サティヤ サイババの御言葉

日付:1983年11月23日
58歳御降誕祭の御講話より

永続する至福

あらゆる限界や形を超えている者に、誰が姿形を付与できようか?
「彼はこうだ、ああだ」と口走る人々を、人はただ笑うことしかできない
彼には手も足も四肢も部位もない
それでどうして彼を描くことができようか?
彼の光輝は十億の太陽にも勝る
それでどうして心が彼に到達できることを望めようか?
それ〔彼〕は形なき力——それを誰が全体として把握することなどできようか?
誰がそれを試みることなどできようか?
誰がその成功を主張することなどできようか?
それ〔彼〕はアートマであり、始まりの時から特定の姿形を持たず、
空間と無限の広がりを照らし続けている
彼は常に存在する者であり、誕生も死もなく、始まりも中間も終わりもなく、
生まれることも、衰えることも、死することもない
彼はアートマ、時を超えたもの、永遠の至高者である

愛の化身たちよ! 今日、夜が明けてからずっと、皆が口々に「Happy Birthday」、「Happy Birthday」(幸せな誕生日を)という言葉を発しています。この言葉は正確には何を意味するのでしょうか? この言葉は意味を意識して用いられているのでしょうか? それとも、社会的な慣習としての礼儀的な表現として語られているのでしょうか? こうした疑問が浮かんできます。

英語の「Happy」という語は、テルグ語では「サントーシャム」に相当します。この「サントーシャム」という表現の意味を探ってみましょう。「トーシャム」は「プラサンナター」(歓喜、喜び)を意味します。接頭辞である「サン」〔完全に/徹底して/十分に〕は、その歓喜が、正しく名誉ある手段によって、すなわち「無執着」と「犠牲」によって得られたものであることを示しています。

不満が消えたとき歓喜が定まる

人を奴隷にし、監禁し、その結果として悲しみをもたらす欲望を、放棄しなければなりません。欲望は二つの型に分類することができます。一つは、他の誰も得ていないものや経験を得たいという欲望、もう一つは、自分が得たものや経験を他の誰にも得させたくないという欲望です! この二つの欲望は、実に滑稽(こっけい)なものです。

欲望の対象は、自分の影のように実体のないものです。影を捕えようとして速く走れば走るほど、影はますます遠くに逃げていきます。欲を追い求めると、その対象は逃げていきます。しかし、欲を持っていることをあなたが嘲笑うと、欲は背を向けるとあなたに従う影のようにあなたに従います。さまざまな欲望は欲張り心から生じます。欲張り心が弱まれば弱まるほど、不満もそれと同じ割合で減っていきます。そして、不満が消えると、歓喜が定まります。

『バーガヴァタム』の原文にあるように、プラフラーダはナーラーヤナ神とその普遍的、絶対的な実在への信仰に定まっていました。そのため、プラフラーダは、どこにいても、どのような状況にあっても、常に至福(アーナンダ)に定まっていました。しかし、父であるヒランニャカシプは、外的な姿形や限定された名前に引き寄せられていました。ヒランニャカシプは、名と姿の多様性に夢中になって、常に心配と不安に囚(とら)われていました。プラフラーダのような、至福の中にいる人たちの身の周りにはオーラが漂い、顔には光があります。その顔を見ると喜びが得られ、人々はその体験を何度でも味わいたいと願います。心配や不安に囚われた人の顔は、他の人にも同じような感情を伝染させます。

熟睡しているとき、人は本来の核の中にいる

加えて、歓喜は人に大いなる力を授けますが、不安は人が持っている力さえも奪ってしまいます。真の歓喜は努力によって獲得できるものではなく、人工的に作り出したり、意図的に維持したりできるものでもありません。至福(アーナンダ)を得ることができるようにするための霊性修行(サーダナ)の課程を定めることはできません。なぜなら、人は実のところ、至福そのものの具現だからです! しかしながら、人は自らの真理を認識し損なっているために、至福を外部に、周囲の対象の中に求めているのです。自分は永遠であり、真理であり、清らかなアートマであると悟った者にとっては、至福はいつでも手が届きます。

至福(アーナンダ)はブラフマンです。『バガヴァッド・ギーター』はこの真理をさまざまな方法で教えています。プラフラーダという名前そのものの中に、すでに至福が染み込んでいます。「フラーダ」は至福を意味し、接頭辞である「プラ」はその至福が「完全」であることを示しています。したがって「プラフラーダ」とは「完全なる至福」、すなわち「至福に満ちあふれた人」を意味します。プラフラーダはいかにしてその境地に到達したのでしょうか? プラフラーダは自分の名前と姿への執着を捨て、アートマを唯一の実在として求め、その実在をナーラーヤナ神と同一視したのです。

