日付:1993年5月
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(十二)の御講話より
施しは手の飾り
真実は喉の飾り
経典は耳の飾り
これ以外の飾りが何の役に立つだろう?
不純な心で行われた行為は、
決して求道者に平安をもたらすことはない
心を静め、心の揺れと不浄をなくせる人は
真に偉大な人
神聖アートマの化身たちよ、
古代インドの先覚者たちは、ヤマ〔禁戒〕、ニヤマ〔勧戒〕、アーサナ〔坐法〕、プラーナーヤーマ〔調息〕、プラティヤーハーラ〔制感〕、ダーラナ〔集中〕、ディヤーナ〔瞑想/坐禅〕、サマーディ〔三昧〕という八つの構成要素を持つヨーガを説き、実践しました。
ヨーガの故郷はインドですが、ヨーガは外国で人気を得ています。インド人はヨーガを無視し、ヨーガは黄土色の衣を着て塊茎を食べて生きる森の住人のためのものだという誤った考えを抱いています。インド人は、ヨーガをするのにふさわしいのは隠遁者と世捨て人だけだと思っているのです。インド人は、普通の人はヨーガとは何の関係もないという間違った考えを抱き、思い違いをしています。
ヨーガの持つ癒しの力
人は富を蓄えようと必死に奪い合い、適度な睡眠の習慣を失っています。睡眠薬を飲んで不安な心を酔わせ、無理やり睡眠を誘発しています。薬は健康に大きな負担をかけ、人を高血圧や心臓病の標的にさせます。焦りと、飽くことを知らない強欲が、多くの心の病をもたらしています。
一部の知識人たちが、高ぶる神経や不安な心、血圧や肺の疾患にさいなまれている病体に対処するための治療法があるかどうかを考えはじめました。カールトン教授はこれらの問題を調査し、パタンジャリ仙のヨーガ スートラ〔インドの六派哲学におけるヨーガ学派の経典〕がこの現代人の病に対する確実な治療法を示していると明言しました。
カールトン ケイン教授の調査に触発され、ハワイ大学のエリオットやシュートンやジョンソンといった教授たちがヨーガの研究を始めました。ジョンソン教授は、当初ヨーガの効果を疑っていましたが、研究が進むにつれて、ヨーガの偉大な力を認識し、問題への手がかりは心の気まぐれを制御することにあるという結論に達しました。
その後、ジョンソン教授は他の教授と共に、ヨーガの実践は肉体的にも精神的にもスタミナをつけるので、お金を一切使わずに心の病を改善することができると述べました。十二分のヨーガの実践によって二時間たっぷりの熟睡から得られる喜びが得られることを、教授たちは明らかにしました。
アメリカ、ドイツ、フランスといった先進国の農民と労働者たちは、より多くの生産を確保するために必死になって急ぎ、寝ることも忘れて、自分の健康を顧みませんでした。現代生活のストレスと緊張、心配と不安、そして、適切な環境の欠如が、現代人の健康を損なっています。体の病気と心の病気に苦しんでいる人の数が、世界的に増えています。
囚人の間で心を患う人が急増した原因を特定するために、メキシコの刑務所の囚人に実験が行われました。徹底した調査の結果、問題は、食べ物ではなく、不安と心配によって引き起こされたという結論に至りました。教授たちは囚人たちの精神的緊張を取り除くためにヨーガの実習を受けさせました。囚人の患者たちは短期間で正常になりました。完全に回復しただけでなく、ヨーガの実習による大きな幸福感も得ました。
ヨーガの実践者たちは、薬、お酒、さらには刺激物さえもとらなくなり、自分のヨーガの実践を強化することに強い関心を示しました。今、メキシコでは四十万人の学生がヨーガを実践しています。
インドはヨーガの母国であるにもかかわらず、人々がヨーガの効果を無視しているため、ヨーガの恩恵を受けることができずにいます。
デーヴァキーは胎内でクリシュナを育てた実の母でしたが、クリシュナといっしょにいる喜びを享受したのは育ての母のヤショーダーでした。デーヴァキーは木の下に座り、我が身の不幸をこう嘆きました。
羅刹女のプータナーがあなたに乳を吸わせている間に
プータナーの生気を吸い尽くしたあなたの
不思議な御業を見たのは、私じゃなかった
