サティヤ サイババの御言葉

日付:1990年12月25日
場所:プールナ チャンドラ講堂
クリスマスの御講話より

宗教 ― 愛と犠牲と一体性

神聖な愛の化身である皆さん!

動くものと動かないものから成る、この驚くべき美しい宇宙には、創造主がいます。創造主は全知全能であり、遍在です。創造主は、多くの名と姿によって、多様な人々から神と崇められてきました。

イスラム教徒から、アッラーとして崇められ、
キリスト教徒から、エホバとして崇められ、
ヴィシュヌ派の信者から、蓮の目をした神(ヴィシュヌ神)として崇められ、
シヴァ派の信者から、シャンブ(シヴァ神、吉兆の神)として崇められる、
健康と富を授けてくださる御方
その御方を唯一なる至高の遍く神我として崇敬せよ

一体性、同朋意識、信愛は、どんな人間にも絶対に不可欠です。人々の間にこれらの神聖な性質を促進させるため、偉大な魂たちが、さまざまな宗教を成立させようと努めました。宗教は限定的な概念ではありません。宗教は、人間の人格を育て、正しく生きるための基本的指針を示すよう意図されています。宗教は、人の人間性を引き出し、人が人類同朋と和をもって生きることを可能にさせます。宗教は、個人と神との間の絆をもたらします。宗教は、この世の多様性の根底にある一体性を実証します。

愛と、犠牲と、奉仕と、正義は、宗教の四肢です。宗教は、人間の内なる神性と崇高な感情を開花させ、人を社会に奉仕するようにさせます。宗教は、人間の内なるあらゆる偉大なもの、至福にあふれたもの、善良なものを呼び起こし、人類の一体性を実証します。

それほど高尚で、神聖な目的を持つ宗教が、狭量に解釈され、実践され、偏狭な信条として伝えられているのは、極めて不幸なことです。

宗教は、全人類を支えている一つの底流のごときものです。宗教の開祖たちは、宗教の信仰の霊妙な奥義を広めることを念頭に、一定の行動基準を定め、自らの教えを人々に伝えました。

宗教が教えていること

仏教は、幻(げん、マーヤー)を取り除いて人生で清浄を達成するための根本的な必要条件は、真理と非暴力であると言明しました。

キリスト教は、万人は神の子であり、互いに兄弟愛を抱くべきであると宣言しました。イエスは言明しました。

すべては一つ、万人に等しくありなさい

イスラム教によると、万人は、霊性用語で言うところの「一つの家族」の成員です。イスラム教は、祈りを、社会の平和と安全を確保するための最善の方法と見なしました。

皇帝マヌは、次のように宣言しました。

ティヤーゲート デーハム クラスヤールテー クラム ジャナパダスチャールテー
(人は、共同体のために自分の身体を、
国のために共同体を犠牲に捧げるという覚悟を持たねばならない)

マヌのダルマ シャーストラ(『マヌ法典』)は、社会の安寧が最も重要であると規定しました。

ウパニシャッドは次のように言明しました。

サハッスラークシャッ サハッスラパード
(神は無数の目と無数の足を持っている)

(「プルシャ スークタム」の一節)

すべての目は神の目であり、すべての足は神の足であり、すべての手は神の手である――これがウパニシャッドのメッセージでした。このようにして、ウパニシャッドは人類の唯一性を力説しました。

人間にとって、土台とすべきものは総体の概念であり、個人主義ではありません。この世は誰も一人では生きられません。平安と幸福のうちに生きたいと願うなら、人は一体感を養わなければなりません。

サハ ナーヴァヴァトゥ サハ ナゥ ブナクトゥ
サハ ヴィールヤム カラヴァーヴァハィ

共に生きよう 共に奮闘しよう
喜びと和をもって共に成長しよう

(「ナーラーヤナ ウパニシャッド」の一節)

これがヴェーダの教えでした。

一体性と純粋性の偉大さ

このように、すべての宗教が、社会の安寧を促進するために一体性を広めていることは、明らかです。世界の幸福は、社会の幸福と密接に結びついています。真我の悟りと真我の知識は、社会との関わり合いを通してのみ、手に入れることができます。残念なことに、今日の社会は不和と混乱と争いだらけです。

