サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年6月28日
場所:プラシャーンティ マンディール
サイ大学の学生への御講話⑪より

ブランママヤム ジャガト

サルヴァム ブランママヤム ジャガト
(宇宙の一切はブラフマンで満ちている)

宇宙にはブラフマン(普遍我)と結びついていないものは何もありません。神がこのようにすべてに遍満している一方で、すべての人にこの真理を認識する能力があるわけではありません。

木には火が潜在しているという事実はよく知られていることです。けれども、だからといって、器にお米を入れて、それを積み上げた木の上に載せて炊こうとしても、ご飯は炊けますか? 火には、内にある状態と外にある状態という二つの状態があります。内にある火は、目には見えず、隠れています。その火は、存在していても、ものを燃やすことはできません。外にある火は、火の真の姿を現しており、ものを燃やして灰にすることができます。それと同じように、普遍なる神を体験する力、心に思い描く力は、どの人も所有していますが、その力を外に示す才能は一部の人しか持っていません。

宇宙は純粋意識を根源としています。宇宙のすべてのものは神から出現しました。山に生える一本の草、大河の水の一滴、原子からパラブラフマン(至高の大霊)にいたるまで、すべては一つの神の原理で満ちています。このすべてに遍満している神の唯一性を万人が悟ることは容易ではありません。神の愛の光線が個人の信愛と結びついたときにのみ、神のヴィジョンは体験されます。

有神論者と無神論者

神は存在すると常に明言する有神論者の中にも、神は存在しないと繰り返し否定する無神論者の中にも、霊性の火は等しく燃えています。愛の感情は、有神論者のハートに劣らず無神論者のハートにも存在しています。けれども、有神論者の愛の感情は神に向いており、無神論者の愛はプラクリティ(自然界、被造物)のほうを向いているのです。この世のものへの愛ゆえに、無神論者は束縛されます。愛は、束縛と解脱の両方を促す力です。愛は神の一つの現れです。

愛は愛によってのみ体験することができるものであり、他の手段では体験できません。『バーガヴァタム』は愛と愛の結合を明細に説いています。これに関連して、いくつかの疑いが生じるかもしれません。『バーガヴァタム』の中では、神を愛する者である有神論者だけでなく、神を敵対していると公言する者たちも登場します。『バーガヴァタム』に出てくるヒランヤカシプやヒランニャクシャ、カムサやシシュパーラ、ダンタヴァクラといった悪人について考えてみたとき、『バーガヴァタム』を神と帰依者たちの親密な関係だけを扱う著作と見なすことができますか? この問いの答えはシンプルな実例によって明らかにすることができるでしょう。もし誰かが喉の渇きを癒すためにあなたの家にやって来たら、あなたはその人に、水かバターミルクか、何か飲み物を出さなければなりません。飲み物を出すには器が必要です。器は銀でできているかもしれませんし、真鍮(しんちゅう)や他のものでできているかもしれません。器が何でできているかは重要ではありません。重要なのは飲み物です。それと同じように、ヒランニャカシプといった者たちは、信愛という飲み物を差し出すための一種の器です。大切なのは、器に入っているものが神という中味に変容することです。

悪魔たちは帰依者に神の力を教える

諸君の目にはヒランニャカシプといった者たちは悪魔に見えるでしょう。けれども、神の目には、彼らは帰依者に神への信仰を断言させることを助ける人物に見えます。主は、帰依者にパラマートマの真実を教えるために、悪魔たちを見せしめにするのです。良いことは二つの悪いことの間に起こるものです。楽というのは、二つの苦の間のことです。実際、もしヒランニャクシャとヒランニャカシプがいなかったら、神がナラシンハ アヴァターとして化身してプラフラーダを祝福することもなかったでしょう。一方に憎悪が存在しなければ、もう一方の信仰の力が示されることはかないません。プラフラーダの父ヒランニャカシプが息子に数々の難儀を課しても、息子プラフラーダは神を愛する者の理想としてそれらを克服し、限りなき栄光を得ました。ヒランニャカシプはプラフラーダの偉大さを世に示すための道具でした。主は、神への信仰の力を示すため、そして、信仰ある者に平安と豊かさを授けるために、敵対する力を創(つく)るのです。

