サティヤ サイババの御言葉

日付:1988年3月26日
場所:ブリンダーヴァンのカッリャーナ マンダパム
ラーマ神御降誕祭(ラーマ ナヴァミー)の御講話より

ラーマの道

悪いものは見ない、言わない、聞かない――
これらのメッセージを伝えている
三匹の猿の姿を心に留めよ
これよりも賢明な助言は他にない
たとえヴェーダ聖典を徹底的に学んで
熟練のヴェーダ解説者になったとしても
良い性質を育てずして、真の人間になれようか?

古の時代から、バーラタ(インド)は霊性を理想に掲げて神聖なメッセージを普及することによって、人類の幸福を促し世界に輝かしい手本を示す、人類の教師であり続けてきました。「すべての世界が幸福であるように」というのが、ずっとヒンドゥー教徒の生き方を律する基本原理です。太古の君主たち、聖賢たち、学者たち、そして貞節の鑑であった女性たちも、ダルマに基づいたこの国の文化と遺産を守るために、放棄と犠牲の生活を送りました。

『ラーマーヤナ』の物語は、この文化の偉大さと神聖さを明らかにしています。『ラーマーヤナ』はラーマの物語であるだけではありません。ラーマ + アヤナ = ラーマーヤナです。アヤナは道という意味です。『ラーマーヤナ』の内なる意味は、ラーマによって示された道をたどるべし、ということです。

自らの生活を維持してゴールに到達するために、人は生まれた瞬間からさまざまな活動に携わります。人は生まれた時には悪い性質を持っておらず、幼子として完全に純粋無垢です。ところが、時が経つにつれて、摂取する食べ物の種類や生活様式の変化、付き合う仲間の質によって、服装や態度が変化してきます。これらに加えて、好き嫌いが出てきます。「教育」を身につけた後、人は頭のてっぺんからつま先まで、エゴや高慢、激情やその他の悪い性質を持つようになります。それらが人を強力に支配してしまうのです。

人は自分の欲望の奴隷となる

結果として、人は自分が全知であり、自分より偉大な者はいないと勘違いしはじめます。そして、若さゆえの傲りに満ち、他人に軽蔑の眼差しを向けます。しかしながら、もし人間として生きようとするのであれば、人生において数多くの困難や浮き沈みに直面しなければなりません。人は自分が直面する障害物や妨害を乗り越えていかなければなりません。

今日、人は感覚から得られる快楽を楽しんでいるだけのように見えます。誰も彼もがさまざまな欲望でいっぱいです。成長するにつれて、男としてのみなぎる活力が人を強情にさせます。そして、教育の真の目的を認識しそこない、自分は偉大な学者、歌手、俳優、あるいは実業家になるのだという野心を育てます。そうして、人は目の回るような欲望の迷路の渦に巻き込まれるのです。その結果、神性を生まれ持っているにもかかわらず、自らの不純な欲望の奴隷となり、自分の本当の人間としての価値を忘れてしまいます。鳥や動物たちが何であれ手に入るものを食べて満足している一方で、人間だけは飽くことのない欲望を抱き、貪欲でいっぱいになっています。人間の貪欲と欲望に歯止めを掛けなくてはなりません。何であれ、過剰なものは有害であり、回避されるべきです。

『ラーマーヤナ』の主要なメッセージは、欲を厳しく制御すべしということです。人生は、感覚の制御と心(マインド)の規制と知性の活用によって聖化されなければなりません。

ラクシュマナの手本

『ラーマーヤナ』の注目に値する登場人物たちは皆、世の人々の理想として傑出しています。彼らは皆、ダルマの化身です。ラクシュマナの例を考えてみましょう。ヴァールミーキ(『ラーマーヤナ』の述者)はラクシュマナをさまざまに描写しました。ヴァールミーキはラクシュマナを「ラーマのもう一人の自己」と呼びました。『カンバ ラーマーヤナ』(12世紀にカンバン〔カムバン〕がタミル語で著した『ラーマーヤナ』)の中では、ラクシュマナは「ラーマの第二の美徳」と述べられています。トゥルスィーダース(16世紀に『ラーマーヤナ』をアワディー語で再編纂した)は、ラクシュマナを「ラーマの右手」と見なしています。ラーマとラクシュマナは、「ビンバとプラティビンバ」〔ビムバとプラティビムバ〕(発生源と反映、月と水面に移った月)、ちょうど片方がもう片方の反映であるものとして、分かちがたく結び付いています。その偉大な性質である穢れなき純粋さと犠牲の精神において、ラクシュマナはラーマ自身の例証なのです。