ロープで巻けなかった不思議なあなたのお腹に
キスをしたのは、私じゃなかった
産みの苦しみを味わって
あなたをこの世に届けたのは、この私
愛情深くあなたを撫(な)でる喜びは
ヤショーダーに与えられた
産みはしたけれど、私は子のない女になった
息子を産まずに
ヤショーダーは偉大な息子の母となった
今のインド人の窮状は、デーヴァキーの苦境に似ています。インドはヨーガと六派哲学(シャド ダルシャナ)の母でありながら、自国でヨーガを育んで計り知れない恩恵を引き出しているのは外国人です。インド人は、外国でヨーガを学ぶという哀れな状態に陥っています。インド人は、聖典の中にある見事でたぐいまれなる神聖な知恵から恩恵を得るために真面目に努力する、ということをしていません。
聖仙パタンジャリは、ヨーガの研究に一生を捧げ、人生にとって健康は最も重要であると断言しました。そして、体の幸福は規律にかかっていると述べました。パタンジャリは、ヨーガとは「体と心と魂の健康のために規律を遵守すること」であると定義しました。
規律と思考の制御
ナッ シレーヨー ニヤマム ヴィナー
(規律なしでは幸福は得られない)
ヨーガは、バランスのとれた純粋な食物をほどほどに食べる、といった特定の規律(ニヤマ)を定めています。しかし、現代人は貪欲な舌の要求を満たすためにスパイシーで豪勢な食事を自由に食べて、ヨーガの規律を無視しています。現代人は、食べ物は空腹という病の薬としてとるべきであるという、古来の教義を無視しています。薬は、おいしくても、おいしくなくても、病気を治すために飲むべきです。ところが、現代人はこの規律を無視して、スパイスの効いた食べ物をがつがつと食べています。
たとえば、インド人は料理の風味付けにタマリンドをたくさん使いますが、タマリンドは健康には良くありません。そのため、現代人は精神の衰弱や高血圧の餌食になっています。血圧は、心が落ち着かないことや緊張や不安によって上がります。今日の世界で見られる無秩序や混乱、動揺や激変は、病んだ健康状態から生じています。
ドイツ人の医師、リタンは、猿の行動実験を行い、沈黙を守ることの利点を明らかにしました。彼は猿が途方もない恩恵を得たことがわかりました。実験の結果、沈黙を守ることによって、猿の知性、記憶力、精神面での健康が向上することがわかったのです。
試験で低い点数を取っていた、ある愚鈍な学生を対象にした実験も行われました。その学生はヨーガの有効性を信じていませんでしたが、教師に強いられてヨーガの実習を始めました。三ヶ月のヨーガの実習は、その学生の知性と記憶力を大幅に引き上げ、試験で優れた成績を収めることを可能にさせました。ヨーガはその学生の精神構造そのものを変えました。「お願いします」といった礼儀正しい言葉は一度も口にしたことのなかったその粗野な青年が、紳士のように振る舞い、「お願いします」、「すみません」といった言葉を口にしはじめたのです。息子が驚くほど改善されたことに触発されて、その青年の父親もヨーガの実習を始めました。父親も非常に優れた進歩を記録しました。
ヨーガの実習には、ヨーガの規律も伴うべきです。ヨーガを体の運動と見なすのは重大な間違いです。
ヨーガは単なる運動ではありません。ヨーガには呼吸法も含まれています。それは「プラティヤーハーラ」〔制感〕や「プラーナーヤーマ」〔調息〕という用語で呼ばれています。プラーナーヤーマには、プーラカ(息を吸うこと)、クンバカ(息を止めること)、レーチャカ(息を吐くこと)という三つのプロセスが含まれます。プラーナーヤーマに関しては、時間の遵守が非常に重要です。息を吸う・止める・吐く、にかける時間は同じでなければなりません。エクササイズ全体が、緊張のない自然なものであるべきです。吸い込んだ空気は、イダー、ピンガラー、スシュムナーという気道〔霊管〕を通ります。プラーナーヤーマは、肺や脳に損傷を与えないよう、細心の注意を払って実行する必要があります。
