サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年8月30日
場所:ブリンダーヴァンのサイ ラメーシュホール
オーナム祭の御講話より

ダルマを守る王と徳高き国民

アナペークシャハ シュチル ダクシャハ
ウダースィーノー ガタヴィヤタハ
サルヴァーラムバ パリッティヤーギー
ヨー マドゥバクタハ サ メー プリヤハ

〔欲望がなく、清らかで、意志が強く、
落ち着いており、動揺せず、あらゆる世俗の企てに関与しない者、
そのような信者は私にとってとても愛しい〕

〔バガヴァッド ギーター12章16節〕

アナペークシャ(アナペークシャハ): アナペークシャとは、「まったくアペークシャー(欲望/期待)を持っていない者」という意味です。この広い世界で人がアペークシャー(欲望/期待)を持たずにいることなど可能でしょうか? 不可能です。ある人には何らかの物事が魅力的であり、ある人には何らかの高い目標が関心をそそるかもしれません。欲望の対象は五感の悦楽や慰安であり、世俗の事物です。高い目標(シレーシタ)は、感覚的でないもの、物質的でないもの、現世を超越しているものと結び付いています。ほとんどすべての欲望は、この2つのカテゴリーのどちらかに分類されます。そうであれば、両方の種類の欲望を取り除くことなど可能なのでしょうか? それは可能です。

バガヴァット ギーターの中で、主は、自分はダルマにかなったすべての行いの中に存在していると述べています。ですから、ダルマにかなった行いをする人は、アナペークシャ〔無欲〕を培うことができます。つまり、すべての行為を主への捧げものとして行うとき、その行為はアナペークシャの行為〔無欲の行い〕となる、ということです。主は、行うこと、話すこと、聞くこと、見ること、他のあらゆる行為をすることを、各人の内側からその人に促す者です。主こそが行為者であり、享受者です。もし内在の主が真の行為者であるという確信を持って一切の行為をするならば、その人の行為は欲望を持たない行為となります。ですから、サーダカ〔霊性修行者〕は皆、自分の行為を神への捧げものと見なすべきなのです。

シュチ〔シュチル/シュチヒ〕: これは「清らかさ」という意味です。この言葉は、ただ体の外側の清潔さのことを言っているのではありません。サーダカには内面の清らかさも必要です。内面の清らかさとは何を意味するのでしょうか? 人の行いはすべて、内側の衝動から生じるものであり、外側の力から生じるものではありません。行いはその人の内にあるものの反映です。自分の中に清らかな感情を持っているときにだけ、その人の行為は清らかになりえるのです。内面が汚れているとき、その人の行為はすべて不浄なものとなるでしょう。

発言の清らかさはどうすれば達成されるのか?

内的な衝動はどのようにして清めればよいのでしょうか? 内的な衝動は、心と発言と体に関連しています。この3つのうちで最も重要なのが発言です。発言の清らかさはどうすれば達成できるのでしょうか? 「アヌドヴェーガカラム ヴァーキャム サッティヤム プリヤ ヒタム チャ ヤト」とギーターは述べています。つまり、あなたの発する言葉はすべて、興奮や動揺を起こさせること(アヌドヴェーガカラム)のないものであるべきであり、真実(サッティヤム)で、好ましいもの(プリヤム)であるべきだということです。

舌を汚す原因となる4つの要因があります。1)虚をつくこと。2)話しすぎること。3)人の噂をすること。4)人の悪口や批判。舌はこれら4種の発言の罪を犯しがちです。残念ながら、カリユガ〔末世〕である今の時代には、この4つすべてがはびこっています。真実でないことが至る所にあるようになっています。人々は無遠慮に他人の中傷にふけっています。悪い噂がばらまかれています。多弁にふけることが広がっています。4つの邪悪な傾向を取り除いたとき、初めて人の発言は清らかで汚れていないものとなるのです。ですから、最初にすべきことは、自分の発言を清らかにすることです。

