サティヤ サイババの御言葉

日付:1987年1月20日
場所:サティヤ サイ女子大学
アナンタプル市での御講話より

サナータナ ダルマ ― 人間性

この世は天国に変えられる
報復と暴力から身を遠ざける者たちによって
愛と平等の思いを育む者たちによって

ポータナ〔南インドの詩人〕の著述は柔らかなハートから生じた歌
それは、三属性(浄性、激性、鈍性)を象徴する心の花
時の三相(過去、現在、未来)にふさわしい著述
解脱へと導く王道

神聖アートマの化身である女子学生と教師の皆さん!

ヴェーダはバーラタ文化の神聖な理想を打ち立ててきました。バーラタ文化はあらゆるヴェーダの知識の神髄です。私たちの人生の道には、この文化の神髄があります。それはサナータナ ダルマ〔太古よりの永遠の法〕として知られています。ヴェーダは三つの巻〔カーンダ〕に分類されました。これらは三つのヨーガ〔ヨーガ トラヤム〕とも呼ばれています。しかし、だんだんと人間のハートが狭くなり、利己的な思いが増えて、その結果、倫理的価値観と人間的な礼儀が低下し、利己主義が各人の中核に埋め込まれるようになりました。栄光ある神々しい柔和な人間性を忘れ、悪魔のような考えを育てることによって、人は人間性を浪費しています。人間性はハートだけに限定すべきものではありません。教育は生計を立てるためにあるのではなく、至高の目的地を探求するためにあります。

もし両手が痛むまでシヴァ神を礼拝しないのなら、
もし舌が痛むまでハリ〔ヴィシュヌ神〕の御名を賛美しないのなら、
もし慈悲と真理について考えないのなら、
人は、母親の子宮を損なうこと以外、何をするために生まれてきたのか?

宣伝ではなく実践が必要

先の三行にはすべてのヴェーダの神髄があります。皆さんも知っての通り、ヴェーダは行動の巻〔カルマ カーンダ〕、礼拝の巻〔ウパーサナ カーンダ〕、英知の巻〔グニャーナ カーンダ〕として知られる三つの本編に分けられています。


シヴァを両手で礼拝する ―― これは行動の巻〔カルマ カーンダ〕です。
ハリ〔ヴィシュヌ神〕を舌で賛美する ―― これは礼拝の巻〔ウパーサナ カーンダ〕です。
慈悲と真理ということについて考える ―― これは英知の巻〔グニャーナ カーンダ〕です。

これら三つの巻〔カーンダ〕が人間性に反映された時、初めて人間の人生は成功と見なされることができます。そうでなければ、人生は、母親の受胎という、痛みを伴う体験でしかありません。ウパニシャッドがヴェーダの神髄であるのに対して、バガヴァッドギーターはウパニシャッドの神髄です。今、バーラタ人はギーターの名声を高める努力をしているところです。大衆への普及は重要なことではありません。実践上の拡大が重要です。実践がその成功の鍵です。「実践は人間を完全にする」〔習うより慣れよ〕です。バガヴァッドギーターには18の章があります。マハーバーラタの戦いは18日間続きました。軍隊の18師団がその戦いに関与しました。ポータナ〔南インドの詩人〕は、人間の義務に関する貴重な永遠の主題を表すのに、18のテルグ語の文字を使いました。

プッタニ、チャヴァニ、トローヴァ ヴェードゥク コーヌタ ドッダ ブッディ 偉大な知者とは、誕生も死もない境地、不生不滅の境地に導く道を探求する者なり

このすべてが、たった18文字で書かれているのです。人間はどこからこの世にやって来たのでしょうか?

シルンヴァントゥ ヴィシヴェー アムルタッスヤ プットラハ
人間は不滅の源からやって来た

クリシュナはバガヴァッドギーターの中で次のように述べています。

「あらゆる生類は私という存在のみから生じた」

したがって、あらゆるものは神の火花にすぎないのです。この真理を悟るとき、人間性は真の至福と成就を見出します。

この全宇宙に浸透している神性を、どうやって悟ったらよいのでしょう? すべての名前がその神性に属しているならば、どんな名前を付ければよいのでしょう? あらゆる姿が神に属しているならば、どの姿を思い描けばよいのでしょう? こうした神性を悟るためには、正しい教育を頼みの綱としなければなりません。