すべての人は、熟睡しているとき(スシュプティ)にこの至福を味わう特権を持っています。その状態では、人は自分の名前と姿を意識しておらず、どの感覚器官も働いていません。そのとき人は、完全な至福の中にあります。至福は人の本来の核であり、まさに生まれながらの権利です。だからこそ、人は目覚めた瞬間から眠りに落ちるまで、絶えず至福を求めて落ち着きなく動き回っているのです。そして、その内なる泉こそが尽きることのない至福の源泉であるということに気づかないまま、生計を立てるために知識や技能の追求に従事しているのです。

知識、富、力、地位——これらはどれも、人に世俗的な快楽や喜び、あるいは高揚感を与えることしかできません。もちろん、その喜びの大きさや性質がどうであれ、それはアートマの覚醒による至高の至福、すなわちブラフマンの至福(限りなき莫大な至福/ブラフマーナンダ)の影響の一部(アムシャ)にすぎないということを、理解しなければなりません。大富豪の豪邸にはその富豪の富の証拠がたくさんあるかもしれませんが、それらはどれも、ラクシュミー(繁栄の女神)の恩寵の一部にすぎません。人は、莫大な富や、深い学識や、肉体的な力から喜びを得るかもしれませんが、実際には、そのすべてはブラフマンの至福から放たれた光線です。その光線は、さまざまな媒体によって、さまざまに反射しますが、その源は一つであり、根源の本質は一つです。

知りたいという渇望はチットのしるし

至福は、この創造世界のすべてのものに内在しています。なぜなら、至福はブラフマン(普遍なる絶対者)だからです。すべてのものは、「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)」、つまり、神なるものです。万物は存り(is)、その「在ること」(is-ness)がサット(存在the being)であり、それは「生成することbecoming」が可能です。

次にチット(意識)についてです。知られる能力と知る能力、気づきを得る能力と気づきを与える能力が、チットです。私たちが子供を連れてお祭りや市場や展示会に行くと、子供は「あれは何?」「どうしてそうなの?」「その名前は?」と、ひっきりなしに質問をしてきます。この、知りたいという渇望は、チット〔意識〕のしるしです。

私たちは、自分の周りで数多くの死を目の当たりにし、それ以上に多くの死について耳にし、多くの苦悩や悲しみを目撃しているにもかかわらず、それでもなお、死ぬことのない人生、苦しみのない人生を渇望しています。私たちは寿命を延ばすために財産を投じます。これは私たちの内にある「サット」〔存在〕の衝動です。知りたいという渇望は、私たちの内にある「チット」(意識)の表れです。私たちに内在する神なるものの第三の証拠は、「アーナンダ」(至福)を求める衝動です。例外なく、すべての人はこのアーナンダを求める衝動に突き動かされています。

心の清らかさだけで十分に神の恩寵を得ることができる

しかしながら、これらの衝動にはそれぞれ二つの側面があります。それは印象(内的な側面)と表現(外的な側面)です。たとえば、サットは「存在」と「生成」を有しています。「生成すること」の過程こそが、ガーヤトリーの祈り〔ガーヤトリーマントラ〕が求めるものです。「私の理知〔ブッディ〕を目覚めさせ、私の意識を高め、広げてください(プラチョーダヤート)」。「生成すること」とは、拡大を通じて、より広く、より多様な姿形に顕現していくことです。ウパニシャッドは宣言しています。「彼は内にも外にも存在するすべてである」——「アンタル バヒシチャ タット サルヴァム ヴャーピャ ナーラーヤナ スティタハ」(ナーラーヤナはこのすべての内外に遍満している)。彼が一瞥を投げかけ、そして、一切が起こったのです。

「生成したもの」は「存在」を促した意志の反映です。ですから「存在」は「生成」です。それは「在る」から「在った」へと変わります。それは不安定ですが、「存在」は安定しています。「存在」はスクリーンであり、「生成すること」はそのスクリーンを横切る映像です。映像がなければ、誰がスクリーンに引き寄せられるでしょうか? スクリーンがなければ、どうして映像を見ることができるでしょうか? 移ろうものと固定しているものは、切り離すことのできない依存関係にあるのです。

