サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習(31)の御講話より

ブラフマンは至福

我らの母国はたくさんの偉人を生み出し、
その偉人たちの名と名声は大陸を越えて世界中に広まった
我らは外からの支配者を追い払った後に独立を確立し、
母国の学問と学識への大きな評判を得た
我らの国は、その芸術、経典、文化、伝統によっても知られている
あなた方はこの偉大な国に生まれたのだから
母国の輝かしい伝統を維持する責任は、あなた方青年男女の肩にかかっている

私はあなた方に、すべてのヴェーダーンタの真髄を一文で与えよう
「生きとし生けるものすべての中に存在しているアートマは一つ、
ただ一つ、そして、それはあなたにほかならない」

それは早朝の時間のことでした。涼しい風のおかげで、心が安らぎを感じるような環境でした。太陽が昇り、空全体が金色に染まりました。そのたいへん平安に満ちた空気の中で、ブリグの心に神聖な考えが生じました。その神聖な空気の中で、ブリグの心は神聖な考えを生み続けていました。「ブラフマンとは誰なのだろう?」、「ブラフマンのこうした側面を発見したのは誰なのだろう?」、「ブラフマンを構成しているものは何なのだろう?」、「この創造物すべての原因は誰なのだろう?」。このようにして、次から次へと浮かんでくる考えに悩まされ、ブリグはそれらの問いの答えを学びたいという欲求でいっぱいになりました。ブリグは、その答えを得ようと固く決意しました。もうそれ以上自分を抑えきれなくなって、ブリグは答えを求めて父ヴァルナのもとへ行きました。

ブリグの父ヴァルナは全知の人でした。ブリグは父に、自分の求めている知識を与えてほしいと懇願しました。ヴァルナは質問に答えることに異議を唱えているわけではありませんでしたが、当時の環境は、疑問に対する答えは学生自身が探求することになっていました。もし弟子に疑問が生じた時にすぐに師がそれを晴らしてしまったら、弟子は答えを探し求めるという能力をすっかり失くしてしまうでしょう。疑問に対する答えを探し出して自分の好奇心を満たすには、誰もがいくらか自立を与えられなければなりません。こうした慣習により、ヴァルナはブリグに探求の機会を与えたいと思いました。ヴァルナは輪郭だけを与えて言いました。

「ブラフマンとは、すべての創造物がそこから始まり、すべての創造物がそこに帰融する者である。ブラフマンはすべての創造物を維持する者でもある。」

これらの目安を受け取ると、ブリグは森へと戻り、思考に思考を重ねた末、「ブラフマンは食物である」という結論に至りました。ブリグはこう考えたのです。人は食物のおかげで生まれる、人は食物に頼って生きる、人を維持しているのは食物だ、最終的に、人は自分が食べる物のせいで死ぬ。そのためブリグは、「食べ物がブラフマーの姿である」という結論に達し、家に帰りました。帰宅するとブリグは父親に、自分が突き止めたことは真実なのか、それとも、それは単なる自分の無知の反映なのかと尋ねました。父親は、おまえはブラフマンとは真に何を意味するかをまだわかっていないと述べ、先の答えを探すために森に戻るようにと勧めました。

ブリグは森に戻り、しばらくの間、熟考しました。人は食物だけで生きられるのだろうかと、ブリグは思いはじめました。もし人に生気がなかったら、肉体は自分の目の前にある食べ物を味わうことができるだろうか。そうしてブリグは、生気のほうが重要であると結論に至りました。そして、「ブラフマンは生気である」という結論を出しました。ブリグはさまざまな試案を巡らせてこの結論に至り、再び父のもとに行きました。またしても父はその答えは正しくないと言い、さらなる探求を勧めました。

ここで私たちは、正しい答えを与えずに息子を森に送り返し続けるのは正しいことなのだろうかと、疑問に思うかもしれません。本当の真理の求道者は、真理に行きつくまではどんな困難をも経る覚悟があるべきです。当時の教師たちは、真理を学ぶためには、我が子であろうと他人の子であろうと、それに必要とされるあらゆる困難を経るべきであると信じていました。当時のグル〔導師〕は、こうした側面をよくわかっていました。

ブリグは森に戻り、ブラフマンの真実を突き止めるために何度も熟考し繰り返しました。食べ物と生気があれば人は幸せで満足なのだろうかと、ブリグは自問しました。人は食物と睡眠のためだけに生まれると結論づけるのは正しいことなのだろうか、と。ブリグは、人生というものを理解するには、心が最も重要であるという結論に達しました。心が存在しなければ、決して人の本質を理解することはできない。心がなければ、人と人の間にあるべき関係を理解することはできない。心こそが、人間の輪廻と解脱の原因なのだ、と。このようにして、ブリグは、心がブラフマンの姿であるという結論に達しました。ブリグは父のもとに帰り、そのことを報告しました。

