サティヤ サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイ プレ世界大会用
日付:1987年3月30日
場所:プラシャーンティニラヤム
ウガディ祭、テルグ正月の 「I am I」(私は私) に関する御講話?

私は誰か?

宇宙は神の顕現です。至る所で神の手による御業を見ていながら、神は存在しないと考える人は愚か者です。人は神の遍在を認識することなく、どこかその辺りに神を探しています。これは、自分を体と同一視して自分を神から遠ざけている、という二元的な態度を反映しています。神は遍在であり、自然という神聖な顕現において認識され得るというのに、肉体意識が、人が神との一体性を体験することを妨げているのです。

神はどうしたら体験できるのでしょう? 第一の必要条件はハートの純粋さです。すべての宗教は、純粋さが根本的に重要であることを確言してきました。すべての霊性修行の目的は平安に到達することです。あらゆる生き物に対する慈悲は神への信愛です。

神は、これ見よがしに儀式や礼拝を行うことでは、体験できません。虚飾や見せびらかしのあるところに神性は存在できません。神の至福がそのような場所で見出されることはあり得ません。岩場に種が芽吹かないように、神の至福は謙虚さと誠実さを欠いた礼拝によっては、実感できないのです。

すべての霊性修行がアートマ(神我)を悟るために実践されているわけではありません。あらゆる場所に浸透している遍在のアートマを捜し求める必要はどこにもありません。霊性修行はアナートマ(アートマの視力を妨げているもの)を取り除くために行われます。人は自らの本性を忘れ、自分ではない意識の中で自分自身を見失っています。人は自分が本当はアートマであることを忘れているのです。

熟睡状態では、人は自分の名前、姿、地位などをまったく意識していません。しかし、目が覚めると「私」を自覚します。覚醒状態で意識する「私」は、熟睡状態でも存在しています。すべての霊性修行の目的は、覚醒、夢見、熟睡という異なるすべての状態で体験される「私」の本性を発見することです。

アートマはあらゆるものの基盤

人は自分と特定の名と姿を同一視して、その基盤の上にあらゆる人間関係を築き上げます。けれども、名と姿にどれほどの真実味と永続性があるというのでしょうか? 名と姿はすべて心〔マインド、マナス〕の投影であり、心と体が存続する間しか存在しません。ハートはアートマを表します。ハートは自ら光を発します。ハート(アートマ)から発する光は、心を照らし、心が外の世界を見られるようにします。この照明がなければ、心は世界を理解できません。

心は、太陽から光を受け取る月のようなものです。月自体の光はありません。心はアートマが発する光ゆえに輝いているのです。太陽が輝いているとき、月はほとんど目に見えません。同様に、アートマの自覚があるとき、心は知覚できません。アートマはあらゆるものの基盤なのです。

人は、アートマは体の内部に存在することを想像する能力に欠けています。体と心と全宇宙はアートマの中にある、というのが真実です。アートマは他の何かの内部に存在することはできません。アートマはすべてです。アートマは万物です。ジャパ(神の御名を唱えること)、ディヤーナ(瞑想)、プージャー(礼拝)を行う人は、神を自分とは別の存在であると考えて、二元性の餌食えじきになっています。どれほど学識があろうとも、自分から神を遠ざけるなら、そのような人々は自分の本性を知らないのです。神は人のハートの中にいます。

霊的探求の最も重要な目的

人間の霊性修行は、すべて心のレベルで行われています。そうした方法でアートマを悟ることはできません。ヴェーダは宣言しています。

ヤトー ヴァーチョー ニヴァルタンテー
アパラーピャ マナサー サハー
(心と言葉が戻り行く元の場所、そこへ到達することは不可能である)

心も言葉も、アートマの性質を理解することはできません。心は感覚器官によって外側に向きを変えさせられます。心を感覚の対象物から退しりぞかせることによってのみ、心にアンタルムカム(内なる視力)を向上させることができるのです。

「私」の原理はあらゆる場所に存在しています。その原理は神自身と共に始まりました。最初の言葉はアハム(「私」)でした。プラナーヴァ(「オーム」)でさえ、アハムの後に生じました。あらゆる創造の前に、アハムだけが存在していました。そのアハムは多になりました。普遍的なアハムと自分が「私」と見なすものの唯一性を悟る者のみが、自らの真実を知っています。普遍的な「私」は、時間と状況のゆえに、さまざまな体のさまざまな名と姿をとって現れます。同一人物であっても、一生のうちに外観や人間関係に多くの変化を被ります。しかし、「私」は変わることなく留まります。それは俳優がさまざまな扮装をするようなものですが、俳優自身は同一人物です。「私」(アートマ)という変化しない普遍的人格を実現することこそ、霊的探求の最も重要な目的なのです。