プラフラーダは言いました。

先生方は私に教えてくださいました
私はダルマの教科書の神髄を学びました
私は多くのことを学びました
ああ父上、私はあらゆる学問の秘儀を学んだのです

プラフラーダが言及した教育とは何でしょう? 教育とは、神を悟ることを助けるものです。真の教育とは、人間の中にある神性を実感認識することを助けるものです。教科書を読むことが真の教育なのではありません。なぜ、読んで、読んで、死ぬまで読み続けるのですか? 皆さんは不死不滅へと導いてくれるものだけを読まなければなりません。本質的に、教育とは多様性の中の単一性を認識することです。人々は、「スワミ、道をお示しください」と言います。皆さんは自分がやって来た元の場所へ帰らなくてはなりません。これはバガヴァッドギーターが教えていることです。心に神を保ち、その道にしがみついて、注意深く前に進まなければなりません。長距離を旅する人は、旅路の途中でどこかで止まったり滞在する必要があります。けれども、翌日にはそこを立ち去って旅を続けます。途中で長居する余裕はありません。私たちの身体もそれと同様です。私たちの身体は、魂の救済へと続く道中の宿屋のようなものです。

アニッティヤム アスカム ローカム
この世界は束の間であり、困難に満ちている

これがバガヴァッドギーターの要旨です。

あらゆる生き物にとって、自分がやって来た元の場所へ帰るのは自然なことです。すべての生き物は至高の魂〔神〕から来ました。すべての生き物は、戻って、至高神に帰融しなくてはなりません。これは、雨の起源は海であり、その最終目的地も海であるのと同じです。泥で作られた壷は、土がその起源であり最終目的地です。同様に、生きて行く上であらゆる基盤となる要素である、地、水、火、風、空は、最終的にそれらが生じた元の場所に到達しなければなりません。人間には知性が授けられています。根本的な真理を悟り、人間の目的地である最高の至福に戻る誠実な努力をするためには、知性を用いなければいけません。教育の主な目的は、その魂と至福の追求でなければなりません。

菜食主義者を名乗る人が、あるとき一軒のホテルへ行き、好みの料理を注文しました。ところが、その客はウエイターから「当ホテルではご注文の料理はご用意できません」と言われました。わけを尋ねると、そこは非菜食者用のレストランしかないホテルであることがわかりました。外に出て看板をよく見てみた時、その客は間違ったホテルに入ってしまった己の非を悟りました。それと同じように、私たちは皆、まずこの世界に掲げてある看板を見なければなりません。それには、「この世界は束の間であり、困難に満ちている」(アニッティヤム アスカム ローカム)と書いてあります。この看板を読まずにこの世界の中に入り、永遠の平安を望むとすれば、それは妥当なことでしょうか? 物を手に入れることは人間が常としていることです。しかし、皆さんが手に入れようと努力しなければならないのは、社会に理想的な生活を提示するための神聖さです。これが真の教養です。現代には、あらゆるものへの渇望――金銭への渇望と権力への渇望があります。

心(マティ)には限度(ミティ)が必要

この種の渇望が、わずかの平安も見出せないほど高じています。あらゆるものには限度がなければなりません。「限度」(ミティ)を超えるなら、「心」(マティ)は損傷を受けます。大河を例に取ってみましょう。大河は広大な平野を潤しています。大河は海へ流れ込みます。河と海は自らの限度を守っています。河川も海も限度を超えることはありません。そのおかげで、河川と海の周囲の生活は快適なのです。人々は限度を超えることによって不幸に直面しやすくなっています。同様に、私たちは自分の願望を常に監視下に置いていなければいけません。そうすることで、悲惨な結果に到らないようにすべきです。