ラーマは父の命令に従って森へ入らなくてはなりませんでした。一方、ラクシュマナはそのような強制は受けていませんでした。ラクシュマナは最高の犠牲を払ってラーマに随行することを自主的に選びました。ラクシュマナにとって、アヤナ(ラーマの道)は自分のナヤナ(目)と同じくらい大切なものでした。それゆえ、ラクシュマナは『ラーマーヤナ』(ラーマの道)で重要な役割を担ったのです。母のもとを去り、妻と別れ、王族の快適さを拒んで、ラクシュマナは人生の究極の目的としてラーマに随行することを選んだのです。その優れた性質と模範的な人格によって、ラクシュマナは世の人々の理想として傑出しています。

森でシーターを探索していた時、ラーマとラクシュマナはリシュヤムーカ山に行きました。そこで二人はスグリーヴァとハヌマーンとの友好関係を結びました。スグリーヴァは装飾品の入った袋をラーマに渡し、その袋は空飛ぶ馬車に乗り込んだ女性が落としていったものだと伝えました。ラーマはそれらの装飾品をラクシュマナに手渡して、シーターの装飾品かどうかわかるかと尋ねました。ラクシュマナは言いました。「腕輪についてはわかりません。髪飾りについてもわかりません。これらの宝飾品の中で私に見分けられるのは、足の飾りだけです。これはシーターさまが身に着けていらしたものです。私は何年もの間、毎日シーターさまの御足に礼拝をしていましたから、これだけはわかるのです」

ラクシュマナはシーターを母として敬った

ラーマは結婚後、アヨーディヤーで12年暮らしました。その後、ラーマとラクシュマナとシーターは森で13年過ごしました。ラーマと共に暮らしたその25年の間、ラクシュマナは一度たりともシーターの顔を見たことはありませんでした。歴史上、ラクシュマナのような人格を備えた人物の例は、どこにも見つけることはできません。ラクシュマナはすべての女性を母として敬っていました。

ラーマは、ある聖者の庵に近い森の中にシーターを置いてくるようラクシュマナに命じました。その時シーターは子を身籠っていました。ラクシュマナが立ち去ろうとすると、シーターはこう言いました。「ラクシュマナ! ラーマにとって世間の思惑に譲歩して私を森へ送ることは当然のことかもしれません。国王の義務は、臣民を守り、臣民にとって理想的な統治者であることです。“私のもの”、“汝のもの”という考えを一切慎んで、統治者は国民の幸福のみを願うべきです。シュリ ラーマの良い評判は私の喜びの源です。ラーマが私を追い払ったからといって、私は嘆きません。シュリ ラーマの栄光と名声は永遠に続くべきです。けれども、私の義弟であるあなたが私を森に捨てていくことを、どうして承諾できるでしょう? 身重である私を、どうしてこの荒野に独り置き去りにするような気になれるのですか? せめてしばらくの間、私と一緒にいて、それからお帰りになってください」

ラーマとシーターへのラクシュマナの信愛

ラクシュマナは答えました。「敬愛する母よ! これまでの長い年月、私はあなたのお顔すら見ておりません。御身のまったくの純潔と清浄な人格にもかかわらず、あなたは思慮を欠いた人々によって中傷の犠牲者となってしまわれました。もし今、私が共に留まれば、あなたの名声は非難を被ることでしょう。このような状況にあって、私はあなたのためなら命さえ捨てる覚悟ができています。しかし、あなたの名声が傷つけられることにはどうしても耐えられません。それに、私はラーマの命令を果たさなければなりません。ラーマは私にとってすべてです。私はラーマの命令に反しては一瞬たりとも生きることはできません。ですから、ああ、母よ! どうか私をお許しになり、私を帰らせてください」。ラクシュマナはシーターの御足にひれ伏して、行かせてくださいと懇願しました。

このようにして、ラクシュマナはラーマとシーターの栄光を守るために一生を捧げました。そして、それによってラクシュマナは自らの偉大な性質を世に実証したのです。

今度はバラタを見てみましょう。バラタは自分に差し出された王位に就くことを拒絶し、ラーマを王国の統治者にふさわしい唯一の人物と見なしました。バラタはラーマに会うために森へ赴き、アヨーディヤーに戻るようラーマを説得しました。