タパスはハートの柔らかさをもたらすものでなければならない

二元性の感覚は、「私」(アハム)が特定の名と姿を身につけたときに生じます。アハムカーラ(エゴの感覚)は、姿形の変化の結果です。名と姿から自分を引き離したとき、初めて人は自らの真の神我を発見できるのです。本質的な神性を忘れて、自分を変化する一時的な姿と同一視していることが、束縛と悲しみの原因です。この不当な同一視の原因は心です。それは、心が外界と関わるため、感覚器官を通じて受け取る印象と関わるためです。心の仕組みを理解すれば、心を超越しているアートマの実体を、一つの遍在なる不変の原理として体験するでしょう。

二元性は日常生活の明らかな現実です。すべてのシャーストラ(霊性の科学)、プラーナ(叙事詩)、イティハーサ(古代の伝説)は、二元性を認め、その基盤の上に人間の生活を規制するよう求めてきました。どのような立場においてであれ、人が現象界での活動に没頭している限り、二元的な傾向は避けられません。聖典のあらゆる戒めは、現象上の一時的な世界における人間の振る舞いを規制するために書かれています。

ヴェーダは時間に大きな重要性を置いています。シャーストラは、時間、状況、立場に関連した義務を規定しています。占星術の科学は、時間の変化に基づいて、なすべきことを規定しています。パンチャーンガ〔占星暦〕は、占星学の情報に基づいて、起こりそうなことを示唆します。この新しい年、プラバーヴァ〔テルグ暦60周期の最初の年〕の間、その兆候は明るいものとなっています。九つのグラハ(九曜くよう)のうち、七つが好ましい位置に並んでいます。一年を通じて支配する星は月で、補佐役はクジャ(火星)です。今年は月と火星の影響が強くなります。シャニ(土星、不吉な惑星)は弱くなっています。今年は食物不足や水不足はないでしょう。食糧の生産はかなり増えるでしょう。

こうした変化が、自然の力の領域においてどれほど有益であったとしても、人間の見解や振る舞いに変化がなければ、それは何の役にも立ちません。多くの人は、自分が宗教的な苦行(タパス)を続けていると主張します。苦行の成果とは何ですか? ハートが柔和になり、病人や無力な人たちに慈悲を示すとき、初めて苦行は何らかの価値をもつようになるのです。慈悲に満たされた心が、苦行の真の果実です。無慈悲な人が行う霊性修行は、まったく無益です。

瞑想は日々の仕事の中にある

多くの人が、霊性修行として瞑想を始め、多くの時間を費やしています。しかし、実のところ、瞑想は朝から晩まで行っているほぼすべての活動の中に含まれているのです。瞑想は(集中という意味において)、食事をすること、仕事に行くこと、職務に精を出すこと等々、日常のあらゆる雑用や仕事に内在しています。人は、本を読んでいるとき、遊んでいるとき、買い物しているときに、瞑想しているのです。

集中なくしては、どのような活動も行うことはできません。集中が神に対してなされる場合、それは霊的な瞑想となります。そうした瞑想は、特定の時間や場所を必要とするでしょうか? 瞑想に特別なテクニックはありません。人は瞑想に何らかの特別な名前を付けて、瞑想の真の意味を忘れています。たとえば、もし瞑想(一点集中)してスワミの講話を聞いていないなら、私の話したことは覚えていないでしょう。聞くことですら瞑想を必要とします。瞑想は特定の形をもちません。さまよう心では、瞑想は不可能です。

自分の行いのすべてに神を見よ

今日では、瞑想と称して人目を引くために数々の行為が行われています。猿のように落ち着きがなく、一つの思考から別の思考へと忙しく動き回る心をもったまま、瞑想と称して何時間も費やす代わりに、家庭や職場や社会での義務を、真面目に献身的に果たすことに集中した方が良いのです。これが瞑想ではないと言えますか? 一分も心を静止させておくことができないのに、一時間も「瞑想」に座って何の役に立つのですか? 日々の義務を果たしながら神を想いなさい。すべての仕事を神への神聖な捧げものと見なしなさい。自分が行うすべてのことの中に神を見なさい。この単純で易しい道を歩む代わりに、人はあらゆる妙技に没頭し、さまざまな危険に身をさらしています。自分の義務に専念しなさい。瞑想は一つのものに限定されません。瞑想はあなたの行うすべての活動に染みわたるべきです。

