サティヤ サイババの御言葉

日付:1992年7月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
グルプールニマー祭の御講話より

神のみが真のグル

ブランマーナンダム、パラマスカダム、ケーヴァラム グニャーナムルティム、
ドヴァムドヴァーティータム、ガガナ サドルシャム、タットワマッスヤーディ ラクシヤム、
エーカム、ニッティヤム、ヴィマラム、アチャラム、サルヴァディー サークシブータム、
バーヴァティータム、トリグナラヒタム
サッドグルム タム ナマーミ

ブラフマンの至福、この上ない幸福を与える者、究極、叡智の具現、
対極を超越する者、大空のごとき者、汝はそれなりという大格言によって示される者、
一なる者、永遠なる者、純粋なる者、不動なる者、理智のあらゆる働きの照覧者、
あらゆる心の状態を超越する者、三属性を持たぬ者、
かくのごとき真のグルに帰命し奉る

神の愛の化身である皆さん!

神聖原理を理解するのは容易なことではありません。あらゆる苦難の原因は、「私」というエゴと「私のもの」という執着です。エゴと執着を手放した瞬間に、人はとても容易に神性の域に達することができます。アートマは遍在です。アートマは無限です。アートマは唯一無二です。しかし、アートマは、姿の多様性ゆえに、多に見えます。霊性とは、アートマとしてあらゆる多様性を包含する一なるものを認識することです。

不幸なことに、今、一なるものを多に分けている多くの知識人が存在します。けれども、多の中に一を見る者はとても少ないのです。一つの例があります。家を建てたとします。その家の一部屋は風呂場、一部屋は台所、別の部屋はダイニング、また別の部屋はリビングです。この分割を担っているのは何でしょう? それは部屋の間にある壁です。もし、壁を動かせば、家は一間に戻ります。部屋の間にある壁にために、さまざまな名前と姿をした、さまざまな部屋が存在するのです。同様に、アートマという家は、ただ一つです。私たちがこのアートマという家の中に、体、感覚、心、理智、意志、エゴというさまざまな部屋を作ったために、多様性が現れるのです。


グルの原理の根底にある至福

今日、人類の間でこうした区分する傾向が増大しているために、グルの必要性が大きくなっているのです。真のグルは誰でしょう? グルの原理の根底にある真理とは何でしょう? 世俗的な知識を教える者がグルですか? 物質の特質について調査する者がグルですか? 詳細な自然科学を解説する者がグルですか? いいえ、今述べたような人は教師にすぎません。真のグルはブラフマーナンダ(途方もない神の至福)の化身です。誰がそうなのでしょう? その人はどこに存在するのでしょう? これらについて探求するなら、この宇宙ではブラフマーナンダに匹敵する者は見出せないということがわかります。この世の喜びはすべてブラフマーナンダに内在しています。


ブラフマーナンダの実際の大きさ

幸せで、健康で、満たされているとき、人はどのような類の喜びを感じるのでしょう? 人が富や財産、娯楽や幸運から引き出す喜びは、どんなタイプのものなのでしょう? それはマヌーシャーナンダ〔マーヌシャ アーナンダ〕(人間の歓喜)と呼ばれています。その100倍の歓喜がインドラーナンダ〔インドラ アーナンダ、インドラ神の至福〕で、その100倍の歓喜がデーヴェーンドラーナンダ〔デーヴェーンドラ アーナンダ、デーヴェエーンドラ神の至福〕で、その100倍の歓喜がデーヴァーナンダ〔デーヴァ アーナンダ、神の至福〕で、その100倍の歓喜がブリハスパティ アーナンダ〔神々の司祭の至福〕で、その100倍の歓喜がプラジャーパティ アーナンダ〔創造物の主の至福〕で、その100倍の歓喜が「ブラフマーナンダ」〔ブラフマ アーナンダ、ブラフマンの至福〕です。これがブラフマーナンダの実際の大きさです。これほどの、人間の想像をはるかに超えるブラフマーナンダという表現が、今、取るに足りないこの世の喜びを表す一般的な言葉として使われています。人々は「うちの娘の結婚式がブラフマーナンダをもって挙げられた!」とか、「うちの息子はブラフマーナンダのうちに外国にいる!」などと言います。しかし、ブラフマーナンダはそのように簡単に手に入る、安っぽいものなのでしょうか? ブラフマーナンダは、この世のもの、つまり物質的なものなのでしょうか? いいえ、まったく違います。ブラフマーナンダは、人生の物質的、道徳的、宗教的、霊的側面を超越しています。ブラフマーナンダという、この上ない至福を体験している者が、真のグルです。それは誰でしょう? 神以外、それほどの至福を体験する能力があるものは存在しません。あらゆる歓喜はその至福の内にそなわっています。