ダルマの本性

ラクシュマナとバラタは共に自分のもののすべてを神に捧げました。二人には利己心も私利私欲の痕跡もありませんでした。二人はダルマというラーマの道(ラーマ アヤナ)を固く守りました。『ラーマーヤナ』がその題名の正当性を立証しているのは、弟全員がラーマの定めた道に従ったからです。

ラーモー ヴィグラハヴァーン ダルマハ
まさしくラーマは正義の化身なり

とヴァールミーキは言いました。ダルマとは何でしょう? 今日、あらゆる種類の世俗のダルマが急増しています。ヴァイディカ ダルマ(ヴェーダに基づいたダルマ)とは何かを発見しようとすれば、私たちを混乱させるような矛盾した意見の数々があります。

ダーライーティ イティ ダルマハ
(支えるものがダルマ)

と言われています。「ダルマは世界を支え、世界を守護するもの」です。この世のあらゆるものは特定の独特な性質を持っています。それぞれのものの最も重要な本質がそのもののダルマを明らかにしています。例えば、燃えることは火の基本的な性質です。それゆえ、燃えることが火のダルマです。火が燃える力を失えば、もはや火ではなくなり、ただの木炭になります。甘さは砂糖に本来備わっている性質です。もし砂糖が甘さを失えば、もはやそれは砂糖ではなく砂です。チャンバカ(金香木、チャムバカ)の花は芳香を漂わせるという自然の性質を持っています。もしチャンバカに香りがなければ、それはチャンバカではありません。

同じように、人間にとって、ハートから流れ出すアーナンダ(至福)という性質は、本来備わっているダルマです。ところが、今日の人間は、外的な成功を追い求めているために、この本来の性質を忘れています。教育を受けていようと受けていまいと、万人にとっての一つの共通したダルマがあります。人は、他人に示してほしいと期待するのと同じ尊敬や関心を他人に示すべし、というものです。そうすれば、他人は幸せを感じるでしょう。他人にされると苦痛になることや不幸が生じることは、何であれ他人になすべきではありません。

自分にしてほしいことを他人にせよ

これは、他人に害を与える原因になるべきではないという意味です。なぜなら、私たちは他人が自分に害を与えることを望まないからです。これは、世俗の生活において万人に当てはまる自然なダルマです。すべての人が、ヴァイディカ ダルマ(ヴェーダに基づいたダルマ)を理解することや、それに従うことができるわけではありません。ですから、通常の日常生活において守るべきシンプルな原則が、自分が他人にしてほしいことを他人にする、ということなのです。

しかし、今日、大部分の人に共通して見られるのは、身勝手さと自己中心の蔓延です。人は他人から尊敬されたい、称えられたいと欲する一方で、他人には尊敬も関心も示していません。ダルマは一方通行ではありません。ダルマは「ギブ アンド テイク」を要求します。

今日、人々の間に犠牲の精神が欠けています。『ラーマーヤナ』の最も重要な教えは、犠牲を払うという覚悟です。人はティヤーガ(放棄、犠牲、捨離)を通して、初めてヨーガ(神性との合一)を手に入れます。『ラーマーヤナ』は犠牲の理念を宣言しています。父親の命令に従い、王位を捨て、樹木の皮を身にまとい、ラーマは追放の身として森に赴きました。ラーマは自らがアーグニャー(神の命令)と見なすものに従っていました。ラーマは真理を固守することの何たるかを身をもって世に示しました。

神の命令に反することの危険

アーグニャー(神の命令)は偉大な指令です。もしアーグニャーに従わないなら、喜びはないでしょう。アーグニャーに反することは多くの辛苦と困難をもたらします。(『ラーマーヤナ』にはアーグニャーに背いた深刻な結果を指摘するいくつかの挿話がある)

ラーマは、金色の鹿(羅刹のマーリーチャが化けたもの)を探すために庵を立ち去る前、ラクシュマナに、どのような状況や事情があろうとも庵を離れてはならない、という厳しい命令を下しました。ラーマはラクシュマナに、どんな困難や圧力に直面しなければならなかったとしても、どんな状況に陥っても、決してシーターを一人で残してはいけないと告げたのです。これはラクシュマナへのラーマの命令でした。しかし、ラクシュマナもある程度は普通の人間的な欠点を免れなかったため、決意が弱りました。シーターは、マーリーチャがラーマの声色を真似て発した、「ああ、シーター! ああ、ラクシュマナ!」という叫びを聞いた時、すぐラーマを救いに行くようにとラクシュマナを急き立てました。