求道者の中にはエーカーンタム(孤独)を手に入れたいと望む者もいます。しかし、人から離れて一人でいることは孤独ではありません。人は、孤独を求めてハリシケーシュやハリドワールやタポヴァナム〔いずれもインドの聖地〕に行きます。孤独の真の意味を理解していない者だけが、そのような手段に頼るのです。真の孤独(独りであること)は、心が完全に静まった場合にのみ存在します。たとえ独りで森の中に座っていても、心が世俗の物事を思い巡らせているのなら、どうしてそれを孤独と呼べるでしょう? 思考を抑制しない限り、どこにも孤独は見つかりません。思考を抹消するか、あるいは、すべての思考を神に向き変えるか、そのどちらかです。

多くの人々は、世俗の物事を楽しむことによって幸福を引き出していると思い込んでいます。誰が誰を「楽しんでいる」のかを吟味すべきです。実際には、人は自分の所有するものを「楽しんでいる」どころか、所有物の方が人を「楽しんでいる」のです。所有物から生み出される憎しみ、怒り、妬み、その他の悪は、病気と悲嘆をもたらすだけです。もし、所有物が本当に幸福の源であるのなら、どうして体は病に苦しまなければならないのでしょう? 人は自分に幸福を与えられないものに執着し、真の幸福を見失っているのです。

目を至高神に定めよ

『バガヴァッド・ギーター』に信仰を置く者は、その中に「この世界は束の間であり"涙の谷間"〔き世〕である、この世に執着しても永続する平安と至福は見出せない」とはっきり言明されていることに注目すべきです。永続する平安と幸福の源は私たちの中にあります。それはアートマ(神我)です。アートマを悟ることによって、平安と至福を手に入れなければなりません。人は、アートマはすべて――行為者、行為、行為から生じる結果――である、という意識を絶えず育てていなければなりません。このようにして意識を広げるなら、やがてそれは真我の悟り〔自己実現〕をもたらします。もし、あなたの視野が広ければ、あなたの行き先もそれと同じくらい大きくなるでしょう。狭い見解は狭い小路へと導くことしかできません。いつも俗世のものの取るに足りない小さなことに没頭しているなら、一体いつ、体や心を超越した実在を理解するつもりですか? あなたの目を至高神に定めなさい。そうすれば、光は瞬く間にやって来るでしょう。

誰も皆、「私はアートマである、私はブラフマンである」という意識を育てるべきです。「私はブラフマンである」と言う場合、ブラフマンの中に「私」が存在しているのは明らかです。その「私」とは誰でしょうか? 「ブラフマン」は充満を意味します。「私はブラフマンである」と宣言することによって、遍満という意識を育てるべきです。ブラフマンはあまねく充満しています。ブラフマンはどこにでも均一に存在しています。あなたは自分を、あまねく充満するもの、普遍的自己と見なすべきです。自分の実在に気づくことができるよう、何をするときも、何を見るときも、何を話すときも、そこに神性を染み込ませなさい。

自分の正体を発見せよ

二元性の感覚をもっている限り、あなたにとってこの世は存在します。熟睡状態のとき、あなたは真の至福を楽しみます。そのとき、あなたは自分の体も、心も、感情も、性質も、思考も意識しませんが、それでもあなたは存在しています。その同じ純粋な「あなた」は、覚醒状態でも、夢見状態でも、熟睡状態でも存在しています。肉体にも、微細体にも、原因体にも、「あなた」は存在しています。これらすべての状態と段階において、いかなる変化も受けずに存在し続けているもの、それがアートマの原理です。

ジャパや瞑想や他のさまざまな霊性修行を行う肉体は、水の泡にすぎません。肉体を基盤としている心は、狂った猿にすぎません。狂った猿である心と、水の泡である肉体の助けを借りて、どうして永遠のアートマに到達することなど望めるでしょう? ジャパ、瞑想、バジャン、苦行、供犠――これらはすべて、心を一時的に制御するための方法です。一方、永続する効果をもたらす一つの修行があります。それは自己探求です。皆さんは、自分は本当は誰であるのかを見抜く段階に到達するまで、「私は誰か? 私は誰か?」と自問し続けなければなりません。探求は次のように進めるべきです。「ここに私の体がある、私の心がある、私のハートがある、私の感情がある、私の知性がある、私の記憶力がある・・・私はこのどれでもない。誰かが私を褒めた。誰かが私を非難した。しかし、それらはいったい誰のものなのか? それらはこの肉体のものにすぎない」

このようにして、無執着の感覚と犠牲を払う性質を育てなければなりません。どうして一つの肉体が別の肉体を罵倒ばとう できるでしょう? その肉体は不活性であり、別の肉体もまた不活性です。どうして不活性なものが批判したり、諭したりできるでしょう? できません。では、アートマが別のアートマを批判できるでしょうか? それは笑止千万しょうしせんばんです。

