サティヤ サイババの御言葉

日付:1979年12月25日
クリスマスにおけるババの御講話より

愛は神にいたる道

「ヴィシュヌ神は宇宙を維持するお方である。全人類は彼を崇めなければならない」と言う人々がいる一方で、別な人々は、「悪を滅ぼすお方であるシヴァ神はすべての運命を司っておられる。まさに彼こそが一切の賞賛を受けるに値するお方である」と言っています。また別な人々は、「助けが必要なときには、ガネーシャ神だけが私たちとともにいてくださる。彼に祈りなさい」と言ってガネーシャ神を称えます。学問に身を捧げている学者たちは、「真理のみが最も偉大な神である。私たちは英知に命を捧げている」と宣言します。また、ムハンマドを熱心に信奉している人々は、「神の御名はアッラーである。我々が全託すべきお方はアッラー以外には存在しない」と宣言しています。そして、忠実なクリスチャンは、「キリストこそが唯一の道である。私たちは彼の御名によって祈る」と言います。私の信者たちはサイを神と見なして、私を崇めます。本当はすべてが一つであるということに、すべての人が気付かなければなりません。

それでは、この見かけ上の多様性は、いったいどうしたことでしょう? 帰依の心を注意深く覗き込んでみれば、どういう信仰を選んだ場合でも、愛の道こそが神にいたる道であるということに、すべての人が同意することがわかります。これは真理の中の真理です。最も純粋な愛こそが、あらゆる人にとっての最高の道なのです。

愛を表現する方法はたくさんあります。純粋な愛で世界を見る人は、見るものすべてに愛を見いだします。多くの人――つまり素朴で気立てが善く優しい人は、すべてを善しと見て、何ものをも悪く見ず、彼らの見る、すべてのものとすべての人の中の愛を励まします。また、もう一方には、教育に愛を向け、自分たちは知恵があると主張して、「正しいことは正しくて、間違いは間違いである」と言う人々がいます。これらの人々の他に、議論と闘争とが好きなためにあらゆる正しいものを無視して、過ちに対して非難の指を向ける悪い人たちがいます。また、中には、光よりもはるかに暗黒を好む、よこしまな人々があります。彼らは、正しい物事を悪いものにするために力を使います。気立ての善い人々や、教育のある人々や、論争好きな人々は、良い方のグループを形成しています。しかし、悪霊にとり憑かれた人でさえも、正しい人々を間違った道へと力ずくで追いやる人々よりはましです。キリストの生涯においては、これら4つのタイプの人々がそれぞれの役割を演じました。

クリスチャンとしてのあり方はほとんど忘れ去られたにもかかわらず、金銭は一日中、一瞬たりとも忘れられることはありません。母親の胎内から金貨を持って生まれてくる赤ん坊は一人もいません。あなたの寿命が尽きたとき、あなたの所持金は次の世まで付いて来るものではありません。たとえ億万長者であっても、簡単なでんぷんとタンパク質を食べて生きていかなければなりません。そういう人の胃袋であっても、ピカピカ光る純金を消化することはできないのです。あなたは、金持ちになることを大変誇りに思うかも知れませんが、お金は墓場の向こうまで付いて来るでしょうか? それは泥棒の手に渡るのでしょうか? あるいはまた税金として徴収されるのでしょうか? 咲き誇る花や木々は、至高の主である神に従います。甘い香りを漂わせている花々は、飛んで来るすべての蜂たちに惜しげもなく蜜を与えることをしないでしょうか? 果実をつけた木は、通りかかる者たちすべてに食べ物を与えることをしないでしょうか? 私はこれ以上のどんなことを皆さんに話すことができるでしょう?

神の愛の化身である皆さん! 現代人は正しい道から外れてしまっています。イエスの愛と真実と純粋さとは忘れられてしまいました。現代人は、この世的な物や肉体的刺激に対する、無制限の欲望を追い求めています。人間の欲求には際限がありません。人間は、自分が張った欲望という蜘蛛の巣に捕えられて苦しんでいます。どれほどの名声や財産や権力を手にしていても、人間は決して満足しません。人の心は、物質的な対象物によって霊的な平安を得ようとして、とどまるところを知らず、激しく揺れ動きます。

人は、より新しくより良質のこの世的な所有物を絶え間なく集めることで満足を得ることを期待して、貴重な時間を無駄にしてしまいます。心に安らぎをもたらし、永遠の平安を与えることのできる物質は、宇宙に存在しないのです。不適切なものを追及することは、時間の浪費になるばかりでなく、人の心を低い次元に引きずり落とします。物質次元の愛は、誤って価値のないものに注がれています。肉体的な愛と、欲望の対象とを絶えず追いかけることは、神聖な人生を誤って使うことです。

人々が貴重であると見なす物事と、本当に貴重なものとの間には大きな隔たりがあります。この世における本当の富とは、満足という富です。貪欲な人は最も不幸な人です。すべての人間の中で、最も貪欲な人こそが世界一惨めな人物です。私たちが注意を向ける物事と、本当に注意を向けなければならない物事との差は、私たちの貪欲さと無知を測る物差しです。貪欲の言いなりになっていれば、決して、真の満足も心の安らぎも得ることはできません。