グルの次なる側面は「パラマスカダム」(最高の幸福)です。この幸福は、この世のあらゆる幸福よりも高次のものです。これは、始まりと終わりがあって常に変化し続けるこの世の幸福ではありません。この世の幸福は来ては去ります。けれども、パラマスカダムは来ることも去ることもありません。浮世の喜びは、まさに水の泡です。それはいつ破裂するか知れません。変化を伴う幸福は本当の幸福ではありません。人がこの世で味わう喜びは、時間と場所で変化します。変わることのない至高の幸福を自ら味わい、それを授ける者が、真のグルです。

グルの第三の側面は「ケーヴァラム」(究極)です。ケーヴァラムとは何でしょう? それは時間と空間を超越することを意味します。この世のものはすべて、時間と空間に縛られています。けれども、グルは時空を越えています。グルよりも崇高なものはありません。だから、グルはケーヴァラムと呼ばれるのです。それは神にほかなりません。


唯一性を見ることが真の叡智

グルは「グニャーナムルティ」(叡智の化身)です。グニャーナ、すなわち真の叡智とは何ですか? それは物質的な知識、あるいは、この世の知識ですか? それは化学の知識ですか? それは科学ですか? いいえ、こうした知識はすべて、この世の物質と結びついています。一方、真のグニャーナは、あらゆるタイプの知識の土台であり、あらゆるタイプの知識を超越しています。グニャーナは無限であり、未顕現で、唯一なるものとして永遠にあり続けます。

アドワイタ ダルシャナム グニャーナム
真の叡智とは唯一性を見ることである

すべては一つであり、この世に第二のものは存在しません。たとえ第二のものがあったとしても、それは最初の一なるものの反映、反作用、反響にすぎません。真の叡智とは自らの真の本質を見ることです。自分自身を知ることが真の叡智です。自分を知ろうとする人はどこに行きますか? どのグルの所に身を寄せますか? 「私はどこにいますか?」と他人に尋ねる人は賢人ですか? いいえ、無知な人です。外界に自分を探す人はいないでしょう。ところが、今の人間はそれほど無知です。自分自身を知っている人が賢人です。それは神にほかなりません。神はまさしく叡智の具現です。神はまさしく真理と無限の姿です。

サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー
神は真理であり叡智であり無限である

次は「ドヴァムドヴァーティータム」、すなわち、対極を超越する者です。この原理は何でしょう? この原理は、熱さと冷たさ、幸福と悲しみ、獲得と損失、称賛と非難を超越しています。この原理は神だけにあり得るものであり、神のほかにこの力を持っている者はいません。ですから、神が真のグルです。


神は空よりもあまねく存在している

次の側面は「ガガナ サドルシャム」です。ガナナ、すなわち空(くう)は、どこにありますか? 空はすべてにみなぎっています。

アーカーシャム ガガナム シューンニャム

実際に空を見ることはできません。私たちは上を見て、空があると言います。しかし、それは空ではなく、雲の結合体です。雲に空間を提供しているものが空です。空(空間)はすべての場所に存在しています。空を示すことは可能でしょうか? ええ、可能です。皆さんが指を鳴らしたり、手を鳴らすとき、そこには空があります。スワミが話すとき、そこには空があります。こうしたアーカーシャ〔空元素〕の本質は何でしょう? アーカーシャの本質は音です。どこであれ音がするところには空が存在します。息を吸ったり吐いたりするときでさえ音がします。空のない所はどこでしょう? そんな場所はどこにもありません。空はいたるところに存在します。空よりもあまねく存在している者は神です。ですから、そのような神こそは真のグルです。

次の側面は「タットワマッスヤーディ ラクシヤム」です。タットワムとは何でしょう? 四つの大格言があります。「プラグニャーナム ブランマー」〔プラグニャーは神なり〕。これはリグ ヴェーダの真髄です。「アハム ブランマースミ」〔我は神なり〕はヤジュル ヴェーダの真髄です。「タットワマスィ」〔汝はそれなり〕はサーマ ヴェーダの真髄です。「アヤム アートマ ブランマー」〔真我は神なり〕はアタルヴァナ ヴェーダ〔アタルヴァ ヴェーダ〕の真髄です。この四大格言はすべて、一つの神性を指し示しています。言い方と表現は異なりますが、ゴールは一つの神性です。

