サティヤ サイババの御言葉

日付:1984年7月13日
場所:プールナチャンドラ講堂
グル プールニマー祭の御講話より

三つの約束

以前のユガのラーマとクリシュナのように、私は三つの約束(プラティグニャー)を携えてやって来ました。ひとたびスワミが「あなたは私のものです」といって帰依者を受け入れたなら、何が起ころうと、スワミはその帰依者を見捨てません。スワミがやって来たのは、受け取るためにではなく、与えるためです。私が世界のために何かに着手したなら、何が起ころうと、私はそれをあきらめません。

(バガヴァンによるこの歴史的な宣言がなされたのは、プールナチャンドラ講堂でのグルプールニマーの日の感動的な挨拶(あいさつ)の中でした。前例がないほどに世界中のあらゆる所から集まってきた帰依者たちは、バガヴァンがこうして御自身のアヴァターとしての任務を公言なさったとき、熱狂的な喝采を送りました。)

神聖アートマの化身たちよ!

知られる必要のあることはすべて知られ得るものであり、それがなければ他のすべては無駄になるということを知っていることによって、高次の知識を授ける者――その者だけがグル((導師)です。

神聖なバーラタ文化は、時の経過による損壊と、歴史の変化の中を生き抜いてきました。この文化の中核はサナータナ ダルマ〔古代よりの永遠の法〕です。百のカット面のあるダイヤモンドがまばゆく光を放つように、バーラタ文化は、あらゆる方向に輝きを放ち、千の花びらのある蓮の花のように、英知の香りを振りまいています。バーラタ文化は倫理と人格に基づいています。霊性〔アートマ性〕はバーラタ文化の生命を支える呼吸です。真理と愛は、バーラタを人類の灯火のごとくに輝かせたバーラタの偉大な賢者たちが大切にした理想でした。彼らは神を、自分たちをインスパイアする主導者と見なしました。しかし、今、人々は神を忘れ、世俗の快楽と所有物に浸って、自らの人間性を失いつつあります。

世界の動乱と紛争の原因

今あなた方は、新しい社会を建設しようという計画を世界中で耳にしているでしょう。その運動の目的として明言されているものの中には、日々の生活必需品と生活を便利にするさまざまなものを広く供給すること、そして、富を等しく分配することがあります。これは望ましいことでしょう。しかし、果たしてこれは実行可能でしょうか? 財産、所有物、生活を便利にするもの、生活を快適にするものを等しく分配することは可能かもしれません。けれども、すべての人の欲望を等しく制限することは可能でしょうか? もし欲望が等しく制限されないなら、不満が起こるのは必至です。社会主義者のドクトリンは不可能な概念です。一方、神は世界のすべての物の根源であるという事実を認識すること以上に不可欠なことはありません。

インドの聖賢たちによれば、人が摂取する食物の源泉、すべての生き物を支える力、あらゆるものの創造の基盤は、神です。この根源的真実が忘れ去られているために、今日の世界は、飢餓や紛争、戦争や動乱にひどく苦しめられているのです。

人は、日々の生活に必要なもの、快適さ、楽しみを享受していますが、これらは人間が創造したものなのか、神が創造したものなのかということを、深く考えなければなりません。人間の食物を育てる大地は人間が創(つく)り出したものですか? 人は水を創ることができますか? 大気を操ることはできますか? 人は火を内に宿した木を創造できますか? これらはすべて、神のみが創造することのできるものであり、人間の力の及ばないものです。

創造のプロセスは世界のすべてのものに共通のもの

プランダラダーサ〔ヴィッタラ神を讃(たた)える歌を何十万も作り、カルナータカ音楽(南インドの古典音楽)の父と称されている聖者〕は、すべては神であると讃美しながら、通りから通りへと行脚しました。彼はこう歌いました。

山の上に生えている木を植えて水を遣(や)ったのは誰か?
孔雀の羽に彩色を施したのは誰か?
緑の羽のインコにバラ色のくちばしを与えたのは誰か?

これらが可能なのは神だけです。

さらに、今、私たちは人類の間にある多様性の根底にある単一性を発見しようと努めなければいけません。サナータナ ダルマの最も注目すべき特性は、人類全体の幸福を気にかけているということです。この気遣いは、万人は一なる母の子供であるという意識から起こるものです。人々の間には、心や体の能力の違いはあるでしょう。人々が持っている主義や、人々が身につけている知識や技能の違いはあるでしょう。人々の性格もさまざまでしょう。しかし、ある一つのことに関しては、違いはありません。それは万物に共通している創造のプロセスに関係しています。それは私たちに万物は等しいということを受け入れざるを得なくさせるものです。新しい社会は、こうした考えを基盤に建設されるべきです。