心と体を浄化する方法

次は心(マインド)です。心は間違った考えや悪い感情によって汚されます。人はいかなる悪い考えも心に入り込まないよう努力すべきです。絶えず悪い考えでいっぱいなとき、得られるのは悪い報いだけです。心を清めるには、一切の悪い思考を追い出す必要があります。悪い思考の隙入る余地があってはなりません。悪い感情を心から払いのけるべきです。そうして初めて、心は完全に清らかになります。

次に来るのは体の清らかさです。人は、ヒムサー(暴力や危害)という汚れが付いていない体を持っていなければなりません。人は、手で多くの暴力行為、多くの罪深い行為をします。そもそも、体はダルマを実践するために人に与えられているのです。そのような神聖な贈り物は、他人に奉仕をするため、神のごとき行いをするためにのみ使うべきです。それが体を清める方法です。

ですから、発言と心と体が清められれば、内面の清らかさは保証されます。「シュチ」(清らかさ)は、このように内面の清らかさと外面の清らかさを必要とします。

ダクシャ(ダクシャハ): これは、人は行為をすることにおいて固い決意を持つべきであるという意味です。その決意は、清らかで、人の役に立ち、人を昇華する行いに限定するものであるべきです。一瞬でも何らかの行為をせずにいられる人はいません。どんな状況でも、汚れた行いをすべきではありません。それが、固い決意によって清らかさを手に入れる方法です。このような者のみが、「ダクシャ」(意志の固い人)と呼ばれることができるのです。

ウダースィーナ(ウダースィーノー/ウダースィーナハ): これは、何にも執着を持たないという意味です。それは、平穏を保っていること、名声や非難、平安や悲哀、損失や獲得、喜びや痛みによって乱されないこと、繁栄に有頂天にならず、失敗に気落ちしないことを意味します。中傷に負けるべきではありません。名声を勝ち誇るべきでもありません。名声や非難は過ぎ行く雲です。単なる目撃者としてそれらを眺めるべきです。「ウダースィーナ」(落ち着いた気持ち)でそれらを扱いなさい。それらを深刻に受けとめることは心の動揺を生じさせ、それは悪魔的な傾向へとつながりかねません。

心配しないこと

ガタヴィヤタ(ガタヴィヤタハ): ヴィヤタ〔心配すること〕は現代人の最大の弱点です。人は、今しなければならない義務をなおざりにし、遠い昔に起きた事をくよくよ悩み、いつも将来に起こりそうなことを推測しています。なぜ、未来や、死んだものである過去について思い悩むのですか? 過去を呼び戻すことや修正することはできません。過去は忘れなさい。未来は定まっていません。明日何が起こりそうかを確信できる人は誰もいません。未来を考えるのはよしなさい。なぜなら、あなたは末来について確信できないからです。現在の自分に関心を持ちなさい。現在は過去の子供であり、未来の親です。この態度が「ガタヴィヤタ」〔心配しない〕という言葉で表されているのです。人は、過去をくよくよ考えたり、将来を推測したりして、現在の義務を果たしていません。それが不幸の原因です。現在を正しく活用しなさい。そうすれば、良い未来が保証されます。求道者はこの真理を心に刻み、現在に注意を集中すべきです。過去や将来について心を悩ませるのは、激性の特質です。これは取り払うべきです。

サルヴァーラムバ パリッティヤーギー: この特性〔あらゆる世俗の企てに関与しないこと〕は、どんな形態のアハンカーラ(エゴ)〔我執〕も手放すことを要します。エゴは、ママカーラ(所有本能)〔“私のもの”という感覚〕から生じます。人の中でエゴと所有欲がいっしょになると、その人は完全に崩壊します。ですから、人はエゴと執着がないようにすべきなのです。

これまで述べた6つの特性は神聖な徳です。冒頭の詩節は、この6つの特性を持つ信者は主にとって愛おしい、と明言しています。

人間の6つの敵

この6つの善い特性とは別に、人は6つの悪徳を持っています。それは、カーマ(情欲)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(妄執)、マダ(うぬぼれ)、マーッツァルヤ(妬み)です。この人間の6つの敵を追い払わなればいけません。そして、6つの善い特性を育むべきです。そのとき初めて、人の生涯を意味あるものにすることができます。