最初の格言は「プラグニャーナム ブランマー」です。プラグニャーとは何でしょう? 私たちは知的な人をプラグニャーシャーリと呼びます。プラグニャーとは、単なる知性、あるいは賢さのことでしょうか? そうではありません。プラグニャーはどこに存在しますか? プラグニャーは、体、感覚、心、理智、内なる意志、エゴ、さらに、いたるところに存在します。プラグニャーは、生物の中にも無生物の中にも、等しく存在しています。プラグニャーは、コンスタント・インテグレイテッド・アウェアネス(Constant Integrated Awareness)〔常時統合意識〕と呼ばれています。このアウェアネス〔意識、気づき〕とは何でしょう? アウェアネスは無です。〔気づくとは〕何を知ることでしょうか? それは断片的な知識でしょうか? いいえ、完全な知識です。それは、生物にも無生物にも等しく内在している原理の知識です。実際、プラグニャーとブラフマンは同意語です。学者の中にはプラグニャーをブラフマンと翻訳する者がいます。しかし、この二つは異なるものではありません。ブラフマンとは何ですか? ブラフマンはすべてにみなぎっている唯一者です。それはブルハット〔ブリハト〕原理です。世界自体がブルハット、すなわち強大な、原理です。ブラフマンは全宇宙に内在しています。単純な言葉に置き換えるなら、ブラフマンは浸透性ということです。ブラフマンはすべてにみなぎっています。真のグルはこうした属性を備えている者です。


照覧者としてのアハムはまさにアートマの姿

次の大格言は「アハム ブランマースミ」〔我は神なり〕です。人々は、アハムとは「私」のことだと考えています。そうではありません。アハムには別の意味もあるのです。アハムは照覧者です。すべての照覧者です。照覧者はアートマです。アハムはまさしくアートマの姿です。いたるところに存在しているアウェアネス、すなわち意識は、アートマとして人間の中に据えられています。アートマと意識〔アウェアネス〕とブラフマーは異なるものではありません。(バガヴァンはここでハンカチを手に持って見せてくださいました)これは何ですか? これは布です。もし、布という概念を取り外せば糸が見えます。もし、糸という概念を外せば綿が見えます。布と糸と綿は同一のものです。同様に、同じ原理が異なる時と状況においてアートマやブラフマンやアハムという名前を負うのです。ですから、「アハム ブランマースミ」という声明は、私の中のアートマという照覧者すなわち「私」は、ブラフマンであるということを意味しています。

第三の宣言は「タットワマスィ」(タット トワム アスィ)〔汝はそれなり〕です。これはサーマ ヴェーダの真髄です。タットは「あれ」を意味し、トワムは「これ」を意味します。アスィは「同一」を意味します。「私」と「あなた」が離れているとき、「私」は「あなた」とは異なります。けれども、「私」と「あなた」が一緒になると、違いは消えて、両方が「私たち」になります。二つが一つになるのです。ウパーディ(体)〔覆い〕があるものがトワムであり、ウパーディのないものがタットです。一方はジーヴァ(個人)であり、他方はデーヴァ(神)です。サーマ ヴェーダは、ジーヴァとデーヴァは一つであり同じものだと、はっきりと説明しているのです。


三位一体

「アヤム アートマ ブランマー」〔真我は神なり〕。皆さんはこの宣言をよく探求すべきです。ここには三つの言葉、アヤムとアートマとブラフマー〔ブランマー〕があります。けれども、これらは同一です。この宣言は、三者――「あなたが自分だと思っているあなた」、「他人があなただと思っているあなた」、「本当のあなた」、すなわち体と心とアートマの、同一性を表現しています。皆さんは体で行為し、心で考え、その両方をアートマとして照覧します。皆さんは、目覚めている状態ではヴィシュワであり、夢を見ている状態ではタイジャサであり、熟睡状態ではプラグニャーです。プラグニャーとは誰ですか? 「プラグニャーナム ブランマー」〔般若は神なり〕。プラグニャーはアートマです。

真のグルはまさしく神聖原理の具現であり、これが四大格言の内なる意味です。グルはこれらの宣言の真髄を体験し、味わった者であり、それらを教えるために姿をまとうのです。


