません。

一瞬たりとも神が存在しない時はありません。助けが必要な時の最も簡単な祈りの言葉は、「イエス、イエス、イエス・・・」であることを覚えておきなさい。そのうち、あなたは決してイエスの名前を忘れることはなくなります。一瞬たりともイエスが不在の時はありません。同じイエスがすべての人間の内にいます。他の人々の内にいるイエスを捜しなさい。人を憎むことは神を憎むこと、あなたがそれほど愛しているイエスを憎むことです。私たち一人ひとりが、人間の姿をした神の愛なのです。

Q どうすれば嫉妬心を克服できるのでしょう?

あなたが嫉妬によって傷つける相手は、あなた自身です。その人は、あなたとは別の名前を持ったあなた自身なのです。嫉妬心を捨てなさい。心が満ち足りている人は自由です。今のあなたに何ができるかに気付きなさい。あなたの能力の範囲を超えてしまえば、ストレスや、心の乱れや、過度の重荷などが生じ、個人的評判を落とすようなことすら起こります。自分よりも才能に恵まれた人々をうらやんではなりません。あなたの魂を、より強靭に、より善く神に仕えることができるものにする霊的手順を、しっかりと守りなさい。

Q 人々に対して、神経質になったり、苛立ちを覚えたりするときはどうすればよいのでしょう?

意識的に、ゆっくりと深く呼吸をしなさい。落ち着きを保ちなさい。主の御名を繰り返し唱えて、あなたの目に映る一人ひとりの人の内に神を捜しなさい。恐れ、対抗意識、欲望、貪欲、高慢、利己主義、嫉妬心は消えてしまいます。人が喜んでいる時はあなたも喜びなさい。そのような態度は神を喜ばせます。神は万人の父です。ですから、神の子どもたち一人ひとりの善き兄弟姉妹であるように努めなさい。

苛立ちや、その他一切の感情が原因となって、あなたが神のレベルから獣のレベルに落ちることを許してはなりません。「こういう状況のもとでは、イエス様ならどうなさるだろう?」と自問しなさい。忍耐と理解とを示しなさい。「相手」を見つめなさい。対立する点ではなく、一致点を発見しようと努めなさい。あなたの知識を、自分自身をもっと親切な人間にするために使いなさい。失敗を気にしてはなりません。そうすれば、人生は生き甲斐のあるものとなります。道徳と規律は、初めのうちは不快なものに思えるかもしれませんが、あなたを幸福な人生へと導いてくれます。

Q 怒りを静める最良の方法を教えてください。

怒りは欲望から生じます。しかし、すべての欲望が肉欲的なものであるとは限りません。何かをむやみに欲しがる強い欲求は、何であれ欲望です。誰かがあなたを怒らせるようなことを言うかもしれません。穏やかで優しくあるように、最善の努力をしなさい。「私の行動が、あなたにそういう印象を与えたとは驚きました」と言いなさい。微笑みなさい。それをあまり気にとめてはいけません。イエスですら、攻撃に耐えなければならなかったことを思い出しなさい。

あなたが、怒りに満ちた環境の中で生活していて、なおかつ美徳を保っているとすれば、著しい功績を積んだことになります。あなたの穏やかさは霊的進歩を示すものです。自分の中に見える怒りの最初の兆候を静めるよう努めなさい。普通、怒りは予告なしにあなたを襲うことはありません。身体が熱くなり、唇がひきつり、目が赤くなったり険しくなったりします。

だんだんと怒りが募ってくるかもしれませんが、早まった行動を取ってはなりません。怒りを克服するまで主の御名を繰り返しなさい。コップ一杯の冷たい水を飲みなさい。それを少しずつゆっくりとすすりながら飲みなさい。冷静になりなさい。心の乱れが治まって、自分の一時的狂乱が笑えるようになるまで、しばらく一人になって楽な姿勢で座っているか、ベッドに横になっていなさい。

あなたは怒っている時には、酔った獣のように人をののしります。相手も同じことをします。そして、怒りが高まります。そこで発せられた有害な波動は、あなたの身体を永久に痛めてしまう可能性もあります。野蛮な獣になったら、おしまいではありませんか?