バリ王は、これらの気高い特性を備えた人物でした。だからこそ、主は地上に降臨し、バリ王からの贈り物を求めたのです。世界には大勢の慈善家がいます。土地、牛、食べ物、衣服、黄金を贈り物にする人はいますが、自分自身を捧げる覚悟のある人はほとんど見当たりません。バリ王は、自分を贈り物として与える覚悟のあった人物でした。バリ王は、

「おお主よ、私はあなたに、私のものすべて、私の富、そして、家族を捧げます。ただアートマだけを残して。私をお救いください。あなたを拠り処とする者を。」

と詠い、

「私は約束いたします。私の王国をあなたに差し上げます。たった今、私の体をあなたに捧げます。」

と宣言して、ヴァーマナの前に頭を垂れました。

太古の時代には、このように高潔で気高い心の統治者が大勢いました。バリ王は真理と結び付いていました。バリ王は自国民の幸福だけを念じていました。バリ王は真理の守護者でした。バリ王はダルマを実践しました。

当時、これほどの統治者がケーララを治めていたのです。バリ王の持つ多種多様な徳の一切は、祖父であるプラフラーダから受け継いだものでした。しかしながら、バリ王の父であるヴィローチャナは、プラフラーダの父ヒランニャカシプのように邪悪な考えと邪悪な行いにふけりました。3人は皆同じ一族です。ヴィローチャナはバリ王に悪の道を歩ませようとしました。しかし、悪い道も善い道も他人に強いることはできません。人々の善い振る舞いは、その人が生来持っている善が映し出されているものです。

プラフラーダは偏りのない公正な審判だった

あるとき、プラフラーダの息子ヴィローチャナと、アンギーラサ仙の息子スダンヴァが競技をしました。敗者は勝利者に命を差し出すことで同意しました。二人はどちらも、プラフラーダに審判役をしてくださいと請いました。プラフラーダはまったく偏らず公正であることを確信していたからです。プラフラーダは迷うことなく審判役を引き受けました。なぜなら、プラフラーダは真実を貫く誓いを立てていたからです。競技を見終えたプラフラーダは、勝者はスダンヴァであり、自分の息子であるヴィローチャナは敗者であると宣言しました。

スダンヴァは勝利の判定に喜びを抑えることができず、プラフラーダに抱きついて言いました。

「プラフラーダ様! あなたのように、ひるむことなく真実を掲げる者がいるからこそ、世界はまったき栄光に輝くのです。もし地上に有徳の人物がいなかったら、この世に光がありえるでしょうか? プラフラーダ様! 真実を固く守るがゆえに、あなたは自分の息子に負けの審判を下されました。」

プラフラーダは、競技に破れた者は誰であれ命を差し出さなければならない、ということを承知していました。しかし、それはプラフラーダが息子の敗北という審判を口にすることを妨げはしませんでした。真実に優るダルマはありません。

サッティヤンナースティ パロー ダルマハ
〔真理を貫くこと以上に偉大なダルマはない〕

プラフラーダは父としての愛の感覚によって揺らぐことはありませんでした。涙をこぼすこともしませんでした。プラフラーダは、充足感を胸に、自分の審判の結果を見守りました。

真実とダルマへのプラフラーダの完全な献身を見てとったスダンヴァは、こう明言しました。

「プラフラーダ様! 真実に対するあなたの信愛が、あなたの息子をよみがえらせるでしょう。私は自分の勝利の褒美として彼の命を要求することはいたしません。私はあなたの息子の命をあなたにお返しします。」

ダルマはダルマを守る者を守る

ダルマ エーヴァ アダルモー ハンティ
ダルモー ラクシャーテイ ラクシタハ

(ダルマはダルマに反する者を滅ぼす
ダルマはダルマを守る者を守る)