真のグルは神の本質を認識している

「エーカム」〔一なる者〕。ブラフマンは唯一無二です。ブラフマンは唯一者です。ブラフマンは生まれる前にも、死んだ後にも、生きているときにも存在するものです。ブラフマンは変化しません。神はただ一つです。神以外のものはすべて、多様な現れです。多は一なるものの中に存在するということを認識している者が、グルです。たとえば、バンヤン〔ベンガル菩提樹〕の種を例にあげてみましょう。種は一つです。小さな種の中には、たくさんの枝と小枝、花と実のある巨木が内在しています。根も枝も花も実もそれぞれ異なりますが、すべては一つの種から生じます。木は一本ですが、ある人は枝を見、ある人は葉を見、またある人は花を見、別の人は実を見るかも知れません。グルはこうしたエーカム(一なるもの)です。それは誰ですか? それは神です。

「ニッティヤム」〔永遠なる者〕――どんな状況においても決して変わらない者。太陽と月は動き、変化しますが、その者は変わりません。人は生まれたときには子どもですが、10歳には少年となり、30歳では成人、75歳ではおじいさんになります。このように、人は時と共に変化します。けれども、その者は誕生のときも死のときも同じです。実際、その者は生まれることも死ぬこともなければ、始まることも終わることもありません。それは神です。それがグルです。

次の属性は「ヴィマラム」〔純粋な者〕です。その者はどんなタイプの不純も持っていません。その者は清らかで、汚れなく、神聖です。その者はこの世の何によっても汚されることはありません。何を火にくべても燃えて灰になります。火にくべられたものは、純粋なものかも知れませんし、不純なものかも知れませんが、火はずっと純粋なままです。皆さんは体や木や鉄や金を火で燃やすかも知れませんが、火は汚されません。その者は純粋で神聖です。それは誰でしょう? それは神です。

アチャラム〔不動なる者〕。すべてのものは変わり、動きます。地球は地軸を中心に一時間に1,016マイルの速さで自転しています。地球は自転しているのみならず、太陽の周りを66,000マイルの速さで公転しています。しかし、私たちにその動きは見えません。私たちは、自分は動いているけれども、地球は停止していると思っています。そうではありません。地球は動いています。月も太陽も星も同様に動いています。映画のスクリーン上では、一秒にフィルムの16コマが動きますが、スクリーンは動きません。同様に、その者は定まっていて動くことはありません。その者はどこを動く必要もありません。なぜなら、その者は、ここに、そこに、あらゆるところにいるからです。


永遠の照覧者

「サルヴァディー サークシブータム」〔理智のあらゆる働きの照覧者〕。その者はあらゆる物事の照覧者です。舞台で劇が上演されているとします。王はいかめしく話しており、大臣は何かを説明しており、召し使いは手に棒を持って立っています。けれども、舞台の照明はその会話に影響されません。照明はずっと同じままです。ハリシュチャンドラ王は黙って悲しみに耐え、妃のチャンドラマティーは悲しみを嘆き、息子のローヒターシュワは蛇に咬まれて倒れ死にます。けれども、それらは舞台の照明には何も影響を及ぼしません。舞台の役者にはあらゆる変化が起こります。けれども、照明はそれに影響されません。照明は単なる照覧者に留まります。グルはそうした永遠の照覧者です。

「バーヴァティータム」〔あらゆる心の状態を超越する者〕。その者は心の理解と言葉の表現を超越しています。その者の性質を説明することは誰にもできません。その者はあらゆる感情と思考を越えています。それが真のグルです。

「トリグナラヒタム」〔三属性を持たぬ者〕。サットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕という三属性は自然に特有のものです。三属性が存在するときはいつも、幸福と悲しみが付いてきます。三属性が存在しないなら幸福も悲しみもありません。三属性を越えている者は誰ですか? それは神です。神が真のグルです。


グルと宇宙

誰がグルですか?