この世で最も貧しい人は誰でしょう? それは最も多くの欲望を持っている人です。最も富める人は誰でしょう? それは最も深く満足している人です。一人の人間の、健康と、幸福と、安らぎと、あらゆる人間関係、すなわち一個人の福祉の全体は、その人の満足の度合いに依存しています。心配、悲しみ、不和、争い、ストレス、そして感情に走る傾向などは、人間の骨折りの成果を台なしにするものであり、ついには命そのものさえも奪ってしまうかも知れません。私たちは、満足という善い性質を養った後で、初めて、人間としての生活を純粋なものにし、人生の目標である神性に到達することができるのです。

あなたは資産家であるかも知れません。あなたは非常に頭が良いかも知れません。あなたは非常に大きな権力を持つ者の地位にあるかも知れません。しかし、あなたが、自らの地位や力や財産や知能より大きくて優しい心を持っていないのであれば、これらすべての状況は役に立ちません。あなたは、ものを創り出す力はあっても、自分自身すらも助ける親切さと慈悲の心を持ち合わせていないのです。道徳を重んじて霊性にあふれ、本当に善いことを行うのであれば、その人は、自らの真の神性の光に輝きます。もし私たちが、来る日も来る日も、この世的で物質的な目標を追及することに一日の全部を使うとすれば、この短く神聖な人生は、無意味にドブに捨てられることになります。

歴史は、物質的なものの脆弱さと神性の無限の強靭さとの見本にあふれています。はるか昔、ヴィシュワーミトラ王がインドを統治していた時のことです。ヴィシュワーミトラ王は、自分の強さと知力とに取りつかれていました。ヴィシュワーミトラ王は、ヴァシシュタと呼ばれる神性あふれる聖仙を襲いました。何度も何度もヴィシュワーミトラ王は襲撃しました。そのたびに、ヴィシュワーミトラ王とその軍隊とは完全な屈辱を嘗めさせられました。彼らはヴァシシュタ仙が自由に操ることのできた神の力に抵抗し得なかったのです。そのうち、ヴィシュワーミトラ王は、肉体的・精神的な力は、創造主の力の単なる影に過ぎないことに気が付きました。ヴィシュワーミトラ王は神に集中するようになりました。ヴィシュワーミトラ王は霊性修行を行い、何年もの間神に対する帰依献身の生活を送ったのちに、怒りを克服し、彼自身が聖者になりました。

もっと最近では、カウラヴァ王朝の統治者の百人の子どもたちが、富と軍事力に酔いしれてしまいました。彼らは、神に従う五人のパーンダヴァ兄弟に対して悪意をもちました。すさまじい戦争が起こり、その戦いで、カウラヴァ一族は、最後の一人にいたるまで殺されてしまいました。おびただしい数の勢力と、兵器だけの力しかない軍隊は、真に忠実なわずかな人々に神が与える力の前には、常に敗北を喫してしまいます。

また別な時代には、ちょうど今日の科学者が、宇宙を征服しようとする自分たちの試みを自慢するのと同じように、「黄金(ヒランニャ)の兄弟」と呼ばれた二人の邪悪な兄弟〔ヒランニャークシャとヒランニャカシプ〕が、自然界の構成元素を自由に操ることのできる自分たちの力に自惚れてしまいました。二人は横柄になり、全人類を大混乱に陥れました。

自らの内にある欲望や、怒りや、憎悪や、嫉妬や、感覚の欲求を制御できない人が、外の自然界の構成元素を自由に操ろうと試みても、結局は、何一つ成就し得ないのです。私たちは、まず自らの感覚を自制する力を獲得し、私たちの内側にある感情の世界を支配しなければなりません。そうして初めて、外側の世界での幸福を手に入れることができるようになり、内的な聖なる平安の満足を享受できるのです。

この世に存在する、すべての命あるものは、意識しているといないとにかかわらず、霊的探求の旅路にあります。人生の旅路において、運命は、あなたをどこへ連れて行こうとしているのでしょうか? 「神の愛の書」、すなわち『シュリーマド バーガヴァタム』によれば、「すべての存在は、それが元々生まれたところに戻る性質を持っている」のです。ここで本当に重要な疑問は、「命はどこから来たか?」ということです。神は、「神の歌」、すなわち『バガヴァッド ギーター』の中で、この質問に答えています。神は次のように語っています。

「時の初めより、一切のものは我が無限の存在よりこの世に生じ来たるものである。この宇宙も、天上界も、黄泉の世界も、そしてこれらの世界に存在するすべての生き物も――無数の生命体のすべてが我より生じ、我が諸性質を内に秘めているのである」

ですから、あなたの人生の旅路の目的地も、そしてまた、あらゆる生き物の生命の最終目的地も、あなたの出発点である神に意識的に帰融することです。決してそれを避けることはできません。存在しているものはすべて、自らの霊的発祥の地に戻ります。