すべての宗教は、霊的な純粋性の偉大さを説いています。すべての宗教は、真理の道を固く守るよう人々に呼びかけています。また、すべての宗教は、人間にとって善良な性質は不可欠であると教えています。このように、すべての宗教の真髄が同一であるとき、すべての聖典が同一の真理を宣言しているとき、すべての人間の努力目標が一つであるとき、どこに相違の根拠があるでしょう? 道はさまざまでも目的地はまったく同一です。

これらの事実にもかかわらず、宗教の違いを理由に紛争や扇動に身を任すなら、それは人間が堕落している印です。土砂降りの雨で降る水は純粋です。雨は山々、平野、川、海、等々に降ります。雨水が流れる地域によって、水の名と姿は変化します。変化するからといって、水はそれぞれ異なると考えるべきではありません。

それぞれの信仰の開祖の教えを基に、個々の国の時と状況の必要条件を顧慮し、また、関係する人々の特定の必要も念頭に置いて、一定の規則と規範が定められました。ですから、一方の信仰のほうが優れていて、別の信仰は劣ると考えるべきではありません。人間の第一の義務は、これら神聖な真理を心に留め、生活の中でそれらを実践することです。

真・善・美

真理(真)は根本的な原理です。すべての宗教は、何人(なんぴと)も自分が誓った言葉を破るべきではないと言明しています。人は自らの誓約を守るべし、人は自らの言葉を命の息吹と見なすべし、自らの約束を守ることは最も偉大な宝なり――これは、偉大な法典の施与者、皇帝マヌの、最も重要な教えでした。

プラトンはソクラテスの一番弟子でした。アリストテレスはプラトンの弟子でした。アレクサンドロス大王はアリストレテスの教え子でした。プラトンは、社会の安寧をもたらすものとして、道徳、正義、相互寛容に基づいた政治制度を賞賛しました。プラトンは、「真・善・美」を、基本的美徳として最も重視しました。この三つの特質は、ヴェーダでは「サッティヤム シヴァム スンダラム」と呼ばれています。

このように、異なる言葉が使われていても、本質的な趣旨は同じです。霊的な戒律は、見かけの多様性の下に横たわる一体性を認識し、神性を悟ることにあります。

愛を人間だけに制限すべきではない

バーラタ(インド)の文化は、常に神への信仰を最高位に掲げてきました。バーラタの文化は、この世に神性が浸透していないものない、という概念に基づいています。石ころからダイヤモンドに至るまで、一本の草から満開の蓮の花に至るまで、蟻から象に至るまで、すべては神の顕現であると見なされました。バーラタの文化は、愛を人間だけに制限せずに、神の創造した世界のあらゆる生物と物体に拡大すべきであるという見解を掲げました。この偉大な真理を理解していない無知な人々は、バーラタ人を石や木、蛇などを崇拝する民として軽蔑的に語ります。バーラタ人の目には、一切のものは神の創造物なのです。

サルヴァム カルヴィダム ブランマ(ハ)
(このすべてはブラフマンなり)

サルヴァム ヴィシヌマヤム ジャガット
(全宇宙はヴィシュヌ神で満ちている)

これらのヴェーダの宣言は、同一の真理を言明しています。他のどの国においても、この種の普遍的、包括的、神聖な宣言を見つけることはできません。これらの宣言には、社会の正義という広い概念が含まれています。他のどこの国でも、これほど神聖な見解を見ることはできません。

あらゆる宗教がこの唯一性の真理とサマットワ(平等)を説いているにもかかわらず、利己的な人々は、自分の目的のためにそれらを偏狭な言葉に解釈して、異人間の争いや不和を助長してきました。人は、ただ聖典を熟知しているだけではパンディタ(知識と英知を備えた人)とは呼ばれ得ません。ヴェーダとシャーストラ(論書)とプラーナ(古代神話)の大家さえ、パンディタとは見なされ得ません。学識だけではパンディタにはなれません。言語に精通しているからといって、この称号を授かるわけではありません。ギーターは、

パンディターハ サマダルシナハ
(パンディタとは一切を等しい目で見る者なり)

(「バガヴァッド ギーター」5章18節)

と述べています。等しく見る目を持った人だけが、パンディタと呼ばれ得るのです。それゆえ、私たちはすべての宗教をサマドルシティ(平等な観点)で見るべきです。どの宗教も、非難されたり、罵られたりするべきではありません。人は、すべての宗教の中にある甘い本質を吸収すべきです。