神を見たことのある人は「神は存在する」と言います。神を見たことのない別の人は「神は存在しない」と言います。神を見たことがないのなら、どうしてその人は神が存在しないと断言できるのですか? ここで、ナンジュンダッヤ〔ババの側近の男性〕を例にとりましょう。ナンジュンダッヤを見たことのある人は、この人がナンジュンダッヤであると言明します。もし、ナンジュンダッヤを知っている人に、チャクラヴァルティ〔別の側近の男性〕を指差して「この人がナンジュンダッヤです」と言えば、その人の答えは、「いいえ、彼はナンジュンダッヤではありません」というものでしょう。ナンジュンダッヤを見たことのない人は、ナンジュンダッヤがここにいるかどうか述べることはできません。本人を見たことがある人だけが、本人がここにいるか、いないかを言明することができるのです。同様に、神を見たことがあり、神を知っている人だけが、神は存在すると言明する権限をもっているのです。ある人は主張するかもしれませんし、別の人は否定するかもしれませんが、その対象自体はまったく同じままです。どちらの人にとっても、神は存在しています。というのは、すべてにおいて、一なるアートマ、一なるブラフマンが存在するのみだからです。ブラフマンはアートマであり、それ以上、他には何も存在していないのです。

信仰と神は同一

多くの人は、恩寵と、愛と、信愛と、謙虚さを熱望しています。これらはすべてアートマ(神我)の姿です。神と信仰は異なるものではありません。信仰と神は同一です。愛は神です。信愛は神であり、それぞれ異なる存在ではありません。信愛とは何を意味するのでしょう? 信愛とは、信者の内なる視覚の中で、未顕現の神聖原理が自らを顕現できるようにするものです。そうなったとき、その信者にとって、神以外何も存在しなくなります。その段階に達するためには、絶えず心に永遠の存在を保ちながら自分の義務を果たさなくてはなりません。皆さんは、小さな舟の助けを借りて、俗世という広大で深い海を渡り、実体である無限の神性を享受することができます。その舟とは神の御名です。霊性の旅の初めのころは、神の御名が進歩の基盤です。けれども、神の御名は、ずっとそれだけに頼れるような、一生の支えとはならないでしょう。

どんな奉仕をしているときも、他人に奉仕しているとは思わずに、神ご自身に奉仕しているのだと思いなさい。自分が風呂に入っているときや、子どもたちを風呂に入れているときには、自分は神ご自身を洗う清めの儀式を行っているのだと考えなさい。食べ物を給仕しているときは、自分は神ご自身に捧げているのだと考えなさい。物乞いに食べ物を与えるときは、神が物乞いの姿をとって来ていて、自分は神に奉仕しているのだと考えなさい。乞い求めているのは物乞いのように見えますが、あなたが差し出した食べ物を味わっているのはアートマです。料理中に野菜を切っているときは、自分は英知の包丁で自分の欲望やエゴを切り刻んでいるのだと考えなさい。床を掃いているときに、「ああ、何度掃いても、どうせまた汚れてしまう」などと嘆いてはいけません。その代わりに、自分のハートを掃除しているのだと考えなさい。もし家でチャパティ〔インドの薄いパン〕の粉を延ばしているなら、自分のハートを延ばし、練り上げ、広げるのがどれほどの喜びであるかを考えなさい。以上のような方法で、あなたは自分がすることになっている仕事のすべてを、神のために行っているものと考えることができます。そうすれば、別の瞑想、別の苦行、別の礼拝をする必要がどこにあるでしょうか?

愛はこの世のすべてのことを成就させ得る

あなたのハートをアートマと見なしなさい。心を柔らかくし、慈悲で満たしなさい。これこそ、あなたが行う必要のある唯一の霊性修行です。ナラシンハン〔先の講演者〕は、世界中のさまざまな地域から多くの人がプラシャーンティ・ニラヤムに来ていると述べました。その人たちをここへ連れてきたのは何でしょう? 招待状が送られているのでしょうか? 誰かが来るよう頼んでいるのでしょうか? ただここにある愛、以心伝心の愛ゆえに、彼らは来たのです。愛によって、この世の何でも成就できます。愛をアートマそのものと見なしなさい。どれほど多くの聖典を読み、どれほど多くの霊性修行をしても、自分のハートが慈悲で溶けるのを許さないなら、あなたの人生はまったくの無駄になるでしょう。ハートが優しさと愛であふれることができるよう、すべての修行をあなたのハートを柔らかくすることに向けなければなりません。慈悲の感情を育て、その慈悲を十分に流れさせ、世界中のすべての人の間に広げなさい。

サイババ述

出典:Sathya Sai Speaks Vol.20 C6
翻訳:サティア サイ出版協会