対象世界は、心(マインド)に刻まれる一瞬一瞬の一連の映像にすぎません。心は、体が起きている状態にあるときに活動します。体は食物(アンナ)によって作られ、食物によって維持され、やがて食物を通じて分解されます。体には五つの鞘(さや)があり、一番外側の鞘はアンナマヤ・コーシャ(食物(しょくもつ)鞘(しょう))です。これは「粗大体」(ストゥーラ)〔肉体〕とも呼ばれます。次の三つの鞘である、プラーナマヤ(生気)、マノーマヤ(心)、ヴィグニャーナ(知性)は、「微細体」(スークシュマ)を形成します。微細体は夢を見ている状態でも活動しています。五番目の、最も内側にある鞘は、アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜(かんき)鞘(しょう))、すなわちカーラナ(原因体)です。

アーナンダ(至福/歓喜)を求めるという衝動は、愛や喜びとして表れてきます。喜びは、愛の産物であり投影です。チットという表れは意識です。サット〔存在〕という表れは「生成すること」です。神性とは、多様性の中に顕現している唯一性であり、多として現れている一なるものです。一なるものは、多の作用因〔創造主〕であると同時に質料因〔素材〕でもあります。一なるものは多の中に内在し、多となった自らの中で輝きます。一なるものこそが、最高の、永続するアーナンダの源泉なのです。

ブラフマンの至福は人に本来備わっているものであり、人の根源である

食事によって空腹が満たされるときに得られるアーナンダ(至福/歓喜)は、長続きしません。しばらくすると再び空腹が私たちを苦しめます。どれほど甘くて美味しい食べ物でも、食べすぎれば吐き気を催します。伝説の鳥チャコーラは月光だけを食べて生きると言われていますが、たとえ月光でも摂りすぎは決して望ましいことではありません。甘露ですら、際限なく食べ続ければ飽きてしまいます。

しかし、ブラフマンの至福は違います。なぜなら、それは人に本来備わっているものであり、まさしく人の根源であり、支えだからです。人間の努力の目的は、一連の霊的な進歩の段階を経て、最終的にそれに到達することです。ある一匹の魚が、黄金や宝石で飾られた芸術的な鉢に入れられました。しかし、その魚はみじめです。水がないからアーナンダ(至福/歓喜)がないのです。水こそが魚の住処であり、本当の源であり、支えです。人間も、どれほど遠くまでさまよおうとも、最終的には自らの本来の住処に到達しなければなりません。ティヤーガラージャは歌いました。「鳥は、大きな鳥も小さな鳥も、日が暮れてしまう前に休息をとることのできる木を探します。私はあなたの御足をしっかりとつかんでいます。私をお救いください、おお、ラーマよ」。このことを『バーガヴァタム』はさらに明瞭に述べています。「すべての生き物にとって最良の道は、自らが生じた源に到達することである」と。

「自分は神と違わない」と自分に言い聞かせなさい

地球上には、あふれんばかりに水が流れている川が数多くあります。その水はどこから来たのでしょうか? もちろん海からです。その川が源にたどり着くまでに乗り越えなければならない障害を考えてみなさい! 人の生涯というあふれんばかりの川は、ブラフマンの至福から生じたものであり、その源に再び到達しなければなりません。人がそれに成功するには、あらゆる瞬間に、あらゆる行いの中で、ブラフマンの至福の恍惚(こうこつ)を思い起こさなければなりません。

ティヤーガラージャは、詩や音楽や学識が与えてくれる至福を楽しみましたが、学びが与えてくれる至福(ヴィッディヤーナンダ)は弱まる可能性があることから、彼はそれを、自らが最も求めていたブラフマンの至福、すなわち、普遍的な永遠の歓喜、ニルグナ アーナンダ ブラフマン〔属性を持たない至福のブラフマン〕から得られる至福のほんの一部、あるいは前兆と見なしました。その永遠の至福こそが人の実体です。なぜなら、人は神だからです。

神はあなたから遠く離れてはおらず、あなたと異なるものでもありません。あなたは神です。あなたはサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)です。あなたはアスティ(存在)であり、バーティ(意識/光明)であり、プリヤム(至福/愛)です。あなたはすべてです。あなたはいつこの真理を認識するのでしょうか? それは、真理を覆い隠している迷妄を振り払ったときです。もしブラフマンの至福、サット・チット・アーナンダを体験したいというあなたの切なる願いが真剣で純粋なものであるならば、今日から、私がこれから述べることを常に記憶に留めておきなさい。