青年の中には、走った後、ハアハアと息を切らす者もいますが、良いランナーは走った後でも息が切れません。きちんとした料理をするには、食材の量の正しい割合を守る必要があります。それと同じように、息を吸う・止める・吐く、も正しい割合にする必要があるのです。
偽のヨーガ体系が世界中で急増しています。今、さまざまな運動がヨーガとして吹聴されています。本物のヨーガは、パタンジャリのヨーガ スートラに基づいており、ニャーヤ哲学、ヴァイシェーシカ哲学、サーンキヤ哲学が示しているものです。本当のヨーガは公正な均衡の感覚を遵守しており、これはニャーヤ哲学の体系の重要な印です。
ヨーガの体系にも、ヴァイシェーシカ哲学の影響が見られます。ヴァイシェーシカ哲学は、世界は原子でできているけれども、その性質はそれぞれ異なると考えています。また、原子と原子の間にはつながりがあるとも考えています。たとえば、湖に石を投げると、波が立って岸辺へと向かいます。同様に、心の湖で生じた思考は、浮上して心の縁へと広がります。心の湖で生じた善悪の考えは、心だけでなく体にも影響を与えます。思考は人の中の善悪を決定します。心を作っているのはこれらの思考です。そのため、ヨーガは思考をコントロールすることを最も重視しています。
ヨーガハ チッタ ヴリッティ ニローダハ
(ヨーガは思考のコントロール)
ヨーガの数々の側面
「ヤマ」(内的感覚器官をコントロールすること)は、ヨーガの重要な側面です。ニヤマは規律であり、ヤマは五感の自制です。
「パリグラハ」は、ヨーガのもう一つの重要な側面です。私たちが得るものは何であれ、善い人から得るべきです。なぜなら、善い人の思考も影響力を発揮するからです。ですから、私たちが何をするにせよ、主はどこにでもいるという気持ちに裏づけされた信愛の心でするべきです。このことはバガヴァッド ギーターの中で、「サルヴァタッ パーニパーダム」〔一切の方向に手足を持ち〕と語られています。
あなたが主に、
「おお、主よ! あなたの目には私の困難が見えないのですか?」
と祈ると、主は二つの目だけで応じます。そして、信者が祈りを口にした場所に主の二つの目が現れます。
信者が主に、
「おお、主よ! あなたは私の祈りを聞いてくださらないのですか?」
と祈ると、主は二つの耳だけで応じます。そして、信者が祈りを口にした場所に主の二つの耳が現れます。
信者が主に、
「おお、主よ! どうしてあなたは私といっしょにいて私の困難を取り除いてくださらないのですか?」
と祈ると、主はそれに応じ、信者は主の足音を聞くことができます。
主は、信者の祈りに従ってさまざまに現れます。
パタンジャリのヨーガ スートラには、おもに体のさまざまな部分を差し出すことについて語っている章があります。しかし、現代の信者たちはそれを嘲笑します。信者たちは、
「おお、主よ、私はあなたに私の目を捧げます!」
と言いますが、実際は花を自分の目に当てて、目に触れたその花を神の像に放って捧げます。同様に、彼らは、
「おお、主よ! 私はあなたに私の耳を捧げます」
と祈り、その花を自分の耳に当てて、耳に触れたその花を神の像に放って捧げます。
人々は口だけです。自分が言ったことをしません。信者たちのこの二つの祈りは、耳のコントロールと目のコントロールができますようにというものです。スワミが話している間でさえ、人々はスワミの言葉にきちんと注意を払いません。目はスワミに向いていても、心ここにあらずです。だからこそ、こう言われているのです。
おお、耳よ! おまえは他人についての
あらゆる類(たぐい)の無駄話を聞くのに熱心だ
それなのに、なぜ神聖な話には熱心でなく、
注意を傾けようとしないのだ?
おお、口よ!
どうしておまえは、
シヴァ、シヴァ、シヴァと唱えることで、
おまえのすべての悲しみを消そうとしないのだ?
おお、心よ! おまえは世界中をぶらぶらと
歩き回っていて恥ずかしくないのか?
おまえは映画についてのあらゆる類の
つまらない話を聞いても、まだ満足していない
おお、目よ! 神の御姿に目を向けるのは、
おまえにとって難しいことなのか?
おお、心よ!
おまえは野良犬のようにうろついていることが多いが、
なぜ一瞬でも主の御足を想おうとしないのだ?