次に、一つの例え話をしましょう。水と意識とは、よく似ています。太陽が海の表面を照らします。すると、海の水は蒸発して雲になります。このようにして蒸発して雲になった海の水は、雨となって地上に降り、たくさんの川ができます。そして、それらの川は、最後には元来た同じ海に帰融します。人間の意識は、川の水と同じように、その発祥の地に向かって非常な速度と力とで移動します! 川は海に向かって動き、人間の意識は神に向かって動きます。人間は、川が示している見本を忠実に見習わなければなりません。人間として最高の資質を発揮する人々は、神にいたる道程において、あらゆる困難や、悲しみや、損失を、辛抱強く耐え忍びます。彼らは、いかなる障害に遭っても、神への集中をそらせることはありません。そのような人々の意識は、神実現に向かって非常な速さで進みます。

すべての人間が神の化身です。人は、神に遣わされた使者としてこの世に生まれて来ました。この世における人間の目的は、自分が神から与えられた運命を認識し、それを実現することです。イエス キリストは、この真理を認識したので、最初、「私は神から遣わされた使者である」と公言しました。神よりの使者イエスは、全人類に慈悲と神の愛とを注ぐことができるようになるために、霊性修行を実践しながら何年もの歳月を過ごしました。それからイエスは、「私は神の一部であるのか、それとも、神と関係している、神とは別な何者かであるのか?」と自問しました。イエスは、このひとことを考えながら、一人で砂漠地帯を12年間さまよい歩きました。その後、イエスは社会に戻り、「私は神の子である」と宣言しました。イエスは、こう言いながら、大いなる慈悲と愛とを以て世の中を高めることに、自分の人生を完全に捧げました。

非道と違法行為に没頭していた自己中心のエゴイストたちが立ち働いていたために、エルサレムの諸神殿には、悪が入り込んでいました。神殿の中では、商売行為や不純な慣習が行われるようになりました。これらの諸悪を見たイエスは、何度も繰り返してこの頽廃を清めようと試みました。正しい生活を指導するインドの書物である、シャーストラと呼ばれる文献に記述されている段階にイエスが到達したのは、この時点でのことです。そのとき、イエスは、「すべての形あるものは、神ご自身の聖なる御姿である」ということに気がつきました。したがって、イエスは、「あなたは誰ですか?」と尋ねられた時、「私は天なる父と一つである」と答えました。

イエスは、あらゆる人に、神が父であり、人類は同胞であることを示そうとしました。一部の人々はイエスを信じず、イエスを偽預言者と見なして、イエスの使命を妨害しようとしました。数限りない試練や、苦難や、混乱に直面しながら、イエスは、生きた真理の見本であり続けることを選び、教えを述べ伝える使命を果たしました。自らが経なければならなかった肉体的条件をまったく気にとめることなく、イエスは、社会の浄化を第一として、あらゆる妨害にもかかわらず、神の純粋さを世の中に宣言したのです。

この当時、イエスに従っていた弟子たちがありました。たとえそれがイエスの時代であれ、ムハンマドや、ラーマや、クリシュナの時代であれ、あるいは他のいかなる時代であったにせよ、信者たちが、完全で確固とした、強靭で揺るぎない帰依の心を持っていたことは、歴史を通じてただの一度もありませんでした。信者は、自分たちは弟子だとか帰依者であると信じているかも知れませんが、実は、彼らは完全に帰依しているわけではありません。帰依者が幸せな間は、自分たちが主と仰ぐ人に非常に忠実に従いますが、困難が生じれば、銘々好き勝手な道をたどるのです。自称帰依者たちは、フルタイムの帰依者ではなく、パートタイムの帰依者にすぎません。

イエスには、12人の主だった弟子がいました。そのうちの大部分はイエスを愛し、イエスのさまざまな理想に従い、それらを実践しました。この世には、金銭に対する貪欲さがはびこっています。長い間、人間は、お金は人格よりも大切であり、この世はお金で動いていて、お金だけが大切なものであるという、自分の考えに取り憑かれて来ました。一部の人々は、イエスの人気と名声とが高まっていくのを、そねむようになりました。司祭たちに刺激されて、彼らは、イエスの弟子であったユダを買収しようとしました。ユダは、お金を見ると自制心を失ってしまい、貪欲に支配されてしまいました。ユダは、あたかもイエスが自らの命そのものであるごとく生きるべきだったのですが、イエスを司祭たちに、たったの銀貨30枚で売ってしまったのです。ユダは、自らの師の命を金のために売ってしまったので、自分自身の人生を楽しむことができませんでした。ユダの心は、一瞬もユダに平安を与えませんでした。そして、ユダはついに希望を失い、自らの命を断ってしまいました。

このようなことは、最近の2千年とか、この5千年とか、この10万年とかに限って起きてきたことではありません。時が始まったその時点から、全く同じパターンが繰り返されてきました。堕落して欲張った利己的な人々は、自分たちの霊性の教師に関する嘘の噂話を広げることによって、教師たちの名誉を汚してしまいます。実際、ユダのような人間の数は2千年前は非常に少なかったのです。

東洋の伝統によれば、時の流れはさまざまな時代に区分されています。今の時代は、5千年以上前に始まったものです。この時代の目立った特徴は、虚偽と、競争と、不和です。そのために、これはカリの時代(カリユガ)、すなわち不和の時代と呼ばれています。カリユガにおいては、金に取り憑かれた人々が、人生を愛するのと同じくらい愛さなければならない霊性の教師たちに関する、誤った印象を喧伝します。これは非常に大きな罪です!