怒りを静めるさまざまな方法を試してご覧なさい。それは、最初のうちは難しく思われるかもしれませんが、練習しなければなりません。5分間の怒りによって生じた損失は、何十年後悔しても決して埋め合わせができないかもしれません。

あらゆる努力にもかかわらず、もし怒りがあなたをつかんで手放せない時は、その一歩先に立ちなさい。それを自分自身の悪い習慣に向けなさい。自分の弱さや悪い習慣に対して怒りなさい。あなたに忍び寄る邪悪な腹立ちをかわしてしまうまで、それらのものを憎みなさい。この反応は、自己処罰に類するものでも、そこに行き着くものでもありません。それは、自制心と、内面的正直さと、向上したいという誠実な努力とに関係しています。

Q 深い悲しみを解決するにはどうしたらよいでしょう?

他の人々のように嘆き悲しんではなりません。決して、ふさぎ込んで、くよくよと過去のことを考えてはなりません。悲しみがあなたを覆い尽くした時には、同じような昔の痛手を思い返して悲しみの上乗せをするようなことは、しないことです。あなたが幸せだった時のことに注意を向けなさい。この行為にしばらく集中しなさい。過去の喜びを思い起こしながら、御名を唱えて善き主を呼び求めなさい。過去から心の慰めを得なさい。自己憐愍の深みや、自らの惨めな羽目を嘆き悲しむ状態に引きずり込まれてはなりません。

あなたはイエスの道を歩いています。あなたの知的反応と感情的反応が聖なる愛へと変質されれば、意識するものすべてが神の性質を帯びてきます。あなたは愛の鋳型の中で造形されます。あなたの行動の一つひとつが神聖なものとなるので、世の中に住んでいながら、世に邪魔されずに済むようになります。心を愛に満ちた状態に保ちなさい。そうすればすべてがうまく行きます。

Q 身体にはどのような注意を払わなければなりませんか?

食物から得られる活力を、善い行いと、善い思いと、思いやりのある言葉に活かしなさい。行動しなさい。しかし、人に苦痛を与えたり、人の不幸に追い打ちをかけたりしてはなりません。神の愛は健康をもたらします。一呼吸ごとに神に近づいて行くような生活を送りなさい。食事を抜いてはなりません。規則正しい習慣を身に付けなさい。食べすぎる人は疲労します。虚弱な人や、栄養の足りない人は、人類に奉仕するのには適していません。

健康を保ちなさい。肉体の病気は、聖なる成長にとって、大きな障害になる可能性があります。肉体は無視されることを拒否します。肉体は、あなたを霊的な仕事から脇道に逸れさせようとします。神の愛は、すべての病気を阻止します。あなたの身体と、体力と、能力とを、愛と謙虚さをもって人に奉仕するために使いなさい。また、真心から神に仕えるために、神の栄光を歌うために、聖地を訪れるために、感覚を間違った道から遠ざけておくために、そして、神の道をたどるために、使いなさい。

あなたの興味を広めるような仕事をしなさい。活動とその結果とを、神に捧げなさい。あなたの喜びと、技能と、知識を、人類同胞と分かち合いなさい。

Q それらを実践するには、内的規律が必要とされませんか?

規律は、神に到る道をたどる際の最初の一歩です。現代においては、わずかばかりの困難や不都合すらも忍耐できない多くの人が、急速に霊的進歩を遂げること、より高い意識に直ちに到達することを、渇望しています。

セルフ コントロール(自制心)によって、霊的力の増強は安全に進みます。あなたの人格が善良であれば、能力が有益に使われることは保証されています。自己規制は幸福をもたらします。自分に必要な規律を身に付けるために努力を傾けることは、早く成果が現れるのを心待ちにすることよりも、はるかに大切です。

規律は、強制や不要な苦痛を含むものではありません。心を強制しようとしてはなりません。心は、愛情と辛抱強い訓練には容易に反応するものです。

取り留めもないあなたの心を、小さな子どものように扱いなさい。その子どもを訓練して、だんだん賢くなるように育て、善い習慣の中へと包み込みなさい。決して急いではなりません。ゆっくりと、そして着実に、悪い仲間から自分を遠ざけ、善い人々の仲間入りをするか、一人だけで神と共に座りなさい。心の主人となるには、これを実践しなければなりません。

あなたが悪影響という毒を絶え間なく取り込んでいるとすれば、どうして立ち直ることができるでしょう。

Q セルフ コントロールができるようになるまでには、どのような段階を経て成長して行くのでしょう?