私が講話を始めるとき、私はあなた方に「神聖アートマの化身たちよ」と呼びかけます。バーガヴァタとギーターの中で、主はこう宣言しています。

創造世界のすべてのものは、私の一片の現れである
(ママイヴァームショー ジーヴァローケー ジーヴァブータッ サナータナハ)

神はあらゆるものの中にはっきりと顕現して存在しています。この真実を理解して、初めてあなた方は、「神聖アートマの化身たちよ(ディヴィヤートマ スワループラーラ)」という呼びかけの言葉の意味を知ることができます。一方、体や知力の違いに依存するなら、人々は互いへの憎悪を募らせます。社会の中でそうした憎悪が大きくなった時には、それを矯正する措置をとらねばなりません。これはマハーバーラタの中の出来事が例示しているでしょう。クリシュナは、傲慢な暴君を打倒し、ダルマ(正義/本分)とサティヤ(真理/真実)と堅く結び付いているユディシュティラ〔パーンダヴァ兄弟の長兄であるダルマラージャの別名〕を王位に就かせました。クリシュナは、王国を勝ち得たにもかかわらず、自分で国を統治しなかったのです。王国を治めるにはいくつかの資格が要されます。

ダルマの治世を打ち立てるという概念

クリシュナは、その資質を持っている者を統治者の地位に就かせました。これが「ダルマ サムスターパナ」(ダルマの王国の確立)という概念の根底にある真実です。誰であれ、社会あるいは政府を立て直したいと願う者は、その仕事に対する自分の力量と適性を量るべきです。

今日、私たちはグル プールニマーをお祝いしています。本当のグル プールニマーとは何でしょう? グル プールニマーは単にアーシャーダ月の満月の日のことでしょうか? これは一般的な考え方です。しかし、偉大な人々はグル プールニマーに別の意味を与えています。そのうちの一つは、この日、ヴィヤーサ仙が『ブラフマ スートラ』を書いたというものです。さらには、この日、仏陀が悟りを得て弟子たちに「一切(いっさい)皆(かい)苦(く)、一切(いっさい)刹那(せつな)、一切(いっさい)皆(かい)空(くう)」を説いたというものです。そうした理由で、この日はグル プールニマー、あるいは、ヴィヤーサ プールニマー、または、仏陀プールニマーと呼ばれているのです。

これに関連して、「どんな人がグルにふさわしく、どんな人が弟子(シシヤ)にふさわしいのか?」と問う人もいるでしょう。ギーターを調べれば、自分が理想的な弟子であるかどうかがわかるでしょう。バガヴァッド ギーターの中で、弟子は人間の中で最高の者(ナローッタマ)であり、グルは至高の人(プルショーッタマ)です。弟子は気高い魂を持つ者(マハートマ)であり、グルは理想の人間(アーダルシャ ムールティ)です。弟子は行為者(パートラダーラ)であり、グルは劇の監督(スートラダーラ)です。弟子は弓を操る者(ダヌルダラ)であり、グルはヨーガの主(ヨーゲーシュワラ)です。この種のグルと弟子の関係こそが、理想の組み合わせの例示です。

真のグルのしるしと特質

エゴも私心も持っておらず、弟子を自分と同じレベルにまで引き上げることができる者が、真のグルです。壊(え)色(じき)のローブをまとい、いくつかのマントラを唱え、いくらかの聖句を解説することが、最近のグルのしるしですが、本当のグルのしるしは、大きな心を持ち、まったくの無私であり、清らかな生活をし、何かを得ようという欲がなく、妬みがなく、誰に対しても同じ振る舞いをする平等観を持っていることです。妬みがないことは、グルにも弟子にも不可欠な資格です。なぜなら、妬みは多くの悪の根源だからです。

グルの役目は、神へと向かう道の上で弟子を導くことです。グルは弟子に、目や舌や体の各部で諸々の感覚器官を使うことの真の目的を教えなければなりません。五感はすべて、神を発見し、体験するために使われるべきものです。これはティヤーガラージャ〔ラーマの帰依者で南インドの偉大な音楽家である詩聖〕やポータナ〔バーガヴァタをテルグ語に訳した南インドの詩聖〕が自らの詩の中で推奨したことです。

毎日の生活の中の一つひとつの行いを、神に信愛を捧げる行為へと変えるべきです。カーシー〔現在のヴァーラーナスィー〕で市当局が街灯に火を灯す職務に数名を任命しました。その雇用者の中に、ある一人の霊性修行者(サーダカ)がいました。彼の仕事は、ランプに給油し、火が消えないようにランプの火屋(ほや)を取りつけることでした。彼はラーマの栄光を歌いながら一つひとつ街灯を点(つ)けてまわりました。彼は、火屋を磨いて火を灯している最中にも歌っていました。当局は、その霊性修行者が火を点けた道のランプは、他の場所のランプよりも明るく光っていることに気がつきました。そして、その原因は、その偉大な帰依者が神への信愛を込めて火を灯していたためであることがわかりました。この話の教訓は、どんな行為も献身の心で神への捧げ物として行うならば、人は喜びを体験し、満足感を得ることができるということです。