ラーマの命により自分はシーターを一人残して行くことはできないと、ラクシュマナがどれほど嘆願しても、シーターは何としてでもラクシュマナを行かせようと辛辣きわまる言葉を使いました。シーターの言葉はラクシュマナを深く傷つけました。シーターの辛辣な言葉に耐え切れず、ラクシュマナはラーマの命令に反してシーターを残し、ラーマを探しに出かけました。その結果生じた悲劇の展開――ラーヴァナにシーターを連れ去られたこと、シーターを発見して取り戻すために経なければならなかったあらゆる困難――これら一切は、ラクシュマナに深い苦悶をもたらしました。ラクシュマナは嘆きました。「シーターと自分たちに降りかかった困難は、私がラーマの命令に背いたせいだったのではないか?」と。その思いは生涯ラクシュマナの心を乱しました。「あれは私が生涯でただ一度だけラーマの命令に反して行動した出来事だった」と、ラクシュマナはたびたび思っていたのです。

しかし、ラクシュマナが無慈悲なジレンマに直面させられたもう一つの出来事が起こりました。ラーマの命令を守るか、あるいはラーマの命令に背いて行動するか――。

ラクシュマナの二つ目の違背

ラーマがアヨーディヤーに帰還する途中、時の神ヤマ(死神)がラーマのもとにやって来ました。ヤマと話をしている間、ラーマはラクシュマナに、ヤマとの会話中は誰も中に入れないように、と厳しく命じていました。もし誰かを中に入れたら首を失うことになる、とラーマは言いました。

ラクシュマナは勇敢で意志の固い人物でした。ラクシュマナは厳重に扉を見張っていました。その時、そこへ聖者ドゥルヴァーサ(怒りっぽいことで有名な聖者)がやって来ました。ドゥルヴァーサはラクシュマナに言いました。「私は至急ラーマと話すために中へ入らねばならぬ」。ラクシュマナは断固として断りました。ラクシュマナの態度に激怒したドゥルヴァーサは、腹立たしげにこう言明しました。「アヨーディヤーに呪いをかけようぞ。おまえの王朝を余すことなく呪いで滅ぼしてやろうぞ。気をつけよ、のう、ラクシュマナ!」

ラクシュマナは怒った聖者の脅迫に震え上がりました。ラクシュマナは深刻な道徳的ジレンマに陥りました。「もし聖者ドゥルヴァーサを中に入れたなら、私は首を刎ねられるだろう。中に入れなければ、アヨーディヤーの都ばかりか、わが王家の種族はすべて、この聖者の呪いによって滅ぼされてしまうだろう」。ラクシュマナはラグヴァムシャ(ラグ王朝、日種族)の滅亡を甘んじて受け入れることも、アヨーディヤーの民が滅ぼされるのを黙って見ているわけにもいきませんでした。ラクシュマナは次のようにジレンマを熟考しました。「たとえラーマの命令に反したとしても、私が自分の首を失うだけだ。それによってわが王朝とアヨーディヤーの人々を救うことができるのだ」。この結論に達したラクシュマナは、ドゥルヴァーサに中へ入ることを許しました。ラクシュマナは思いました。「ラーマの御手によって首を刎ねられることは、最高に幸運なことだ。苦しむことになるのは私だけだ。もし私がこの聖者に譲歩しなければ、わが種族全体が消されてしまうだろう」

こうして、ラクシュマナは自分の決断の長所と短所を深く熟考し、他の人々を苦ませるよりも自分が苦しむことを選んだのです。

義務の規範

『ラーマーヤナ』は、このような優れた模範的な登場人物であふれています。残念なことに、今日『ラーマーヤナ』の講話をする人々は、多様な解釈をすることに熱中しています。『ラーマーヤナ』は、兄弟の理想的な関係とはどのようなものか、家族の成員はいかにして両親の愛を手に入れるべきか、夫と妻の理想的な関係とはどうあるべきか、特定の状況にある特定の人間の義務とは何か、などを示す素晴らしい聖典です。ラクシュマナとバラタとシャトルグナは、ラーマの道を固く守り、ラーマの指示に厳格に従って生活しました。この国のすべての家族は彼らの模範に倣うべきです。シーターは、夫のためならいかなる困難にも立ち向かう覚悟、いかなる犠牲をも払う覚悟ができていました。シーターは自分のための安楽は何も求めませんでした。シーターは人生をラーマへの奉仕に捧げました。