最初のステップは、感覚のコントロールです。品位を下げるようなことを体験したいという誘惑を抑えなさい。

二番目は、感情と、強い力であなたを動かそうとする衝動のコントロールです。それらがどうしても走ってしまうようであれば、走らせておきなさい。しかし、そういった感情や衝動に身体を持って行かれてはなりません。低次の衝動に刺激されて、低劣な行動を取ってはなりません。

第三のステップは、バランスのとれた判断力と、ムラのない心を育てることに関係します。先入観を持たず、偏見に左右されないでいることを学ばなければなりません。

次には、心と身体と魂の生命エネルギーを調節することを学ばなければなりません。イエスは、衣の端に触ったのは誰かを見るために振り返った時、そのようなコントロールの手本を示しました。あなたも、神から与えられる愛のエネルギーの動きに、イエスがそうであったのと同じくらい敏感にならなければなりません。

第五のステップは、あなたと、あなたを神から逸れさせる外からの影響との間に、聖なる緩衝帯を作ることです。イエスは神の守護であなたを包みます。「あなたは光の鎧を着ます」〔ローマの信徒への手紙13:12-14〕。

次には、ひたむきさ、すなわち「心の集中」が身につきます。――何者たりといえども、あなたを神から引き離すことはできません。

第七の段階においては、「万物に内在する神は一つである」ことを瞑想することが、神との一体感を強め、あなたを神と一つであるという認識へと導きます。

八番目のステップである最終段階では、あなたと父なる神が一つになります。瞑想は、感覚器官をはるかに超えています。瞑想中に、瞑想者と瞑想行為と瞑想の対象とを一切意識しなくなった時、あなたは、このステージを認識します。あなたは、一体感と、愛と光の中に溶け込んでしまいます。あなたにとって、自分自身の体験以上に真実なものはありません。また、自らの体験は、すべての規律や修行を価値あるものにします。初期の段階において聖なる体験を持つことによって、あなたのゴールである神の永遠の抱擁の、比類ない荘厳さを垣間見ることができます。

Q どうすれば偏りのない判断力が育ちますか?

正しい判断を下すには、充分な訓練が必要です。見る力を清める手段は瞑想だけです。物事がはっきりと見えれば、どの思いが善いもので、どの言葉が話す価値があり、どの行いが実行に移すべきものであるかが容易にわかります。

あなたが特別な注意を払わなければならない、非常に悪い一つの習慣があります。興奮を誘うような何らかの行為をする機会が生じると、いつでも、たとえそれが善くないことであるとわかっていても、あなたはそれをすぐ実行に移してしまいます。ところが、何か善いことであるとわかっていることをする機会がある時には、いつもあなたは極端に慎重になり、ためらいがちになります。何か善いことをすることを頼まれると、あなたは、「今は時間がありません。それに集中できません」と言います。しかし、あなたは、有徳の行いではないとわかっていることをするための時間とエネルギーとは、いつももち合わせています。この習慣は逆にしなければなりません。善い行為は奨励され、悪いものは遠ざけられなければなりません。

一つの間違った行いを正すには、何年にもわたる忍耐強い抑制と祈りが必要とされるかもしれません。あなたの言葉と行動の影響を深く考えなさい。公共の善に奉仕しなさい。あせると無駄が生じます。

Q どうして私は、とても心配してしまうのでしょう?

私たちの心を騒がせる日常の気掛りのほとんどは、一時の気紛れです。それらのものを追及したところで、私たちの人生の霊的価値にとっては何のプラスにもなりません。ですから、あせってはなりません。

神の栄光の壮大さに浸りなさい。この、より大きく、より大切な関心事によって、よりささいな魅力を圧倒しなさい。もし心配しなければならないのであれば、神に対するあなたの信愛の質を心配しなさい。あなたの規律の堅実さの度合いが神の目にはどう写るかを、よく考えなさい。もし何かを切望しなければならないのであれば、神が美しく微笑まれることを切望しなさい。

Q 物事を何度も人と話し合うことは、判断力を向上させますか?

