サティヤ サイババの御言葉

日付:1992年9月27日午前
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダサラー祭初日の御講話

ナヴァラートリー祭の内的意義

ナヴァラートリーとは、九夜という意味です。夜は暗闇と関連があります。この暗闇とは何でしょう? それは無知という暗闇です。ナヴァラートリー祭の目的は、人間が自分を縛っている九種類の暗闇を取り除くことを可能にすることです。

一般にデーヴィー〔女神〕と言う場合、それはドゥルガー女神とラクシュミー女神とサラスワティー女神が一つになった姿のことです。三女神がいっしょになったものはシャクティを象徴します。シャクティとは、プラクリティ(自然)の現象すべての背後にあるエネルギーのことです。自然はエネルギーであり、エネルギーをコントロールしているのは神です。

プラクリティ(自然)は、サットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕という三つの性質によって形成されています。サラスワティーはサットワ グナ〔浄性の特質〕を象徴しています。ラクシュミーはラジョ グナ〔激性の特質〕を象徴し、パールヴァティーはタモ グナ〔鈍性の特質〕を象徴しています。プラクリティ(自然)はこれら三つの性質(サットワ・ラジャス・タマス)で出来ているので、自然を制するために、人はずっとドゥルガーとラクシュミーとサラスワティーに祈りを捧げてきたのです。ドゥルガーとラクシュミーとサラスワティーは、女神ではなく、それら三つの性質が神格化された象徴です。

神と人間と自然

神の恩寵を手に入れるためには、人間はまず最初にプラクリティを礼拝しなければなりません。一方では人間の努力が必要ですが、もう一方では神の恩寵を得なければならないのです。プラクリティ(自然)とパラマートマ(遍在の神)は、電気の陰極と陽極のようなものです。神(陽極)がどれほど力が強くても、プラクリティ(陰極)がなければ創造物は存在し得ません。創造物の基盤はプラクリティです。たとえば、あなたが持っている種がどれほど素晴らしいものでも、その種を地面に植えなければ、果物の収穫は望めません。創造の過程における自然の役割はそれに似ています。

人間が、神を忘れて自然の恩恵を楽しもうとするのであれば、最終的には、自分自身の破壊を招いたラーヴァナのような魔物となってしまいます。神の恩寵を確保するには、心と言葉と行動が純粋でなければなりません。この三重の純粋さは、ヴェーダの用語ではトリプラスンダリーと表現されています。ラクシュミーはあらゆる繁栄の化身であり、心(ハート)によって象徴されます。口はサラスワティーを象徴しています。クリヤー シュッディ(行為の純粋さ)は、ドゥルガーによって象徴されます。ナヴァラートリー祭を行うのは、思いと言葉と行動の三重の純粋さを培うことによって、人間を包んでいる闇を取り除くためです。

人間の体は自然から生じました。自然には、アパラー プラクリティ(低次の自然)とパラー プラクリティ(高次の自然)という二つの姿があります。アパラー プラクリティ(低次の自然)には、アシュタ アイシュワルヤ(富の八つの形態)と、カーマ〔欲望〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲〕、モーハ〔愛執・妄想〕、マダ〔高慢〕、マーッツァルヤ〔嫉妬〕と、人間の心の三つの機能であるマナス〔心、マインド〕、チッタ〔マナスの要素、内的意識〕、アハンカーラ〔自我意識〕が含まれています。パラー プラクリティ(高次の自然)とは、人間に内在する意識を意味します。プラーナ(生気、生命力)とチャイタニヤ(意識、チャイタンニャ)がなければ、人間は死体にすぎません。真の人間性とは、アパラー プラクリティ(低次の自然)を構成している五元素を制御して、生気とチャイタニヤに代表される高次の自然と融合することにあります。

礼拝中は心を定め続けよ

ナヴァラートリーは三つの期間に分けられます。最初の三日間はドゥルガー女神への礼拝に捧げられます。次の三日間はラクシュミー女神への礼拝、最後の三日間はサラスワティー女神への礼拝に捧げられます。ヒンドゥー教の祝祭にはすべて、神聖な目的があります。不幸なことに、近年の祝祭では、内的な意味は理解されずに、外的な儀式だけが行われています。どんな形態の礼拝においても、心と体が定まっているべきです。そうして初めて、集中することができるのです。今日、人々は体と心を定め続けることができずにいます。

(ここでスワミは、シルディ・サイの降臨について触れられ、シルディ・サイの人生の初期のころの出来事を話してくださいました。この部分の御講話は次の章に別途記載(シルディ サイの物語)してあります。御講話の締めくくりに、スワミは再びダシャラー祭〔ダサラー祭〕の内的意味の解説にお戻りになりました)

デーヴィー ナヴァラートリー〔女神の九夜祭〕の基本的意義は、プラクリティ(自然)を崇拝することにあります。デーヴィー〔女神〕とは、ブーデーヴィー(母なる地球)のことを指しています。人間が生きるために必要なものは、すべて地球にあります。月旅行をする人は、自分に必要な酸素と水と食物を地球から持って行かなければなりません。これらは、どれも月にはありません。

自然崇拝

学生諸君! 現代の技術の進歩は、大気を二酸化炭素のガスで汚染することによって、地上の生命体に脅威を与えています。すでに、このガスは、太陽からの有害な放射能を遮断する働きをしている地球上空のオゾン層に穴を開けてしまっています。もし、オゾン層が破壊されれば、太陽光線の影響によって、悲惨な結果がもたらされるかも知れません。今や、すべての国がこの脅威を心配しています。この危険を回避するために必要とされることは、自動車や工業製品や工場から排出されるガスによる大気汚染を減らすことです。制限なくなされている製造業の開発は、チェックしなければなりません。開発は、公共の利益にかなう、万人の福祉を促進するものでなければなりません。

最も有益な方法で利用できるかを考える機会です。水、空気、エネルギー、鉱物などは、正しく使うべきであり、誤用されたり、無駄に使われたりすべきではありません。あらゆる天然資源の使用を節約することは、非常に大切です。大気汚染は数々の悪い結果を引き起こします。ナガラ サンキールタンやバジャンをすることの内的意義は、大気を神聖なバイブレーションと聖なる想いで満たすことにあります。

マントラの力

今、私たちはラジオやテレビの放送が電波によって全世界に送られていることを知っています。それと同じように、クリシュナ神が何人ものゴーピカー〔牧女〕たちの家に同時に現れることができたのは、信じられないことでしょうか? ヤントラ〔機械〕にさえ全世界に電波を送るようなことができるのであれば、マントラにはさらにどれほど大きな力があるのでしょうか? 神の御名と御姿の力はあらゆるものに浸透しています。大気中の電磁波は、音と姿を常時保持していることができます。

最近、スワミがハイダラーバードを訪れたとき、そこでのスワミの活動は、テレビを通じてインドのさまざまな地方で見ることができました。機会装置によってこのようなことができるのなら、マントラの神聖な力によってそれよりはるかに多くがなされ得るというのは、驚くべきことですか? 必要なのは、神の御霊(みたま)に周波数を合わせる力だけですが、それはラジオやテレビの放送を受信する際に適切な周波数に合わせることが必要とされるのとよく似ています。自分の心(ハート)をラジオの受信機と見なしなさい。あなたの集中力が、周波数を合わせる装置です。自分の心が正しく周波数を合わせたとき、あなたは神を体験するでしょう。これには、しっかりした、揺るぎない集中力が必要とされます。

ナヴァラートリー祭の開始を祝う式典の意義は、皆さんがこの機会を利用して自然に礼拝を捧げ、すべての天然資源を神聖な方法で活用しようと決意することにあります。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.25 C30