すべての宗教の本質は、唯一性の原理、愛の原理です。あなたがこの愛の原理を育てるとき、憎しみの余地はありません。

争いは利己心が原因で起こる

今日、宗教は、世界中のあらゆる争いと暴力と苦しみの原因と見なされています。しかし、宗教は原因ではありません。すべての争いの原因は、利己心です。一つしか宗教のない国では争いがないでしょうか? イランとイラクの人々は同じイスラム教の信仰を公言しています。両者の間にある対立の理由は何ですか? キリスト教を信じると公言する国々の間にある対立の理由は何でしょうか? バーラタでは全員がバーラタ人です。しかし、なぜバーラタ人同士に不和が存在するのでしょうか? この問いを深く調べれば、こうした争いの本当の原因は宗教ではないことがわかります。原因はただ一つ、利己心です。利己的な人たちが、宗教を装って人々の間に争いを引き起こしているのです。

神聖な愛の化身である皆さん!

もし、世界に正真の平和を確保したいなら、宗教に対して、いかなる反感も抱くべきではありません。皆さんは、ニーティ(道徳)を、自分のジャーティ(属する共同体、カースト、家族)よりも上位のものとして、固守しなければなりません。皆さんは、善良な感情を、宗教的信念よりも重要なものとして、育まなければなりません。互いに尊敬し合うこと、平等心、忍耐は、すべての人にとって必要な基礎的な特性です。この三つの特性を持つ人だけが、真の人間と見なされ得ます。この三つの神聖な特質を培うことは、万人にとって必要不可欠です。

仲良く生きるよう努めなさい

どのようにして各宗教の内部に違いが生じたのでしょうか? 宗教の開祖が死んだ後、弟子たちは開祖の教えに背き、私利私欲のために内輪で争いました。時が経過するにつれて、各宗教の中に分派が現れ、別々の宗派が形成されました。これは個人的、利己的な動機の結果であり、初代の開祖のせいではありません。

人は、第一に私利私欲と自分本位を避けなくてはなりません。人は、愛と寛容と慈悲を育てなくてはなりません。人は、仲良く生きるよう努力しなければなりません。そうして初めて、私たちは国の平和と世界の安寧を愛する者であると主張できるのです。奉仕が指導原理であるべきです。奉仕においては、いかなる種類の相違にも余地を与えるべきではありません。社会に奉仕したいと望むなら、あなたの個人的な利益と、あなたの属する共同体の利益を犠牲にする覚悟がなくてはなりません。そのような犠牲だけが、人生を純化するでしょう。ヴェーダ(「ナ カルマナー」)は、不死はティヤーガ(犠牲、放棄)によってのみ獲得できるものであり、他のいかなる方法によっても得られないと、きっぱりと断言しています。

プラシャーンティ ニラヤムのクリスマス

こうした平等心のメッセージを広めるために、サイの帰依者の軍隊は準備を整えなければなりません。今日、プラシャーンティ ニラヤムにはさまざまな信仰に属する仲間たちが共に集まっています。彼らは別の言語を話し、異なる伝統に属しています。しかし、その全員が、一つの信念、一つの理想を抱いています。それは愛です。

クリスマスの祝祭は、多くの国において、多大な誇示と、歓楽と、騒々しい行事をもって祝われています。皆さんは次の一点を心に留めておくべきです。それは、プラシャーンティ ニラヤムでなされているような方法でクリスマスを祝う国は、世界のどこにもないということです。異なる国、異なる信仰、異なる文化に属する人々が、神を礼拝するために共に集い、これほど神聖な雰囲気の中でこの祭日を祝っています。このようなことは、他のどこでも見出せません。これはすべての国々に広がるべきことです。

クリスマスは、アメリカ、ドイツ、イタリア、その他の国々で祝われています。しかし、どのような方法で祝われているでしょうか? 贅沢に飲んだり、食べたり、ダンスをしたり、時間を無駄に過ごして祝われています。ここでも、あなたはお腹いっぱい飲んでいます。しかし、あなたが飲んでいるものは何でしょう? あなたが飲んでいるのは、純粋な神の愛です。あなたが世界に差し出さなくてはならないものは、この愛です。

どのような類の宗教的な違いも、心に抱いてはいけません。あなたがここで受け取ったメッセージを実践に移し、あなたが体験した至福を他の人と分かち合いなさい。他の人々に説いて教えるだけでは十分ではありません。