口数を減らしなさい。もっとよく考えなさい。何が本当に大切かを理解するよう努めなさい。あなたの使命は、できる限り逸脱することなく神のやり方に従うことです。

どういう行動をとるべきか確信が持てない時には、正しい道が明確になるまで、30分、もしくはそれ以上祈り、瞑想しなさい。確信のなさの原因は、私たちが、神の要求をまったく考慮することなしに、非常にささいな肉体的要求や感情的欲求に集中するところから生じます。イエスが人類の救済のために肉体を犠牲に供したように、私たちも、内なる神を敬うために、肉体の傾向と情念の欲求を超えなければなりません。

ほとんどのものには永遠の価値はありません。本物の金と、キラキラと上辺だけを飾っているものとを識別し、また、永続するものと、その場限りのものとを識別するために、正しい判断力を用いなさい。さらにまた、神聖なものと、けばけばしいものとを見分け、永遠のものと一時的なものとを、そして、神に通じるものと心を惑わすものとを見分けるために、正しい判断力を用いなさい。もしそれが間違っていると気が付いた時には、あなたが一旦やり始めたことをやめることを恐れてはなりません。あなたの持っている何がしかの判断力を、精一杯働かせなさい。そうすることによって、あなたの判断力の強さと質は、徐々に向上していくからです。

Q 私はどうして、まったく良心がなく、混乱ばかりしているのでしょう?

何が神を喜ばせるかを自分自身に問いなさい。最善を尽くす努力をしなさい。そうすれば、あなたの良心が目覚め、あなたを導くようになります。良心を道案内として受け入れなさい。別な道を行きたいという衝動が起きる度に良心を払い除けるようなことをしてはなりません。

Q 私はどうしてこうも衝動的なのでしょう?

肉体的な興奮を誘うものに、そのつど心を執着させていれば、どこにあなたの判断力の居場所があるでしょう? 間違った行為に誘い込まれないようにしなさい。約束を守りなさい。あなたが人に教え諭すことを自ら実行しなさい。ハートの底から語りなさい。あらゆる罪の根源である野放しの衝動に従うのではなく、あなたの良心に従いなさい。さまざまな情念にしがみつくことをやめ、情念を手放しなさい。愛に満ちた目で見なさい。真理を体験し、真っすぐで着実な道を歩きなさい。心の旅路の一歩一歩において、神はあなたと共にあります。

Q 私の人格と、自己規律と、正しい判断力とを向上させ、私が幸せになるのに役に立つのは、特にどのような人生観でしょう?

人はよく、自分は非常に教養があって、霊的進化の程度が高く、優れていると感じるものです。もし労をいとわずに見るのであれば、小さな蟻の生き方からでさえ、たくさんのことが学べます。

Q 蟻からどんなことが学べるのですか?

あなたが手にしている神からの贈り物を軽んじてはなりません。あなたは神聖な能力が備わった人間の肉体を授かっています。あなたの注意が何ものにも縛られていない時には、意識を神に委ねなさい。イエスの御名を繰り返し唱えなさい。いかなる時にも、自分を、望みがないとか、悪い人間であるとか、劣っているとか、「いなくてもよい」者だとか考えることによって、自分自身を弱めてはなりません。価値のない魂などどこにも存在しないのです。蟻は、いつでも、自分の属する集団に役立つ仕事に没頭しています。あなたの人生において、有益な仕事を始めるか、これまでやって来た有益な仕事を継続していくかしなさい。

まことのクリスチャンとして、あなたが自分自身をその一員と見なすべき霊的集団は、神により近づくべく向上するためにはいかなる犠牲をも辞さない人々によって構成されている集団でなければなりません。イエスがそうであったように、その人々も、神のみに奉仕し、それ以下の興味の対象に奉仕することはありません。あなたは、難しい環境の中で善良であろうとして苦闘しているそうした集団の人々に、奉仕しなければなりません。

蟻は、静かに自分の任務を果たし、たゆまぬ行動によって多くのことを成し遂げます。あらゆる物事を、透徹した冷静な判断力で眺めなさい。あなたは、自分を神から逸脱させる物事をするために必要な集中力は、いつでも持っています。ですから今度は、神の方を向く習慣を身に付けなければなりません。進歩は、ゆるやかで着実なものとなるでしょうが、神に向かう方向こそがあなたの目標です。

Q どうして私は、突然力に満ちたように感じ、またその後で力がなくなってしまったように感じるのでしょう?