死は地上に生まれたものにとっての必然です。死は、町の中でも、森の中でも、海の中でも起こり得ます。いつどこで死ぬかは誰にもわかりません。人の寿命は100年と言われていますが、それはあてにはなりません。青年期に死ぬのか、老年期に死ぬのかなど、誰にもわかりません。プラーナ〔古神話〕では、人々の命を取り去る投げ縄を操る死のダルマの王(ヤマ ダルマ ラージャ)がいると言われています。もし一人につき一本の縄を使うとしたら、死のダルマの王は、どれほど大きな縄工場を所有しているのでしょうか? そうではありません。人の命を引き抜くのは死のダルマの王ではありません。ヤマ〔死神〕はカルドゥとも呼ばれています。人は自らの行為によって自分自身を縛り上げるのです。自分の態度と行為こそが重要な側面です。私たちは、昔の聖者や高潔な人々が獲得してくれた尊敬と名声を保つために、神聖な特質を表さなければなりません。女子は、実家にも嫁ぎ先にも良い評判をもたらさなくてはなりません。これは女子学生にとって最も重要な理念です。女子にこの理念が欠けていれば、学んだことや取得した学位のすべては無駄になります。

世界は「ジャガト」と呼ばれています。「ジャ」は「生まれてくること」を意味します。「ガト」は「変化するもの」を意味します。ですから、来ては去ってゆくものがジャガト〔世界〕なのです。この世には何一つ永続するものはありません。誕生は、欲望によって引き起こされた行為の結果です。ですから、皆さんは、利益や他の利己的な目的を求めることなく一切の仕事をするよう努めなければなりません。無私の仕事は、欲望の破壊という結果をもたらしてくれます。その他の仕事はすべて、再生と避けがたい死をもたらします。

永遠かつ誠実で純粋な不滅の原理は、霊性教育を通してのみ達成することができます。皆さんはこの種の教養を身に付けるよう努力し、次に、これらの理想を子供たちに教えることができなければなりません。それには年齢は関係ありません。年齢は身体に関わるのみで、アートマ〔神我、神霊〕とは無関係です。アートマには年齢も姿かたちもありません。アートマは純粋な至福です。その至福の姿の原理は、権力や富への欲望を通してではなく、高潔な欲望を通してのみ悟ることができます。

理想の生活とは、数時間で消化されてしまうような食ベ物を摂取することではありません。理想の生活には、自分の周囲すべてに神聖な雰囲気を生み出す養育を、注意深く、根気強く施すことが要されます。私たちに授けられた人間としての生は、この身体を通してカルマ的な義務を果たすためです。人間として生まれるのは生物の種の中でも類まれなことです。この素晴らしい機会を無駄にしてはなりません。これは命を不死の命に変えるチャンスです。食べること、眠ること等は、あらゆる動物に共通していることです。人間は、それらを求めて争うべきではありません。

家族への義務を肩に背負い、ハートに神を保ちなさい。この二つの間には近しい関係が維持されなくてはなりません。大学教育を通して俗世の知識を広げるにつれ、あなたのハートも広げなくてはなりません。ハートの拡大がなければ、人生は狭量で暗澹としたものになります。「あなたはどこで学びましたか?」、「あなたはどの家の出ですか?」、「あなたはどんな学位を持っていますか?」こうした質問は俗世に関連しています。しかし、

「あなたはどこから来ましたか?」

という問いによって尋ねられ、要求されている答えは、別の種類のものです。その正しい答えは、

「私はアートマから来ました」

というものです。アートマの姿は、属性を持たず、汚点がなく、公平無私で、永続し、真理と知識にあふれ、つねに自由です。心(マインド)の中にさえ意識はあります。馬車の儀式が行われている最中には、馬車を見ている人もいれば、馬車の前で演技をする芸人たちを見ている人、馬車の内部に置かれた神像を見ている人もいます。身体と呼ばれる馬車は神の寺院です。その寺院そのものが聖なる場所です。私たちはその聖なる場所から正しいものを探し出さなくてはなりません。あなたが聖地を訪れたとき、寺院のことは忘れてお土産を買うことに夢中になっていたら、友人はあなたを愚か者と呼ぶでしょう。身体においても同じことです。もし内在者を忘れて外側の清らかさに夢中になるなら、人生は無益です。

「おおクリシュナ! 心(マインド)は気紛れです。心は手強く危険です」 実際、心は手強いものです。心は、地道な練習を通してのみ、正しい軌道に乗せることができます。猿は一本の木から別の木に飛び移ることができます。しかし、心は一つの世界から他の世界へ飛び移ることさえできるのです。心は移り気で手強く、また有能でもあります。心から悪いものが取り除かれるなら、心は肯定的で強力な力となります。