再度、父親は、森に戻って真実を探るべきだと言いました。ブリグはそのようにし、もし人が間違っていることと正しいことを識別する能力を持っていないなら、たとえ食べ物と富と心を持っていても人生は無益だと考えました。人は、永遠のものとつかの間のものを識別することができるようになるべきである。時として、私たちはこのことを認め、一般的にも、知性のない者は役立たずだと言う。それに基づいて、ブリグは、「ブラフマンはブッディである」という結論に達しました。ブリグはそのことを、「理知が神である」と言いました。ブリグが父のもとに帰ってこの結論を報告すると、父親はまだ喜ばず、さらなる探求を勧めました。ブリグはまた森に行きました。

本当のジグニャース〔知りたいと絶えず強く欲する者〕は、自分の疑問に対する答えを探すためにそれほど強靭な意志を持つのです。それほどの集中力がなければ、人が真の満足を得ることはできません。現代の私たちの集中力は、一時的なもの、永続的でないものに向いています。昔の大聖仙と学生たちは、自分の目的に限りなく集中していました。これぞ人が真に目指すべきところです。それが秘訣であり、人の最終目的であるべきです。人として生まれたのですから、神性を理解しようと試みるべきです。

ブリグは探求を続け、人は至福と幸福を持っていないかぎり、どれほど学識があったとしても、その人生は無駄である、という結論に達しました。人生の目的は至福であり、命は至福から生じる。水の泡が水の中で生まれ、水の中で成長し、水に帰融するように、人は至福の中で生まれ、至福によって自分を維持し、ついには至福に帰融しなければならない。ブリグは、その至福こそがブラフマンであるという結論に達しました。ブリグは至福に満ち、その至福はどんどん大きくなっていきました。ブリグは父親のところに帰りませんでした。数日後、父のほうがブリグを見にやって来ました。ブリグはすっかり至福に浸っていました。そのような者には、父も母も親戚もありません。父はその至福の状態を認識し、息子を祝福しました。

当時の父と息子たちは真理を追い求めました。昨今では、もし子供がブラフマンの側面について何か質問をしようものなら、親たちは、そんなことで時間を無駄にするべきではないと言って、子供の好奇心を抑え込みます。親たちは、そんなことは年をとってから考えればいいと言います。今、ブラフマンの側面を説いている多くの人は、どこにも行かないでしょう。なぜなら彼らは世俗的な欲求に従順だからです。

ここにちょっとした話があります。ナーナク〔シク教の開祖〕は、神に関する神聖な思想を伝えていました。イスラム教徒でさえ、その教えに魅かれました。ナーナクの教えは、どの宗教にも受け入れられるものに見えました。ナーナクは、人がとるべき道を明確に示していました。しばらくすると、何人かの宗教指導者たちが、イスラム教徒は皆、ナーナクの宗教に連れて行かれるかもしれないと心配しはじめました。彼らはアクバル王に苦情を述べ、作り話をし、王がその話に影響されて反ナーナクになることをもくろみました。宗教指導者たちは、アクバル王がナーナクを罰することを望みました。しかし、アクバル王は、しっかりと定まった心と、すべての宗教への大いなる敬意を持っていました。宗教指導者たちがナーナクの苦情を述べても、アクバル王はそれを信じませんでした。アクバル王は、直接ナーナクと話して状況を判断しようと決めました。

王はナーナクに使いを送りましたが、ナーナクは物質世界を支配する王に会いに行こうとはしませんでした。自分が行くのは信者のもとだけだと、ナーナクは言いました。ナーナクは、自分は神の王国を動き回る自由の身であり、アクバルに会うことはないだろうと述べました。その返答は宗教指導者たちをさらにかっかさせました。彼らはナーナクを困らせようと、さらに計画を練って要求しました。しかし、アクバル王はナーナクに伝言を送り、明日モスクで神に敬意を表する祈りがあるので、その祈りに出席するようにと求めました。王はナーナクを連れて来るための輿も送りました。しかし、ナーナクは輿に乗って神の住居に行くのは失礼だといって、モスクまで歩いていきました。他の人たちがやって来るずっと前に、ナーナクは謙虚にモスクの片隅に座りました。