二本の棒をこすり合わせると火が起こります。そうすることで木に潜在している火が顕現するのです。しかしそれは、悠長に構えていないで二本の棒を休みなくこすり合わせ続けて、初めて起こります。それと同じように、主の御名が間断なく唱えられると、帰依者の内に神の英知という火が自らを顕します。帰依者に平安と喜びをもたらすためには、世の中に何らかの悪の要素が存在しなければなりません。母親が、たとえ自分には用をなさなくとも、子供の喜ぶおもちゃやお菓子を我が子に与えるのと同じように、神は帰依者の帰依の深さを引き出すために、ある種の物事を帰依者のために創り出すのです。

敵対する要素に立ち向かいなさい

もう一つの例を挙げましょう。サトウキビの繊維質はサトウキビの汁を守るために不可欠なものです。飲むべきものは汁ですが、その汁は、繊維質という、私たちには不要なものの中に含まれています。繊維質を絞って、初めて汁を得ることができます。それと同じように、敵対する要素に立ち向かうことによって、初めて神の慈悲を味わうことができるのです。小さな事であっても、それに反する要素を体験することによって、その本質が見つかる、ということを私たちは見出します。たとえば、もし体力をつけたいと思ったら、体に厳しいエクササイズを課さなければなりません。サトウキビに恩恵を願い求めることで、キビ砂糖を得ることができますか? サトウキビをつぶして汁を煮出すことをせずに、キビ砂糖を得ることができますか? ダイヤモンドでさえ、その輝きと価値を高めるためには、カットされ、研磨される必要があります。

同様に、神は万人の内に宿っていても、一部の人にしか自らを外側に現しません。そのように神が外に顕現する理由は、その人個人の信愛の気持ちと神の恩寵の結合にあります。プラフラーダの前に主ナラシンハを現れさせたのは誰でしょう? それはプラフラーダですか? それとも、ヒランニャカシプですか? 両者です。それは、ヒランニャカシプの疑念とプラフラーダの信仰が一緒になってのことでした。ヒランニャカシプは、

「神はどこにいる?」と尋ねました。

プラフラーダは答えました。

「神は一つの所にいて別の所にはいないという疑いを抱くことは不要です。神はどこにでもいます。」

すると、ヒランニャカシプは尋ねました。

「神はこの柱にいるのか?」

プラフラーダは、「はい」と答えました。ヒランニャカシプは柱を強打しました。すると、柱の中からナラシンハが現れました。ナラシンハ アヴァターの顕現の原因となったのは、ヒランニャカシプとプラフラーダの相反する要素の結合です。神はヒランニャカシプの中に一つの姿として存在し、プラフラーダの中にも別の姿で存在しています。神は、疑う人でもあり、信じる人でもあります。神は崇拝する人でもあり、嘲笑する人でもあります。神は与える人であり、受け取る人です。この遍在なる神の唯一性を理解すれば、「サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト」(宇宙は神で満ちている)という言明の意味がわかるようになります。

同一の実在が三つの状態すべてに存在している

同一の実在が、目覚め、夢見、熟睡という三つの状態すべてに存在しています。諸君は、目覚めている状態では、このホールで講話を聞いています。夢見の状態では、何らかの出来事を経験します。諸君は体と夢見の状態には関係性はないと感じています。熟睡(スシュプティ)の状態では、至福の感覚を経験します。その状態のときには、体もマインドも存在しないと諸君は考えます。では、経験しているのは誰ですか? 熟睡(スシュプティ)しているときの至福、夢を見ているときの夢、目覚めているときの知覚を経験しているのは、同一の実在です。目覚めの状態では、経験を得るのは五感を通してです。夢見の状態では、微細体(スークシュマ シャリーラ)のマインドを通じて経験を得ます。熟睡状態のときの経験は、体とマインドを超越している神の力によって得られます。状態は異なりますが、経験者は同一です。神の働きを理解するのは難しいことです。しかし、信愛と不屈の精神をもってそれらを理解しようとする人は、容易にそれを知るでしょう。