グルル ブランマー グルル ヴィシヌッ
グルル デーヴォー マヘーシワラハ
グルッ サークシャート パラブランマハ
タスマィ シリー グラヴェー ナマハ

グルはブラフマー神、グルはヴィシュヌ神
グルはマヘーシュワラ神
グルは至高神ご自身
そのようなグルに帰命いたします

グルはブラフマンです。ブラフマンは創造主です。ブラフマンは創造物であり、創造物の中に存在する者です。世界はブラフマンで満ちています。自分自身が世界となった者がグルであることは明らかです。

グルはヴィシュヌです。ヴィシュヌとは誰ですか? 手にほら貝と円盤と棍棒と蓮の花を持っている者がヴィシュヌですか? そうではありません。遍在性という性質を備えている者がヴィシュヌです。ヴィシュヌは行為者であると同時に、行われた行為です。宇宙は行為であり、神は行為者です。神は原因と結果の背後にある意識です。全宇宙はヴィシヌの姿です。ヴィシュヌはグルです。

誰がグルですか? 「マントラ」を教える者がグルですか? そうではありません。

グカーロー グナーティータム ルカーロー ルーパヴァルジタハ
グカーロー アンダカーラシチャ ルカーロー タンニヴァーラナハ

「グ」はグナーティータ(三グナを超越している者)を表しており、「ル」はルーパヴァルジタ(無形なる者)を表しています。また、「グ」には無知の暗闇という意味もあります。暗闇を掃うことができるものは何ですか? それができるのは光だけです。それゆえ、グルは無知の暗闇を掃う者です。マントラを授けたり、ヴェーダーンタを教える者がグルなのではありません。私たちが一般の言葉でグルと呼んでいる者は、本当のグルではありません! 皆さんは彼らを教師と呼ぶかも知れません。自ら実践したことを他人に教える者はアーチャールヤと呼ばれます。アーチャールヤは実践を通して身をもって示す者です。今、私たちにはアーチャールヤもグルもいません。今、グルと呼ばれている者たちは、マントラを耳にささやき、お金を求めて手を伸ばします。


神こそがグル

グルはマヘーシュワラ〔シヴァ神〕です。マヘーシュワラとは誰ですか? マヘーシュワラは宇宙に存在するものすべてを支配している者です。マヘーシュワラは宇宙のすべてのものごとを正しい方法で命じ、定めます。日の出と日の入りはマヘーシュワラの命令に従って起こります。季節が移り変わり、雨が降り、昼と夜が来るのはマヘーシュワラの命令です。イーシュワラ〔シヴァ神〕はすべてのものに一切の過ちなく命令に従うようにさせます。グルは単に教えるだけの者ではありません。グルは全能、全知、遍在です。神こそがグルです。

グルはブラフマー、ヴィシュヌ、イーシュワラです。ヴィシュヌとイーシュワラは仲が良くないと言う人もいるかも知れません。そのように考えるのは無知です。そう考える信者たちは心が狭いからそう言うのです。ある者は自分のことをヴァイシュナヴィテー〔ヴィシュヌ派〕と呼び、ある者はシャイヴィテー〔シヴァ派〕と呼びます。しかし、ヴィシュヌとシヴァは同一です。

ヴィシュヌは四つの手にそれぞれほら貝と円盤と棍棒と蓮の花を持っています。ほら貝は音の象徴であり、円盤は時間の象徴、棍棒は力の象徴、蓮の花は心(ハート)の象徴です。ヴィシュヌはすべてのものの音と時間と力と心の支配者です。同様に、シヴァは両手にダマル(太鼓)とトリシューラ(三叉戟)を持っています。ダマルは音を表し、トリシューラは三つに分かれている時間を表しています。シヴァは時間と音の支配者です。このように、両者は同じであり、ただ名前と姿が違うだけです。


狭い心が違いを生み出す

インドの慣習に関する一つの例があります。ヴァイシュナヴィテーとシャイヴィテーはどちらもティルパティを訪れます。そこに祀られているのは一神です。シャイヴィテーはその神をヴェーンカテーシュワラと呼び、ヴァイシュナヴィテーはヴェーンカタラマナと呼びます。両者の感情は異なるかも知れませんが、神は一つです。彼らは自分のちっぽけな心を満足させるために違いを設けるのです。

もう一つの例があります。シヴァはパシュパティ、つまりパシュすなわち生き物の主と呼ばれます。心の原理を備えている固体が生き物です。ヴィシュヌはゴーパーラ、すなわち牛や生き物の主と呼ばれます。実際、どちらも同じ意味です。狭い心が違いを作っているのです。狭い心の人々は、どれだけ長い間どんな修行をしても、決してより高い状態に到達することはできません。私たちは多様性の中の一体性を認識すべきです。これが本当の霊性です。皆さん自身が神なのです。この真理がわからない限り、皆さんはジーヴァ(個人)です。ひとたびそれがわかったら、皆さんはデーヴァ(神)です。