「プラフラーダ様! あなたはダルマを固守しておられます。それによって、あなたは息子の命をお救いになったのです。」

このように、スダンヴァはプラフラーダを賞賛しました。

プラフラーダの生涯は、数えきれないほどの徳と理想の範例です。それほど偉大で徳の高い統治者たちのおかげで、当時の世の中は平安と繁栄に恵まれました。現代では、無秩序、不満、不信、不正、善いことへの無関心、悪いことにふけること、五感の快楽への過剰な執着、利己心、自己中心が、至る所で人々の間にはびこっています。かつては道徳と正義、真実とダルマへの献身によって知られたバーラタ〔インド〕が、今のレベルにまで堕落してしまったのは、情けないかぎりです。これは国の名折れであるのみならず、バーラタ国民の恥です。社会の状態を見てみれば、社会の中のあらゆる行いが、自分を称賛すること、他人をののしること、二枚舌を使うことと結び付いていることがわかります。この三つ組の悪徳が、今、至る所に横行しています。かつて栄光に輝いていたバーラタの社会は、今、闇に埋もれ、不和、動揺、汚染に包まれています。

ハートの汚染は現代の大きな懸念

空気は汚染され、水は清らかでなく、聞こえてくる音は耐えられないようなものだと人は考えています。食物さえ汚染されています。政府も、環境全体が汚染されていると考えています。環境を浄化するために巨額のお金が使われています。懸念すべきは環境汚染ではありません。懸念すべきはハート(フリダヤ)の汚染です。人の心(マインド)が汚染されています。人のハートが汚染されています。人のあらゆる感情が汚染されています。この根本的な汚染のせいで、他の一切が汚染されて現れるのです。

今、第一に必要なのは、人の心の汚染を根絶することです。どうすればそれを果たすことができるのでしょうか? 今、心は世俗の欲望と快楽に浸りきっています。その結果、心は満たされず、ひどい欲求不満があります。心を自らの源へと戻すべきです。水から出てしまった魚の息を吹き返させるには、魚を水に戻してやらなければなりません。魚をソファーに座らせてコーヒーを飲ませれば、魚は元気になりますか? 生まれ故郷に戻って、初めて魚は平安と命を取り戻すのです。それと同じく、人の心はアートマ(真我)の中にある故郷に戻さなければなりません。それをしないで、どうやって平安を得ることができるでしょう? このように、心の平安はアートマから生じる必要があるのです。これには、良心を用いることによって、心をアートマに向かわせることが要されます。

自己を完全に信頼して良心に従いなさい

体に頼ってなりません。体は水の泡です。心に頼ってはなりません。心は狂った猿のようなものです。良心に従いなさい。自己を完全に信頼して良心に従うとき、あなたは何でも成し遂げることができます。

バリ王はそのような自己への信頼を持っていました。バリ王の導師であるシュクラーチャーリヤが、ヴァーマナの求めたものを贈らないようバリ王を思いとどまらせようとして、あの若者は普通のブラーフマナ〔バラモン〕ではなくヴィシュヌ神の化身であると指摘した時、バリ王はこう断言しました。

「もしあなたのおっしゃるようにあの若者がヴィシュヌ御自身であるならば、私は自分の提案を守らねばならない、というのは理屈に合う。哀願している者が至高の主であられるのだから。主に贈り物をする立場に置かれた私は、なんと幸運ではないか? すべての人間は主の恩恵を願っている。それほどの主が、三歩分の土地という要求を携えて私のもとにやって来るとは、私はどれほどの果報者か? このような機会が訪れたのは、過去生での善行の結果ゆえのこと。私は、導師の勧告に背く覚悟はあっても、主の命令には背かない。誓った言葉は守る。2つの目で2つの物を見ること、2つの耳で2つの異なる事を聞くことは、できるかもしれない。しかし、舌は1つだ。いったん口にした言葉は尊ばねばならない。それを翻すことは私にはできない。約束を果たさない者は罪人と呼ばれる。私は、約束は守ると決めている。神は至高のお方であり、生きとし生けるものすべての主だ。私は神の言葉に従うのみだ。」