神はいかに作用するか

神の力は時々にさまざまな姿をまといます。それは帰依者の中で英知の火(グニャーナ アグニ)として輝いています。帰依者でない人の中では、それは怒りの火(クローダ アグニ)、あるいは、欲望の火(カーマ アグニ)として燃え盛ります。火は大きな恐怖を起こさせる力です。遠くにあっても、火は恐れと危険を感じさせます。しかし、現代人はそうした火(怒りなど)をハートの中に持っていて、恐れと迷妄の餌食になっています。情欲、怒り、憎しみ、嫉妬の火は、人間に多くの破壊をもたらしかねません。他の種類の火は、じきに治まります。しかし、そうした火(怒りなど)は決して完全に治まることがありません。それらはいつでも、ぱっと燃え上がりかねません。では、どうしたらそれらをすっかり鎮火することができるのでしょう? その火を消すには何が必要なのでしょう? 無執着(ヴァイラーギャ)と愛(プレーマ)こそが、その火を消すために必要な二つです。

愛(プレーマ)を通してのみ、人は平安を得ることができます。現代人は、快適さと楽しみは過剰にありますが、恐れと心配にさいなまれています。安心を確保するためのあらゆる試みにもかかわらず、恐れは残ったままです。どんな楽しみも、心の平安を授けてはくれません。なぜ人は恐れにとり憑(つ)かれ、平安を失っているのでしょう? なぜなら、人は自分のハートの中に憎しみや妬みといった火を持ち続けているからです。

清らかな思考のみが平安を授けることができます。純潔で清らかな人はいつも安らかです。平安がないのは罪を犯している人です。自分の中から悪いところを取り除いたとき、初めて人は恐れから自由になることができます。悪いところを取り除くにはどうしたよいのでしょう? 人々は、自分には正しいことと間違っていること、善と悪を識別する能力がないと思っています。この世界のすべての生き物の中で、何が正しくて何が間違っているかを識別する最も高い能力を持っているのは人間だけです。その能力を自覚しているにもかかわらず、人は間違った行いにふけっています。間違っていると知りながら、人は間違ったことをしています。その結果、人は恐れと心配の餌食になっているのです。もし無知ゆえに何か間違ったことをしてしまったとしたら、恐れと心配にさいなまれることはないでしょう。正しいことと間違ったことがわからない精神異常者も存在しますが、それは彼らに識別力がないからです。彼らは恐れを感じることなく行動します。なぜなら、彼らは自分の行動の特質を意識していないからです。故意に間違った行いにふけっている人は、恐れと心配に捕えられます。

一つの火、さまざまな使い方

識別力は正しく使わなければいけません。自分の良心の指示に従い、アートマの促しに沿って行動すべきです。良心が禁じていることを行うとき、人は恐れでいっぱいになります。恐れを取り除くには、すべての行いを神への献身という精神で行わなければなりません。木の中に火が潜在しているのと同じく、火は諸君の体の中にも存在しているということを覚えておきなさい。その火を正しく使いなさい。火は同一でも、使い方次第で善くも悪くもなります。火葬場で遺体を焼くのに使われる火も、同じ火です。しかし、その火で調理をしようとする人はいるでしょうか? いいえ、いません。なぜならそれは清らかではないからです。神聖なマントラを唱えながら神々への供物が投じられるヤグニャ クンダ(供犠の護摩壇)で燃える火を考えてごらんなさい。それも火ですが、それは神聖な火であり、神性に満ちています。その火は神として礼拝されます。それから、台所で調理に使われる火があります。その火は料理をするという目的に限られています。煙草の火に礼拝を捧げる人がいますか? 一方、線香が燃やされると、その火は神への供物としての神性さを得ます。このように、火は同一ですが、さまざまに使用されることができます。

霊性修行の目的

神性は一つですが、さまざまな姿形で現れます。サット チット アーナンダ(実在・意識・至福)は一つですが、その現れはさまざまな名前と姿を帯びます。どの物体にも、サット チット アーナンダという三つの属性があります。この三つの性質は、このテーブルにも、このマイクにも存在しています。諸君は「サット」と「チット」を認識することはできますが、「アーナンダ」は認識できません。