宗教指導者たちが祈りを唱えはじめました。それが始まるや、ナーナクは大声で笑い出しました。集まっていた人たちは皆、大変な怒りを感じました。ナーナクがあまりに大声で笑っていたので、人々は祈りの声が聞こえないほどでした。しばらくして、アクバル王が祈りはじめました。ナーナクはさらに大声で笑いました。そこに集まっていた人は皆、ナーナクはアクバル王さえも屈辱するのかと、怒りを感じました。その後、アクバル王はナーナクのもとに行き、祈りが唱えられていた時にどうして笑ったのかと穏やかに尋ねました。ナーナクは言いました。

「宗教指導者は祈りを唱えていましたが、彼の思いは熱を出していた我が子のいる家にありました。彼の心は自分の家に向いていました。もし心があることを言い、自分はそれとは別の他のことをするならば、その人は宗教的指導者にはなれません。これでは救いようがありません。」

アクバル王はその宗教指導者のところに行き、祈りを唱えていた時、実は心では息子のことを考えていたのかと尋ねました。子供が高熱に苦しんでいたので、祈りを唱えている間も息子のことを考えていたと、その宗教指導者は認めました。

次にアクバル王はナーナクに、自分が祈りはじめても笑い続けていた理由を尋ねました。するとナーナクは言いました。

「私が笑った理由をあなたはご存知のはずです。ここに来る前、パンチャラ国の王から何頭かの馬が贈られてきて、あなたはその馬をたいそうお気に召しました。あなたはここで祈っていましたが、思いは馬にありました。これは本当のことですね?」

自分が笑ったことに対してナーナクがこう答えた後、アクバル王はナーナクの宗教を広めるのを手助けし、あらゆる援助を施すようになりました。

人々は、祈りはじめたと思ったらすぐに蚊を叩くありさまです。ナーナクをはじめとする昔の宗教の指導者たちには集中力があったので、マハートマ〔偉人〕と呼ばれていました。彼らの思考と言葉と行いは完全に一致していました。現代では、人間が人間らしく生きることさえ困難になっています。科学の進歩によって、人は鳥のように空を飛び、魚のように水中で泳ぐことを身につけていますが、残念ながら、人は地上で人間らしく生きることは身につけていません。地上で人間らしく生きることができないなら、鳥のように空で生きても何になるでしょう? だからこそ、私たちはこう言うのです。

「人間として生まれた人は何人いるか? 生まれてから人間になれる人は何人いるか? 人間として生まれていながら正しい行いを放棄した人は何人いるか? ただ人間として生まれたから人間と呼ばれているのなら、〔実は〕猿なのは誰か?」

人間として生まれたからといって、人間になれるわけではありません。行いと振る舞いで、人は自分が人間であることを証明しなければなりません。人々は、体は人間でも、正しい行いというものがまったくありません。ですから、私たちは自分を人間に形作るべきです。その例があります。ここにマイクがあります。電流が流れていなければ、マイクは役に立ちません。それと同じように、人間の体の中に神性という電流が流れている時にだけ、人間の体はあらゆる特質を持ちます。体は陰の側面のようなものです。体の中にある神性は陽です。陰と陽が一緒になって、初めて何らかの良いことがあるでしょう。現代では、陰〔体〕は良い状態にありますが、陽〔神性〕はまったく失われています。そのような体をまとっている私たちに、どうやって正しい行いを促進することが期待できるでしょう。

どうして正義が消えてしまったかを理解するのは容易です。あなたに悪いことを考えている頭があるならば、悪いことを聞こうとする耳があるならば、もしあなたが他人のすることを詮索したいなら、どうやって正義と真実があなたと共にあることができるでしょう。もし人間らしく生きたいのなら、必要とあらば年長者たちの助けを借りて、少なくとも一つか二つ良い面を取り入れて、それらを日々実践すべきです。

学生諸君、私たちの母国の神聖な歴史の中には、ラーマーヤナやマハーバーラタといった聖典が存在します。学生の90%はそうした神聖な書物を知りません。バーラタの子でありながらバーラタの神聖さを知らないなら、あなたはどうやって自分をバーラタの国民と呼ぶことができますか? 実際、あなた方は、自分の母国の栄光と神聖さを認識すべきです。もしそれをしないなら、あなたの人生は生きながら死んでいるも同然です。少なくとも今日この日から、あなた方が以上の聖なる真理を認識して、サイ オーガニゼーションを通じて社会に奉仕する準備を整えることを私は願っています。サイ オーガニゼーションはすべての宗教の真髄を表しているということを認識すべきです。一ヶ月ここにいても、ここで学んだことを実践に移さないなら、意味がありません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 C31