現代における真の富とは何でしょう? 一部の人々は、建物や、土地を、本当に価値のあるものだと考えています。あるいは金銀が大切にされているかも知れません。紙幣やドルが蓄えられているかも知れません。これらのもののうちには、真の富は一つもありません。立派な人格は真の富です。立派な行いは真の富と見なされなければなりません。英知は財産です。至高の神の英知を持つことは、神を持っていることです。

真の富とは、あなたの立派な人格のことであり、善い行いのことであり、神に関する知識のことです。今日、人々は、これら3つの神聖な宝を失ってしまっています。今の人々は、実体のない一時的なこの世の富に命を捧げています。この世の持ち物は、いつまであなたのそばにあるでしょうか? あなたの肉体が保たれている間だけです。私たちは、この肉体を手放す時、同時に、金銀や、自動車や、すべての物品をも手放すのです。ところが、神の英知という財産はそうではありません。あなたが獲得する神の英知は、あなたの内にあり、あなたと共に動き、あなたの元に留まって、ちょうど、まぶたが目を守るようにあなたを守ります。それはあなたを手招きし、無限なるものと完全に一体化するための、道筋のすべてを照らします。

英知という富を獲得する努力をしなさい。しかるのちに、あなたの英知の光に照らして、物質的なものと霊的なものの本当の性質を調べなさい。2種類の富に共通する真実を見つける努力をしなさい。どのようにすれば、あなたの富を、人類と神のために最も善く役に立てることができるかを見いだしなさい。私たちを神に近付けるために使わないとすれば、聖なる知識はいったい何の役に立つでしょう?

現代の人間は、すべてを知っている風を装います。現代人は、アメリカやソ連や、イギリスの動向に関して、多くのことを知っています。また、天文学や地球に関することを知っています。ところが、自分が本当は何者であるのかを知りません。自分自身の本性を知らない人間にとっては、いかなる知識も役に立ちません。

人間は、朝起きた瞬間から、一日中どんなときでも「私の」と言います。私の家、私の身体、私の自動車、私の学校、すべて、私の、私の、私の、です。しかし、この「私の」とは何者でしょう? 「私」とは誰ですか? 人間は決してそのような問いかけをしません! 人間は、自らの肉体の中に閉じ込められて、数え切れない悲惨を味わいます。あなたが、「これは私の体である」と考える時、あなた自身はその体ではないということは明らかです。「これは私のハンカチです」ということは、私はこのハンカチではないということを意味しています。あなたは、あなたが「私」と呼ぶこの「あなた」が、別な次元に存在しているということを理解しなければなりません。

あなたが自己の秘密を知るまでは、知識は決して完全ではありません。たとえ天のすべての星を数え、月の上を歩いたとしても、あなたが本当の自分が何者であるかを知らないのであれば、至福を得る一切の望みから遠く離れて行っているのです。あなたは肉体の中に住んでいるのであって、あなたが肉体なのではありません。あなたは農夫であり、肉体と感覚とは田畑なのです。人間は、田畑である自らの肉体の中に、さまざまなものが育って行くのを奨励します。人間は、たくさんの感覚的欲求を栽培します。役に立つ果物は、雑草の茂った畑には育ちません。ところが、もしあなたが善い行いという種を蒔けば、幸福という収穫を得るのです。よこしまな行いという種を蒔いたとすれば、自分自身を悲しみと嘆きで取り巻いてしまうことになります。

このように、人生街道の一歩一歩において、あなた自身の幸せと苦しみを創り出している責任は、あなた自身にあるのであって、神にあるのではありません! 今日の人間は、自分に降りかかる善いこと悪いことを、すべて神のせいにします。人間だけが、自分自身の惨めさや幸福の原因となっているのです。

この物質世界が最高の真実なのではありません。実際、それは非真実なのです。この世は、いつの日かいなくなってしまう人間たちの世界です。私たちが見たり感じたりするものは、何一つ永遠ではありません。それはただの一時的な物質的現実にすぎません。はかない物事にしがみついているために不幸になるのです。本当に真実であるものは変わることがありません。聖なる真実は永遠のものです。

この世は2つの重要な特質を備えています。この世は一時的なものであります。この世は、不幸と、悲しみと、不快なものに満ちています。この世の生活が永遠のものではないことを知って、永遠の至福を神に祈りなさい。この世の2つの重要な特徴とは、この世は惨めさに満ちているということと、この世は永遠には続かないということです。この世の中には、永遠のものはただの一つもありません。それぞれのものが変化し続けています。この世には永遠のものは何もないのです。寄り合って一つになるすべてのものにとって、分離することは避けられません。