「サット」は「それはそこにある」(それは存在する)という意味です。「チット」は「あなたはそれを知覚することができる」という意味です。どちらも本当です。しかし、私たちは、それが今「アーナンダ」(至福)を経験しているかどうかはわかりません。そのような物体はジャダ(自動力のないもの)と描写されます。そこにいる人を見てごらんなさい。彼は「サット」と「チット」の両方(姿形と名前の両方を持っているという意味)です。しかし、私たちは、彼が今「アーナンダ」を経験しているということにも気づくことができます。彼は今、スワミの講話から喜びを得ています。「アーナンダ」(至福)を認識することができるのは、人間の内においてのみです。「サット」と「チット」は他のあらゆる物体においても認識できます。物体(パダールタ)にはすべて神性が存在していることは明白です。

霊性修行(サーダナ)の目的は、物質である物体(パダールタ)を神性(パラールタ)へと変換することです。神性を愛の原理の具現として見なすべきです。愛がなければ、神を理解することはまったく不可能です。愛は、いつも新しいものを追いかけるべきものではありません。愛は唯一なるものに集中すべきです。そうして初めて、人は神との正しい関係を持つことができます。たとえば、自分の家に見知らぬ客人がやって来たとき、諸君は特別な敬意を払ってその人に接します。しかし、旧友がやって来たときには、親密さと愛をもって気安く歓迎します。それこそが諸君が神との関係において持つべき気安さです。その気安さはどうやって手に入るのでしょう? 完全に献身することによってです。「私のもの」、「あなたのもの」は、完全に慎むべきです。ヴェーダンタ〔ウパニシャッド〕は、「私」(エゴの感覚)を排除することが神我顕現であると謳(うた)っています。諸君は、「私」という状態から、「すべてはあなた(神)」という状態へと到達しなければなりません。宇宙の万物に神を見なければなりません。「あなた(神)は万物――見えるもの、見えないものすべてです」。これが、諸君が達しなければならない確信です。

神の愛のスイッチを入れなさい

スイッチを切って電流を断てば、電球の明かりは消えます。明かりが見えないからといって、電流が存在していないと言うことはできません。スイッチを入れれば明るくなります。このように、明かり(電流)のあるなしは、人の行いと結びついています。人の行いは神の遍在に影響を及ぼしません。無知ゆえに、人はスイッチを入れずに、明かりがないと不平を言います。これは明かりがない理由の一つです。

もう一つ別の理由もあるでしょう。主電源が切れていれば、すべての部屋が暗闇になって、個々のスイッチを入れても、電球はつきません。人間にとっての主電源とは何でしょう? それは神の愛です。神の愛のスイッチが入っていれば、手足の隅々、体のすべての部位において、自ずと愛が表現されるでしょう。諸君の言葉は愛に満たされます。諸君の行動は愛にあふれるものとなります。諸君の目は愛に輝くでしょう。諸君は愛に満ちた言葉を、自分の耳で聞くことになるでしょう。手足の隅々まで愛の光が輝くことでしょう。その愛がなく、利己主義と自己中心的な行動に浸っているならば、手足の一本一本が暗闇に包まれるでしょう。

ゴーピカーの祈り

ですから、愛こそが最高なのです。諸君のハートの愛を育みなさい。諸君の体のすべての部分に愛を流れさせなさい。愛を諸君の生活の主権を握る原理としなさい。愛によって愛を育みなさい。これはゴーピカー〔牧女〕たちのハートから出てきた祈りです。 「ああ、クリシュナ、私たちの干上がったハートにあなたの甘露のような愛が染み渡り、私たちが思うこと、行うことすべてに対する愛で私たちが満たされることができるよう、どうか笛を奏でてください。愛の若木が芽を出して育つことができるよう、私たちの渇ききったハートに愛の種を蒔いてください。」

クリシュナから自然と甘い調べが流れ出すのは、人が歓喜で満たされたときです。クリシュナは常に歓喜に満ちていました。ですから、村の緑の中にいたときも、戦場にいたときも、クリシュナの言葉は歌になったのです。

その歓喜を経験するには、神への固い信仰を持ち、すべての恐れを振り払わなければなりません。神の愛を育み、その歓喜を経験しなさい。諸君の生活を神に捧げることによって、生活を聖化しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C20