人々は、映画を見るために列に並ぶ忍耐力はありますが、寺院で一時間すら真剣に祈る忍耐力は持っていません。今お寺に入ったかと思ったら、すぐに出てきます。人々は、一時的な、はかないものに対しては途方もない忍耐を示しますが、霊的なことはさっさと済ませたがります。こうした態度を逆転させることが不可欠です。それが「ヨーガ」です。
何は良くて何は悪いかを識別すべきです。ある人にとっては、世俗的な生活は非常に良いように見え、その人はそこから喜びを得ます。一時の行動から得る喜びは、一瞬のものです。サントーシャ(Samtosa〔サンスクリット語〕/喜び)というのは、「いくらかの(some〔英語〕)喜び」です。あなた方は食堂でチャパティを二枚食べて空腹を満たし、一時的に満足します。けれども、二時間後には、またお腹が空きます。この種の行動から得られる喜びがサントーシャと呼ばれるものであるのに対して、霊的なことから得られる喜びは「アーナンダ」(至福)です。喜びは頭から生じますが、至福は霊的なハートから生じます。頭は責任の座です。ハートは正義の座です。ですから、ハートと頭は人間にとって同じくらい重要です。
良いことを考えて、何であれあなたが考えた良いことを手で実行しなさい。パタンジャリのヨーガ スートラの本質は、Head(頭)とHeart(ハート)とHand(手)、すなわち三つのHの調和です。
パタンジャリのヨーガ スートラは、最も質の高い一体性を説きました。一体性とは、ハートと頭と手の調和にほかなりません。一体性は純粋性を導き、純粋性は神性へと導きます。神性に達するとすべてが消え去るでしょう。
忍耐力と粘り強さ
学生諸君は、ストレスや緊張、受けなければならない試練や苦難にかかわらず、忍耐強く前進すべきです。始めのうちは、前に進むのは難しいでしょう。しかし、前に進むにつれて、自分の旅を神へと向かわせることが自然なことになります。人は、実践を重ねた末に、歩くこと、話すこと、読み書きをマスターします。実践を重ねることで、目的地に到着することができるようになります。
ヨーガはヨーギ〔ヨーガ行者〕やサンニャースィン(世捨て人)のためだけにあると考えるのは間違いです。実際、すべての人がヨーガを実践する必要があります。平安に満ちた生活を送りたいなら、健康的な生活を送らなければなりません。ヨーガは、平安で健康的な生活を送るのに役立ちます。
「ダーラナ」はヨーガのもう一つの重要な側面です。一点集中がダーラナと呼ばれています。ラマナ マハリシはよく、地面に横になって空の一つの星に視点を集中させるというダーラナを実践していました。「ダーラナ」(集中)は「ディヤーナ」(瞑想/坐禅)の実践を可能にします。人は集中や瞑想の実践はとても難しいと思っていますが、集中や瞑想やプラーナーヤーマ〔呼吸法〕などの実践は容易です。
信じられないかもしれませんが、スワミは集中や瞑想やプラーナーヤーマといった修行は、一度もしていません。私は六十七年生きてきて、疲れや息切れを感じたことは一度もありません。すべての力は私の中にあります。
ヨーガ シャクティ〔ヨーガの力〕は非常に強力です。アートマの力は一つだけです。アートマは一つであるという思いを育てなさい。
あなたの中に、怒り、エゴ、妬みといった悪い感情がとどまる余地を与えてはなりません。なぜなら、これらの感情は獣性だからです。「私は神だ、私は動物ではない」という思いをいつも養っていなさい。これを毎日、忠実に実践すれば、心の静けさと安らぎを得ることができます。
体は神の神殿なのですから、大切に維持する必要があります。私たちは、許可した人たちの出入りを容易にするために、家のドアを開けておきます。けれども、誰にでも家に入るのを許せば、家は休憩所になってしまいます。ですから、五感のドアは、善をする、善を見る、善を聞く、そして、善になるために、ドアを開けて五感を働かせるのに使うべきです。
真摯な探求と調査、断固たる長年の努力によって、人は神になることができます。自分は絶対神になることなどできないと考えて、自分を卑下してはいけません。
ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人間の姿をとっている)
自分は神になれるという固い信念を持ちなさい。浮き沈みから解放されて、定まりなさい。
学生諸君、
皆さんはインド文化と霊性の夏期講習に参加する機会を手に入れることができて、この上なく幸運です。あなたに与えられたこの黄金の機会から恩恵を得るために、懸命に努力しなさい。ヨーガは容易に実践可能で、決して負担や出費は伴いません。ヨーガの実践で喜びを得るのは簡単です。皆さんは、ヨーガを実践することで健康と至福という贈り物を享受することができます。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C12