今日の人間は、すべてのものが集まって来て、何一つ失われないことを望みます。この世の中では、「一方通行」は不可能です。人間の肉体的経験の範囲では、寄り合ったものはいつの日か必ず離れて行きます。変化に満ちた世の中で、常に人々は、物質次元で変わることのない状況を創り出そうと試みています。そういう人たちは、望まない変化が生じた時には、心理的不安と感情的動揺を覚えます。彼らは、別離を嘆き悲しみます。常に変化し続ける世界においては、たゆみない拡大と収縮と、尽きることのない離別と再結合とが、必ず起こります。たとえ私たちが、一定不変の物質的安定を感情的に要求したところで、いったい、私たちは幸福であり得るでしょうか? 人類にとって、平安と幸福を約束してくれるただ一つのことは、物事を手放すことに満足していることです。

例えて言いましょう。冬の間あなたが暖かく過ごすために、しっかりと身に着けているウールのコートは、夏の間は無用のものとなります。ですから、あなたはそれをクローゼットに吊っておきます。一方、薄い夏服は、冬にはしまい込まれています。この離別は、あなたがいかに衣服が好きであるかということとは何の関係もありません。それは外気の温度によって決定されます。ウールのコートは、冬の間、あなたの体を暖めてくれます。時を超越した真理は、一年を通じて、あなたの心を暖めてくれます。物質的な品物は、限られた役に立つだけです。無限の真理は、限りなく役に立ちます。

もう一つの例を挙げましょう。私たちは空気を吸い込みます。もし吸い込んだ空気を吐き出さなければ、肺を痛めてしまいます。私たちは食物を摂取します。もし食物が体から排泄されなかったら、消化器官を痛めます。同様に、循環している血液が、一瞬前にいた場所から動かなかったとすれば、体が腫れてしまいます。一緒になったり離れたりすることは、物事の性質そのものです。私たちの希望や幸福は、物事のあるなしに依存するものであってはなりません。

それぞれの人に善い点と悪い点とがあるということは、すべての人が同感するところです。霊的に向上するためには、落ち着きと、正しい判断とが欠かせません。私たちは、このことを知って、すべてを等しく見る目を持ち、褒められても、非難されても、冷静な心を保たなければなりません。それが本当の自制心です。本当の自制心を得た時に初めて、本当の神性をも獲得するのです。褒められれば喜び、非難されると塞ぎ込むことは、人間の本性ではありません。皆さんは、平等心を獲得しなければなりません。平等心は「ヨーガ」と呼ばれます。心が愛に満たされていれば、すべてが平安をもたらします。平等心と豊かな愛があれば、霊的な事柄とこの世的な事柄に対処する才能が身につきます。

才能を伸ばすには、高次元の存在、すなわち神の次元に関する知識を伸ばさなければなりません。まず最初に、神聖な知識を獲得しなければなりません。神聖な知識を現実に応用しようとする試みの中で、私たちは技能を発達させます。三番目に来るのは、感情のバランスと善良な人格に支えられた自己規律です。魂には平安が憩うようになります。こういう雰囲気の中でインスピレーションは生まれます。バランスは、神聖な知識を上手に使うことによって生じます。皆さんは今、神聖な知識を上手に開発するのではなく、自分本来の神性を台なしにしています。神聖な知識を台なしにすれば、不安定になります。バランスを失ってしまいます。現代の人間は、自分たちの貴重な知識の使い方を大きく間違えています。人は多くの誤った道をたどっています。人は自らの知識を応用して、明日別れを告げなければならないかも知れないこの世の中において、無益な過剰消費に基づいた、一時的な生活様式を発展させています。

香り高いビャクダンの木を薪に使うことは間違っています。よい香りのするその樹脂は、神に捧げるお香を作るのに使われるべきです。人々は、ダイヤモンドを木炭として使うようなことをしています。人間としての貴重な人生と引き替えに、価値のない悪名を馳せたり、醜聞を引き起こしたりしています。

肉体は、旅人の一夜の宿のようなものです。肉体は、魂が泊まるホテルに似ています。肉体は一時的な休憩所なのです。心は、ホテルのガードマンのような、肉体のガードマンです。生命力すなわち魂は、聖なる旅を続けている旅人です。旅人と、ガードマンと、ホテルとの間には、永続する関係は何もありません。彼らの関係は一時的で、はかないものでしかありません。

あなたは、いつまでも自分の心に縛り付けられているのではありません。あるいはまた、あなたは肉体を所有しているのでもありません。人間としての神聖な命を無駄にしてはなりません。肉体は、生命を持たず、本質的には陰性のものです。それは生きたものではありません。その中に陽性の神性が生きている時は、この陰性の肉体を、善い働きのために使うことができます。人々は、心の根源である、真の無限の本性と調和して生きる努力を全く払っていません。生まれつき備わっている神性を無視しています。その一方で、命を持たないこの肉体の、あらゆる陰性の要求を満たそうとして、一時も休む間もなく努力しています。あなたの肉体はいつになれば精霊に満たされるのでしょう? それは、あなた自身が、無限にしてすべてを包括する愛そのものになったときに起こります。すべてを包括する神の愛がなければ、あなたの人生は生きながらの死となります。あなたが神の愛であれば、全宇宙はあなたの手中に入ります。

