サティヤ サイババの御言葉

日付:1988年6月26日
場所:サティヤ サイ大学の学生寮
サイ大学の寮での御講話より

犠牲

学生諸君! 神の愛の具現たちよ! 人生には、浮き沈みや試練や苦難があります。この世というものは、魅力的に見えても苦しみの住みかです。人生は蓮の葉っぱの上に置かれた水の泡のようなものです。蓮は水の中で生まれ、水の中で成長し、自分の存在を水に頼っています。

サッティヤム、グニャーナム、アナンタム ブラフマー
〔神は、真実であり英知であり永遠である〕

その水は永遠なる神霊〔アートマ〕の湖です。そこから霊妙な姿をした蓮の花が生まれます。思考と感情はその蓮の花から漂う香りです。マーヤー〔幻/迷妄〕は蓮の葉っぱです。人生はマーヤーという葉っぱの上に置かれた水の泡です。

アートマの原理は、創造世界のすべて――発生、成長、崩壊――の土台です。人は、消えてなくなる肉体を永久の実在のものと考え、人生を世俗的、現世的なものを追い求めることに費やして、悲しみや苦しみの原因であるマーヤーに浸っています。自分の本性を知らないことが、あらゆる悲しみの根本原因です。その無知がなくなった時、人は悲しみから解放されるでしょう。

ギーターは永遠なるものの探究に重点を置いている

人間は二つの基本的な構成要素から成っています。一つは永遠のもの、もう一つは一時的なものです。それらはアートマとアートマでないもの、すなわち、肉体と肉体に宿っている神霊、つまり、クシェートラ(場)とクシェートラグニャ(場を知る者)です。本質的には神である者としての人間の主たる義務は、何が永遠で何が永遠でないか、何が実在し何が実在してないかを探究し、偽りのものを捨て、真実のものに立脚することです。これは、「クシェートラ クシェートラグニャ ヴィバーガ ヨーガ」〔ギーター13章:場と場を知る者のヨーガの部〕と、「グナットラーヤ ヴィバーガ ヨーガ」〔ギーター14章:三属性のヨーガの部〕という章のギーターのテーマです。ギーターは、人間の第一の必要条件として、「永遠なるもの」と「消えてなくなるもの」を探求することを強調しています。ですから、教育の目的は、人が自分の本性を見出すことを可能にさせることです。

集中して努力することによって、そして、あらゆる種類の犠牲によって、神を経験するためのさまざまな道が見出されました。ウパニシャッドは宣言しています。「儀式によっても、子孫によっても、財産によっても、不滅へと到達することはできない。それはティヤーガ(手放すこと/捨離)によってのみ得られる」と。手放さなければならないものとは何ですか? 求めなければならないものとは何ですか? 人間は、至福を得るための手段を、全世界の無数の物から、そして、変化に富んだ経験や多種多様な活動の中から見つけ出すために、絶え間ない探求に従事すべきです。

今、世界は混乱と衝突に追い込まれています。この理由は何ですか? 人が経験する喜びと悲しみは、すべて本人の行いに由来します。行いは、頭に浮かんでくる思考の結果です。思考が善良な時にのみ、行いは清らかなものとなるのです。人間の行いが清らかな時、社会は健全で平和に満ちたものとなるでしょう。

自然から学ぶべきこと

真の捨離の秘訣は、木や牛や川から学ぶべきです。

木は他者の利益のために実をつける
川は他者のために流れる
牛は他者を養うために乳を与える
人の体は奉仕をするためにある

木や牛や川が他者への私心のない奉仕においてこれほどの手本を示している時に、もし人としての生涯が無私の奉仕に捧げられていないなら、そのような人生は意味を持たないでしょう。

私たちが「神はどこにいるのか? 神は何者なのか?」と探求しはじめると、神の衣である自然が答えを与えてくれます。地球が時速1,000マイル〔約1,600キロ〕で自転していることはよく知られています。地球は休むことなくその義務を果たしています。自転のおかげで、皆さんは昼と夜が得られるのです。さらに、地球は時速6万6,000マイル〔約10万6,000キロ〕で太陽の周りを回っています。その結果として、私たちは作物の栽培の助けとなる季節の変化を得ているのです。地球や太陽や月は、人間に自分の義務を果たすという教訓を与えています。また、人類にとっての行いの重要性も示しています。木、川、牛、地球、太陽――これらはどれも、無私の行いをしています。それと同時に、これらが行っていることは人間が存在していくために必要不可欠なことでもあります。

これらがそれほどの無私の奉仕をしている時、人間はどんな類の捨離を表しているでしょう? 人間は自然が与えてくれた恩恵を享受していますが、そのお返しとしての感謝をまったく示していません。

これは寛大さだという思い違い

科学的知識におけるあらゆる進歩にもかかわらず、人間は教育の本当の目的を学んでおらず、感謝の気持ちを育んでいません。感謝の気持ちのない人は野獣以下です。良いことをしてもらったお返しに良いことをするのは、自慢にもならないことです。本当の善良さは、あなたを傷つけた人にさえ良いことをすることにあります。しかし、この原則を適用する際には、識別力を使うべきです。歴史は、これは寛大さだという思い違いと許しの例であふれています。