すべての人が信愛と献身を育てるべきです。信愛のない人生は価値がありません。もし、人が創造主に感謝を示さないなら、人の一生に何の価値がありますか? 皆さんは、自然と五大元素を通してこれほどの無限なる恩恵を授けてきた神に、感謝を示すべきではありませんか? 感謝は、人間の命の息吹であるべきです。

宗教の開祖たちは、これらの真理を体験し、それらを人類の理想として広めました。皆さんは、誠心誠意、その教えに従って生活しなければなりません。聖書を読んだり、コーランを唱えたり、バガヴァッド ギーターを暗唱したり、グラント サーヒブ(シク教の経典)を唱えるだけでは、賞賛に値しません。日常生活の中で、こうした聖典の基本的な教えを実践しなければなりません。

借りを返すことは敬虔な責務

ソクラテスはよく、自分の周りに若者を集め、何が一時的なもので、何が永遠のものかを探求する方法を解説していました。ソクラテスは、権力を振るう資格があるのは信愛と献身を有する者だけであると、若者たちに語りました。統治者は、真理を守り、神に感謝を示すべきであり、エゴで膨れ上がって全能の神を忘れるようではなりません。ソクラテスの教えを喜ばない者たちは、ソクラテスを告訴しました。死刑判決を受けた時、ソクラテスは、弟子の手による毒人参の杯をあおって死ぬことを選びました。死ぬ前に、ソクラテスは、何人も未払いの負債を残して死ぬべきではない、と弟子たちに語りました。それから、自分は友人に雄鶏一羽の借りがあるので、その負債を返済してきてほしいと、弟子の一人に頼みました。

預言者ムハンマドも、同様に死期が近づいたとき、死ぬ前に自分が駱駝遣いから借りているお金を支払わねばならないと、弟子たちに語りました。

借りを返すことは、すべてのバーラタ人にとって敬虔な責務と見なされています。ハリシュチャンドラ王は、自らが誓った言葉を守るため、一切を犠牲にしました。

すべての宗教が、真理と、犠牲と、一体性の偉大さを強調してきたことは明らかです。社会の一員であるすべての人と愛と和をもって生きていくことを身につけなさい。これは、キリスト教とイスラム教の基本となっている教えです。

グル ナーナク(シク教の開祖)は、独りで祈るより共同体で祈ることを好みました。すべての人が声をそろえて祈りに加われば、その祈りは神のハートを溶かすことでしょう。大勢の集団の中には、少なくとも一人くらい、純粋なハートで祈る人がいるに違いありません。その祈りが神に届くでしょう。それゆえ、信者たちは、自分の属する共同体のバジャンに参加すべきなのです。信者たちは、共同体の奉仕に参加し、共同体での生活に関わるべきです。これが最も崇高な道です。

愛を育てなさい。愛は神の姿であり、神は愛を通してのみ悟られ得ます。

神につけられた無数の名前の中で、何よりも大切にすべき名は、サット チット アーナンダです。サット(絶対実在)は真理を表しています。チット(純粋意識)はグニャーナ(英知)を表しています。サットとチットが存在するところには、必ずアーナンダ(至福)があります。神は真理であるがゆえ、真理を通してのみ、悟られなくてはなりません。

愛の道をたどって、一体性というゴールに到達しなさい。あらゆる相違感を払いのけなさい。これが今日、皆さんに授ける最高のメッセージです。

宗教的な相違感に余地を与えてはいけない

神聖な愛の化身である皆さん!

あなたがどこにいようとも、どの国にいようとも、宗教的な相違感に余地を与えてはなりません。宗教を捨ててはなりません。宗教に基づいた相違感を取り除きなさい。自分の信仰と伝統を固く守りなさい。宗教間の相違感を捨てたとき、あなたの内に愛が現れ出るでしょう。愛が育てば、神の姿を直接見ることができます。愛がなければ、言葉だけの祈りは役に立ちません。一人ひとりに宿っている愛は、万物に共通であることに気づきなさい。あなた方全員を一ヶ所に連れてきたのは、愛です。あなた方全員を一つに結びつけているのは、愛の絆です。愛は、一つにするものであり、動機づけるものであり、万物に喜びをもたらすものです。それゆえ、愛を発現させなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.23 C36
サイ ラム ニュース141号(2011年11・12月号)pp.15-23掲載