イエスは、神の愛を広め、神の愛を捧げ、神の愛を受け、神の愛として生きることだけを喜びとした人でした。多くの人が、イエスを偽預言者だと非難しました。イエスは、絶えざる攻撃にさらされて生きなければなりませんでした。

イエスは12月25日に生まれたと言う人々がいます。デイヴィッド ヘッジというイギリスの天文学者は、計算の結果、イエスは9月15日に生まれたという結論に達しました。彼の9月15日という数字は、限られた情報に基づいたものでした。800年に一度、ある明るい星が現れます。バイブルには、明るい一つの星がイエスの誕生日の前触れとなったとあります。これらの事実に基づいて、その天文学者は、イエスはわずか800年前に生まれたのであると発表しました。800年前! これは本当ではありません。

イエスは、今から1980年前、12月24日の早朝、午前3時15分に生まれました。その日は日曜日でした。イエスの神聖な体はこの世の中で成長していきました。イエスの誕生日に現れた明るい星は、800年に一度現れる明るい星と同じものでした。その明るい星は、それ自体の自然の周期によって現れたのであって、イエスが生まれたために現れたのではありません。感情的な人々は、この星がイエスのために現れたのだと言います。神聖なエネルギーや神の化身が地上に降臨する時には明るい星が必ず現れる、という法則はありません。信者たちは、神に対する自分たちの感情に振り回されて感傷的な物語を広めるのです。イエス自身が、無限の価値をもった星なのです。イエス自身が、大いなる光輝を放っています。イエスの輝きはもう一つの光を伴っている必要があるでしょうか? 私たちは、信者たちを喜ばせておくために、このようなことに同意しているのです。

今日はイエスの誕生日です。たとえ私たちが一日中祈るとしても、12月の真冬の雪の中で、クリスマスツリーや照明を飾るのは、無意味なことです。一日だけ祈って、一年の残りの日々は神を忘れて暮らすのでは何にもなりません。それは、心から沸き上がってくる愛を示すものではなく、空虚な見せかけにすぎません。イエスの教えを生き、それを実践して初めて真のクリスチャンとなるのであり、それまではクリスチャンとは言えません。

もし、イエスが語った2つの言葉を実際に守っていれば、それで十分であると言えましょう。人々は、それを実践せず、偏見と狭い心が育っています。「愛する息子よ、すべての命は一つである。すべてのものに同じ心で接しなさい」という言葉を忠実に守れば、それで十分です。

「愛する息子よ、すべての命は一つである。すべてのものに同じ心で接しなさい」私たちはそれを守っているでしょうか? もし守っていないのであれば、イエスの誕生日を祝うことに何の意味があるでしょう? 人々は、自分はイエスを待ち望んでいると言います。ところが、イエスの戒めを無視しています。そのような祈りが、いったい何の役に立つでしょう? たとえあなたがイエスの誕生日を祝わなかったとしても、何の影響もありません。イエスに従いなさい! それで十分です! イエスに従いなさい!

イエスは、人間が生きるためのさまざまな理想的方法を示しました。彼は、生きた見本を示したのです。イエスが十字架に付けられた時、イエスに従っていた人々の多くは、激しい苦しみに打ちひしがれました。すると、天の声が、「死は生命の衣である」と言いました。私たちが肉体に衣を着けるのと同じように、肉体そのものが神聖な魂の衣なのです。今身に着けている服を洗濯屋に預ける時、私たちは泣くでしょうか? あなたは泣きますか? 服が古くなって擦り切れたら、誰かそれを悲しむ人がいるでしょうか? 肉体が失われる時、誰もそれを悲しむべきではありません。燃えるのは火の性質です。冷たいのは水の性質です。死は肉体にとって自然なことです。火が熱い時、誰か驚く人がいるでしょうか? 肉体が朽ち果てる時、私たちは少しも驚いてはなりません。

誕生を引き起こすものが、死も引き起こします。私たちは、肉体的な死の原因を果てしなく捜し求めます。ところが、命の聖なる源を捜し求める人は誰もありません。そのような探求は時間の無駄です。純粋に肉体次元の死因だけの追及をするよりは、生と死のどちらの原因をも探求しない方が、まだましです。誕生から死にいたるまでの短い時間を、栄光あるものにしなさい。神の仕事をしなさい!

