サティヤ サイババの御言葉

日付:1987年10月2日
場所:プールナチャンドラ講堂
ダシャラー祭の御講話より

変わることが私の望み

今日は、ヴェーダ プルシャ ヤグニャ〔ヴェーダの化身である神に捧げる供犠〕をプールナーフティ(供犠の祭火への最後の献供)でしめくくります。ヤグニャで捧げなければならない供物は、あなたの悪い考え、悪い欲望、悪い行いです。これは他の何よりも重要です。人々は今、これをしていません。

皆さんは過去40年ほどの間、何百という講話を聞いてきました。しかし、皆さんの心(マインド)は以前の場所に留まったままです。皆さんの態度や行いにはほとんど変化がありません。頭には霊的な言い伝えや書物で得た知識が詰まっていますが、ハートを愛で満たそうとする試みはされていません。多くの人がこのアシュラムに長年住んでいて、ここでのさまざまなお祭りや行事に参加しています。けれども、彼らの生活には変化がありません。彼らはスワミのメッセージをハートに刻んでいません。

もし皆さんの生き方に何年も霊的な変化がないならば、皆さんはエネルギーと時間と機会のすべてを無駄にしたという罪を負うでしょう。皆さんは過去何年もプラシャーンティ ニラヤムに来ていて、スワミの講話を聞いています。けれども、皆さんの欲望は増加の一途をたどっていて、捨離の精神は少しも顔を出していないように見えます。皆さんには自分の欲望を少しは抑えようという気はないのですか?

アシュラムに住んでいても、皆さんが考えているのは俗世のことです。それは真の霊性修行ではありません。遅かれ早かれ、人は自分の所有物を手放さなければならなくなります。そうなる前にそれらを手放す人こそが、英雄です。

変わることが真の信愛の印

このサプターハ ヤグニャ(7日供犠。プラシャーンティ ニラヤムでダシャラー祭の10日間の最中に行われている全世界の幸福のための供犠。サプターハ=7)は、今日、サマープタ(完了)に到ります。「サマープタ」(サマ〔等しい/同等の/平らな〕+アープタ〔到達した/得た/達した〕=サマープタ)の真の意味は、ブラフマンの顕現です。常に存在する全我〔パラブラフマン〕を認識することが神我顕現です。

今、人々は科学とテクノロジーの目覚しい進歩について自慢気に話しますが、もしその主張が本当なら、なぜ無知がこれほど大規模に持続しているのでしょうか? 現に、今日の科学の進歩の多くは、人間の利己的な欲求を満たしているだけで、世界全体の幸福を促進してはいません。一つの国が別の国を滅ぼすために一分の隙もなく武装することが、真の進歩のしるしなのでしょうか? それが科学の進歩の指標なのでしょうか? それはまさしく、無知のしるしです。

今、善い思い、善い言葉、善い行いがありません。それでどうして神が皆さんの望みを叶えることを期待するのですか? 人々は、動物よりも悪い振る舞いをしています。それでどうして人間と呼ばれることができますか? 人々は、絶えず富や家族や子供のことを心配しています。神のことは、ほとんど考えません。つかの間の信愛の瞬間があっても、それは偽りのない神への信心の表れというよりは、説明的です。そのようなわざとらしい信愛の表現は、無神論者が不信を強めるのに役に立つだけです。神聖な生活の中で自ずと神への信心が表れない限り、それはまったくの偽善です。

私は、皆さんが私の話をよく聞いたかどうかは、知りたいとは思いません。私が知りたいのは、皆さんがすっかり変わったかどうかです。そうした変化こそが、本当の信愛のしるしです。地面が濡れていないのに、土砂降りがあったと言って何になりますか? 自分は信者だと主張する人は、その証拠として、行いで信心を示すべきです。そして、自分の公言に従って行動しなければいけません。

「サイ ラム」〔サイとラーマという二つの神の御名をつなげた唱名〕というのは言葉だけで、思いに嘘があるならば、それは人を騙す厚かましい行為です。「サイ ラム」は、その人の本質の深いところから出てくるべきものです。サイ オーガニゼーションであろうと他の場所であろうと、思いと言葉と行いの誠実さと一致があらねばなりません。

すべての人に対して友愛の気持ちを持ちなさい。意見の相違は歩み寄りによって解決できます。利己的なプライドを手放せば、あらゆる困難を克服することができます。今日、この日から、あなたの無知と利己心を焼き捨てて、あなたのハートの愛を育みなさい。スワミの教えに可能な限り従い、それによってあなたの人生を救済しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.20 Ch25