色欲と憎しみと貪欲の結果

『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタ』は、人がカーマ(色欲)、ローバ(貪欲)、クローダ(憎悪)の餌食になったときに生じる悲惨な結果を指摘する、三つの不朽の作品です。『ラーマーヤナ』のラーヴァナは、色欲を体現しています。『ラーマーヤナ』の全物語はラーヴァナの色欲のゆえに起こりました。ラーマがアヴァターとして降臨したのは、ラーヴァナを滅ぼすことが目的でした。

『バーガヴァタ』のヒランニャカシプは、憎悪、すなわち、ハリ(ヴィシュヌ神)に向けた憎悪の具現です。ヒランニャカシプはこう聞いて回りました。

「そのハリはどこにいる? 俺よりも偉大な者などいるはずはない」

このハリへの憎悪ゆえに、主はヒランニャカシプを滅ぼすために、ナラシンハ(人獅子)の姿を取って出現したのでした。主は憎悪という悪魔に勝利しました。

『マハーバーラタ』のドゥルヨーダナは、貪欲を象徴しています。貪欲の結果、ドゥルヨーダナの一族は絶滅しました。

ラーヴァナ、ヒランニャカシプ、ドゥルヨーダナは、色欲、憎悪、貪欲の惨憺たる結果です。これらの警告に加え、『ラーマーヤナ』、『バーガヴァタ』、『マハーバーラタ』は、ダルマとは何であるか、そして、ダルマはどのようにして尊重され、守られるべきかを示唆しています。

際限ない強欲を持ったドゥルヨーダナは、クルクシェートラの戦いの前夜、祝福を求めて母ガーンダーリーのところへ行きました。当時の母親たちの理想に従って、ガーンダーリーはドゥルヨーダナに言いました。

ヤトー ダルマハ、タトー ジャヤハ
(ダルマのあるところに勝利あり)

ガーンダーリーは自分の息子の勝利を願わなかったのです。

それからドゥルヨーダナは、師ドローナーチャーリヤのもとへ行き、その御前にひれ伏しました。ドローナーチャーリヤはドゥルヨーダナに言いました。

ヤトー ダルマハ、タトー クリシュナハ
ヤトー クリシュナハ、タトー ジャヤハ

(ダルマのあるところにクリシュナあり、
クリシュナのおわすところに勝利あり)

これと同じメッセージが、『バガヴァッド ギーター』の最後の詩節にあります。

ヤトラ ヨーゲーシワラハ クルシノー
ヤトラ パールトー ダヌルダラハ
タトラ シリール ヴィジャヨー ブーティヒ
ドゥルヴァー ニーティヒ マティ(フ) ママ

(ヨーガの至高の主なるクリシュナのあるところ
強力な弓の射手なるアルジュナのあるところ
幸運、勝利、力、徳がある
これが私の決意なり)

(「バガヴァッドギーター」18章78節)

『ラーマーヤナ』は、ラーマが森へ出発する前に祝福を求めて母カウサリヤーのもとへ行った経緯を述べています。カウサリヤーはラーマに言いました。「森で追放の身にある間、おまえのダルマがおまえを守るでしょう」

高潔な母としてのスミトラーの輝き

ラクシュマナは、母スミトラーの前にひれ伏しました。高潔な婦人であったスミトラーは息子に言いました。「ラーマのいらっしゃらない場所こそが森なのです。ラーマが滞在なさる森は、おまえのアヨーディヤーとなるでしょう。ラーマがアヨーディヤーにいらっしゃらなければ、私たちは荒野に住んでいるのも同然です。ラーマへの奉仕によって人生をまっとうしなさい」

当時はそのような優れた母親、父親、教師たちがいたために、ウパニシャッドは人々に、母親を神として敬い、父親を神として敬い、グルを神として敬い、客人を神として敬うようにと、力説することができたのです。

ラーマとクリシュナの生涯の物語は、実に正義に関する学術論文であり、神聖な作品です。それらの物語は、人生を高尚なものにする方法を人類に教えました。メッセージは明白です。真理を守り、正義を実践し、至るところに愛を広め、常に平安にあれば、人生は聖化さるということです。