人類にとっての理想であった神の化身たちは、地上に現れました。彼らはインドに現れたばかりでなく、西洋の国々にも現れました。神の化身たちは、人類を向上させるために、自らの命を捧げました。人々は、人間は皆一人ひとり別々の存在であると考えています。しかし、神は一つです。私たちの肉体はそれぞれ違ったものに見えるかも知れません。私たちの生活様式は異なり、生まれた時間も場所も違っているかも知れません。話す言葉が違っているかも知れません。しかし、すべての宗教における愛の精神は、同一のものなのです。いつどこで生まれたかによって、人々の礼拝の方法は影響されます。しかし、私たちの真の宗教である聖なる愛は同一であり、宗教によって異なるものではありません。

地球上でたくさんの言葉が使われていますが、私たちの心の中の愛の言葉は一つであり、そこに違いはありません。

神は一人しか存在していません――神はあらゆるところに存在しています
人種はただ一つしか存在していません――それは人間という人種です
ただ一つの宗教があるだけです――それは愛の宗教です
ただ一つの言語があるだけです――それは心の言語です

私たちが、以上の4点の生きた精神を信奉するとき、人間として生きることの真の意味を知ることができます。どこの国かは問題ではなく、あなたの世代も問題ではなく、一切の肉体や物質次元の諸条件も問題ではありません。大切なのは、愛にあふれた心で毎日を送り、携わるすべての行為を神聖なものにすることです。人々は、国籍や、言葉や、人種や、宗教に関するささいな違いを大事にして、心の中にある愛をないがしろにしています。私たちは、心の中の愛を尊んで育まなければなりません。

イエスの理想を決して見失うことなく、生きた愛の見本となって私たちのための個人的使者として神から遣わされたイエスの霊を体験しなければなりません。愛だけが本当の神性を見ることを可能にします。愛こそが最も重要です。神は愛です。愛に生きなさい。

愛は、与えること(giving)と許すこと(forgiving)によって生きます。
自我は、得ること(getting)と忘れること(forgetting)によって生きます。
愛とは、利己心のないことです。利己主義とは、愛がないことです。

狭量な自己関心を賛美してはなりません。私たちは、愛して――愛して――愛するべきです。愛の道を歩きなさい。あなたの本当の姿である究極のあなた自身になりなさい。生きた愛の化身となりなさい。他の人々があなたのことをどう思おうが、あなたをどのように扱おうが、一切心配してはなりません。聖なる存在に従いなさい。イエス キリストに従いなさい。自らの魂を進化させるために生きなさい。他の人々が言うことのために生きてはなりません。あなたには自分自身の人生があり、自分自身の心と、自分自身の意見と、自分自身の考えと、自分自身の意志があるのです。他の人々の真似をする必要は全くありません。真似をするのは人間のわざであり、創造は神のみわざです。自分の道を歩きなさい。自分自身の神の体験によって、自らを導きなさい。

師に従いなさい
悪魔、すなわち誘惑に立ち向かいなさい
最後まで戦い抜きなさい
ゲームを終わらせなさい

以上の4つのことを成し遂げなさい。弱々しく他の人々の真似をしながら墓に入ってはなりません。探求しなさい。あなた自身の神霊〔真我、アートマ〕を捜し当てなさい。外の世界に神を見つけることはできません。神は、あなた自身の愛にあふれた心に住んでいます。あなたは神なのです。本当のあなたは神なのです。

あなたは1人の人間ではなく、3人の人間です。あなたが自分はこうであると思っているあなた。他の人々があなたはこうであると思っているあなた。そして、本当のあなたです。あなたは3つの姿を持っています。あなたは自分を肉体であるとか、感覚の欲求であると考えています。他の人々は、あなたをあなたの性格や容姿と同一視します。本当のあなたは無限の霊〔パラマートマ〕なのです。

私たちは、本当は無限の霊なのですから、絶えず自分自身に、「私は神である、私は神である、私は神である」と言いきかせて、それを忘れないようにしなければなりません。あなたが本当に自分自身を神と見るとき、あなたは神になります。無限の神霊〔本当のあなた〕があなたを支配するのです。「私は人間である、私は人間である」と考えていれば、あなたは道に迷ってしまいます。あなたの肉体は人間の肉体です。しかし、あなたの霊〔真我、アートマ〕は神の生きた霊なのです。

一つひとつのあなたの動きを、あなたの肉体に命令させてはなりません。神にあなたを導かせなさい。外の世界に見えるものを強調しすぎてはなりません。内的視覚を開発しなさい。そうすれば神聖な人間になります。肉体は乗り物です。霊〔真我、アートマ〕であるあなたは馬に例えることができます。馬を乗り物の先に置きなさい。霊に肉体を導かせなさい。現代においては、誰一人としてそうしている人はいません。肉体、肉体、肉体。肉体的な快適さ、肉体の幸せ、感覚の喜び――私たちはそれ以外のことを何も考えていません。乗り物を馬の先に置けば、どこにも行くことができません。