ある賢い少女の例

教養が身につくのと同時に、識別力、英知、意志の力が発達しなければなりません。私たちの経典は述べています。

アートマ ヴィッディヤー ヴィッディヤーナーム
あらゆる種類の知識の中で、真我の知識が最高である

アートマの原理は私たちにとって重要です。皆さんは二日前、本校の女子学生らによって演じられた演劇を見ましたね。昔、ある国の王が貴重な芸術品の大展示会を催しました。王はその展示会に国民全員を招待しました。王は非常に寛容で、「誰でも自分が気に入った芸術品を一つ二つ持って帰ってよろしい」とさえ言いました。そのため、皆、そこから一つか二つの作品を持って帰りました。展示会を見て回っていた人々の中に一人の若い女性がいました。その少女は何の作品ももらわないで帰ろうとしていました。来場者を間近で見ていた王は、この少女の態度に驚きました。そこで、王は少女に尋ねました。

「少女よ! すべての展示品の中で、どれ一つ気に入った作品が見つからないのかね? なぜそなたは手ぶらで帰ろうとするのか?」

少女は答えました。

「王様、展示会は実に見事です。でも一つの物を望めば、私の欲望は倍増して、もっともっと欲しいという誘惑にかられるかもしれません」

王は少女の説明に満足して言いました。

「わしはそなたの答えに満足した。ところで、わしはそなたに特別な贈り物を授けたい。何であれ望むものを授けよう。さあ、そなたの望みを言いなさい」

賢い少女はその機会を逃さずに言いました。

「王様!それは本当ですか?」

「ああ、もちろんだ」

王の確認を得た後、少女は言いました。

「ああ、慈しみ深い王様! 私はあなたのみを欲します! 他には何も受け取りません」

王は、外見と同じくらい素晴らしいその少女の知性に驚き、すぐさま承諾を与え、その場にいたすべての人の前で宣言しました。

「こののち、彼女は私の王妃である!」

少女は、一つの作品をただで手に入れる代わりに、展示会そのものの所有者となったのです。この喩えと同じように、神の創造物はすこぶる偉大で素晴らしい展示会です。何十億という人々が人生という展示会を訪れ続け、自分の好きなものを持ち帰ります。しかし、無執着の人(ヴァイラーギャム)として知られた少女は言いました。

「おお、神様! 私はこれら俗世の物事は何一つ求めません。私はこれらすべてを創造された御方だけに関心があるのです」

神は、そのような人に自らを与えます。

別の例を取りあげましょう。ある漁師が川に網を投げ、辺り一帯にいたすべての魚がその網に捕獲されました。しかし、漁師の足元にいた魚は網を逃れました。神はマーヤー(幻影)という神の網を、人生という川の中に投げ入れます。マーヤーのほうに引きつけられれば、マーヤーに捕らえられてしまいます。一方、もし私たちが神のそばに居続けるなら、マーヤーの影響は緩和されます。欲望を抱き、楽しみを切望することは間違いではありません。しかし、欲望は一定の限度内にしなければなりません。さもなければ、あなたの生活は絶えず人生という海に揺さぶられる小船に変わってしまいます。もちろん、食物は命を維持するために必要です。しかし、食ベ物を食べるために生きてはなりません。誰も傷つけることなく人生を送るようにしなさい。

蛇口から水が出るのは貯水槽に水がある場合に限ります。ですから、何かを切望する前に、功徳の宝庫を確保しなければなりません。そうでなければ、カルマ〔行為の報い〕があなたに跳ね返り続けます。今あなたが両親を困らせていたら、将来あなたは自分の子供たちから同じ扱いを受けることになるでしょう。こうした困難はすべて、視野が狭いことが原因です。ですから、人生が楽しいものになるように、あなたの視野を広げ、ハートを広げなさい。私に関して言えば、私には自分本位な願望が一つあります。それはこの思いです。

ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ
すべての人が幸せに生きますように!