ムハンマド ゴーリー〔イスラム勢力のゴール朝の君主〕は数回インドに侵攻し、プリティヴィーラージ〔北インドのチャハマナ王朝の王〕に敗れ〔タラーインの戦い〕ました。プリティヴィーラージは、自分の寛大な精神の印としてムハンマド ゴーリーを帰しました。最終的に、ムハンマド ゴーリーはジャイチャンド〔カンナウジの都の王〕と共謀してプリティヴィーラージを囚われの身としました。ムハンマド ゴーリーは、プリティヴィーラージの寛大さに感謝を示す代わりに、プリティヴィーラージを欺いたのです。〔プリティヴィーラージは殺され、都は陥落してしまった〕 裏切り者の恩知らずの悪人には情をかけてはならない、ということを歴史は教えているのです。

恵まれない人々への奉仕をする際、学生諸君は以下の人生の教訓を思い出し、識別力と知性を使うべきです。

今、多くの人が、自分は何でも知っているという振りをしています。これはアハンカーラ(慢心に満ちたエゴ/自我意識)の印です。エゴは人を完全に転落させることさえできます。エゴは木の根を食い尽くす害虫のようなものです。エゴには二人の共犯者がいます。それは執着と憎悪です。エゴと執着と憎悪の三つが手を組めば、どんな人の一生も破滅させるのに十分です。ですから、まず必要なのは、エゴを取り除くことです。エゴは無知によって助長されます。教育は、あなたが謙虚さと正しい振る舞いを育んだ時、初めて意味あるものとなることができます。

シンプルな生活を送る価値を学びなさい

今、これ見よがしな生活をするために多くの努力が無駄に使われています。学生諸君は、シンプルでこれ見よがしでない生活を送る価値を学ぶべきです。皆さんは、インド独立後に成立された政府の副首相になったサルダール パテル〔ヴァッラブバーイー パテール〕を知っているでしょう。ある日、同僚だったマハヴィール ティヤーギがパテルの住居を訪れた時のことです。パテルと話している間、ティヤーギはパテルの娘マニベンが家事をしているのに気づきました。娘は継ぎはぎの古いサリーを着ていました。ティヤーギは娘に言いました。

「マニベン! あなたは父上の評判を落としていますよ。父上は政府でどれだけ高い地位にいることでしょう。父上は国の副首相です。その娘でありながらそのようにしていたら、あなたは物乞いをしに行かされるでしょう。あなたが身に着けている服は、まったく不適切です。」

マニベンは憤慨し、ティヤーギ氏に言いました。

「ティヤーギさん、自分が着ている服をやましく思うべきなのは、悪事や不正をして稼いだお金を所持している人だけです。私は、自分で働いて手に入れた服を着て自分の正当な義務を行っていることを、恥ずかしいとは思いません。自分を恥ずかしいと思わなければならないのは、親が稼いだお金を自分の安楽のために贅沢に使う人です。私には何も恥ずべきことはありません。老いた父の世話をするのに、私は自分が選んだ服を着て仕事をします。私は誰の富も欲しがりません。私はどうやって自分の品位と自敬の念を保てばいいかを知っています。私は自分がどう行動すべきかを誰かに教えてもらう必要はありません。」

こう言うと、マニベンはその場を離れました。

マニベンの献身的な生活

ティヤーギ氏と同じソファーに座っていた女医のスシーラ ネイヤーは、明白な言葉で言いました。

「ティヤーギさん! あなたはマニベンをあまりご存知ありません。彼女は、朝起きてから夜寝床に行くまで、ずっと休みなく働いています。お父上が副首相であるにもかかわらず、彼女は家事の一切を自分でしています。食器も洗えば、お父上の服も自分で洗濯しています。時間ができたときはいつでも糸車を回しています。お父上の服も彼女が縫っています。自分のサリーも、お父上の破れたドーティをつぎはぎして作っているのです。」

当時、マニベンはそれほど献身的な生活を送っていたのです。現代では、それほどの生活を送れる若い女性や男性を見つけるのは困難です。ほとんどの若い人たちは、これ見よがしな生活を送り、両親が苦労して稼いだお金を浪費しています。

学生諸君! 自分がどれだけ親の恩を得ているかを認識して、親を嘆かせることのないように行動しなさい。お金の浪費、食べ物の浪費、時間の浪費、エネルギーの浪費を避けなさい。

欲望を制して歓喜を味わう

皆さんは勉学するためにサティヤ サイ大学に来たのですから、他の人たちに手本を示さなければなりません。皆さんは悪い性質をすべて取り除かなければなりません。それは、皆さんが良い性質を身につけるために払わなければならない犠牲です。本当の喜びは、高価な服を着て贅沢な生活を送ることにはありません。皆さんは、自分の欲望を制して平穏な生活を送る中での喜びを、味わなければなりません。過度な欲望によって自分の心に毒を盛ってはなりません。