信仰と全託の力

今日、皆さんは、アニール・クマールが日本とタイと香港の帰依者たちの信愛と体験について、喜んで話したのを聞きましたね。それら遠いところの人々は、熱烈な信愛と、全託の感覚と、数多くの体験を持っているのに、長いことスワミのとても近くにいる自分はどうしてそれらを体験していないのかと思っている人たちもいます。スワミはそれら遠くの人たちに特別な慈悲をかけているわけではありません。神はその人の信仰に応じて答えます。すべては本人の信仰心が招いているのです。

もちろん、ここにも遠い場所にも、正しいことや間違っていることはあります。けれども、遠く離れているために、彼らはより熱烈な信愛と、さらなる全託の感覚を育むのです。熱烈な感情は、すべての状況においてしっかりと保たれます。信愛は熱烈でないときには不安定になります。一つの例があります。道の片側に大きな木々が生えていて、飢饉にも旱魃にもかかわらず、緑を保っています。道のもう片側の近くには田んぼがあります。田んぼには毎日水をやらなければなりません。一日でも水をやらなかったら、田んぼは干上がってしまいます。愚かな人はこう思うかも知れません。「田んぼは一日水をやらなければ干上がってしまう。どうして木は長い旱魃に遭っても緑を保っているのだろう?」。その理由は何でしょう? 木の根が地下水があるところまで深く伸びている一方で、稲の根は表層に留まっているからです。

皆さんは確固たる強い信仰心を持っていません。信仰は皆さんの呼吸です。皆さんは毎日スワミの講話を聴きますが、何の利益(りやく)も得ていません。一度しか講話を聴いていなくとも、それがずっと強く心に留まっている人もいます。アニール・クマールはインド全国で講演をしました。彼の講演は大変人を引きつけ、華やかです。けれども、彼のモンキーマインドは飛んだり跳ねたりします。彼は自分が話したことを疑うこともあります。その疑いを晴らすために、私はアニール・クマールを東京に送ったのです。アニール・クマールは、行って人々の信愛と全託の感覚を自分の目で見ました。彼は、人々の信仰心があらゆる物事を招くということを理解しました。あらゆる苦難は本人の信仰が揺らいだときに始まります。

プラフラーダはハリ(神)を愛しましたが、父のヒランニャカシプはハリを憎みました。父が神の存在に異議を唱えて否定し続けた一方で、息子は神の存在を認め続けました。プラフラーダが山から突き落とされたとき、守ってくれたのは誰でしたか? プラフラーダを守ったのはプラフラーダの信仰心であって、ヴィシュヌ神ではありません。プラフラーダの信仰心が、ヴィシュヌ神の姿をとったのです。


シルディのエピソード――神性はすべての姿の中にある

昔、シルディで、タフティヤの妻が、ババに家に来て食事をしてくださいと懇願しました。ババはその願いを受け入れて、家に行くことを約束しました。夫人はババのためにすべてを用意し、準備万端整えました。ところが、約束した時間になってもババは来ませんでした。夫人は食事を皿に盛り、ババの写真の前に行って言いました。

「ババ、どうして私に恥をかかせるのですか? もし来ないなら、私に与えた屈辱にも増して、あなたは嘘つきと呼ばれるでしょう。どうして嘘をつくのですか? 自分が言ったことは守るべきです!」

そのとき、一匹の犬が家に入ってきて、ババに供えてあった皿の食事を食べ始めました。夫人は様子を見に行って犬を見つけました。夫人は怒って犬を棒でたたき、外に追い出しました。夫人は神に供えた食事が犬に食べられてしまったことを、たいそう悲しみました。翌日、夫人はババのところに行って訴えました。

「ババ! 言ったことは守るべきではありませんか? どうして嘘をつかなくてはならないのですか?」

ババは怒って夫人を怒鳴りつけました。

「サイタン! どうして私に嘘をつく必要があるのか?」

シルディでは、ババはよく「サイタン」という言葉を使いましたが、今、スワミは「ドゥンナポートゥ」〔水牛というテルグ語、愚か者の意〕という言葉を使います。ババは怒って続けました。

「たとえおまえを満足させるためであれ、嘘をつく必要など私にはない。私の姿は真実だが、おまえは考えが狭いために、その姿に気づくことができなかった。おまえはサイ・ババを5フィート半〔約167.6センチ〕のこの体だと決めてかかっている。すべての姿は私のものだ! おまえにはそうした広い心がない。おまえは心が狭い。あの犬こそが私だったのだ」