幸せでありたいという願いから離れることのできる人はいません。隣人が幸福であって、初めてあなたも幸福でいられます。社会は個人の集まりです。愛こそが個人を束ねる力です。愛が増えると利己心は小さくなります。増大すべきは愛の原理であり、エゴの原理は削減されなければなりません。エゴが増すにつれて謙虚さは減少します。謙虚さが増すにつれてエゴは減少します。エゴは神性を曇らせます。どれほど立派な知識や富や地位を有している人でも、エゴはその人を井の中の蛙にします。知識が卑劣な人間を純粋にすることはできません。人格こそが人を純粋にするのです。重要なのは知識ではなく、知識の神髄です。私たちの振る舞い、高潔さ、人間性は、手本となるに値するものでなければなりません。道の途中にある障害や困難を気に留めず、賞賛や非難に影響されず、社会の状況を改善しようと努力しなければなりません。平等観と寛容は、この探求における必要条件です。

ドラウパディーの模範に従いなさい

ドゥルヨーダナ〔カウラヴァ百兄弟の長男〕が手足を骨折し、戦場で横たわっていたときのことです。体中を血が覆い、もはや死にかけていました。アシュヴァッターマ〔カウラヴァ側に就いた軍師ドローナの息子〕がその場に行って言いました。

「王よ! 悲しんではなりません。私がパーンダヴァ一族全員の首を刎ね、あなたが亡くなる前にその首をお持ちします。それから安らかに死を迎えてください」

しかし、結局、アシュヴァッターマにできたのは、ドラウパディーの純真無垢な息子たちを殺すことだけでした。その残忍な行為を見たアルジュナは怒りで煮えくり返り、「すぐにアシュヴァッターマの首を刎ねて、目の前に持ってきてやる」とドラウパディーに言いました。その決意と共に、アルジュナは時を移さずアシュヴァッターマを連れてきてドラウパディーの面前で殺そうとしました。哀れなドラウパディーは、すやすやと眠っていた息子を一人のみならず五人とも一度に殺されたのです。ドラウパディーの深い苦悶は理解にあまるものでした。にもかかわらず、ドラウパディーは冷静な態度でアシュヴァッターマに話しかけました。

「私の夫たちは皆、あなたの父上であるドローナーチャールヤから弓矢を習いました。あなたは夫たちのグル〔導師〕に等しい人です。ほんのわずかな思いやりも愛情も持たずに弟子の息子を殺すのは、あなたにとって公正なことなのでしょうか?」

最悪の不幸な出来事に直面しながら、ドラウパディーは何と大きな寛容を示したことでしょう!

「あの子たちは、武装もせずに戦場に行き、陰謀を心に抱くこともなかった。あの子たちは、戦いの手ほどきも受けたことのない可愛い子供たちだった。あの子たちは眠っていたのです! ああ! それなのに、あなたはどんな思いであの子たちを殺したのですか?」

すると、ビーマが言いました。

「ドラウパディーはわが子を殺した男に憤りを感じていない。それどころか、ブラフミン〔バラモン〕と呼ばれるにふさわしくない者が許されるよう訴えている。なぜそんな奴を容赦する必要があろう。俺がこの拳の一撃で、そいつの息の根を止めてやる」

しかし、ドラウパディーは、ブラフミンでありグルの息子であるアシュヴァッターマに夫たちがいかなる危害を加えることも許しませんでした。何という浄性の表れでしょう! ドラウパディーは浄性の女性の手本として傑出しています。「ストリー」(女性)という言葉は、音節(「ス」〔S〕、「ト」〔T〕、「リー」〔Ri〕)に分けると、浄性(サットワ)、激性(ラジャス)、鈍性(タマス)となり、それゆえ、その三つの性質すべての結合を意味しているのです。女性は浄性を豊富に持っているべきです。それから、従順と謙虚から成る鈍性が来ます。女性は、激性の現れである、どんな類の犠牲をも払うこと、を覚悟すべきです。

そのような時に、アルジュナがこう言って質問を投げかけました。

「私はアシュヴァッターマを殺すという誓いを立てた。どうして自分の誓いを破ることができようか?」

すると、ドラウパディーはアルジュナに適切なアドバイスをしました。

「アシュヴァッターマの頭〔彼の頭には生まれつき守護の宝石が生えていた〕の毛を剃り落とし、この家から追い出すのです。これは彼を殺すに等しいことです」

この種の忍耐と落ち着きは、すべての女性が模範とすべき偉大な特質です。女性たちがこのような特質を表すとき、国家は燦然と輝き、繁栄することでしょう。私たちの大学の学生の皆さんがそのような高潔な特質を手本とし、国家の繁栄の先頭に立つよう祝福して、私の講話を終えることにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C27