無限にして神聖な霊的平安が、心に宿っていることこそ大切なことです。あなたが心をどう働かせるかによって、あなたの霊を奴隷にするか、あなた自身を解放するかが決定されます。世界中のあらゆる財宝をもってしても、心に平安を与えることはできません。あなたが不幸であるとすれば、肉体上の快適さはいったい何の役に立つでしょう? 肉体がきれいに着飾ってあって、食堂の椅子には柔らかいクッションが施され、家にはエアコンがきいて部屋に涼しい空気が流れていても、私たちの心は、欲望に燃えていて、暑い空気で一杯です。心はエアコンがきいていますか? こうした状況は肉体を涼しくしますが、心をオーバーヒートさせてしまいます。人生において、肉体上の快適さは、いったいどれほど重要なのでしょうか? 大切なのは心の快適さであって、肉体の快適さではありません。霊性修行を行いなさい。霊性修行だけが、「心の快適さ」、すなわち、本当の心の平安にいたる道です。それ以外に道はありません。

平均的アメリカ人が物質的に恵まれていることは、周知の通りです。裕福な人はたくさんいます。大きな自動車がいたる所にあります。もしアメリカ合衆国にあるすべての自動車をつないで並べたとすれば、文字通り、月まで届きます。しかし、本当の幸せはありません。聖なる至福は存在せず、心の平安がありません。心の平安を金で買うことはできません。力で心の平安を左右することはできません。美徳だけが、祝福された平安を保証するのです。

あなたは、神の恩寵を受ける準備ができていますか? 聖なる美徳を養いなさい。善い性質を維持し守りなさい。それらが神聖なものであることを知りなさい。そうして初めて、あなたは神の恩寵を受けるのにふさわしくなるのです。

無限の愛の化身である皆さん、よくお聞きなさい! この世に存在する物質的なもののすべては、いつかは手放さなければなりません。それらは過ぎ行く雲のようなものです。この世には、永遠のものは何一つありません。どうして永遠の心の平安と、一時的な物質的なぜいたくを引き換えにするのですか?

私たちの語る一つひとつの言葉は神聖でなければなりません。あなたは、いつも相手の願いをかなえてあげたり、同意したりすることはできないかも知れませんが、いつも親切に、気持ちよく語ることはできます。優しく話すように心掛けなさい。あなたの一つひとつの眼差しによって、慰めを与えなさい。神聖に振る舞うことは、あなたの義務です。

あなたの自己規律と習慣とを、聖なるパターンへと作り変えなさい。あなたの周囲にあるすべてのものが、聖なる形を持つようにならなければなりません。あなたの神聖な生活様式が、他の人々にとって格好の見本となるようにしなさい。

感覚的喜びの奴隷になって、動物のような生活を送ってはなりません。感覚の満足に動かされる操り人形になってはなりません。遠い昔のことですが、ある時、プラフラーダという少年が、父親に向かって言いました。「ああ、お父さん、あなたは実に簡単に、天界と地上界と地下界を征服されました。でも、お父さんは欲望の世界を忘れています。あなたは自分の心を征服することをお忘れです」

外側の世界を征服することは無意味です。欲望を征服しなさい。怒りを克服しなさい。貪欲と、憎しみと、嫉妬を追放しなさい。神から与えられたあなたの五感のすべてを、神の恩寵を勝ち得るために捧げなさい。物質次元の妄想を超えなさい。それらのものがあなたを駆り立てて、動物のように振る舞わせることを許してはなりません。この世的な感覚の欲求はすべて一時的なものであり、それらを追い求めることによって、皆さんの状態は、動物にも劣るものとなっています。

非常に率直に言って、森の動物たちの行動のほうが勝れています。野性の動物たちは必要があって行動しますし、季節に応じた行動しかしません。人間は理由のない行動をし、季節外れの動きをします。明らかに、「野性」と言われる動物たちのほうが、いわゆる人間たちよりも勝れた行動をとっています。

あなたの両手を、人類への奉仕に捧げなさい! 両手を社会の中で働かせて、頭を、涼しくて平和な森の中に置きなさい。そのようにすれば、平安に満ちた人生を送ることができます。

イエスは、人類に奉仕ができるように、すべてを放棄しました。イエスは、神の愛と無限の慈悲とを説いています。これらのものがなければ、人間は、決して人間的であるとは言えません。

愛と慈悲とを蘇らせるためには、嫉妬と利己主義を滅ぼさなければなりません。人々は、自分の心の本当の子どもたちの命を奪っています。本当の神の愛を育てる方法を忘れてしまっています。一方、人々は、利己的な貪欲に関しては非常に達者になっています。人々は、純粋な親切行為を犠牲にして時間を節約するように訓練を受けた、その道の専門家になっています。人々は、隠れた嫉妬の怒りが私たちの一つひとつの動きを促すことを許しています。愛と慈悲は、無分別に何でもつかみ取ろうとする、私たち自身の利己的な貪欲の手によって、息の根を止められようとしています。

私は、皆さんが、慈悲と愛とを育てて心を清め、後世の人々のために神聖な遺産を残すことを楽しみにしています。また、皆さんが、イエスの真の恵みを得て、イエスが示した道をたどり、イエスの保っている霊的位階に到達することを楽しみにしています。皆さんが、これらのことを成し遂げることを期待しながら、この講話を終わります。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:An Eastern View of Jesus Christ(『サイババ イエスを語る』の原書)より