アヴァターは確かな決意を携えて降臨する

ですから、誰もが自分の前に確かな決意を掲げなければいけません。それがなければ、進歩はありません。アヴァター(神の化身)でさえ、確かな決意を持って降臨します。さらに、アヴァターは自分の役割に一定の制限を課します。クリシュナは三つの決意を携えて化身しました。

(一)ダルマサムスターパナールターヤ
   サムバヴァーミ ユゲー ユゲー
   [ダルマを確立するために、
    私は時代(ユガ)ごとに化身する]
(二)ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム
   [私の帰依者の幸福の向上を、私は促す]
(三)モークシャイッシャーミ マー スチャハ
   [私を拠(よ)り所とする者を、私は解脱させる]

ラーマも三つの決意を携えていました。それは、

「一つの言葉、一本の矢、一人の妻」

というものです。誰であれ私に保護を求める者は完全に守られる、とラーマはと明言しました。

同様に、神の化身は皆、いくつかのはっきりとした目的のために降臨します。神の化身は、どんな状況においてもその目的からそれることはありません。スワミの愛の本質(プレーマタットワ)も同じ特徴のものです。スワミの神聖な愛(プレーマ)には、ほんのわずかな私欲もありません。それは完全に純粋です。スワミが知っているのは与える方法のみであり、受け取る方法は知りません。スワミの手は、何かを授けるために持ち上げられますが、何かを求めて伸ばされることはありません。

さらに、ひとたびスワミが「あなたは私のものです」と言ったなら、その相手がどれほど悪い道に進んだとしても、スワミはその人を見捨てません。「あなたは私のものです」といってスワミに受け入れられた人が、なぜ困難やトラブルに見舞われるのか? という問いがあがるかもしれません。そうしたトラブルは、その人自身の行為(カルマ)の報いです。彼らは自分の行いが正しいかどうかを見なければいけません。たとえば、主から百年の寿命という恩寵を授かった人が、いい気になって、自分は一世紀生きるのだと、自信満々に木から飛び降りたとします。その人は百年生きるかもしれませんが、木から落ちて足を骨折したまま生きるのかもしれません。ですから、神の恩寵を受け取ったなら、正しい生活を送るよう努めるべきです。

サイが果たそうと決めている三つの決意

私が誰かに約束したなら、もしその相手が私に敵対するようになったとしても、私はその人に対して悪意は抱きません。たとえその人が私をののしっても、私はその人を愛し続けます。私は、私の堅い約束を最後の最後まで守り通します。いつの日か、その人は正しい道に戻ってくるでしょう。

状況に強いられて、何らかの変化が起こることもあるでしょう。それらは永続するものではありません。私は、そのようなものが起こったからといって、自分の進路を変えません。これは私の二つ目の決意です。

次は、私の三つ目の決意です。私が何かに従事するとき、それは、万人の幸福のためになることだ、社会全体にとって善いことだと思うからであり、何が起ころうと私はそれをあきらめません。たとえ全世界が私に敵対したとしても、私は後戻りすることなく、前進するのみです。

これらが私の三つの決意です。前に出した足を引っ込めることはありません。私は約束を破りません。私は与えるのみで、受け取りません。

これらは私の三つの決意であり、私はそれらを果たして手本を示そうと決めています。そうしたときにだけ、他の人たちはこれらの理想に追随するでしょう。今、この国が必要としているのは、理想(アーダルシャ)を持った人であり、渇望(アーシャ)を持った人ではありません。欲望は時と共に変わるでしょう。しかし、理想というものは、人が死んだ後も長く残ります。ですから、一人ひとりが、いくつかの理想にかなった生活を送るよう努めるべきです。あなた方は模範的な生活を送るべきです。あなた方は、気高い魂の持ち主となり、神からのみ生じるものである至福を確実にするべきです。

このグルプールニマーの日に、あなたのハートを変容させ、清らかで神聖はハートにするよう努めなさい。清らかさ(パヴィットラム)は人間の真の特質です。清らかさは、人が行うすべてのことに表れていなければなりません。人の思考の中に、人が見るものや話すことの中に、人が行うすべての中に、表れていなければなりません。清らかさを示したときにだけ、あなた方は神聖アートマの化身になることができます。そうなると、神と人の違いは消えてなくなります。すべてが神格化します。主体と客体の違いも消失します。すると、すべてのものが完全なもの(プールナム)となります。本当のグルプールニマーは、その完全性を覚ることであり、どこかのグルに御足への礼拝(パーダ プージャー)を捧げて、そのグルからマントラを授かることではありません。

今日、あなたの思考を神へと向けること、あなたのハートを浄化する努力をすること、そして、神我顕現を追求することを、決意しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.17 C14