突如として力と光に満たされることは、あなたを惑わすかもしれません。私たちは、最も調子のよい時でさえ、自分の守るべき規律を忘れてはなりません。強烈な霊的高揚の後で、その高揚がすぐに再び起こらないとき、あなたは意気消沈するかもしれません。霊的高揚の体験を、今後生じる善きことの一例として受けとめなさい。あなたに神の恩寵をもたらした、苦渋に満ちた祈りと規律に費やされた長い時間を、忘れたり、意識的に無視したりしてはなりません。

Q その他に、蟻から何を学ぶことができますか?

蟻は、決して利己的な心で蓄えをすることはありません。蟻と同じように、私たちは、自由になる一時的な富を、自分たちが勝手に貯め込むためのものだとか、無駄使いをするためのものであると考えてはなりません。神はいたるところに存在し、あらゆるものの内に居ます。どんなものであれ、それを無駄にすることは、神を無駄にすることです。繁栄は、人類にとって有益なことに活かすために与えられたものです。「より多くの財産がある」ということは、人類のために、より多くの仕事をすることを神が期待しているということです。神は、地方の警官を出し抜くことを誇りに感じるために私たちに新しい車を与えるのではありません。あなたの行動の一つひとつは、あなたをもっと神に近づけるか、神から遠ざけるかのどちらかです。

蟻は、障害が発生したり変化が生じたりしても、気を落としません。蟻は、ただ最善を尽くすだけです。その後のことは神が面倒を見ます。あなたが進歩するか後退するかは、あなたの行動にかかっています。あなたがイエスのために何かを行う時、その結果に関してはイエスの決定に委ねなさい。神に、仕事をさせてくださいとお願いしたのであれば、あなたはその結果に関しては、神のコントロールを受け入れなければなりません。あなたが何をいつ受け取るかは、神の恩寵にかかっています。もし、結果があなたの期待していたものではなくても、あなたの精神が快活ならば、それは価値ある功績です。ひたすら最善を尽くしなさい。あとのすべては神が取り計らいます。

Q その他に、蟻はどのような長所を持っているのでしょうか?

蟻は、決して、興奮して感情の激発を追いかける様子を見せません。あなたの善い性質こそが神の報酬です。ですから、もしあなたが徳の代わりに現金が欲しいのなら、どうしてイエスに従っているのですか?

Q 私は、自分がしなければならないことを、いつもしたいと思うわけではありません。それはなぜでしょう?

もしあなたが、嫌な役割を果たさなければならないのであれば、それを愛の心で行いなさい。そうすれば、あなたにとってちょうどよいと思える時に、それをやめることもできるでしょう。何らかの活動に携わりたいという心を抑えることができない時は、そこに神を見るべく最善の努力をしなさい。「ここでイエスはどのようにして私を通して働いていらっしゃるのだろう? この仕事は神の現れだ。どうすれば、私はそこに神を見ることができるのだろう? 私がしばしば批判的な感情に陥る原因は何だろう?」と自分自身に問いなさい。

自分自身の振る舞いの中で、改善する必要のある部分を探しなさい。他の人の弱点を強調しようとすることで時間を無駄にしてはなりません。人の喜びを共に喜び、人が苦労している時には心から励まし、神のほうに方向づけてあげなさい。一方で、イエスがご自身のやり方でその人たちの面倒を見るのに任せなさい。あなたの意志を人に押しつけたり、人の幸せに関して、あなた一人に責任があると考えたりしてはなりません。もしあなただけに責任があるとすれば、神の役割はいったいどうなるでしょう?

神の仕事に関するあなたの能率と情熱によって、より高度の役割を果たす権利を勝ち得なさい。あなたの務めは、あなたの人生をコントロールしている心と身体と感情を、支配者の座から徐々に外していくことであり、また一方で、それらに代わってあなたの人生をコントロールしてくださいと、絶えず神に祈ることです。恐れてはなりません。愛に満ちて神の子どもたちを見守り育てること以外に、神の仕事はないのですから。

あなたが、本来は達成できることと、現在行っていることの間の大きなギャップを埋めることができますように。あなたが「神の王国とその栄光の中へとあなたを招いている神にふさわしい人生を送る」(テサロニケの信徒への手紙一2:12)ことができますように。有意義な人生を送ることができますように。あなたが神の愛を知ることができますように。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:An Eastern View of Jesus Christ C3