この日は、ただ単にラーマの降誕を記念する日として祝われるべきではありません。ラーマによって敷かれた道を自らのハートの中に据える日こそが、ラーマの真の誕生日です。聖日を祝うことはご馳走を食べることを意味しているのではありません。アヴァターたちの御教えを、自分の生活の一部にするよう努めるべきです。アヴァターたちによって敷かれた道をたどるべきです。そのとき初めて祝祭は意味を持ち、人生も聖化されます。あらゆる学習も、吟唱も、講話を聴くことも、教えの後に実践が伴わないのであれば、何の役にも立ちません。

すべてを犠牲にする者だけが天国に入れる

あるとき、三人の人物がスワルガ(天国)の門にたどり着きました。そのうちの一人が言明しました。「私はあらゆる聖典の大家である、だから門を開いて中に入れるべきだ」。門番は言いました。「そなたは聖典に精通しているにすぎない。実際の経験が何もない。立ち去るがよい」

二番目の男が言いました。「私はヤーガやヤグニャ(犠牲の儀式や供養)を数多く執り行ってきた」。門番は言いました。「そなたは身勝手な目的で供犠を執り行ってきた。ここにはそなたの居場所はない」

三番目の人物は農夫で、門に近づいて言いました。「私は貧しい農夫です。持っているのは2エーカーの土地にある一軒のあばら屋で、私は通りすがりの人々に食べ物や飲み物を差し出し、必要なときは宿を貸してきました。なけなしの物も共に分かち合いました。私にできたサーダナ(霊性修行)はそれだけです」。門番は言いました。「入りたまえ」

この話は、自分の持っているなけなしの物を、困窮している人々の苦しみを取り除くために犠牲にする覚悟をした者だけが天国に入る資格を持つ、という真理を例示しています。

多くの人は、大量の本を読みあさり、無数の講話を聴いています。それは当人にとってどんな効果がありましたか? その人の生活に何か変化があったでしょうか? 人々の生活を調べてみれば、答えは否であることがわかるでしょう。講話を聴いている間は、ティヤーガ(捨離)へと気持ちが傾くかもしれません。人々は教えを歓迎します。しかし、二、三ヶ月も経つと元の自分に戻ってしまうのです。

それゆえ、最初に必要なのは心構えです。心(マインド)に変化がないかぎり、その人の何が変わっても役に立ちません。変わるべきなのは、身に着けている衣装ではなく、その人の性質です。『ラーマーヤナ』は素晴らしいメッセージを伝えています。『ラーマーヤナ』は、ティヤーガ(放棄)、ダヤー(慈悲)、カルナ(親切)、サハナ(忍耐力)、サーヌブーティ(思い遣り)といった性質の必携(実用的なヒントを集めた本)なのです。

身体はカルマの結果

現代人は七種の枷に縛られています。それは、

  1. デーハ(身体)
  2. カルマ(行為)
  3. ラーガ(執着)
  4. ドウェーシャ(憎悪)
  5. アハンカーラ(我執、エゴ)
  6. アヴィヴェーカ(無分別、識別力がないこと、愚)
です。これらは人間を縛りつける七つの枷です。

無知(アグニャーナ)はどこから生じるのでしょうか? 無知は無分別(アヴィヴェーカ)の産物です。無分別は我執(アハンカーラ)の結果です。我執の原因は憎悪(ドウェーシャ)です。憎悪は執着(ラーガ)によって生じます。執着は行為(カルマ)から生じます。身体(デーハ)は行為の結果です。この原因と因果の鎖の起点は行為であり、頂点は無知です。無知はどのようにして取り除かれるのでしょう? 無知は暗闇のようなものです。どれほど暗闇と格闘しても、暗闇を取り除く助けにはなりません。しかし、ランプに明かりが灯された瞬間に、暗闇は消え去ります。人間の無知を掃うのに必要なランプは、神の御名です。

今日、グニャーナ(高次の英知)を手に入れるためには、神の御名を頼りにしなければなりません。カリユガ(末世)においては、二つのものが最も重要です。それは御名(ナーマ)と施し(ダーナ)です。食べ物の施し(アンナ ダーナ)と神の御名(ハリ ナーマ)を唱えることです。これらが最も重要な必要条件です。もしこの二つの基盤となる徳を具えるならば、それらが二つの翼となって、あなたを天国に連れていく役割を果たすことでしょう。

私は、あなた方全員が犠牲の精神を育て、どれほど小さな助けであれ、自分にできる奉仕を人間同胞にしてほしいという願いと共に、あなた方全員を祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C10

*この御講話はサイラムニュース143号に掲載されたものです。