  1. 「私は神だ。私は神と違わない」。このことを常に意識していなさい。それを常に心に留めておきなさい。「私は神、私は神。私は神と違わない」と、自分に思い起こさせ続けなさい。この霊性修行(サーダナ)に失敗しないようにと祈りなさい。
  2. 「私はアカンダ パラ ブラフマン(不可分なる至高の絶対者)だ」。これは、絶え間なく繰り返すことと祈りによって意識の中に確立すべき、第二の真理です。
  3. 「私はサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)だ」。
  4. 「悲しみや不安は決して私に影響を及ぼすことはできない」。この信念を培い、繰り返し確信することと祈りによって、自分にこの真理を納得させなさい。
  5. 「私は常に満ち足りている。恐れは決して私の中に入り込めない」。常にそう感じていなさい。この確信がますます強まっていくようにと祈りなさい。「おお自分よ! 『オーム〔原初の聖音〕・タット〔それ/あれ〕・サット〔存在/真理〕。オーム・タット・サット』と唱えるのだ」と、自分を励ましなさい。これはブラフマンの三つの象徴です。

パンチャ・プラーナ(五つの生気)によって体が健康で強靭(きょうじん)に保たれているように、これら五つの祈りは、あなたに「ブラフマンの自覚」、すなわち「ブラフマンそのものの地位」を授けてくれるでしょう。

神なる至福は常に見据えているべき目標である

自分を卑下して、自分は低級だ、自分は小さい、自分は弱い、などと思ってはなりません。体は人生という旅のための乗り物にすぎません。体を自分だと誤解して、体の浮き沈みを自分の浮き沈みであるとして抱え込んではなりません。自動車を買って所有するのは、便利だからであって、鍵をかけて車庫にしまっておくためではありません。体という車は、ブラフマンの至福を得るために効果的に活用されるべきです。

人生の四つの目標である、ダルマ(正しい生き方)、アルタ(正しい稼ぎ)、カーマ(正しい欲求)、モークシャ(世俗的な束縛からの解放)は、自動車の四つの車輪です。四つの車輪を操縦するための、車の中にあるハンドルは、心(マインド)です。理知(ブッディ)はスイッチです。タイヤを膨らませる空気は信仰心であり、目的地は至福です。

至福は命を維持する呼吸です。至福こそが、人生という大海を航行するときに常に見据えているべき目標です。人が得るほんのわずかな至福でさえ、ブラフマンの至福の反映にほかなりません。このことを心に留めておかなければなりません。あなたが行うこと、語ること、見るものは、自分の実体であるブラフマンの促しにほかなりません。この事実を信じなさい。

この信念を育て、深めるために、ある種の霊的修行を行うことができます。それは、自分を神から切り離して、神は与える者であり、自分は受け取る者であると思うのをやめることです。神は与える者で自分は受け取る者だというのは、商取引のようなものです。あなたが何かを捧げた見返りに願いを叶えてもらおうと目論(もくろ)むのは誤りです。神はあなたの物質的な貪欲さには注意を払いません。神はハートとその中身を見ています。神を信じる者が、もし神と取引をして世俗的な財を強く求めるなら、その人は神を理解していないのです。ですから、そのような人たちは大昔から苦悩を味わってきました。神は、神聖な性質と美徳と行為だけを求め、それに報いるのです。

最高の美徳は謙虚さであり、神への信愛である

体は一時(いっとき)のものであり、体が求め、得る喜びも、同じように一時のものです。アートマの瞑想を通じて得られる至福は、アートマと同じくらい永続的です。至高神が体をまとうとき、至高神はアートマと同様、影響をこうむることはありません。富も、物質的な力も、名声も、学識も、徳が与えてくれるほど多くの至福を人に与えることはできません。最高の美徳は謙虚さであり、神への信愛です。面倒を見てくれる人がいない人のことを「孤児」と呼びますが、神はすべての人の面倒を見ています。ですから、誰も孤児ではあり得ません。「アナータ」(孤児/守護者のいない者)は、神だけです。なぜなら、誰が「自分こそ神の守護者だ」と主張することなどできますか?

思いと言葉と行いを神に捧げなさい。自分の行いの一部は「神のため」の行い、他は「自分のため」の行い、などとしてはなりません。それらは一つ豆の両半分のようなものです。豆の芽は豆の真ん中から生えてきて、両半分から等しく養分を得ます。覚醒しているものと無自覚なもの、生きているものと生きていないもの、動くものと動かないもの、すべてが神です。この信念を強め、この信念の中で生きること。これが、永続するブラフマンの至福のための処方箋です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.16 C30