バリ王は、これほどの固い決意の統治者でした。それによって、バリ王は栄光にあふれる機会を手に入れたのです。しかしながら、バリ王は国民に特別の愛着を持っていました。国民もバリ王に同様の愛着を覚えていました。国民は統治者への献身の念を抱いていました。統治者は国民に愛着を覚えていました。お互いの間柄は親密で、切り離すことのできないものでした。そのような王と国民であったからこそ、国は幸せで、繁栄していたのです。

オーナムの日の大切な意味

自国民を見捨てることは忍びがたく、さりとて、主との約束を破ることもできなかったので、バリ王は年に1度国民のもとを訪れるという誓約をしました。オーナムの日は、バリ王が年に1度地上を訪れる吉祥な日です。それはバリ王が国民を祝福するために戻ってくる神聖な日です。バリ王は、自分はシュラーヴァナ月に月がシュラーヴァナの星座に最も接近する日に姿を見せると言いました。今日はその吉祥な組み合わせが起こる日です。シュリ エーラディが先ほどのスピーチで述べたように、バガヴァンの前でオーナムの祝日が祝われるようになってから今年で25年になります。オーナムの25周年から学ぶべき教訓は何でしょうか? これまで24年間、あなた方はバガヴァンの講話を聞き、バガヴァンが共にいることを体験し、このお祝いを楽しんきました。あなた方はどれくらいスワミの教えを実践していますか? どの人にもハートがあります。ハートは愛で満ちています。あなた方は自分のハートの愛を何人の人に分け与えましたか? 誰にも分けていません。もし愛を分け与えないなら、その愛はいったい何の役に立てるのですか? あなた方は自分のハートの愛をすべて分け与えなければいけません。人間だけでなく、創造世界のすべてのものに分け与えるのです。愛は神からの贈り物であり、世界のすべての人に分け与えるべきものなのです。

あなたの愛をありとあらゆる人に分け与えなさい

人間の困難はすべて、利己心のゆえにありとあらゆる人に愛を分け与えることをしていないために起こります。どの人も、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ!」(世界のすべての人が幸せでありますように)という祈りを繰り返し唱えています。あなたは何人の人に幸福を与えていますか? あなた方はこの文言を機械的に唱えていますが、世界の安寧を心から祈っていますか? いいえ、まったく祈っていません。あなた方は自分本位の利益しか考えていません。あなたが自分の中から利己心を根こそぎ引き抜く日、あなたのハートに神性が花開くでしょう。

人々はサークシャートカーラについて語ります。サークシャートカーラとは何ですか? サークシャートカーラは外側のものではありません。サークシャートカーラとは、すべての時、すべての状態において、真我の中で神を憶念することです。

サルヴァダー サルヴァ カーレーシュ サルヴァットラ ハリ チンタナム
(すべての時、すべての場所で、常に、神を思っていなさい)

人々は「ラーマ」という御名を絶えず唱えています。しかし、そのようにして繰り返し唱えることで、解脱を得ることができるのでしょうか? 解脱を得るには、ラーマの恩寵を得るには、御名を唱えるだけでは不十分です。ラーマの行動規範に従って行動する必要があります。ラーマはダルマのためにあらゆることを犠牲にしました。あなたも同様の犠牲を実践しなければなりません。あなたの理想としてダルマを守り続けなさい。ダルマにかなった行いをしなさい。そうして初めてラーマはあなたに恩寵を注ぐでしょう。反対に、もしダルマにかなった行いをせずに、ただラーマの御名を繰り返すだけなら、それはラーマを侮辱しているのと同じです。

それと同様に、クリシュナの御名を繰り返し唱えるだけでは無意味です。信者がすべきことは、クリシュナ意識という忘我を体験をすることです。しかし、それだけではありません。あなた方はクリシュナの平常心を培う必要があります。クリシュナは、ヨーガの場でも、戦場でも、墓場でも、どこにいても、常に同じ心の平穏を保っていました。クリシュナは常に至福の状態にありました。あなたもそのような至福の体験を切に求めるべきです。そうして初めて、あなたはクリシュナ意識を体験したと言うことができるのです。どのような神を拝んでも、自分の内なる神の教訓を体験すべきです。