神はあらゆる姿で来ることができる――すべての姿は神の姿

自らをあらゆる姿であるとするものが、神性です。一つの肉体の枠に収まっているべきものとして神性を提示して、それを前提に信愛の行為をとるのは狭い心の感情です。神はどんな姿ででもやって来ます。すべての姿は神の姿です。スワミは誰か少年に何かを言うかも知れません。スワミはアニール・クマールに何かを言うかも知れません。スワミは誰かを通してメッセージを送るかも知れません。ある人は蛇に咬まれて死ぬかも知れません。ある人は雷に打たれて死ぬかも知れません。またある人はすべってころんで死ぬかも知れません。人々は、「どうして彼はああして死んだのか? なぜ、神は彼を救わなかったのか?」と考えるかも知れません。しかし、蛇と雷は神によって送られたのです。蛇も雷も神のメッセージにほかなりません。

私たちはここに高度専門病院を建てました。私たちはどうしてこの病院を始めたのでしょう? 多くの人が多くの病気に苦しみます。一人ひとりに信愛と全託という神性な感情を育むことを期待するのは困難です。ある人は薬を信用し、ある人は手術を信用し、またある人は医者を信用します。縁側であれ無料宿泊所であれ、寝るには十分です。それと同様に、ここでの私たちの目的は、人々の病気が取り除かれ、健康を与えられ、幸せに生きることです。加えて、ヴェーヌゴーパール医師とそのデリーからのチーム、ハイダラーバードからのチームをはじめとする大勢の医療の専門家たちが、深い信愛と献身をもって手術を行っています。こうした人たちがここに来て手術を行う理由は何でしょう? それは、信仰心と信愛とは別に、あらゆる人に喜びを与えたいという善良な大志を持っているからです。彼らは万事スワミを心に留めて行います。


信仰は恐れをなくす

以前、心臓手術は大変恐ろしいもので、人々は手術の見通しに身震いしたものでした。人々は結果を恐れました。患者は泣き、さらに、親類縁者も泣かせました。しかし、今、プラシャーンティ・ニラヤムでは、心臓手術は足に刺さったトゲを抜くのと同じくらい容易なものになっています。誰も恐れを抱きません。これぞ恐れのない状態です!

x小さな子どもでさえ、笑顔で私たちの病院にやって来ます。スワミが病院に行ったとき、手術後に寝台に横たわっていた小さな子どもが、満面の笑顔でスワミに会釈しました。その子の親も親戚もそこにはいませんでしたが、その女の子は喜びでいっぱいでした。そのわけは何でしょう? それはその環境のゆえです。それは主に病院の人たちの信仰心によるものです。すべての物事が大いなる喜びをもって行われています。誰もがそれは神の御業だと思っています。ここで働いている人たちには、ほんの少しのエゴもありません。xx

市場で新鮮な野菜を手に入れたとします。ダル〔豆〕とタマリンドと唐辛子と塩でおいしいサンバルを作りましたが、そのサンバルは食べられません。塩かダルかタマリンドのせいでしょうか? いいえ、鍋にメッキがなされていなかったせいです。何十万ルピーも費やして手術が行われたとしても、もしその仕事に愛と信愛がなければ、それはメッキのなされていない鍋でサンバルを作るのと同じです。成功するか失敗するかということにおいて、最も重要なのは信仰心です。信仰心があるか、信仰心がないかにかかっているのです。信仰心がなければ、もし信愛という名のもとに論争をしたとしても、それはエゴと見せびらかしという結果に終わります。


グルは神のみ

神の愛の化身である皆さん! もし神性を理解したいなら、神性はいたるところに存在するということを固く信じるべきです。神性を備えていない場所や物はありません。グルプールニマーは何の欠落もない満月〔の日〕を意味します。月は心にほかなりません。心は完全な状態なときに光を発します。今、グルプールニマーは巡礼やグルへの捧げものという方法で祝われていません。真の捧げものとは何でしょう? それは自分の愛を捧げることです。神はすべての場所に存在することを知ることが、巡礼です。もし、巡礼と捧げものという言葉の意味を理解するなら、毎日がグルプールニマーです。グルは一人だけであり、それは神です。神のほかにグルはいません。そのグルを黙想しなさい。

サイババ述

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.25 C22