仏陀はある時、

「世界で最も富める人は誰ですか?」

と尋ねられました。仏陀は、

「大いに満足している人が最も富める人である」

(自分の持っているものに満足していること)と答えました。

「最も貧しい人は誰ですか?」

という問いには、

「多くの欲を持っている人である」

と答えました。

満足と無執着に関する仏陀の説法を聞いていたある大王(マハーラージャ)が、仏陀の賞賛を得たいと望みました。仏陀はいつもでんでん太鼓を持ち歩いていました。ある時、弟子が、

「世尊よ! 世尊はなぜ、いつもでんでん太鼓をおそばに置いておられるのですか?」

と尋ねました。仏陀は、

「私は、最も大きな犠牲を払った人が私のもとにやって来た日に、この太鼓を鳴らすつもりなのだ」

と答えました。

皆、一体それは誰なのか知りたがりました。そういう人は、得てして歴史の中で忘れ去られてしまうことが多いものです。大王はその栄誉を受けたいと望み、自分の象に相当な宝物を積んで仏陀のもとへ赴きました。大王は、宝物を寄進して仏陀の賞賛を受けたいと望んだのです。

仏陀は真の犠牲とは何を意味するかを示した

その道中、一人の老女が大王に挨拶し、

「私はお腹が減っています。何か食べる物をくださいませんか?」

と嘆願しました。大王は輿に積んでいたザクロの実を老女に与えました。老女はそのザクロを持って仏陀のもとへと向かいました。大王はすでに仏陀のもとに来ていて、仏陀がでんでん太鼓を鳴らすのを今か今かと待っていました。仏陀はいつまでもでんでん太鼓を鳴らさず、大王はそこに居続けました。老女がよろめきながら仏陀のもとにやって来て、仏陀にザクロの実を差し出しました。仏陀はすぐにそれを受け取ると、小さなでんでん太鼓を鳴らしました。

大王は仏陀に尋ねました。

「私は世尊にあれほどたくさんの財宝を寄進しましたが、世尊は太鼓を鳴らしませんでした。ところが、世尊は小さな果物を一つをお受け取りになると、太鼓を鳴らしました。あれは大きな犠牲なのですか?」

仏陀は答えて言いました。

「大王よ! 犠牲においては、量が重要なのではない。犠牲の質が問題なのだ。大王が黄金を寄進するのは当然のことだ。腹を空かした老女が自らの空腹にもかかわらず師にザクロを捧げる時、何と大きな犠牲が払われることか。老女は自分の命すら顧みず、果物を捧げたのである。それより大きな犠牲があり得るだろうか? 自分にあり余っているものを差し出すのは犠牲ではない。真の犠牲とは、自分にとって最も大切なもの、自分が最も高く評価するものを手放すことなのだ。」

学生諸君! 利己心を捨て、自分の生活を神への奉仕に捧げることによって、自分が信仰している主を喜ばすために奮闘しなさい。全世界は神で満ちています。神は全能で、遍在で、全知です。神はどこにも限定されはしないということを意識していなさい。神はどこにでもいて、すべてのものの中にいます。あなたの体の中にも、です。あなたの体を解剖しても神を見つけることはできませんが、心を神へと向ければ神を体験することができます。月に着陸した人々は、そこには神は見当たらなかったと言いました。神はヤントラ(機械)を通して見つけられるものではありません。神はマントラを通して体験できるものです。

スワミは諸君が理想の国民になることを望む

学生諸君! このサティヤ サイ大学は、混乱と堕落に陥っている今の世界を変えることのできる理想の学生を養成するために設立されました。正義と霊性の源泉であったバーラタ〔インドの正式名称〕は、今、真実と正しい行いから離されて、悪の勢力に悩まされています。

スワミは、諸君がバーラタに名声と評判をもたらす理想の国民へと成長すること以外、何も諸君に求めません。それが、スワミがこの大学を創設した唯一の目的です。ここではすべての教育が無料です。諸君は自分たちの研究に必要なすべての設備を持っています。諸君は、自分を変えて、国を変える助けとならなければなりません。昔の人は、すべてのものを神から与えられたものだと考えていました。昔の人は、神を最初に置き、次に世界を置き、自分は最後に置いていました。当世では、すっかり逆になっています。「私」〔自分〕が最初に来て、次に世界が来て、神は最後です。

マハーバーラタは、神を中心に据えることと据えないことが何を意味するのかを示しています。アルジュナとドゥルヨーダナは二人とも、差し迫る戦争での助けを求めるためにクリシュナのもとに行きました。クリシュナは、自分か自分の軍隊か、どちらかを選ぶことができると言いました。アルジュナはクリシュナを選び、ドゥルヨーダナはクリシュナの軍隊を選びました。最終的に、神を中心に据えたパーンダヴァ兄弟は勝利を得、軍隊しか信用していなかったカウラヴァ兄弟はすべてを失いました。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C16