あなた自身を愛で満たすことによってサイの真実を体験しなさい

スワミの主な教えは、愛の原理(プレーマ タットワ)です。あなた方は皆、この愛を体験しています。その愛を、あなたは何人の人に分け与えていますか? 周囲を見渡しても、あるのは憎悪ばかりです。どんな時でも、あるのはエゴだけです。同様に、いつでも虚飾が示されています。そんなことでは、あなた方がサイの真実の数々を体験したと見なされることなどどうしてできるでしょう? サイの真実を吸収した人は、誰であれ、愛でいっぱいでなければなりません。それが真の信愛の印です。

バリ王は、正義感、堪忍寛容、思いやり、真実、ダルマ、国民へ信愛で満ちていた人物でした。あなたはこれらの美徳を一つでも育んでいますか? バリ王が毎年国民の前に姿を現すという約束をしたのは、国民がこれらの美徳すべてを備えていたからです。現代の人たちは違います。それではバリ王が姿を現しているかどうかがどうやってわかるでしょうか? 人々はバリ王の訪問を祝日として祝いますが、バリ王は帰ってきません。なぜでしょう? 現代の人々には、当時の国民の美徳がないからです。バリ王が国民を愛していることは、疑いありません。しかし、現代の人々は、バリ王を自分たちのもとに訪問させる力を持たなければならないのです。人々は、重い鉄の塊をも引き寄せることのできる強力な磁石のようであるべきです。そうすれば、神のハートを動かすこと、とろけさせることができるでしょう。あなた方は疑いなく磁石です。しかし、あなた方の磁力を強めるには、あなた自身を浄化する必要があります。その清らかさは、心と発言と体の三つ一組の清らかさにあります。

邪悪な人間が主に融合した理由

誰が何をしようとも、神が何かを失うことはありません。あなたが神を賞賛しようと非難しようと、神は何の影響も受けません。かつてマハーバーラタにおいて、シシュパーラがクリシュナを非難し、クリシュナがじっとそれに耐えているのを、ダルマジャが心を痛めながら見ていました。しばらくすると、クリシュナはシシュパーラに皿を投げ、皿はシシュパーラの首をはねました。ダルマジャは、シシュパーラの体から出た血がクリシュナに向かって流れていき、シシュパーラの体から生じた炎がクリシュナに帰融したのを見ました。

ダルマジャはナーラダ仙に、どうしてシシュパーラのような邪悪な人間の魂がクリシュナに帰融することができたのかと尋ねました。ナーラダ仙は、善と悪、名声と非難は、体だけに関係するものであり、アートマとは関係がないと説明しました。さまざまな方法で主を崇め続けてきた信者たちが神に帰融するのは、長きにわたる試練と艱難辛苦を経た後に起こるものですが、その帰融は永久です。主への憎しみからいつも主のことが頭にある邪悪な人間の場合は、帰融は速やかに生じるものの、短い間しか続きません。魂が神に帰融することは、さまざまな理由から起こります。カムサの場合は恐怖からでした。恐怖がカムサにクリシュナをつねに思い起こさせていたのです。シシュパーラとダンタヴァクラの場合は憎悪からです。ヤショーダーの場合は母性愛で、彼女は愛によってクリシュナに帰融しました。牧女たちはひとすじの信愛によって主に帰融し、ラーダーは霊的な完全な一体感(エカートマ バーヴァ)のおかげで主に帰融しました。皆、帰融に至りました。けれども、どの場合も、それぞれ特定のレベルに合ったものでした。

犠牲の精神を培いなさい

体に従ってはなりません。心とアートマに従いなさい。アートマに従う者が、真の霊性の求道者です。

ハートのすべてで神を黙想し、神の御名を唱え、神に全託して、あなたの人生を救いなさい。神の名声と高名は、外から得られるものではありません。新聞やパンフレットが作り出すものではありません。状況によって変わるものではありません。主の名声と高名は、その神聖さと愛によって大きくなるのです。ですから、何についても思い悩むことはありません。あなたの愛を現しなさい。あなたの神性な本質を促進しなさい。犠牲の精神を育てなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.26 C29